第4話 交わることのない平行線
付き合っている彼女は、
「限りなくSに近いMなのではないか」
と思っている。
SMの関係も、どちらかに近いように見えても、結局は、
「交わることのない平行線」
を描いているに違いない。
描いている平行線というのは、どんでん返しは昼夜のように、
「片方が表に出ている時は、もう片方は隠れているというように、きっと、SMがそれぞれ出ている時ので、瞬時にまるで切り替えスイッチによって見え方が変わっているかのような操作になっているのかも知れない」
と感じた。
彼女の場合、素はMなのだろう。これは、他の人が見ている通り、彰浩にもそう感じられた。ここがブレてしまっていれば、考え方が変わってしまうという意味で、説明もできなくなってしまうことであろう。
「二重人格の人というのは、よくコロコロ性格が変わってしまうように見えてしまう」
という話を聞いたことがある。
こちらが、相手の性格を理解した上であれば、その変わり身も分かるというものだが、どうでなければ、解釈のしようがないこともある。
「私は、よく二重人格って言われるから、いきなり自分ではないようなことを言い出すかも知れないけど、許してね」
という人がいる。
それは半分が言い訳なのではないだろうか? と思うのだが、確かに相手の性格が瞬時に変わってしまっている時というのは、一方の性格しか覚えていない。表に出るのは一方だけだということを示しているからだろう。
同じ瞬間に二つの性格が出てくることをどう解釈すればいいのかというのを考えた時、高校時代に、かなり奇抜な思いを浮かべたことがあった。
というのは、
「本当は、すべて一つの性格で貫徹しているのが事実なのだろうが、それは、自分の世界の中だけの時系列ではないか?」
という理屈であった。
つまり、表には入り組んだ性格が表に出ているように見えているが、本人の中では、いや、本人の世界の中では、時系列が実際の世界とは違っているという考えだ。
入り組んでいる世界は、実は繋がっていて、二重人格の人間が本当に感じている世界は、皆が共通で持っている世界と、時系列が違っているのではないかという考えであった。
人間の中になのか、それとも共通の世界の中でのことなのか分からないが、切り替えスイッチがついていて、時系列を自由に操れる装置があると考えれば、この理屈は成り立つ気がする。
しかし、理屈は成り立ったとしても、その説明はどのようにすればいいのか分からない。
一つ言えることとすれば、皆が共通の世界というのは、少しの溝も許されない。二重人格のどちらかが表に出ている間を、他の人が感じた時、もう一つの裏の性格と入れ替わる時、ちょっとした遊びの部分、つまりニュートラルが存在しているとすれば、それを埋めることは難しい。そこで、、辻褄は合わなくなってしまうかも知れないが、溝を埋めるために、それぞれの性格を瞬時に入れ替えることで、埋めているのだとすれば、この理屈は妙に納得がいく気がするのだ。
もちろん、二重人格、多重順格の人にしかあり得ないことであるが、彰浩は、
「人間は、単独正確というのはありえない気がする」
と思っていた。
必ず、その人の性格には、その裏に隠れているものがあり、人によっては、永久に封印してしまって、表にまったく出さない人もいるので、単独正確だと思われがちだが、そうなってしまうと、性格がどちらかに偏ってしまい、世の中が成り立たなくなってしまうと考えるのだ。
全体のバランスを取るという意味でも、その人自身のバランスを取るという意味でも、二重人格は必ず存在し、存在する二重人格が、絶対に、
「交わることのない平行線」
であるならば、バランスを取りながら、世の中を潤滑させるのではないかと思うのだった。
それまで自分のことを、
「二重人格ではないか?」
と思っていたが、それは間違いではないと思うようになっていた。
そういえば、ちょうど高校生の頃に読んだ小説の内容であるが、その印象が深く残っている。まわりでは、あまり本を読む人は少なく、マンガを見るか、アニメを見るか、という連中が多かった。
彰浩はそれが嫌いだった。本当は面倒臭がり屋なので、本を読むのはあまり好きではない。しかし、本というのは、マンガなどのように、絵で表現できるのではないので、想像力が掻き立てられるという意味で、いいものだと思っていた。
もちろん、今ではマンガの良さも分かっているつもりだ。
絵を描くというのは、文章を書くのと違って、個性がある。文章も個性があるが、絵のようにダイレクトにその状態を表しているわけではないので、余計に、作者側の個性が強く出ている。
