第六章 この手を離さない
第39話 この手を離さない 1
書斎のドアを開け、セシアはぎくりとした。
着替えを済ませているジョスランが、大きな机の向こう側に座っている。
「おはよう、セシア。よく眠れたか?」
セシアに気づいて顔を上げ、そう声をかけてきた。
「どうしてここにいるの。この部屋には勝手に入らないでとお願いしたでしょう」
「……セシア・ヴァル・ドワーズ。昨日も話したが、おまえはドワーズ家の相続人としてふさわしくない」
机の上に腕を組み合わせながらジョスランが言う。
「ええ、昨日も聞いたわ。でもそれは、今話し合う必要があることなの? カロリーナもまだ帰ってきていないのに。まずは彼女の心配を……」
「カロリーナは一命を取り留めたようだ。よかったよ……ああ本当に、よかった」
ジョスランが頷きながら立ち上がる。
「今話し合う必要があることか? もちろん今でなければならない。軍の犬がうろうろされては面倒だからな」
「軍……なんのこと」
「またまた、しらばっくれちゃって~」
間延びした高めの声がすぐ近くから聞こえ、セシアはバッと振り返った。
セシアが立つドアのすぐ脇に、ひょろりとした男が立っている。顔色が悪く、肌がカサカサして頬がこけた男。髪の毛も無精ひげも伸び放題でよれよれのシャツ、ズボンと、およそ貴族の邸宅には似つかわしくないくたびれたかっこうの男だ。
「誰……あなた、誰なの……」
「名乗ってもいいのかなぁ~?」
言いながら男が近づいてきて、セシアを室内に追い込むと執務室のドアをパタンと閉めた。内側からカチャリと鍵をかける。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
閉じ込められた。
「まあ、最後に教えてやるよ。その男の名前はジャン・フェルトン。……といえば、もう誰なのかわかるだろう?」
正体不明の男の代わりにジョスランがその名を明かしてきた。
――フェルトン!
セシアはあわててすぐ横に立つフェルトンから距離をとった。
「侯爵夫人のご主人、ルイ・トレヴァーだっけ。あいつのコードネームは『黒』。髪の毛が黒いから黒と呼ばれているはずだったんだけど、昨日見た時は銀髪だったよね。なんでだろう~」
「昨日……?」
「オレあんまり人が得意じゃなくて、この屋敷の人たちが帰ってくるっていうんでずっと隠れて見てたんだ~。そうしたら黒がいるじゃない……ははは、怖いねえ~。あいつは司令部でも有名なヤツなんだ。アレンの命令ならなんでもやる。何万人ものバルティカ人兵士を見殺しにすることもできるんだよ~。目の前で橋を爆破して逃げ道をなくしてさあ~」
怖いというわりには楽しげな様子のフェルトンに、セシアはぞっとした。
ルイからは変わり者、と教えられていたが、変わり者という程度ではないのかもしれない。そもそも……人を殺す薬を開発したがる人だ。
セシアはじりじりと後ずさりしながら、フェルトンから距離をとった。だがすぐにトン、と脚に何かがあたる。
振り返ればもう壁だった。書斎はほかの部屋のように広くはない。いつの間にか部屋の角に追い込まれていた。
目の前にはフェルトンが、書斎の奥からはジョスランから近づいてくる。
壁際に追い込まれ、セシアは唇を噛む。逃げなければと思うが、部屋の角に追い込まれているので逃げ道がない。
「おまえの夫の正体を暴いておまえのことを欠格事由にしてやってもいいが、それでは時間がかかることに気づいたんだ。我々には時間がない。実は一刻を争う事態でな……手っ取り早い方法はひとつだけだな」
「……私を殺すの?」
「まさか、そんなわかりやすいことはしないさ」
その時だった。いきなり書斎のドアノブが外からがちゃがちゃと回される音がした。その場にいる三人がドアに目を向ける。
「セシア! ここにいるのか、セシア!!」
「ル……!」
助けを求めようとしたセシアの口を、正面からフェルトンが大きな手のひらで押さえる。
「大声を出すとあんたの腕を折る。知ってるか、粉々になった関節は二度と元に戻らない。戦地で言うことをきかない捕虜相手にいっぱいやったんだ~……だから、よーく知ってる。どこにどう力を加えたらぽっきりいくのかとか、骨が皮膚を突き破って出てくるのか、とか」
そうだ、この人も従軍経験があるんだった。その脅しがあながち嘘ではなさそうだとすくみ上がっている間にフェルトンが背後にまわり、体の後ろで両腕を拘束する。ぎりぎりと締め上げられてセシアは痛みに呻いた。
ルイは絶えず外からドアを叩いている。
「おとなしくしていたら傷つけないさ……僕たちは」
言いながら近づいてきたジョスランがセシアの顔をつかんで上向かせ、手にしていた小瓶を口にねじ込んだ。
あっと思う間もない早業で、あわてて口の中に液体を溜め込んだが、いくらかは喉の奥に落ちていった。
「強情な娘だな」
ジョスランがセシアの鼻をつまむ。息ができない。
派手にむせかえると、口の中に溜め込んでいた液体がまわりに飛び散る。自分にかかるのを嫌がってジョスランが飛びのいたので、セシアはフェルトンに背中で両腕を拘束されたまま派手に咳き込んだ。
「……飲み込めたか、少しは。効き目は」
「原液に近かったからね~、少しでも短時間は効くとは思うけど~、どうかなあ。だいぶ吐いちゃったよね~、もったいない。三人……いや五人分はあったのに~」
「開けたら使い切らないといけないんだからしかたがないな」
「まあね~、いやでも奥方には薄めて飲ませて、こっちのお嬢さんには原液を与えるなんて、ジョスランもえげつないね~」
二人の会話にセシアは目を見開いた。
カロリーナは薄めて、セシアには原液……!?
