2 訪問

 雲のない青空は陽の光を遮らず、コート・ヴィラージュに住む人々はひたいから汗を流しながら、海岸や農地でせわしく動き回っていた。


 赤ん坊が海に捨てられてからおよそ二年が経過し、人々はその赤ん坊のことを忘れ始めていた。デルモンテも、また、自身の赤ん坊について言及することはなくなった。


 穏やかな空気感がこの小さな村を包み込んでいたが、突然の強風が村を襲った。いくつかの家屋はぎ倒され、農地にはゴミや瓦礫がれきが覆い被さり、海岸の漁業用の網は沖へと飛ばされていった。人々は風に煽られてけたり、割れたガラスに刺さったり、瓦礫に押し飛ばされたりして、上を下への大騒ぎだった。


 再び村に静寂が訪れたのは、突風が収まってからのことだった。人々は荒れ果てた村を眺めて絶望していたが、そこで立ち止まるわけにもいかず、瓦礫の除去作業を始めた。


「一体、なんの強風だったんだろう。神の怒りか?」


 誰かが冗談のように呟いていた。その声を背景に、デルモンテは一人、何かに恐れるような顔をして声を震わせていた。


「まさか、嘘だよな……。そんなはずがない……」


 彼は強風で飛んだ屋根を直すこともせず、ただ壁に囲まれた寝室でまばたきを繰り返していた。


 そんな彼の姿を窓の向こうから確認した隣人は、ようやく思い出したようだ。


「帰ってきたのか?」


 だが、どこにも当時の赤ん坊に似た子どもはいない。単なる偶然の強風だったとも考えられる。人々は半ば楽観的に物事を捉え、今回の災害は偶然発生した突風によるものだったと結論付けることとした。


 数時間後には、また何事もなかったかのように、人々はせわしく動き回っていた。デルモンテもその一人だった。次第に恐怖は薄れ、また正気を取り戻したようだった。


 しかし、彼はとうとう見てしまった。


 所有する農地にすきを持って訪れたところ、向こう側に小さい女の子が立っている。まだ学校に入る年齢ではなさそうだ。


「ど、どうして、ここにいる……?」


 デルモンテは驚きを隠せなかった。そこに立っていたのは、他でもなく、あのとき彼が海に投げ落とした赤ん坊だったのだ。顔は少し変わっているが、確かに自分の子だと認識した。約二年が経過し、立って歩けるようになっているが、どうやってあのとき生き延びたのか、デルモンテは全く見当も付かなかった。


「お父さん、久しぶり」


 笑顔で語る女の子に対し、デルモンテは思わず後退りすることでしか対応できなかった。しかし、そんな彼に合わせるように、女の子は一歩一歩歩み寄った。


 とうとうデルモンテも耐えられなくなったのか、「悪魔の子が帰ってきた! みんな逃げるんだ!」などと叫びながら、一目散にその場を逃げ出した。


「お父さん、どうして逃げるの? どうして私を放っていくの?」


 女の子は、なお笑顔のまま、デルモンテに向かって歩み始めた。


 家に駆け込んで扉の鍵を閉めると、彼は、さらにイスやテーブルなどを玄関に詰め込み、外から簡単に開けられないようにした。


「こ、これで、きっと大丈夫だろう……。入ってくるなよ、悪魔の子が」


 寝室のベッドの下に身を隠したところ、玄関の方向から扉を押し開こうとする音が聞こえた。


「来るな来るな来るな……」


 彼は連続して呟いていた。言葉が次々に出てきたが、やはり声は震えていた。


「お父さん! 開けて!」


 外から女の子の声が聞こえる。しかし、開けるなど選択肢になかったデルモンテは、自分が家にいることを隠すように、応答することもしなかった。


 しかし、次の瞬間、階下から何かが壁にぶち当たるような音が聞こえてきた。


「お父さん、入るよ?」


 女の子が何らかの方法で玄関を突き破ったようだ。こうなれば、さらにデルモンテに出る幕はない。女の子が家から立ち去るのを、息を潜めて待つのみだった。


 しばらく一階をあちこち歩き回る足音が聞こえていたが、今度は階段を上がってくる音が聞こえてきた。女の子がデルモンテに近付いている証拠だった。


「来るな来るな来るな来るな……」


 次第に近付いてくる足音に、デルモンテは冷や汗を流していた。悪魔の子がやってきた、そう思っていた。彼自身とルーカスの子どもだったはずが、いつしかそうではなくなっていた。


