6 校外実習(一) ③

 何とかして海面に浮上したシーナは、すぐに海岸へと泳いだ。赤ん坊の鳴き声は聞こえなくなっていた。


「はあ、はあ……」


 彼女は崖によじ登り、まずは身体を休めるに努めた。目の前の美しい海が、急に敵に見え始めた。


「はあ……、最悪……」


 息が上がった状態で吐き捨てるように呟いた。もし可能であるなら夢であってほしいと心の底から願った。


 シーナは周囲を見回したが、赤ん坊の姿はどこにもない。さっきまで聞いていた鳴き声が実は幻想だったのかと思えるほどに、どこにも見当たらなかった。


「気のせい……だったの……?」


 彼女は海面すれすれの崖の上でよろよろと立ち上がり、落ちてきた場所を見上げた。


「あんなところまで行くの、大変……」


 空間系魔術を使う人間であれば、頭上の空間を切り取って容易に登ることが可能だが、彼女はコントロール系魔術を使うため、そうはできない。一方で、自分の服をコントロールして動かすという方法もあるが、実戦経験のない彼女にとって、その発想はなかった。


 どこかに回り道をすれば登れる場所があるかとも考えたが、右も左もほとんど歩くことができそうにない。


 行手のないシーナが選んだのは、少しだけ左前方に進んだところにある穴だった。洞窟というほど大きいものではなく、人が立って歩けばそれでいっぱいというレベルだった。横幅は肩幅程度、高さも身長より少し高い程度のこの穴は、まるで彼女を誘うようにそこに位置していた。


「行くしか、ないか……」


 呟いてから、ゆっくりとその穴に入っていった。


 中は真っ暗だったが、フィーレを手に出し目の前の視界を確保した。そのまま進めばどこかに辿り着くのか、あるいは行き止まりになっているのか、何もわからない不安の最中さなかで彼女は歩みを進めた。


 しばらく進んだところで、少しずつ穴が地上に向かっていることに気が付いた。緩やかな上り坂になっていたのだ。方角的に、コート・ヴィーラジュに向かっているということになる。


「まさか、このまま進めばコート・ヴィラージュのどこかに出てくるの?」


 シーナは歩みを速めた。坂道は次第に急になってきていた。


 想定どおり、彼女はコート・ヴィラージュのすぐそばにあった畑の脇に出てきた。少し前に来た、例の場所だ。空はまだ真っ暗で、推定するに、最初に彼女が家を出てからまだ一時間程度というところだろう。


 結局誰も見つからない上に、奇妙な赤ん坊の鳴き声を聞いて、海に落下してしまっただけの一時間だった。


 シーナは仕方がなく、家に戻ることを検討したが、どこかから、先ほどの赤ん坊の鳴き声がするような気がして、畑の前で立ち止まった。


「私を、……呼んでいるの?」


 シーナは声の聞こえる方向に向かおうと思ったが、四方から聞こえるために、どこに向かえばよいのかわからない。仕方がなくその場にたたずんでいたが、どうしても立っていられなくなり、地面に座り込んだ。急に頭が重たく感じ、さらにひどい頭痛が彼女を襲った。


 頭を押さえる彼女にお構いなしに、赤ん坊の鳴き声は脳内を響き渡る。誰も家から出て来ようとしないのが不審だが、時間が遅いため寝ているだけなのか。


 赤ん坊の鳴き声がそれほど嫌いだったということもなかったはずだ。しかし、現時点で彼女は拒否反応を起こしている。


 頭を押さえながらではあるが、ようやくその場に立ち上がると、とにかく家に戻ることに専念した。


「……明日、村長さんに伝えて、学校に知らせよう。きっと先生たちが助けに来てくれるはず……」


 シーナはゆっくりと重たい足を引きるように進み、ようやく家まで辿り着いた。


 玄関を開けると、驚くことに、奥の居間に三人の姿がある。何かを話し合っているように見えたが、玄関に立つ彼女に気が付くと、慌ただしく立ち上がって彼女の元に駆け寄ってきた。


「シーナ、どうしたの? どこに行ってたの? みんな心配してたんだよ」


 ルアはそこまで一息に言い終えると、シーナのことを抱いた。


「よかった、無事で。たまたま目が覚めたらいなくなっていたから、心配したんだよ」

「本当に無事でよかった」


 ルアに遅れてジェイク、グレアも彼女の元に歩み寄ってきた。


 しかし、無論、シーナは「はい、そうですか」と聞き入れることもできず、むしろ疑問が湧き上がるばかりだった。


「え……? 私、みんながいなくなったから、探していたんだけど……」

「何言ってるの? 私たちはみんな寝ていたんだよ。シーナが勝手に出ていったんでしょ?」


 ルアは怪訝けげんそうな眼差しでシーナのことを見つめてくる。その視線はあまりにも無責任だった。


「違う、違うの。私が起きたら、みんないなくなっていたから、外を探していたんだってば。それで、戻ってきたらみんながいて……」

「……気のせいなんじゃない? 少なくとも、私もジェイクもグレアも、みんなここにいて、シーナがいなくなったという認識なの」


 三対一では、今シーナが何を言おうと、信じてもらえるはずがないことは理解した。そのため、彼女はこれ以上言うことをやめた。


 気が付けば、赤ん坊の鳴き声が聞こえなくなっていた。


「そうそう、外で赤ちゃんが泣いていたんだけど、知ってる?」

「いや、全く」とジェイク。

「シーナがその扉を開けるまで、本当に何の音も聞こえなかったよな?」とグレアも首を捻った。

「シーナ、どうしたの? ダランから遠くまで来て、緊張してる?」


 ルアは心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。しかし、彼女は、


「いや、何でもないわ。ごめん」とだけ述べるに留めた。

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