第4話 核の抑止力
そんな時代において、有事ではなくなってくると、犯罪が多様化していた。有事の際にだって、ほとんどの産業が疲弊し、さらには壊滅していたにも関わらず、特需に沸いた職種もある。
さらに、詐欺やサイバーテロなども、目立たないが起こっていて、品薄のものを、最初に買い占めておいて、転売を行うなどという問題も出てきた。
転売に関しては。法改正を直ちに行い、臨時の応急的な法律であったが、転売をできないようにしたのは正解だった。
いや、元々あった法律に、今回の件を当て嵌めただけではあったが、それでもできたのだから、
「前政権としては」
という但し書きがあるが、出来ていたのだった。
こんな時代において、今は少し中途半端な時代でもあった。
いわゆる、
「戦後の混乱期」
と言ってもいいだろう。
人間は廃墟の中から、闇市などもあり、何とか生き抜いてきた時代があったのだが、今は実際に、街が廃墟になったわけでも、食料が配給制になったわけでもなく。どちらかというと、まわりの産業は様変わりしたが、生活がそこまで変わったわけではない。
医療崩壊していた時は、死ぬ思いをした人もたくさんいて、
「もう、二度とあんな思いはしたくない」
と思ってる人もたくさんいただろう。
しかし、分かっていながら、人間というのは、すぐに忘れてしまう動物なのだ。
いかに、死ぬ思いをしても、数年も経てば、
「あの時は酷い目にあった」
と言って、振り返ると、背筋に寒いものを感じるのかも知れないが、今の生活を行えるようになると、
「もう一度同じことが起これば、同じことを繰り返すか?」
と聞かれると、言葉では、
「そんなことはないですよ。もうあんな死にかけるような目に遭うのは、まっぴらごめんですよ」
というに違いない。
しかし、本当にそんな気分になるだろうか?
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」
という言葉がすべてを表している。
夢だって、目が覚めれば忘れているものだ。
ショックなことが起これば、人間は、
「時が解決してくれる」
と思うだろう。
確かに、時間がたてば、傷も癒えるし、傷口も塞がって、痛みもなくなる。
しかし、忘れてしまっていいことなのか、いけないことなのかということを、自分で分別できないのも人間である。
嫌なことを忘れられるというのはいいことであるが、忘れてはいけないものだけを覚えているというような器用なことは人間にはできないのだろうか?
もっとも、これには個人差がある。
「個性だ」
と言ってしまえばそれまでなのだろうが、果たしてそれでいいのだろうか?
今のように、一度世界は地獄を見たのだ。それは世界大戦後のことでも同じのはず。
それでも、人間は同じ過ちを繰り返すのだ。いくら検証しても同じなのかも知れないが、検証もしなければ、先に進むことができないどころか、後ろ向きになってしまうと言ってもいい。
前政権まではそれができなかった。今度の政権では少なくともしようとしている。
そのために、有識者を組織し、有事の時にも、
「専門家の意見を聞いて」
などと言っていたが、実際には、まったくいうことを聞いていなかったではないか。
それを思い出すと、
「専門家の選定から、親権でなければいけない」
と言えるだろう。
前々政権などは、自分たちに都合のいい人を残すため、定年を延長するために、法改正まで考えていたくらいで、しかも、その男は、スキャンダルで自滅したという茶番があったのを覚えているだろうか?
