第一章
①
私、古戦 桜(ふるいくさ さくら)は走っていた。
窓から降り注ぐ陽の光を浴びるショートカットの髪を揺らしながら、私は雨晦明(うかいみょう)学園の廊下を駆けている。太陽の光は、春の優しいものから、夏の力強いそれに変わり始めていた。
私は少し汗ばんだ額をぬぐうと、律儀に校則に従ったスカート丈にしている事を、少しだけ後悔していた。
……入学したばかりなので自重してましたが、裏目に出たかもしれませんね。
今年の四月から高等部の新入生としてこのセーラー服に身を包んでいるが、まだどうしても自分に馴染んでいない気がする。普段家で着ているメイド服のスカート丈の方が長いのに、制服の方が動き辛い。それでもどうにか足を動かして、私は目的地へとたどり着く。
そこは、雨晦明学園の中庭だ。
広大なこの学園にはいくつか中庭が存在するが、目当ての人が居るであろう場所は、藤棚が建つここしかない。視線を隈なく動かす前に、藤棚の下、そのベンチに座る、学ラン姿のその人を見つける。
私はその人に向かって、声をかけた。
「帝一様っ!」
私の言葉を意に介さず、彼は手にした本のページをめくる。紙がめくられるのを優しい風が後押しし、花が散った後元気に伸びた藤の蔓と葉が揺れ、少しだけざわめいた。
私が藤棚に到着すると、帝一様はそこで初めて本を閉じ、こちらに視線を向ける。刈り上げない程度に短くした髪が揺れ、ブラックダイヤモンドの様な瞳が、私を射抜いた。
「どうした?」
彼のバリトンボイスに、一瞬私は何も言えなくなる。でも私は顔を振り、この同い年の眉目秀麗な少年に向かって、意見した。
「もう! そろそろご自分のスマホぐらい、お持ちになってくださいっ!」
「俺のスマホは、お前が持っているだろう?」
それで何が問題があるのだ? と言わんばかりに、彼は小首を傾げた。
「そもそも、俺の代わりに機械全般を操作するのも、お前が俺のメイドを続ける条件だったはずだが」
「そ、それはそうですけど……。で、でも、毎度毎度、帝一様を探す私の身にもなってください!」
「だから、お前が探しやすいよう、基本的に俺はこの藤棚に居るようにしている。お前も俺を探す手間をかけ、俺もここに移動する手間をかける。それが、この件の落としどころ。妥協点だ」
妥協点。
その言葉に、私は二の句を告げなくなる。確かに、二人とも手間をかけているので、痛み分けの様な感じもする。でも根本的な解決になっていないようにも思えて、私はもやもやした気持ちを抱える事になった。
「それで、桜。俺を探していた要件は、それだけか?」
再び本を開いた彼を前に、私は少しだけ慌てる。スマホの話をしてしまったので、すっかり帝一様を探していた本題を忘れていた。
「いえいえ、本題はここからです! 帝一様、一学期の中間試験の結果が貼りだされました。一緒に見に行きましょう!」
「不要だ」
もはや私を一瞥もせず、目の前の美少年は本格的に読書を始める。私は納得いかず、彼に詰め寄った。
「どうしてですか!」
「結果がわかっているからだ」
その言葉に、私ははっとする。
「ま、まさか帝一様、全科目満点を――」
「二流上等、一流重畳」
そう言って彼は、ページをめくる。
「これが、俺のポリシーだ。満足できる点数さえ取れるのであれば、俺は順位などこだわらない」
「でも、結果がわかっているって――」
「授業料免除の対象から、俺は外れていないという事だ。外れるほど成績が悪ければ、流石に学園から連絡がある。だが、連絡はなかった。そうだな?」
そう言って帝一様は、自分のスマホを預かる私へ目を向ける。確かに、そんな連絡はなかった。
そんな私の反応を見て、ふむ、と彼は小さく頷く。
「だから、結果は既に出ており、その結果を俺は知っている。俺は授業料が免除できる成績を取れれば、試験で何点を取ろうが、順位が何であろうが、構わない」
そしてすぐに、視線を手元の本へと移した。
「知っているのに、更に知りに行くというのは、落としどころとして不適切だ。妥協できない」
「……もう、融通が利かないんですから! 成績を見に行くのぐらい、付き合ってくれてもいいじゃないですかっ!」
「桜は自分の成績が知りたいだけだろ? 俺が付き添わねば知る事が出来ないわけでもあるまい。そこに俺が付き添うのは――」
「もう、わかりました! 一人で行きますよっ!」
そう言って私は、藤棚を後にする。私の主人は妥協はするが、前提が変わらないのであれば、それ以上の譲歩をする事がない。
……もう少し、融通を利かせてくださってもいいのに。
せっかく同じ学園に通っているのだから、最初の試験の成績ぐらい、一緒に見たかった。でも、彼のポリシーを曲げてまで、私は自分の我を通そうとは思わなかった。
……その帝一様のポリシーに、私は救われたわけですから。
私は来た道を戻り、廊下を渡って、校舎を進む。壁にはポスター等の掲示物が貼られ、生徒会長の霧隠先輩のインタビュー記事が載っていた。
その脇を通り過ぎ、階段を駆け上がると、中間試験の結果が掲示されている職員室が見えてくる。そこには既に、自分の成績を見ようと、多数の生徒たちの姿があった。
「オレ、また成績下がったよ……」
「それにしても生徒会長は流石ね」
言われてみると、高等部三年生の結果、そのトップに『霧隠由人』と名前が刻まれている。成績を眺める生徒たちは、廊下は自分の成績と、学園の有名人の成績に花を咲かせていた。
一方私は、主人に仕えるメイドの性か、自分の成績より、帝一様の名前を探してしまう。そして私は、すぐに彼の名前を見つけた。
……え、雨晦明学園で、学年十位!