そう、彰浩は自分で製作する方ではないのに、作者側の気持ちをいつも考えていた。
「いずれ、小説かマンガが書けるようになったらいいのにな」
という思いである。
どちらいいかと聞かれれば、小説だった。自分の想像力を掻き立てることができるのは、マンガでないと自分で思っていたのだ。
そういう意味で、自分で読むのはマンガではなく、小説だった。実際に想像力を掻き立てられるし、描写も自分勝手にできるからだ。だからこそ、自分の知らない世界を見ているという意味で、昭和初期の頃の小説が好きだったりするのだ。
しかし、想像力を掻き立てるジャンルといえば、
「異世界ファンタジー」
なるものが多いのではないかと思う。
しかし、異世界ファンタジーと呼ばれるものは、マンガやあにめ、ゲームと密接に繋がっている気がする。
彰浩は、アニメもゲームもやらない。だから想像するのも、できないのだ。
しかも、異世界ファンタジーと呼ばれるジャンルは、特に最近の素人が書く作品の中で、群を抜いていると言われる。
一部のネット書籍で、素人の小説を扱っている、
「SNSの無料投稿サイト」
と呼ばれるものがあるが、そのサイトでは、そのほとんどが異世界ファンタジーだと言われている。
異世界ファンタジーと呼ばれる小説が書きやすいのか、それとも、ゲームのストーリーを自分で考えているという感覚で、普通にゲーム感覚になれるからなのか、彰浩はよく分からなかった。
しかし、最近では有名な文学賞の作品では、
「ケイタイ小説」
や、
「ライトノベル」
と言われるような、無駄に空白が多く、ページ数のわりに、文字を少なくしているという、絵本のような小説が多く、それを、
「ただ、読みやすい」
というだけの感覚になってしまっていることが、おかしな気がしているのだった。
彰浩のように、昭和初期くらいの小説を読んでいると、そのほとんどに開業がなく、一見、
「読みにくい」
と思えるような小説も多いのが気になっているところであった。
今まで読んできた昭和の小説は。段落がほとんどないので、読んでいると、結構きつかったりする。
しかし、作家によっては、流れるように読める作者もいる。
その理由としては、
「想像力を掻き立てさせることが上手な書き方をする小説家は、まるで、二次元を三次元であるかのように表現させることができるからだ:
というのが、その大きな理由ではないだろうか。
彰浩も、将来大学に入ってから、自分で小説を書いてみたりしたが、どうにもうまくいかない。その理由の最初の頃は、
「文章を書くというのは、何とも難しいことだ」
という思い込みがあったことで、数行書いて、先に進まないという状態になっていた。
思い込みが、自分の行方に対して、迷いを生じさせるというもので、前述の、
「吊り橋効果」
と呼ばれるようなものではないだろうか。
しかし、それができるようになると、今度は別の悩みが出てきた。
「自分が描いている小説の情景が、二次元で想像したことと、文章になって三次元として描き出しているつもりの内容が、狂ってきている気がする」
と感じるのだった。
そう思えてくると、二次元を三次元にすることの苦しみを次第に感じるようになってきて、今度は、自分の書いている小説に対して、疑心暗鬼になってくるのだった。
最初は、
「自分には表現できないのではないか?」
という謙虚さ、つまりは、誰にでも通るべき道を通ってきただけなのだが、その次の扉は、人によって違っているようだった。
彰浩の場合は、二次元を三次元にしようとしているところで引っかかったのであって、そもそも小説を書いている人の中に、どれだけ作品を作っている間に、三次元というものを意識するかということである。
中にはまったく意識せずに通り過ぎる人もいるだろう。
ただ、それは本当に意識していないわけではなく、意識はしているが、無意識のうちに通り過ぎているということで、意識をしていないという思いに至っている人も少なくはないだろう。
彰浩にとって、この壁は結構強いものだった。そのせいで、今でもたまに小説を書いてみたいと感じているくせに、先が見えないまま、右往左往しているのではないかと思っている。
そのうちに、趣味として小説を書いているつもりだったが、そのうちに、趣味としても口にするのがおこがましく感じられるようになった。
最初の第一関門である、
「共通の壁」
と通り越した時は、
「俺は小説を書いているんだ」
と言って、まわりの人に話すこともおこがましいとは思わなかったが、ここでぶつかったスランプは、超えるまで、おこがましいという認識が頭の中にこびりついてしまっているのだった。
