第3話 他のプロジェクト
現在の日本には、この、
「難病克服新薬開発プロジェクト(仮)」
以外にも、いろいろな国家プロジェクトが存在した。
前述のように、以前の腐敗した内閣に比べて、今の内閣は先手先手で政治運営を行っていた。
「今の時代は躊躇していては、何も前に進まない」
と叫ばれ続け、今までの腐敗しきっていた政府に、それだけの意識が本当にあったのか、分かったものではなかった。だから、少なくとも先手先手を打ってくれる今の政府は、それまでの、少なくとも、先代先々代の、まるで、
「売国政府」
と呼んでもいいくらいの連中に比べれば、はるかにマシだったのだ。
政策も、選挙公約の時から、ブレることがなかった。ほとんどの政府は、公約をいくつも掲げておきながら、どんな形であれ、最後になった時には、
「結局何もしていない」
と、見られて終わってしまう。
何かのスキャンダルがあって、辞めなければならない場合であっても、仮病を使って、病院に逃げ込む場合(二度も同じ手を使ったやつもいたが)場合であっても、任期満了によって、総選挙となった場合であっても、結局は大差はなかった。
むしろ、任期満了まで、支持率が最低になってから、さらに史上最低の支持率を保ちながらも、最後までやったのだ。
もし、これが政治以外のことであれば、
「なんだかんだ言っても、初志貫徹するのは素晴らしい」
と言われるのだろうが、事が政治ということになれば、
「世間を引っ掻き回して、メチャクチャにしておいて辞めるくらいなら、最初から辞めてくれた方がよかった」
としか言われないのだ。
もし、それが記録に残ることであったとしても、記憶には悪いものしか残らない。
夢であれば、
「悪い夢だけは覚えているんだけどな」
ということになるのだろうが、政府に対しても同じことが言えるようだった。
「いい政治をしてくれた人に対しては。総理の名前は憶えているのだが、悪性だったソーリにたいしては、やったことと、名前をセットで覚えているものだ」
と言えるのではないだろうか。
歴史だってそうである。
歴史上、世の中に貢献したり、何かを発明したりする人のことは、その人の名前だけを暗記するかのような感じではないだろうか。だから、
「歴史というのは、暗記物なのだ」
と言われているのかも知れない。
それもそうだろう。日本史だけをとっても、皇紀2600年経っているものを、中学であっても、高校であっても、三年で勉強するのだから、百年を二三週間で教えることになるのだ。歴史ばかりを昼夜にかけて、休みなしで教えても時間が足りないくらいだ。
「そりゃあ、暗記物になるよね」
ということであるが、意外と衝撃的な事件であったり、クーデター、あるいは、事件の歳のダーティヒーローであったり、暗殺された人間に対しては、気になって頭に残っていることが多い。
それが日本人特有の、
「判官びいき」
と呼ばれるものであろう。
しかも、最近は、歴史研究もかなりの精度で研究が進んできていて、かつての定説を覆すものもたくさん出てきた。
今まで教科書に乗っていた偉人の肖像が、実は本人ではなかったという話もかなり定説になっている。
肖像画が手に持っているものが、その人物が活躍試打時代には、存在しなかったと思われるものを持っていたりすることで、分かってきたのだ。それだけ研究が進んできたということであろうが、そういう意味では、お札の肖像として、昭和までに、何度もお札を賑わしてきて。
「お札肖像の代表」
ともいうべき、聖徳太子の肖像が、実は違ったという説もあり。そもそも、現在では、聖徳太子という称号すら使われなくなり、学校教育などでは、
「厩戸皇子」
と呼ばれるようになったということである。
そんな時代において、さすがに有事というものを国民全員が体験したわけだが、その中で一部の人間が、
「有事を有事と思わない」
と言われる行動をとっていた。
これは、有事の最中から言われていたことであり、冷静に考えれば、誰にだって分かることではないか。
つまり、有事の際に何が悪かったのかということを考える。いわゆる、
「戦犯」
と言われるものだ。
極東国際軍事裁判においては、戦勝国の勝手な都合により、処刑された人もいたのだが、それでも、戦争が起これば、それに対しての反省を行い、いかに次を起こさないようにしないといけないかということを、しっかりと検証し、条約として結ぶのが最低でも必要であろう。
あの世界大戦も、第一次が終わってから、第二次までの間というのは、時間的に、たったの二十年しか経っていないではないか。
しかもその間に、ベルサイユ条約が結ばれ、新たに国際連盟が結ばれ、
