不知火 藍華(しらぬい あいか)様と出会ったのは、僕が小学二年生の時だった。

 当時の僕は、今ほど恰幅も良くなく、色白の貧弱な子供で、内気な性格をしていた。誰かの前にでるというよりも、誰かの後ろについていくタイプで、自分の意見もあまり言わない。

 そこに分家という肩書がつけば、本家筋の子供から見れば、絶好のいじめのターゲットに見えたのだろう。そして実際そうなるのに、そう時間はかからなかった。

 その日も、僕は屋敷の裏で殴られていた。

「おい、顔は殴るなよ。従者に気づかれるのも面倒だ」

「へへっ! わかってますよ」

 そう言った誰かの顔を見る前に、僕は蹴飛ばされ、亀のように蹲る。

 最初は面白がって自分も手を出していたが、最近本家筋の子供は自ら手を出すこともなくなっていた。単純に、自分で手を下すことに面白みを感じなくなったのだろう。ならば、もう殴る蹴るという暴力から離れてほしかったのだが、暴力を振るわれる僕の姿には興味があるらしい。

 僕を痛めつける役目は、もっぱらその取り巻きの、分家の連中だった。集まった四、五人の年齢は、大体僕の二つか三つ上、という所だろう。

「おら! いつまで寝てんだよっ!」

 そう言って僕は、痛みで蹲ることすら許してもらえない。背中から無理やり持ち上げられて、肩や胸、みぞおちに、こいつらは笑みを浮かべて、容赦なく拳を打ち込んでくる。

 肉と肉が強かにぶつかる音と、骨が軋む音が体の中から聞こえてきて、僕はただ痛みに苦痛を漏らすことしか出来なかった。いくら泣き叫んでもこの状況が改善されないのは、小学二年生の僕でも流石に学習済み。むしろ助けを求める方が、よりひどい目にあうのだと学んでいた。

 ……これは、嵐みたいなものなんだ。

 心の中で、僕はそう思う。そう、今僕が直面している状況は、嵐にあっているようなものなのだ。自然災害が相手なら、いくら立ち向かったって、どうすることも出来ない。ただ、声を押し殺して過ぎ去るのを待つしかない。

 今の僕は、嵐が過ぎ去るのを待っているだけなのだ。嵐に抵抗しても、それは無意味なのだから、何もしないのが一番賢い選択に決まっている。他の人だって、皆そうしている。だから、今の僕の選択は、間違っていないのだ。

 やがて本家筋の子供は居なくなり、虎の威を借る狐の如き分家の子どもたちだけが、屋敷裏に残っている。

「へへへっ! この前テレビでやってたプロレスの新技、お前で試してやるぜっ!」

「おい、ずるいぞ! 先オレにやらせろよっ!」

「だったらこっちは、そーごーの技をかけるぜっ!」

 本当に、嵐が来ればいいと思った。どうせ来るなら、全てを吹き飛ばしてしまう程の、大嵐がいい。

 ……そうすれば、みんな、綺麗になるのに。

 こいつらだけじゃなく、僕自身も吹き飛ばして欲しい。こんなちっぽけで弱い僕の居場所なんて、きっとこの世界のどこにもないのだ。

 だから、吹き飛ばして、洗い流して、みんな、みんな綺麗になればいいのに。

 そんな現実不可能な、子どもじみた妄想をいくらしてみても、現実の辛さは僅かばかりも軽減されていない。

 後ろから羽交い締めされた状態で、前からも手が、僕の方に伸びてくる。襟首が掴まれ、引きずられそうになった、その時――

 

「あなた達。ここで一体何をしているのです?」

 

