第一章 失われた記憶

1 生誕

 前ロマンス時代二十二年のことだった。この日、エニンスル半島の西海岸側に位置するアールベスト地方の中でも、北西部の海岸の村として知られるコート・ヴィラージュにおいて、十人にも満たない程度の人々が民家に集まっていた。


 その民家の前では赤や黄といった花々が雑草の間から顔を覗かせているが、いくつかの穴が空いた古い屋根とヒビの入った窓ガラスを見れば、訪れる人誰もが、この家の家主が村の中で最も貧しいのだと推測できただろう。


 集まった人々が固唾かたずを飲み込んで見守る中、産声うぶごえが家の中の静寂を一蹴いっしゅうした。それと同時に、一人が丁寧に赤ん坊を抱き抱え、他の人々は歓声の声を上げていた。


 しかし、群がる人々の中央付近にいた人物が「おい、目を覚ませ」と言ったことから、突然、緊張感が家の中の空気をて付かせた。


「目を覚ませ」

「寝たふりはよせ」


 歓喜の声はすぐに消え去り、呼びかけや悲鳴へと置き換わった。


「ルーカス、目を開けて……」


 人々の中央で目を閉じて動かないまま横になっている、ルーカスと呼ばれた女性の頭のそばに立っていた男性が涙をこぼしていた。この場を見れば、彼がルーカスの夫であることは容易に理解できた。群衆の言葉とは異なり、明らかに声が震えていた。


「デルモンテさん、……きっと大丈夫ですよ。……疲れて、寝てしまっているんです、きっと……」


 デルモンテの横に立っていた男性が肩をさすりながら、ゆっくりと声を出した。だが、デルモンテは答えることなく、ルーカスの頬に手を当てるのみだった。


「ルーカス、目を開けてくれ……。頼む、目を……開けてくれよ……」


 その後、彼は何度もそう声をかけていたが、彼女からの応答はなかった。


 出産、それは、大きな危険を伴う行為だ。以前に比べればずっと成功率は高まっているが、それでも、一割近くの母親は、命と引き換えに我が子を産むことになる。


 このルーカスという母親も、一割のうちの一人となった。


 夕暮れに染まりながら行われた分娩ぶんべんが終わり窓の外が暗くなっていることを知ると、人々は口々にデルモンテに励ましの言葉を残しながらも、彼を後にしてその場を去っていった。残された家族は会話を交わすこともなく、闇の時間が彼らを襲うばかりだった。




 数日後、ルーカスの葬儀が執り行われた。


 デルモンテは参列していたが、赤ん坊は家に残したままだった。知人の女性に面倒を見るようお願いし、一人で葬儀場に走ってきた。赤ん坊を残してきた選択肢が正しかったのかを知る由はないが、少なくとも、愛する妻の最期の顔を赤ん坊に見せてやろうという気持ちを持ち合わせてはいなかった。


 葬儀から家に戻ったデルモンテは、子守役を帰し、静かになった部屋の片隅に置かれた古い木製のイスに腰を下ろした。


「なあ、どうしてルーカスは死んだんだ……?」


 もちろん、赤ん坊が応答することはあり得ない。しかし、デルモンテは続けた。


「お前が産まれたからか? お前が生まれることがなければ、ルーカスは死ななかったのか? なあ、そうなのか?」


 矢継ぎ早に質問を投げかけた彼だったが、答える者はいない。赤ん坊は、自らに向けられた質問なのかと疑問を抱くこともなく、当たり前のような顔をして寝ている。その細々とした寝息はデルモンテの心の傷をえぐった。


 コート・ヴィラージュで子どもが誕生すれば、村長に報告が必要だった。村長に報告することによりその子どもが正式に村の住民として認められ、アールベストの地方機関へも出生を共有される。


 しかし、数日、あるいは数週間が経過しても、父親は村長への報告をしておらず、しばらくこの赤ん坊に名はなかった。分娩に立ち会った人々も、いつしかこの赤ん坊のことを口にするのを避けるようになっていった。




 出生当時から父親の世話をほとんど受けなかった赤ん坊に、複数の異変が起こり始めた。


 まず、ルーカスの葬儀の日に子守りをしていた女性について。この女性はその後もしばらく子守役を任されていた。


 出生から数ヶ月が経過した頃、デルモンテが畑を耕していた数時間程度の間だった。畑から戻ったデルモンテが見たのは、無邪気むじゃきに笑う赤ん坊の姿と、関節という関節を引きちぎられたような状態で無惨むざんに死亡しているこの女性の姿だった。頭部が玄関先に転がっており、生気のない目玉に見つめられたデルモンテは、考える間も無く手から農具を落とした。一方の赤ん坊は、ただ無邪気に笑うばかりだった。状況を理解できないがゆえの無邪気さだったのだろうが、デルモンテの瞳には不気味な死神にしか映らなかった。


 さらに、赤ん坊の周辺について。ある日、いつもと同じように赤ん坊を寝室の片隅にあるベビーベッドに寝かせた後、デルモンテは農具を手に家を出た。数時間後に戻ったときには、ベビーベッドが玄関まで移動していたという。それを聞いた人々は、デルモンテ自身が移動させたことを忘れていたのではないかと笑ったが、彼自身は、全く身に覚えがないのだと騒いでいた。


 最後に、隣家りんかの子どもだ。このおかしな赤ん坊の噂を聞きつけ、ひと目見てみようと窓から中を覗き込んだときだった。ほとんど目を開けない赤ん坊と目が合った直後、突然足元から炎が立ち昇ってきたという。その子どもは一目散に走り出して無事だったが、もし遅れていれば命を落としていたところだった。


 このような調子で、デルモンテは次第に周囲から冷たい視線を向けられるようになっていった。頭を下げて済む問題だけであればよかったが、そうでもない問題も発生し、彼は次第に家に引きこもるようになり、農地に赴くことも減っていった。


 それからしばらくして、デルモンテはとうとうある行動に出た。赤ん坊を捨てようというのだ。これは悪魔の子だ、自分の子ではないと村中に言いふらし、赤ん坊を海に捨ててくるというのだ。無論、村人の中に反対する者がいるはずもなく、即日デルモンテの行動は決行されることとなった。


 ブランケットに包んだ赤ん坊を抱き、真夜中、他のすべての村人が寝静まった頃、デルモンテは一人海岸を歩いていた。


「神様、どうか、この悪魔の子を、この海に沈めたまえ……」


 彼は赤ん坊を高く掲げ、月光に染まるその儚い身体を宙に落とした。


 波が海岸の崖に当たる音が辺りを響き渡り、赤ん坊が海面に打ちつけられる音は誰の耳にも届かなかった。

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