「二度と悲惨な戦争を起こさないようにしないといけない」
という意識を持っていたにも関わらず、それ以後の世界は動乱の時代を迎え、戦争に突入することになった。
もちろん、ベルサイユ条約において、敗戦国のドイツに、何百年経っても、払うことのできないほどの賠償金、さらには、領土や軍備の制限、そんな状態で、敗戦国を苦しめたのだ。
その考えとして、
「敗戦国に戦争ができるだけの軍事力を維持させない」
という意味もあったのだろうが、あまりにもひどすぎた。敗者の気持ちをまったく考えていないということである。
さらにそんな時代に拍車をかけた世界恐慌、それにより起こったことは、国よる、貧富、さらに強弱の国がハッキリしてきたということだった。
時代が進めばさらに、強国に対して、弱国は太刀打ちができなくなる。今のうちに何とかしなければいけないという気持ちになるのも当然である。
さらに、共産主義、ファシストの台頭、世界情勢は、刻一刻と変わっていくのだった。
そんな、諸事情が絡んできて発生した第二次大戦、第一次大戦が、大量虐殺の消耗戦であれば、第二次大戦は、一発の爆弾が、大都市を粉砕できることができるようになった戦争であった。
それはそのまま、破滅戦争を意味し、そこから、冷戦なるものが生まれてくるのだった。
世界は、、戦争を起こしてかっら、それを反省し、今後の世界をどのようにしていけばいいのかということを、戦争中から話し合っている。それが人間としては、まともな考えなのではないかと思えるのだが、日本の場合は、それをしない。
何かがあれば、事後でもいいので、検証し、何らかの答えを見つけ、それに対しての対応を行う。
法整備や、平和のための機関など、やることは山ほどあるはずだ。
大日本帝国時代の日本のように、一つの戦争が終われば、さらに動乱の時代を迎え、対処するまでの時間があまりにも短く、検証もままならなかったのだろうが、それでも、軍部でも、政府でも、検証を行っていたのは間違いないことだ。
だが、今回の有事に際しては、日本の中で、何ら対応をしている様子はなかった。
敵が未知のウイルスということで、対応をどのようにしていいのかが問題になるのは仕方のないことだ。さらに、
「わが国には有事はない」
という考えが頭のどこかにあるのだろう。
国民は、政府に対して期待も何もしていない。
「毎回、まいかい、同じことしか言わず、やることも、緊急事態宣言を出しては、解除してというループを果たして何度繰り返したことか」
とはいえ、政府ばかりを批判するというのは違う。
曲がりなりにも、厚生労働省は、有識者の意見から、一般市民がしなければいけない対策についてのマニュアルは作っていた。
「三密回避」
などと呼ばれるものである、
しかし、実際に三密回避というのは、採取の半年くらいは、その指示を国民は充実に守ってきた。
そのうちに、宣言の無限ループが引き起こされるようになると、国民の若年層を中心に、
「政府のいうことを聞いていたって一緒だ」
という連中が増えてきた。
気持ちは分かるのだが、相手は伝染病である。自分が掛かるだけではなく、自分がまわりに広げてしまう。そこから、どんどん感染者が増えていき、次第に入院が困難になってくる。
最悪、救急に電話をしても、繋がらないというほどになってきた。救急車が来て、受け入れ依頼を掛けても、百以上の病院から断られ、搬送を断念し、緊急入院を必要とする人を、どうすることもできず、そのまま自宅で死を迎えるということが現実に起きてくるのだ。
それなのに、感染対策をまったくせずに、マスクもせず、わいわいわめいている連中がまったく減るどころか、増えてくるのだ。
見ているまわりは、
「お前たちが先に死ねばいいんだ」
と思っていることだろう。
「お前たちが伝染病に罹って、入院されたりなんかすれば、その分、助かる命が助からないんだ。どこかで密かに暗殺されるレベルの犯罪だ」
とも思っているだろう。
もっとも、こんな連中は、生死の境を彷徨ったとしても、それが過ぎて回復すれば、すぐにそんなことがあったなどということを忘れて、同じ事態に突入すれば、きっと同じことを繰り返すだろう。
これほど理不尽なことはない。
そういう意味では、国家総動員法まで作って、戦争を遂行させたというのは、有事においては、本当に間違いなのかということを初めて考えさせられたような気がする。
それだけ今の日本は、有事に対しては。まったく無防備で、
「平和ボケ」
と言われても、仕方のない状態なのだろう。
特に今回の伝染病に関しては。一番大きな問題の中の一つに、