「アンプルはあと一本か。もう使いたくはないな」
「それはこっちのセリフ~。オレは試験薬の効き目を証明してみせたんだから、ジョスランはちゃんと偉い人に売り込んで、早く研究施設作ってよ~。もたもたしてるとオレの菌が死んじゃうよ~……おっと、急いだ方がいいな」
フェルトンが何かに気づいて言う。
――やっぱり飲まされたのは、おじい様を殺したあの薬。
大部分は吐いたと思う。でもいくらかは喉の奥に落ちていった。
私は死んでしまうの? おじい様みたいに、喉をかきむしって、泡を吹きながら。
くやしい。くやしいくやしい。死にたくない。
どうして祖父を殺した叔父が断罪されずにこの家を手に入れて、この家を守ろうとした自分が死ななくてはならないのか。
――私はただ……
――ただ……優しい思い出が残っているこの家と、アルスターの森を、守りたかっただけなのに……
頭がぼんやりしてくる。紗がかかったみたいに視界も思考もぼやけてくる。
「瞳孔が開いてきた。薬が効いてきていると思う。いくら原液といっても飲んだ量からして長くは持たないよ、やるなら早くやらないと~」
「そうだな」
ジョスランがセシアに背を向けて歩き出す。フェルトンにぐい、と押される形でセシアもジョスランのあとに続いた。体がどんどん冷たくなっていく。何かがじわじわと体の内側からセシアを浸食しようとしているのを感じる。
「今からおまえは遺書を書く」
書斎の机の上にジョスランが一枚の白い紙を広げる。
ぼやけた視界でセシアは紙を見つめた。い、しょ? いしょって……なんのこと……。
「言われた通りに書け。『夫に騙されていたことがわかったので私は死にます』」
ジョスランの言葉が頭の中でわんわん響く。
フェルトンが拘束を解き、自由になった手にジョスランがペンを差し出す。祖父が愛用していた羽ペンだ。ペンを受け取り、セシアは言われるがままにペンを走らせた。
「最後に名前を書け。おまえの名前だ、セシア・ヴァル・ドワーズ」
何度も書いた。書きなれている、私の名前。私は、セシア・ヴァル・ドワーズ。
セシアはすらすらと署名を入れる。
「よし……いいぞ。その次は」
寒い。とても寒い。耳の奥でどくどくと心臓が鳴っている。うるさい。
「今すぐ三階から飛び降りろ。三階からだ、いいな」
ジョスランが繰り返す。
今すぐ、三階から。
私は飛び降りなければならない。
――行かなくちゃ……。
突然、大きな音とともに書斎の窓ガラスが飛び散った。
ジョスランとフェルトンがはっとなって振り返る。
「セシアに何をした!!」
窓を蹴破って入って飛び込んできたのはルイだった。
「セシアに何を!」
「行け、セシア!!」
ルイとジョスランが叫ぶのはほぼ同時だった。セシアがぎくりとなる。
「行け、セシア。行くんだ!」
ルイが何か言うよりも先にジョスランが叫ぶ。
――行かなくちゃ……。
セシアは踵を返すと書斎のドアの鍵を開け、飛び出して行った。
行かなくちゃ。三階へ。
そこから飛び降りなくちゃ。
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