 ベッドのすぐそばで足音が止まった。ベッドの下に隠れているデルモンテは、女の子の足元だけが見えた。足はすぐそこで立ち止まっており、寝室を出ていくような動きを見せない。デルモンテは今までに経験したことのないような緊張を感じていた。


 一分ほど経過しただろうか。女の子がゆっくりと寝室から出ていった。彼に気が付かなかったのか、手を出してくることはなかった。


 足音が階下の玄関に向かっていったのを確認すると、彼は急いでベッドから出て、一階の台所に走り、包丁を手に持った。ルーカスがデルモンテに料理を振る舞ったときに使われた、思い出のあるものだった。玄関の外に、不用心に向こうを向いて歩き去っていく女の子を睨み付けると、彼は一層強く包丁を握った。


「ルーカスを殺した悪魔の子め……。今度こそ、絶対にその落とし前をつけてやる……」


 デルモンテは女の子に向かって走った。包丁の先をその子に向けながら。


 女の子が気付く様子はない。躊躇ためらうことなく走れば、きっと包丁でその背中を刺し、確実に仕留めることができるだろうと考えた。


 彼はルーカスの顔を思い出しながら走り続けた。


 だが、急に彼の視界の端に人が現れたかと思うと、デルモンテは台所の前まで戻された。


「な、なんだ、今のは……」


 突然の出来事に、デルモンテは立ち尽くしていた。包丁はいつの間にか手からこぼれ落ちていた。


「難しいことじゃない。空間を切り取っただけだ」


 ローブを羽織った男がデルモンテに歩み寄った。


「君の娘は私たちが管理する。もう心配いらない」


 それだけ言い残し、男は女の子に続くようにその場を去った。デルモンテは目を丸くしてその場に立ち尽くすのみだった。




 五階建ての荘厳な建物の中にある暗い部屋で、二人の大人と例の女の子が向かい合っていた。女の子は大人たちを見て驚くわけでもなく、どうしたの言わんばかりに顔を傾けている。


「……で、この子が、海で見つけた例の子ども? モア、間違いない?」

「間違いございません。確かにその娘でございます、リリア・ボード総合指揮官」

「なるほど。確かに、非常に強い魔力を感じる。身体から溢れ出る魔力が、私の血を波打たせている」


 リリアは女の子と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「名前は?」

「いいえ、わかりません。アールベストの地方役場においても、記録はありませんでした。少なくとも、姓はベルリアです。コート・ヴィラージュのベルリア家で生まれていますから」

「なら、名を付けましょう。……シーナ、でどうかしら」

「どうして、そのような名前を……」

「この子はきっとアールベストを変える、世界を変える。……そう感じる」


 リリアは立ち上がり部屋を出て行こうとしたが、扉の前で立ち止まった。


「今日からその子はシーナ・ベルリア。今後は私がきっちり面倒を見るから。着替えさえて、寮に案内してあげて」


 モアを残し、リリアは立ち去った。


 シーナが着せられたのは、アールベスト地方の南部に位置するダラン総合魔法学校の初等部生徒用のローブだ。まだ二歳のシーナには大きすぎた上、そのローブがどのような意味を持つものなのか、彼女にはまだ全く理解できていなかった。


 彼女が元々着ていた古いワンピースは処分されることとなった。それまでまともに洗濯もできていなかったシーナにとって、全く新しい人生の始まりだった。

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