しかも、懲戒処分であるべきなのに、退職金が普通にもらえる、実に軽い処分を国が示したというところから、国民が政府に嫌気がさしている状態だったので、
「どうせ、今の政府ならありえることだ」
と言って、あきらめムードだったのもあるだろう。
他の国だったら、暴動が起こっていても不思議はないくらいだ。そういう意味で、日本という国は、どれほど平和ボケをしている国かということが分かるというものだ。
法律関係のプロジェクトも、たくさんの有識者を集めて、医薬薬学関係のプロジェクトと平行して行われていたのである。
さて、F大学の薬学研究チームには、政府から指名を受けた時点で、自分たちの考え方を独自に持っていたのだ。
というのも、有事の際には、どこのチームかはハッキリとしないが、
「どうせ、当時の政権に都合のいいところが選ばれていたんだろうか?」
と言いながら、何かのチームが存在したということは聞いている。
しかし、完全に国家機密となっていたので、その内容を知ることもできないが、今となって思うと、
「本当に活動していたのだろうか?」
と、まるで、形だけだったということがハッキリしている。
それを考えると、今はどの大学が選ばれているかくらいのことは分かっている。ただ、そこから先は完全な国家機密だということで、公表もされていないし、サイバーテロに対しても、セキュリティはしっかりとしていた。
今までの国家はある意味ザルに近かった。何しろ、国家が公認していたチームは、自分たちの、
「おともだち」
で形成されていて、利権が絡んでいなければ動かないところであった。
だから、成果などは二の次であり、利権さえ保たれればそれでよかった。
「政治家は、国民のためにいるのではなく、おともだち同士の慣れ合いと、利権のためにいるのだ」
と言っても過言ではなかっただろう。
誰も、そんなことも分からずに、いや、知っていたが、諫められる人はいない。
やつらは、
「国民によって自分たちは選ばれたのだ。俺たちが何をしようと、関係ない」
とまで思っているのであろう。
もし、そう思っての行動でなければ、まともではない。そもそも、その考えがまともではないのだが、まともではない考えを、まともな人がするのだから、理屈ではないということになる。
「政治家ほど、国民を欺き。さらに、亡国へと導いているものはない」
と言われて、果たして反論できるであろうか?
そこまで言われるのも、今の日本の特徴なのだろう。何しろ、言論の自由が憲法で保障されているからだ。
「これが本当にいいことなのか悪いことなのか?」
それこそ、
「本末転倒の無限ループだ」
と言ってもいいのではないだろうか?
「おっと、またしても、政府批判に走ってしまった」
と、いうことで、話の筋を戻していこう。
F大学の湯浅チームにおいて、一番考えていたことは、
「特効薬になる原料を、いかに簡単に、そして、加工において、難しくもなく、さらに、永久にその保持が可能なもの」
ということをテーマに行ってきた。
そして、最初にそれを達成できるものが何なのかということに辿りつき、それをいかに可能にするかということを考えると、一つの結論に至ったのだ。
「人間が元々持っているものであれば、取り出すことと、半永久的に保持ができるという面では可能であろう」
と思われていた。
しかし、問題は取り出せたものをいかに、加工して、難病克服に至らせるかということが大切である。
ただ、考えてみれば、今までの特効薬というのは、人間の体内にあるものを使うということは行われてきた。そういう意味では、遅かれ早かれ。自分たち以外の研究チームも同じ発想に行き着くことは当たり前のことだろうと思われるのだった。
それが今の医学の限界ではないかとも言われていたが、この方法ほど一番的を得ていると言ってもいいのではないか。
大きな問題として、
「経費が少なくて済むということと、体内に元々あるものだから、副作用の問題も解決できるかも知れない」
という思いであった。
これは逆に毒薬の問題にも言えることであった。特に身体の中にあるものが、
「毒にはならない:
というわけではない、
単独では毒になるのに、他の物質と結びつくことで、毒になるというものであったり、逆に、単独なら毒なのだが、化学反応を起こすことで、薬にもなるというものはかなりあるだろう。
何しろ、特効薬であったり、ワクチンにしても同じことである。
身体の中に抗体を作るために、伝染病の中にある善玉の物質が薬になることだってあるのだ。
そもそもクスリとして今使用されているものも、昔は爆弾の原料として使われていたりするものも少なくはない。
有名なものとしては、爆弾の原料として一番危険な薬品の代表格であるニトログリセリンなども、実は心臓廟の特効薬として使われている。心臓病の発作が起これば、ニトログリセリンを服用することで落ち着いてくる。薬も危険なものに変わるということである。
また、麻薬として使用が制限されているものの中には、鎮静剤として使用されている者もある。
例えば、モルヒネなどそうではないだろうか?