 凛、とした声が、屋敷裏に響き渡る。見ればそこには、日傘を差す、白いワンピースを着た少女が立っていた。

 僕の襟首を掴んでいるそいつは、水を差された事に対して苛立ちを隠しもせず、僕を突き飛ばした。尻もちを付く僕には目もくれず、彼はこの場に現れた少女を睨みつける。

「……何だ? お前。見かけねぇ顔だな」

「こっちは不知火家の本家筋、御門様の指示で動いてるんだ」

「邪魔するんだったら、女でも容赦しねぇぞ!」

「……なるほど。留学をしている間に、随分と程度の低い輩が増えたようですね。これは、お祖父様にキツく言っておかなくてはいけません」

「何だと?」

「お前、何を言って――」

「ま、待て。こいつ、今留学してたって言ったよな?」

 少女の言葉にいきり立つ彼らの一人が、そう言って顔を真っ青に染める。怪訝に思った彼の仲間が、眉をひそめて問いかけた。

「何だ? どうしたんだよ」

「お、親から聞いたんだよ。今日、不知火家のご令嬢がフランスからご帰国なさるって……」

「まさかっ!」

「あら? ご存知でしたの?」

 騒然とする彼らに向かって、少女は日傘を畳むと、流れるように挨拶をした。

「不知火、藍華と申します」

「お、お嬢様! 違うんです、これは――」

「黙りなさいっ!」

 華奢な体で、一体どうやってそんなに大きな声が出せるというのだろうか? 彼女に一喝された彼らは、すくみ上がり、呻き声すら発することができなくなっている。

 藍華と名乗った少女は、くるくると遊ぶように、日傘の手元を持ってそれを回転させながら、こちらに近づいてきた。

「多勢に無勢なだけでは飽き足らず、自らの行動すら他者の言質を頼り、更に相対する相手の出自によって接する態度を変えるなど言語道断! 不知火家の敷居を跨いでのその行い、それ相応の報いを受ける覚悟は、当然あるのですよね?」

 誰かが、言い訳を言う暇もなかった。

 日傘を手にした彼女は、くるくる回していたそれを、ぴたっ、と止めた。そう思った。その次の瞬間、僕の隣に立っていた奴の額に、日傘がフェンシングよろしく、突き立てられている。

 勢いよく吹き飛ばされた彼を目で追い切る前に、日傘の先端は、別の奴の右膝に突き刺さっていた。その彼が痛みで悲鳴を上げるまでに、その日傘は棒立ちになっている他の奴の左肩にめり込み、その反動を利用して、また別の奴のみぞおちを強襲。最後に、その様子を信じられないという表情を浮かべている残りの一人、その顔面へ、少女は高速の爪先蹴りを叩き込んでいた。

 僕をいじめていた子どもたちが、瞬きする間に、苦痛に顔を歪めて地面に沈んでいる。突然の事過ぎて、呆然とする僕に向かい、彼女は日傘を差し直して、微笑んだ。

「立てますか?」

 嵐だった。

 彼女こそ、僕の望んだ、嵐だったのだ。

 全てを吹き飛ばし、この世界を綺麗にできる存在。

 それはこの世界で、きっと彼女しか行うことが出来ない、奇跡なのだ。

 彼女が差し出す手を、僕は恐る恐る掴む。

「それでは、怪我の手当をしに行きましょう」

「はい、藍華様っ!」

 この時から僕は、僕自身の身も心も、全て藍華様に捧げることを誓ったのだ。

 藍華様の求める、ノブレス・オブリージュを実現するために、僕は全力で彼女を不知火家の次期当主に推すと、決めたのだ。

 彼女のためなら、僕はどんな卑怯な手を使うこともいとわない。もっとも、弱者を人扱いもしない本家筋や分家の連中に対して卑劣な手段を使うことに、僕の良心が痛むわけもないのだが。

 ……それに、大なり小なり、どの陣営も似たようなことはしているわけだしね。

 他の次期当主候補者の取り巻き連中も、自分の推す候補者を当主にしようと権謀術数を巡らせ、他の候補者を当主争いから脱落させようと相手の隙を虎視眈々と伺っている。

 なにせ、今の所候補者の実力は、ほぼほぼ横一線。誰もが不知火家、次期当主の座を手にする可能性があるのだから、推す側の力の入れようも入るという状況は、理解してもらえると思う。

 そうした推しが決まっている僕らに、一番油断出来ない候補者は誰か? とアンケートを取ったとすると、ほぼ間違いなく答えは一致するだろう。

 

 そう、不知火帝一だ。

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