「医療崩壊」
というものがあった。
諸外国からすれば、
「日本くらいの感染者や重症者の数で、どうして医療崩壊を起こすのだ?」
と言われてきた。
これは、医師会というものの存在が大きかったのではないだろうか。
確かに個人病院は、
「自分たち病院が潰れてしまったら、誰が患者を診るのだ?」
という言い分があるだろう。
だから、相手は伝染病なので、伝染病以外で入院している患者と混ぜるわけにはいかない。しかも、伝染病専門の医者や看護婦がそんなにたくさんいるわけではないという理由で、伝染病患者の受け入れを拒否してきたのだ。
しかし、受け入れている病院は、二十四時間体制で看護しているのを考えると、あまりにもその差が激しすぎる。しわ寄せが行ったところも、医者や看護婦で倒れる人もいるだろう。そうなると、さらに人材がいなくなり、問題が拡大していくのだった。
国はそのために、一般病院でも伝染病を受け入れるベッドを確保できれば、協力金を出すと言って、病床を確保してきたにも関わらず、病院の中には(いや、ほとんどかも知れないが)、協力金を受け取っておいて、一度も伝染病感謝を受け入れたことのない病院がたくさんある。いわゆる、
「協力金詐欺」
と言ってもいいだろう。
これは、受け入れをして、二十四時間体制で運営している医療従事者に対して、あるいは、命の危険に晒される国民に対して、重大な裏切りであることは間違いない。
しかし、国はそれでも、現行法では、どうすることもできないのだ。
つまり、
「現行法というのは、有事に対しては何ら効力を発揮しない」
と言えるのではないか。
何といっても、日本は憲法九条で、平和を宣言し、戦争を放棄しているからで、
「我が国に、有事は存在しない」
ということになるのだった。
有事がないということは、大日本帝国のような、現在の他国のような、
「国民を守るために、国家が力を発揮吸うr」
ということができないのである。
つまり、他の国であれば、政府が有事を掌握し、国民に自由を制限してでも、国家総動員で、有事に立ち向かうということができるのに、現在の日本では。国民の自由を制限することは、
「基本的人権の尊重」
を謳った憲法に違反することになる。
今の日本では、戒厳令すら敷くことができない。もし、クーデターや都市壊滅級の災害が起こった時、国が率先して、治安を行うということができないのだ。
もし、できたのdとすれば、医療崩壊が起きた時点で、戒厳令を敷き、外出制限を発出したりして、もしそれを破れば、罰金や、最悪な場合は、投獄するということもできることになる。
要するに、国民の中には一部、
「自由という言葉を履き違えている」
という人間がいるということなのだ。
マスクもせずに、三密も関係なく、我が者顔でいる連中。そんな連中こそ、自由をはく奪し、隔離することで、他の守らない連中への見せしめにすることだってできるのに、今の法律ではできないのだ。
少しでも、法律を改正しようと、政府も採力をしてはいたのだろうが、まったく国民には見えてこない。しかも、改正しているのは、まったく的外れなところを、ちょこっと改正するだけで、まったくの問題解決に向かっているわけではない。
そんな体たらくを見せられた国民なので、
「一部の人間」
が出てくるのも仕方のないことだ。
要するに、悪循環を繰り返しているのだ。
国民と政府の間で、不毛な政策しか示すことのできない政府に、国民が呆れて、その一部が、政府の責任にして、勝手なことをする。真面目に生活している人間だけが、バカを見るという状態が、有事の際に訪れるのであれば、国家としては終わっていると言ってもいいのではないか。
そういう意味で、今の新しい政府には、国民は多少なりとも期待をしている。逆にいうと、
「ここまで腐敗政府を見せつけられてきたのだから、今度の政府でダメだったら、もう、本当に後はないと言ってもいいのではないだろうか?」
ということを国民のほとんどは考えているが、まさにその通りではないだろうか。
そういう意味での今回のプロジェクトは、今の政府の肝入り政策である。
「そういえば、今までに、肝いりとかいう言葉で、どれほどくだらない政策があったというのか?」
と。思い出して、思わず吹き出してしまう人も少なくないかも知れない。
「マスク不足だということで、一家に二枚ずつのマスクを配った」
というのがあるが、あれこそ、
「税金の無駄遣い」
と言われた。
「一家に二枚って、それ以上家族がいれば、どうなるんだ?」
という話。
