第二章

 わたくし、青鷺 彩(あおさぎ ひかり)は今、不機嫌ですの。

 そう思いながら雨晦明学園、その三階の廊下を進軍すると、自然にスカートと腰まで伸ばした髪が揺れる。そう、進軍だ。もう中間試験も終わったというのに、わたくしに挨拶の一つも寄越さない不届き者に、誅を下しに行くのだ。

 ……ついでに、厄介事も押し付けてやりますわ。

「お嬢様」

 呼ばれて振り向くと、後ろを歩いていたわたくしの世話係、更科 源(さらしな はじめ)がボブカットの髪を揺らして、窓の外を見ている。

 わたくしと同じく雨晦明学園のセーラー服に身を包んだ彼女に、私は問いかけた。

「どうしましたの? 源さん」

「帝一様ですが、藤棚でご昼食を取られているようです」

 表情を崩さない源さんの視線の先を追ってみると、藤棚の下、そのベンチに座る、学ランの生徒の姿が見える。藤の蔓と葉の間から覗くその顔は、眉目秀麗という単語を辞書で引いたとするなら、例示としてこういう顔ですと表記されていてもおかしくないほど、整っていた。

 そんな彼の顔を見て、わたくしは思わず歯ぎしりする。

「不知火、帝一……!」

「我々は既に昼食を済ませています。お茶でもご用意しましょうか」

「……そうして頂戴」

「かしこまりました。それでは、後ほど合流いたしますので」

 そう言って源さんは一礼し、お茶の準備をするために、踵を返す。わたくしはそのまま、歩みを再開した。

 その行き先は、先程見ていた、藤棚だ。

 中庭まで出て藤棚に近寄ると、そこには帝一以外にも別の生徒が居ることに、わたくしは遅まきながら気がついた。帝一はテーブルの上の弁当箱から箸で唐揚げをつかみ、口の中に放り込むと、手にした本のページをめくる。

 帝一と向き合う形で座っている別の生徒、やたらと胸の大きいショートカットの女子生徒は、まだ包を解いていない弁当箱の横に並べた教科書、ノート、参考書と睨み合った後、テーブルの上に突っ伏して、恨めしそうな声を上げた。

「うぅぅ、帝一様だけお昼食べるなんて、ずるいですよぉ」

「お前、ノルマを達成できなければ昼食は抜くと、自分からいいだしたんだろうが」

「帝一さまぁ、やっぱり、私には無理ですぅ。学年三十位以内なんて、どう頑張ったって入れませんよぅー」

「口を動かす前に、手を動かせ。英単語のような暗記する必要があるものは、まずはひたすら書いて頭に詰め込め」

「うぅぅ……」

 その二人に割って入るように、わざとらしく大きな咳払いをして、わたくしは藤棚の下へ進軍していった。

「相変わらず仲がよろしいみたいですわね? 帝一、古戦さん」

 そこでようやく二人の視線が、こちらに向く。帝一は、大理石で出来た彫刻のような表情を僅かばかりも動かさず、古戦さんは対照的に、これでもかと言わんばかりに、顔を歪めた。

「げ、青鷺様」

「げ、とは何ですの? 使用人の分際で」

「そういう所ですよ? 青鷺様」

 ああ言えばこう言う古戦さんを無視して、わたくしは帝一へと視線を向ける。

「ちょっと、帝一? 使用人の教育がなっていないのではなくて?」

 それを聞いた帝一は、静かに開いていた本を閉じた。

「それについては、最近思うことなないわけでもないな……」

「ちょ、帝一様! 庇ってくださいよっ!」

「そうして欲しいなら、まずは勉強を終わらせろ。それが妥協点だ。ダラダラやっていては、流石に昼休みも終わる。昼飯はちゃんと食え。健康を損なうのは、落とし所としていただけない」