雨晦明学園は、かつて貴族たちを教育するために設立された名門だ。財閥の令嬢や政界の跡取り息子等、富豪名家の子供が多く就学している。
その一方で、学業やスポーツによる推薦での入学も許されており、優秀な生徒に対して、その門戸は海外の生徒にまで広く開かれていた。
そのため試験の成績は、生徒の家の名前ではなく、生徒自身の能力がしっかりと反映される仕組みになっている。そんな中で、学年十位の成績を収めるなんて――
……流石帝一様! 凄いですっ!
そう思う私の後ろで、試験の結果を見に来た生徒たちが通り過ぎていく。そして彼らの中に、帝一様の存在に気付く人たちがいた。
「おい、見ろよ」
「嘘! あれ、噂の不知火家の?」
「じゃあ、あれが不知火家の神童と謳われた人なの?」
驚愕の声が聞こえる度、私は自分の事ではないにもかかわらず、鼻高々に胸を張る。自分の主人が褒められるのは、悪い気はしない。だが、そんな私の反応は、早とちりだったようだ。
次に聞こえてきたのは、嘲弄の声だった。
「マジかよ。不知火で一番じゃねぇの?」
「神童も、二十歳になる前にただの人になった、ってわけだ」
「次期当主候補が、あの成績じゃダメだろ」
「不知火家の落ちこぼれっていう噂、本当だったみたいね」
その陰口に、私は頬が引き攣るのを自覚する。
不知火家の落ちこぼれ。
それが私の主人、不知火帝一様の世間に対する評価だった。
どの分野でも超一流たれ。それが不知火家の教育方針であり、それを有言実行する事が、当たり前のように不知火家の子供たちに求められる。
……でも帝一様は、妥協された。いいえ、満足する事を覚えられた。
二流上等、一流重畳。
故に超一流を目指すことはなく、そこに至らない。至る前に、妥協する。満足する。故に不知火家の、落ちこぼれ。帝一様のポリシーは、常に最高の結果を求める不知火家と、徹底的に合わなかった。
……だからって、世間的に見れば帝一様は落ちこぼれなんかじゃありません! そもそも、不知火家の基準がおかしいんですっ!
思わず言い返そうかとも思ったが、当の本人が気にしていないので、私はただ歯噛みしてその声が通り過ぎるのを、じっと待っていた。帝一様は、こうして陰口を叩かれる事すら妥協している。
でも――
「不知火家の落ちこぼれって、生きてて恥ずかしくないのかな?」
その言葉だけは我慢できず、思わず私は声の方へと振り向いた。と――
「すみません」
「ひゃっ!」
振り向いた先に人が至近距離で立っていたので、思わず私は変な声を上げてしまう。勢いよく振り向いたので、後、数センチ近かったら、ラブコメでありそうな出会い頭にキスする展開が発生していたかもしれない。
私は背伸びをして、目の前にいた女子生徒の向こうにいるであろう、主人を罵倒した人影を探す。だが、既に他の生徒に紛れて、見えなくなっていた。
歯ぎしりしながら、私は人だかりを睨む。
……今に見てなさい! 必ず帝一様の凄さを、この学園中に広めて見せますからっ!
怒りに燃える私に向かって、ぬっ、と先ほど私に声をかけた生徒が近寄ってくる。
「あの」
「あ、すみません! 何か、御用でしょうか?」
「揉め事があれば、あなたに頼るようにと噂を聞いて、お声をかけさせて頂いたのですが」
その言葉に、先ほどの怒りなどなかったかのように、私は歓喜した。
「まぁ! それでは、帝一様へのご依頼ですねっ!」
そう。私は帝一様の凄さを広めるために、揉め事や困った事があれば知らせて欲しいと、入学してからこの学園中に、触れ回っていたのだ。
主人の地位を向上させるため、秘密裏に活動するだなんて、メイドの鑑。秘密裏過ぎて、帝一様にすらこの活動は内緒なのだが、それは大事の前の小事。些細な事だ。
……流石は私! 帝一様のメイドなだけあって、超有能ですねっ!
満足げに頷くと、私は改めて、目の前の生徒に目を向ける。彼女は髪を三つ編みにして、黒縁の眼鏡、それもかなりレンズが厚いものをかけていた。
第一印象は、地味の一言。しかし、妙に存在感がある。美人画を修繕した時に、その絵の良さを消してしまったかのような違和感に首をかしげていると、彼女がまた一歩こちらに近寄ってきた。
「お話、聞いていただけますか?」
「も、もちろんです!」
慌てて一歩下がる私にあわせたように、彼女も一歩後ろへ下がった。
「では、こちらへ」
そう言い残すと、彼女はくるりと方向転換をして、スタスタと歩き始めた。その背中を、私は慌てて後を追う。その場を立ち去る前に、私は再度、掲示された結果の一覧を横目で見る。
私の名前は、下から数えた方が早い位置に記載されていた。
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