小説を書いていると、うまく描ける時と、まったく書けない時のそれぞれが存在する、
うまく描ける時の、
「かける」
という文字は、
「書けるではなく、描ける。つまり、えがけるということなのだ」
と考えていた。
それは分かっているつもりである、だからこそ、二次元を三次元にして想像することはできるのだが、
「創造することができない」
のである、
頭に思い浮かべることはできても、それを文章に落とし込んで、作品として作りこむことができないのだった。
そんなことを考えていると、急に、
「自分が二重人格なので、書けないのではないか?」
と思うようになった。
しかし、自分の中で、二重人格というのは、誰にでもあることだという認識があるので、次の段階に発想が浮かんでくる。
次の段階というのが、二重人格がいかに交わることのない平行線であるかということであり、それを証明するためには、
「二次元ではダメなことを、三次元で証明する」
ということが必要になってくる。
頭では分かっているのだが、それが小説世界のこととなると、どうしてもできない。
それは、、最初の段階での悩みでもあった。
「俺が小説を書くなんておこがましい」
というような発想に陥ることだった。
そう思ってしまうと、できるものもできないと感じられ、それこそ、
「俺は自分に自信がない男なんだ」
という思いが表に出てきた、
「もう一人の自分になってしまった」
という思いに至るのであった。
そして、その頃に感じたのは、
「小説とマンガというのも、交わることのない平行線のようなものであり、両立することはできないのではないか?」
と感じるようになったのだ。
だが、実際にはマンガ家でありながら、小説を書いている人もいたりする、彰浩の考えが違っているのか、それとも、彰浩が想像もつかないような人が、実際には。まだまだたくさんいるのかのどちらかであろうが、それを思うと、
「小説を書くのと、マンガを描くのは、どっちが難しいのだろう?」
と感じた。
そして。その考えと比例するかのように、
「この二つのどちらか難しい方が、芸術家として優れているかということを表している」
と感じたのだ。
彰浩としては、
「小説家であってほしい」
と思っている。
小説は文章なので、誰にでも書けるが、絵画に関しては、感性が必要なので、絵の方が優れていると思っていたが、実際には、
「絵を趣味などで描いている人は結構いるが、小説を趣味であっても書いているという人はほとんど見かけない」
というではないか。
確かに小説を書いているという人はほとんど聞かないが、喫茶店などでにある雑記帳に、絵を描いている人はたくさんいる。描けるというだけでもすごいと思うのに、しっかり、特徴も捉えていて、マンガタッチのアレンジもしっかりと加えている。それを思うと、
「絵を描けるようになることというのは、思っているよりもそんなに難しいことではないのではないか?」
と思ったくらいだ。
しかし、自分には絵を描くことができない。小説であれば、
「最初の段階を超えさえすれば、後は書き続けるだけであり、一度、最後まで書き終えることができれば、それが趣味として書けるだけの素質を手に入れたようなものであると、言えるのではないだろうか。
さて、小説を書けるようになると、
「もうここから先はさほど悩むこともないだろう」
と思っていたが、それも間違いであった。
あくまでも、第一の難関というのは、
「スタートラインに立つことができた」
というだけのことであって、スタートしてから、最後まで皆同じベースということはありえない。
皆がペースの違いによって順位が生まれてきて、そこからゴールを目指していくうえでどのような順位であっても、一位でゴールできれば、勝ちなのである。
トラック競技と一緒にしてしまうのは、いかにも乱暴であるが、小説とマンガという、芸術にまったく興味のない人から見れば、
「五十歩百歩」
に見えているのではないだろうか。
小説も、マンガも同じように設計書を必要とする。小説ではプロットといい、マンガではネームというが、彰浩が小説を書く時、最初の頃はプロットも書かずに、いきなり書き始めていたものだ。
今では、プロットを書けるようになったのだが、それも、最初にプロットを書いていなかったからできていることなのかも知れない。いつの間にか、
「とにかく下手くそでもいいから、最後まで書けるようになることが、スタートラインに立つことだ」
と考えていたのだ。
だから、プロットを書かずとも、小説の展開に応じて、ストーリーが変化していったが、別に出版社を経由して、商業本を販売するわけではないので、いくらでも、自分のやり方でできるのだ。