「うぅぅ、帝一様の意地悪……」

 もう一度咳払いをして、わたくしは右手で自分の髪をなびかせる。

「大体、不知火家現当主の孫が、使用人と一緒に食事をするだなんて、他の者に対して示しがつかないと思いますけど?」

 そう言うと、帝一は手にした本をテーブルの上に置き、わたくしの方を一瞥する。

「従者は付き従うもので、従って欲しい時に従って貰えるのであれば、俺は飯ぐらいは一緒に食う。それが落とし所だ」

「……それにしては、お弁当の内容だって、あまり良い物を食べているように思えません。ちゃんと食べてますの?」

「忠告痛み入るが、実家とは勘当状態でね。自分から支援はしなくていいと言い出したが、俺が言わなければ、いずれ親父たちの方から言い出してただろうよ」

 そう言って帝一は、弁当箱から玉子焼きを箸で取って、口に運ぶ。そして咀嚼した後、嚥下した。

「心配してくれて、ありがとう。彩」

「だ、誰が貴方のことなんか心配するっていうんですのっ! 貴方は、いっつもそう。大事なことは、わたくしには何も――」

「げふんげふんっ!」

 咳払いではなく、本当に「げふんげふんっ!」と見事な発生で言葉を作り、古戦さんがあからさまにわたくしと帝一の会話を遮る。

「帝一様? その玉子焼きの味加減、いかがですか? 私、今日のは結構自信があるんですけど」

 ふむ、と帝一は頷き、今度は塩ゆでされたブロッコリーを、箸でつまむ。そしてそれを、宝石を見る鑑定士の様に目を細めた後、口に運んだ。そして、ふむ、と小さく頷くと――

「妥協は出来る」

「色々酷いです! だったら今度は帝一様が作ってみれば、いや、やっぱりそれはなし! 帝一様、絶対自分が満足できるレベルで料理出来るはずですから! 明らかに私より料理上手いはずですから! 負けるのが目に見えてますからっ!」

「その読みは、是非次の試験に活かしてもらいたいな」

「お嬢様、お茶の準備が出来ました」

 わたくしが、本日三度目の咳払いをする前に、源さんの声が聞こえてきた。振り向くと、表情をほとんど変えない彼女は、両手で銀のトレーを持っている。その上には、ティーポットとカップを四つ、それにミルクと砂糖。そしてお茶請けなのか、何かの包が乗っていた。

 こちらに向かって一礼する源さんに向かって、帝一が口を開く。

「久しいな、更科。息災だったか?」

「おかげさまで。帝一様も、おかわりなく」

 そのやり取りに、わたくしはすかさず口をはさむ。

「……ちょっと待ちなさい、帝一。何故源には挨拶をして、わたくしには挨拶をしていないのです?」

「む? そうだったか?」

「そうですわよっ!」

 当初の目的を思い出し、わたくしは帝一の前まで近づいていく。

「帝一。貴方、わたくしと同じ学園に通うようになったにもかかわらず、挨拶の一つもないというのは、一体どういう了見なのです?」

「了見も何も、不知火家の落ちこぼれと関係があると知れたら、お前に迷惑がかかるだろう。それは俺も、そしてお前も妥協できまい」

 ……またそうやって、貴方は勝手に決めつけてっ!

「お茶にいたしましょう。お嬢様」

 帝一に掴みかかろうと一歩踏み出したわたくしを、源さんの静かな言葉が止めてくれる。

「お茶とお茶請けは、四人分ご用意しております。帝一様に桜様も、ご一緒にいかがでしょうか?」

「そうしましょう、そうしましょう! 帝一様も、いいですよね?」

 何故かついでで誘われた古戦さんがノリノリで、筆箱にシャーペンを仕舞いながら、帝一に話しかける。こちらとしては都合がいいが、そんなに勉強するのが嫌なのに、何故そんなに頑張っているのか疑問になる。