「伝染病なのに、皆で二枚を使うなどというバカなことはあるわけないし、しかも、マスクを配り始めたころには、すでに市場にマスクが戻り始めていたんじゃなかったか?」
と言われた。
それだけ、大きなアドバルーンを掲げていたのも関わらず、政府が宣言してから配布されるまでに、何か月かかったかということだ。
しかも、
「不良品はあるし、手違いは多いし」
ということで、一度配ったものを回収するという手間迄発生したくらいで、ポンコツというには、あまりにもひどいものだった。
しかし、政府が変わっての今回のプロジェクトは少しは違うのではないか?」
だが、国民のほとんどは、前政権でかなり懲りている。
「どうせ誰がソーリになったって同じだ。ソーリは貧乏くじを引いたとしか思っていないんじゃないか?」
ということであった。
特に、前政権は、責任をそれぞれの大臣に押し付けて、自分は言い訳ばかりで責任を取ろうともしない。
何しろ、すべてが他人任せて、自分が責任を負わなければいけないことを痰飲事としか思っていないのだから、
「大臣が責任を取れば、自分には関係ない。直接政策を実行しているのは自分ではないから」
とでも思っているのか。
一般の会社だったら、取締役会があったりして、社長と言えども、取締役会には逆らえず、
「何かがあれば、社長が責任を取る」
というのが、当然のことになるのではないだろうか。
政府というのは、国民を代表しているものであるのに、なぜ社長の上の取締役会のようなものがないのだろうか?
しかも、首相というのは、国民投票ではない。
確かに、衆議院選挙で刻印に選ばれた政党の総裁が首相になるのが慣例なのだが、直接首相を選ぶわけではないので、政府のやりたい放題だと言ってもいいだろう。
このような国家だから、有事の際には何もできない。
いや、何もできないどころか、逆に混乱させてしまったり、混乱をいいことに、自分たちの私利私欲に走ったりすることになってしまう。
それを今の政権は分かっているようで、少しでも、
「開かれた政治」
を目指している。
今までは、何といっても、国民が政府に従わなかったのは、
「自分たちだけで勝手なことをしていて、税金を無駄遣いし、有事の際に、国民を救えないどことか、混乱に巻き込んだり、自分たちが手本にならなければいけないのに、大人数うで会食をしたり」
などという、犯罪にも値するくらいの政府だったからである。
しかし、今の政府は、国民に自分たちが行っていることをしっかり示している。
ただ、今回の国家プロジェクトは、国家機密に関わることなので、公表はしていないが、少なくとも、
「国民のため」
にしていることである。
それを思うと。誰が文句をいうというのだろう。
医学薬学に関しては、前述のプロジェクト通りなのだが、それ以外でも、結構あるのだった。
そのうちの一番の急務は、
「法律研究」
に関係するところであった。
憲法解釈から始まって。現行法で、どれだけのことが本当にできるのか、ギリギリまで検証し、さらに、それだけではできないことを、憲法の解釈内で、どこまでできるかを検証し、新しい法律を制定したり、有事の法律を草案する必要があるだろう。
しかし、法律の改正や、新法の施行には、結構時間がかかる。まずは検証と、他に弊害がおきないかなどということへの問題。さらに、他の法律や、諸外国との関連など、すべての面で検証が必要になってくる。
下手をすれば、過去の法律から学ぶこともあるだろうし、そうなると、歴史の研究もづ可決になってくるだろう。
それを思うと、法律改正にはかなりの時間がかかり、いかにうまく国民に広く理解させるかということが不可欠であった。
自分たちだけが法律を理解していてはいけない。国民に広く分かりやすいものでなければいけないということは、有事になると、混乱したり、デマが飛んだ李するということが立証されているだけに、。法改正には、慎重には慎重を期することは大切なのである。
他にもいろいろなプロジェクトがあった。
国家治安を有事の際にいかに保たせるかという問題もあった。
「警察組織以外に必要だろうか?」
という問題もあったが、そこに関わってくると、政治家がソーリの権限で利用する、
「特高警察」
などという、ほぼ、拷問だけしかしていないような警察が蔓延るのは、国家の破滅を意味することなので、さすがにこの結成は難しいだろう。
だが、今のまま、法律だけが厳しくなっても、それを守るための機関が必要になるのは当たり前のこと、このあたりの問題が、ある意味一番難しいのかも知れない。
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