最後まで小説が整っておらず、最後に辻褄を合わせたとしても、それがストーリーとして成り立っていれば、ラストで一位になっているのと同じことで、勝負に勝ったと言ってもいいのではないだろうか。
それを思うと、小説を書きあげることが、一番大切なのだという原点に、また戻ってくることで、小説を書きあげることはできるのだと思っていたのだった。
これが実際のプロともなると、順番が変わってくる。
まず、プロットを書く前の企画を立てなければいけない。いわゆる原案を決めて、それを編集担当者に示して、これが編集社の編集会議によって、その企画で本を書いていいかどうかが決まるのだ。
ほとんどプロットに近いものになるのかは、その時の状況によるが、ジャンルと時代背景、さらには、登場する場所であったり、登場人物がどれくらいになるかである。
短編になるか長編になるかは、編集社の方から言われるのであるが、その長さによって、ある程度の登場人物の数や、小説の規模が決まってくると言ってもいいだろう。
それが、編集会議で企画が通れば、そこからプロットに落として、それから本文を書いていくことになるのだが、プロットの書き方は人それぞれ、企画の段階でできているものもあるが、それ以外に、作者の立ち位置として、一人称形式で書くのか、三人称形式で書くのか、その両方を加味した形の神視点という形のものが一般的であろう。だが、なかなか神視点で書くことは難しいので、プロになるほど、神視点で描いている人は少ないかも知れない。
小説の作法には他にもいろいろあるのだが、プロットというのは、そのあたりを加味して作るものだ。
だが、プロットには決まった形があるわけではない。
「最低限に必要なもの」
というのが揃っていれば、それでいいのだ。
小説を書いていると、書き方が偏ってしまう場合がある。特にプロットの段階でどこまで書き進めるかというところが分岐点になったりする。
プロットを完璧に書いてしまう人もいるが、完璧に書いてしまうと、それを文章として落とした時に、枝葉になる部分が頭のなかで膨らんでこなかったりするのが難点ではないだろうか。
曖昧なところまで書いて小説を書き進めていくと、最初からふくらみがあるわけではないので、いくらでもニュートラルな状態から、いろいろと枝葉を膨らませることができる。
プロの作家がどういう仕事をしているのかということまでは知らないが、プロットの書き方まで編集者の人からいろいろ言われることはないだろう。あくまでも、自分の中での設計図であって、編集者が求めているのは、完成品でしかないはずだからである。
それを思うと、
「プロットも完全なものにしないようにするのが無難なのではないか?」
と感じるのだった。
マンガのネームがどういうものかは知らないが、ネームも同じではないかと思っている。マンガと小説の違いは感覚的に分かっているので、ネームも分かる気がする。だが、やはり書くとすれば小説だと思っている彰浩は、高校時代には、小説ばかりのことを考えていた。
もちろん、大学受験というのも考えていたので、勉強が第一だったが、勉強だけではなく、小説を書くということが自分にとっての気分転換になることで、結構気が楽な気がしていた。
受験勉強をしている時は、
「受験勉強をするよりも、小説を書くことの方が楽なのではないか?」
と思い、逆に小説を書いている時は、
「小説を書くより、受験勉強の方が楽だ」
と思っていることで、それぞれのことをしている時は、きついと感じてはいたが。解放されて、もう一つのことをしようとすると、そちらの方が気分転換だと感じるようになると、今度は、すべてが気分転換ではないかと思うようになり、
「俺だったら、何でもできるんじゃないか?」
と感じるようになったのだった。
おかげで大学も国立大学に進むことができ、いつの間にか、
「俺って頭がいいんじゃないか?」
という自惚れを持つようになっていた。
だが、この自惚れは思ったよりも大きなものだったが、自分では、
「まだまだ足りないくらいだ」
と思った時期もあった。
特に国立大学に入学できたことは、ある程度まで自信はあったが、本当に入学できるとまでは思っていなかった。
小説を最後まで書き切った時のことを思い出したが、あの時の感覚に似ていた。
あの時は最後まで書き切ることができたおかげで、やっとスタートラインに立てただけなのに、そのことが、
「自分の中で、自惚れても問題ないのではないか?」
と感じさせるようになったのだった。
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