 ……まぁ、どうせ帝一に何か言われたのでしょうけど。

 そう思っていると帝一は、ふむ、と小声でつぶやいた。

「……今日達成すべきだったノルマは、今日中にちゃんと達成しろ。そこが妥協点だ」

「もちろんですっ!」

 古戦さんは元気に頷くと、教科書などを一瞬で片付け、ついでに弁当箱の包と蓋も開ける。

 こうして、藤棚での即席のお茶会が始まった。藤棚のテーブルを、四人で囲む。

 源さんはお茶の準備をし、古戦さんは弁当箱をかきこみ、帝一はもう殆ど食べ終わっていたのか、反対に弁当箱の蓋を締めた。

 源さんがティーポットを傾け、カップに紅茶を注ぐ。ダージリンのいい香りが風に乗り、藤棚の間を吹き抜けた。

「美味しそう」

「ありがとうございます、お嬢様」

「茶葉の種類は、何かしら?」

「セカンドフラッシュでございます」

「そう。なら、ストレートティーの方がいいわね」

「かしこまりました」

 源さんがテーブル上のミルクジャグを少し、わたくしから遠ざける。そして彼女は次に、帝一の方へと歩み寄った。

「帝一様。こちら、本日のお茶請けでございます」

 そう言って源さんは、包を一つ、帝一の前に差し出す。彼がそれを解いていくと、その中から出てきたのは――

「こ、これは范文堂のどら焼き! しかもつぶあんこしあん、両方入っているタイプではないかっ!」

 両方、つまり半分のつぶあんと、半分のこしあんが入ったどら焼きを前に、帝一が歓喜の声を上げる。

「ご明察でございます。こちら、帝一様がお好きだからと、お嬢様から」

「へ?」

 ……な、何でそれをバラしますの、源!

 そう言うより早く、帝一は破顔して嬉しそうにどら焼きを頬張る。その顔は、まるでクリスマスプレゼントを受け取った、子供のように輝いていた。

「そうか、彩! 俺の好物を覚えていてくれていたのだな! 俺は嬉しいぞっ!」

「ふ、ふんっ! どら焼き一つでそんなに喜ぶだなんて、帝一もまだまだ子供ですわねっ!」

「この味が楽しめるのなら、俺は一生子供でも構わん!」

 はしゃぐ帝一を見て、古戦さんが、物で釣るなんて卑怯です! という目をしながら、ぐぬぬぬ、と唸っている。

 それを横目に、わたくしは勝利の美酒として、紅茶を優雅に口にした。

 ……ああ、この紅茶は、今日は格別に美味しいですわねっ!

 美酒の余韻に浸っていると、源さんが表情を変えずに、わたくしへ耳打ちをしに来た。

「お嬢様」

「何ですの? 源さん。今わたくし、気分がとってもいいのです」

「それは良うございました。ですが例の件、お話しなくてもいいのでしょうか?」

「例の、件?」

 ……忘れてましたわっ!

 そうだった。帝一には挨拶に来なかった事と、それともう一つ、厄介事に巻き込もうと思っていたのだった。

 わたくしはカップをソーサーに置くと、小さく咳払いをする。

「帝一。貴方、この学園で起こった揉め事の解決に乗り出しているようね」

「積極的なのは俺ではなく、桜の方だがな」

 どら焼きを食べ終えた帝一はすまし顔でそう言うが、古戦さんは両の瞳を輝かせて、こちらに身を乗り出した。

「何ですか? ことと次第によっては、青鷺様のお話でも、帝一様が解決してくださいますよ!」

「古戦さんは、ぶれませんわね……」

 そう言ったタイミングで、丁度昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。それを聞きながら、帝一は皆を見渡した。

「ではその課題。明日、また昼休憩のこの時間、この場所で改めて話を聞かせてくれる、という事でいいか?」

「え、帝一様、そんな簡単に引き受けちゃうんですか! 私の時はあんなに渋ってたのにっ!」

「話を聞くだけだ。まだ引き受けるとは言っていない」

「でも、私の時とは態度が違いすぎますよっ!」

 驚く古戦さんに向かって、ふむ、と帝一は言うと、更に口を開く。

「俺はこの、どら焼きを食べた。ならば、彩の話をひとまず聞く、というのがこの場合の妥協点だろう」

 それを聞いて、わたくしは内心ほくそ笑む。

「では、そういう事で。また明日、ごきげんよう」

 そう言ってわたくしは、カップなどの片付けをしている源さん、そして悔しそうな顔をする古戦さんとベンチから立ち上がり始めた帝一を置いて、藤棚を後にする。

 中庭から校舎に入る途中、わたくしは人知れず、口を三日月型に動かした。

 ……これで、帝一の地位を、貶める事が出来ますわっ!

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