モルヒネは、麻薬としての覚醒作用があるのだが、それ以上に、癌患者などの痛み止めとしても重宝している。
ひょっとすれば、モルヒネのような麻薬も、難病の特効薬として効果があるかも知れないということで、研究も進んでいる。
中には爆弾としても使用されるトルエンなども、特効薬としてかなり前から注目されているということであった。
身体の中にあるものも。実際に毒として使用されるものもある。元々身体の中にあるものだから、殺害にその毒を使っても、見つかりにくい場合もあったりする。
つまりは、
「死因を、心臓発作などの自然死に近いものとして、事件にしたくない」
という思いがある場合である。
自分が捕まらないということにも繋がるが、もう一つには遺産相続などが絡んでいる場合など、事件にしない方がいい場合もあるからだ。
体内にあるもので、薬になるものがどれほどあるのか、ということであるが、実は、
「クスリの成分のほとんどは、体内にもある」
と言ってもいいかも知れない。
そもそも、薬のように体内に取り込むのだから、薬をしての効果も当然のことながら、身体に対しての副作用がないことが同じくらいに必要なことである、つまり、
「せっかく病気が治っても、副作用でその後、悩まされることになるというのであれば、それは、本末転倒なことである」
と言われるであろう。
そんなクスリがいかに、副作用を出さずに、効果的に病気を治すかということであるが、このあたりの問題は結構難しい問題だ。
「核の抑止」
にも近いものがあるが、核兵器は持っているだけで平和が守れるということであるが、つまりは、運用を間違えると、自国だけではなく、世界全体の消滅を招くということになる。
格を作ったあと、その管理がどれほどの問題なのか。
よく映画などで、独裁国家などでは、国家元首の執務室の机の上に、
「核の発射ボタン」
が設置してあり、それをいつ押すかということが問題になるということである。
つまりは、
「二匹のサソリ」
というたとえ話と同じで、
「容器の中に、サソリを二匹入れておくと、一匹は相手を殺すことはできるが、自分も殺されるということを覚悟しなければならない」
ということである。
だから、そこには、
「力の均衡」
が働き、
「先に動いた方が負けである」
ということになるのかも知れない。
「動いたら、動いた方が負ける」
という考えは、勝負ごとであれば、ほとんどのことに言えるのではないだろうか。
さて、その考え方からであろうか。核兵器以外の兵器が、某国で開発されたという話を聞いたことがあったが、その兵器は核兵器に勝るとも劣らない力を持っているという。しかし、それを持っている国は一つしかないので、今は兵器の均衡が保たれているわけではない。
そのために、他の国家は、いかにしてその秘密を探り出すかということが急務になっていた。
日本ではそこまで気にしていないのは、その某国というのが、日本との同盟国だからである。
実際にその情報は、国家の上層部しか知られていないのだが。情報というのは、どこから漏れるのか分からないが、巷では、
「核兵器に勝るとも劣らない兵器が開発されたという話がある」
その国がどこであるかは、この情報を知っている人にとっては、公然の秘密のようなものであった。
この兵器における、国家の存亡というところまでは言っていない。まだ開発に成功したと言っても、
「制御できるところまではいっていない」
という話があるからだ。
兵器というものは、平気だけではなく、平和利用にも役立てることができるものでないといけないというのが、今の考え方だった。
核兵器も、元々は、
「ナチスドイツが、世界で最初に原爆を開発するだろう」
という懸念を、当時の科学者が抱いていて、その代表であるアインシュタインが、アメリカ大統領のフランクリンルーズベルトに、手紙を出したことから始まった。
「マンハッタン計画」
と呼ばれるものが起動して、それが、原爆開発に繋がったのだ。
名だたる科学者が終結しての原爆開発には当然、それを制御するだけの力が一緒に備わっていないと、開発はできないということである。
一歩間違って、
「空輸中に爆発」
してしまったり、
「製作中に誤爆」
してしまったなどということは許されないことなのだ。
核兵器が誤爆すると、ヒロシマ、ナガサキの二の舞だ。
いや、今の核兵器はさらに強力なので、一つの都市だけではなく、複数の都市を、いや、日本であれば、県単位で壊滅させられるに違いない。
しかも、核兵器には二次被爆と言われる放射能による災害が残っている。生き残ったとしても、放射能による二次被爆で、ジワジワ死んでいくという悪夢が待っているのは、目に見えているのだった。
