5 エマーソンの花畑 ①

 陽が空高く登っていた。真昼まではあと小一時間だったが、すでに気温はかなり高くなっていた。汗が少しだけひたいにじんでいた。


「暑くなってきたね……」


 シーナがローブの袖で汗をぬぐおうとすると、フローラはハンカチを出してきた。


「はい、使って」

「ありがとう」


 シーナは受け取ったハンカチで額を拭うと、しばらくフローラに抱きついてたために固まっていた身体を伸ばし大きく息を吸い込んだ。花の甘い香りを感じた。


「もうすぐかな?」

「きっともうすぐだよ」


 彼はシーナからハンカチを受け取ると答えた。


「あっちにたくさん家が見えるでしょ? きっとあそこがエマーソンだよ」


 フローラの指差す先には、茶色の木造の家がいくつか建っていた。


 どこからかやってきた小鳥が馬車の上を飛び回りそのまま後ろに消えていくと、今度は一本道の両脇の花畑にいる人々が馬車に手を振ってきた。シーナはその彼女らに笑顔で手を振り返した。


「ほらほら、みなさん、エマーソンに到着ですよ。降りる準備をしてくださいね」


 御者ぎょしゃの男性が前を向いたまま声を出した。馬車に乗っている人々は、何かを話し合いながら降りる準備を始めた。シーナとフローラも同じだった。


「忘れ物のなきように!」


 その声に合わせて、馬車はエマーソンに入っていった。


 のどかな空気感に、人々は輪になって歌を歌ったり踊ったりしていた。シーナもフローラも、その光景に目を丸くして興奮していた。グランヴィルでは見たことがない、田舎町の美しい風景だった。


「これが、エマーソン……」


 シーナは呆気にとられていた。横のフローラもそうだっただろう。


「綺麗な町だね」と、彼女はしきりに辺りを見回していた。

「本当に。花畑が楽しみだね」


 フローラは答えると、シーナの手を握って彼女の方を向いた。彼女もそれに笑顔で応えると、二人は暫時ざんじ見つめ合った。




 エマーソンの町の中心にある広場に馬車が停まると、人々は次々に馬車から降りていった。シーナたちもその波に乗るように続いた。


 初めて見る景色に、空気の味や人々の笑顔。まだ九歳の彼女たちにもわかるほどに、すべてが美しかった。


「フローラ! 花畑はあっちだって!」


 シーナは遠くに見える標識を指差した。一方のフローラは、反対の方向を向いていた。


「花畑に行く前に、何か食べる? もうすぐ正午だし」


 シーナの答えは決まっていた。


「フローラがそう言うなら、そうする!」と、彼女は彼の腕をがっしり掴んでいた。


 仲睦まじい様子の二人は、広場の脇にあった洒落しゃれたパン屋に入った。


「シーナはどれがいい? これか、これとか?」

「うーん、こっちがいいかも。……フローラは? どれがいい?」

「どれもおいしそうで迷っちゃうよね」

「じゃあ、これにする? フローラにおすすめしちゃう」


 シーナはあるパンを指差したが、フローラはそれを一瞥いちべつして彼女の顔を見た。


「おすすめって、食べたことないでしょ?」

「食べたことないけど、私の大好きなフローラと、この揚げパンは、なんだかお似合いに見えるのです!」

「そうかな? ならそれにしようかな」


 などと、二人は笑い合って、本当に楽しい時間を過ごした。


 会計を済ませてパン屋の奥のテーブルで食べていたところ、入り口の方向から、突然穏やかではない声が聞こえてきた。


「どうしてグランヴィルに行くの!? ここでいいじゃない!」

「ここだと仕事がないだろ。だからグランヴィルに行くんだよ」

「でも、ここにだって、観光産業があるでしょ!?」

「それじゃああまり稼げないだろう!」


 何やら揉めているようだ。新婚の夫婦か、これから結婚を予定しているカップルだろうか。いずれにせよ、パン屋の入り口でけんかをされると単純に迷惑だ。


「どうしたんだろうね」とフローラ。

「グランヴィルに出たい男の人と、エマーソンに残りたい女の人のけんかだね」

「……イッサールはどう?」


 フローラは心配そうな顔でシーナの瞳を捉えていた。彼女の回答によっては、あの二人のようになりかねないと心配したのだろう。


 しかし、シーナの答えは決まっていた。


「私はフローラと一緒に行くよ」


 彼女の「もちろん」だと言わんばかりの笑みに、彼は心の底から安堵した。


「もし私が嫌だって言ったら、どうしてた?」

「……どうしようもないかな。でも、シーナも来てくれるって言ってくれるなら、この先もずっと一緒にいられるのかな」


 頬を真っ赤にしているフローラの顔を覗き込み、シーナは笑った。


「そうだね、ずっと一緒だね」


 しかし、入口側の二人は、


「もういいわ! あなたとはやっていけない!」

「僕だっていいさ。勝手にしろよ」


 などと言い合っていたので、やはりシーナとフローラは落ち着かなかった。向かい合って座っていた二人は、互いに顔を見合わせていた。




    ◇◆◇




 昼食を食べ終わり外に出てみると、ちょうど真昼を少しだけ過ぎた頃合いだった。陽はほとんど真上にあり、広場の周りにあるレストランは人々で大変賑わっていた。


「それじゃあ、花畑の方に行こうか」

「うん、そうしよ!」


 二人はやはり仲睦まじく、手を繋ぎ合って歩いていた。


 先ほどシーナが見つけていた標識の指す方向に向かってしばらく歩いていくと、草原の一本道でも次第に歩いている人々が多くなった。皆笑い合ったり、話し合ったりしていた。


 シーナとフローラも談笑しながら歩き進め、ようやく丘の頂上付近まで歩いてきた。


「この向こうかな」


 フローラがそう言いながら、先に丘の向こう側に歩み出た。


「綺麗だよ、シーナ。本当に綺麗だ」


 シーナも彼に続く形で丘を登り切った。


「わあ……」


 彼女の口から、思わずその言葉が溢れ出た。他の何の言葉も出なかった。


 思わず目の前のフローラの腕を後ろから掴み、もう片方の手で風に靡く長い髪を整えた。


 眼下には丘の斜面に沿って、赤を主体とした色とりどりの花々が満開に咲き誇っていた。陽の光をたっぷり浴びながら、背丈の低いこの花々は風に揺られ、赤の絨毯の毛先は均等に整えられており、その上には小さな蜂がせっせと飛び回っていた。


「フローラ……。本当に綺麗だね」

「本当だよ。今日はここに来てよかったね」

「本当に。連れてきてくれて、ありがとう」


 気が付けば、彼女の瞳からは涙が溢れていた。あまりにも美しい目の前の烟霞えんかに対する涙か、あるいは、そのような景色を初恋の相手と眺めていることに対する感動なのか、それを推測するまでには至らなかったが、彼女の目からは一掬いっきくの涙が流れていた。

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