当然起爆装置には、安全装置が施されているのだが、独裁者の机の上に、
「核のボタン」
があるのでは、ちょっと手が触れただけで、核ミサイルが発射してしまうという問題を引き起こしかねない。
操作としての、制御もそうであるが、兵器としての制御も問題になってくる。
確かに相手を壊滅させることはできるであろうが、相手が打ってくる前に相手に着弾しないとも限らないわけで、相手の年を壊滅させたとしても、そこに放射能が残ってしまえば、その土地はほとんど何十年と人が住めなくなるだろう。となると、核兵器がさく裂した後に、放射能が残らないような効果をもたらさねばならない、核兵器における制御というのは、そういうものも含めていうのではないだろうか。
これらの問題は、どんな兵器にも言えることで、途中開発されたものとして、どこまで可能だと言われたのか分からないが、
「建物は残して、生物だけを抹殺する核兵器」
ということで、開発された中性子爆弾などもある。
中性子爆弾は、生物の殺傷を目的としたもので、規模が小さい核爆発ということで、残留放射能を抑えることができるというのも、一つの成果でもあった。
建物は残っていて、生物だけが死んでいるという状況がどういうものなのか、想像もつかないが、それを考えると、兵器としては優秀なのだろうが、まるで、
「凍り付いてしまった世界」
を想像させることになるだけは想像できる。
「まるで、時間が凍り付いてしまった」
といってもいいのではないだろうか。
そういえば、以前、アニメで見たことがあったのだが、凍り付いてしまった世界に紛れ込んでしまった主人公は、実はよく見ると、
「時間が凍ってしまったところに紛れ込んでしまった」
という話であった。
警官が拳銃を発射しているのだが、その弾が空中で止まっているように見えたが、ゆっくりと動いているのである。普段であれば、早すぎて弾が飛んでいうところを見ることなどできないのだ、その時間が凍り付いた場所では、ゆっくりと時間が進んでいるのだった。
まるで水の中のように、色はなくなっていて、すべてがグレーであり、その濃淡で、色を表現しているかのような世界では、時間が普通の世界よりも、はるかに遅く進んでいる。
それを考えると、
「誰かが殺されるのを分かっていれば、事前に止めることができる」
というものであった。
ただ、凍り付いている世界は、今の自分たちの世界と同じものなのかどうか、ハッキリと分からない。ただ、
「パラレルワールドの世界であれば、時間の進み方に差はない」
と思うのは、都合のいい考えであろうか。
前述のアインシュタインの提唱した、
「相対性理論」
であるが、
「高速で進んでいるものは、時間の進みが遅い」
という考えがある。
この場合は、時間の進みが早いから、同じ時間をスタートラインにした時、時間の進みが早いと止まったような空間が出来上がってしまうのだ。
つまり、
「凍り付いてしまった世界は、時間の進みが早いから、本当はゆっくりでしかない時間を空間と混乱させてしまっているのではないか?」
と考えられるのだ。
当たり前のことをいっているようなのだが、果たして、理屈として通っているのか、それは空間と時間というものが、切っても切り離せない世界であるということへの証明にも繋がっているのかも知れない。
それを考えると、ウラン精製に使う、遠心分離機などの発想も、時間と空間を一つにするものとして考えられるのではないかと思えるのだった。
中性子爆弾は、
「時間と空間を超越した世界を、今の世界とは別の次元として表しているのかも知れない」
と感じられた。
ただ、生物だけを殺傷し、建物だけを残すという考えは、これ以上恐ろしいものはない。
「ある意味、核兵器への罪悪感をマヒさせるためのものではないか?」
と言えるのではないか。
「建物は残し、残留放射能を少なくする」
という利点は、それまで、
「百害あって一利なし」
であった、核兵器に対して、一つの言い訳を示したことになる。
「核兵器を使用するということは、戦争を早く終わらせて、自国の軍人の命を一人でも救う」
という言い訳しか、今までにはなかった。
もちろん、こちらの方が、説得力はあるだろう。だが、考えてみれば、自分は死ぬのだから、後に何が残ろうが関係ないのだ。
「どんな言い訳をしようとも、殺戮兵器に対しての言葉は、言い訳でしかないのだ」
ということになるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます