第38話 偽装夫婦の終焉 3

 眩しさにセシアはぼんやりと目を開けた。


 ――月?


 きちんと閉じられていなかったカーテンの隙間から、月明かりがセシアの顔を直撃したようだ。

 明るさに目が覚めてしまうほどの月明かり。

 カーテンを閉めるか反対を向くか。反対を向こう。

 反対側を向いて、夫婦用の広いベッドの上に一人でいることに気づく。


 ――そりゃそうよね……。


 半分あけておくとは言ったが、さすがにルイもそれを真に受けたりはしなかったようだ。

 あと何日、こんな夜が続くのだろう。

 気が休まらない。

 部屋はまだ暗く、あたりは静寂に包まれている。夜明けまで遠い時間帯であることはなんとなく察せられた。


 夜明けまではまだある、しっかり眠っておかなくては。夜が明けたらまた、ジョスランとの攻防が待っている。

 そう思うのだが、なんだか目が冴えてしまって眠れない。


 セシアはそっとベッドから抜け出すと、裸足のままそろそろとドアに近づいた。

 居間に続くドアを開けると、長椅子の上で寝ているルイの背中が見てとれた。体が大きいから窮屈そうだ。

 そのルイが身じろぎした拍子に、体の上にかけていた夏用の上掛けが床に落ちる。

 夏だから別に上掛けはなくても、と思ったが。

 セシアは息を殺してルイに近づき、落ちた上掛けに手を伸ばす。

 夜明けは気温が下がる。風邪をひいてしまうかもしれない。

 そう思い、上掛けをそっとルイの体にかけた、その時だった。

 バタバタと誰かが廊下を駆けてくる音がした。


 何事だろう、と耳を澄ませると足音はセシアたちの部屋の前で止まり、派手にドアをたたき始める。その音の大きさにルイががばっと体を起こしたので、セシアは思わず小さく驚きの声を上げてしまった。

 ルイが振り返り、セシアと目が合う。


「セシア様、ルイ様、大変です」

「何用だ。真夜中だぞ」


 トーマの切羽詰まった声にルイが急いで長椅子から降り、ドアを開ける。

 そこには寝間着にガウン姿のトーマがランプを片手に立っていた。


「カロリーナ様の様子がおかしいのです。医師を呼ぼうと思うのですが一応セシア様にもお知らせを」

「……カロリーナの?」


 セシアもドアに駆けつける。ルイの体を押しのけて顔を出すと、トーマのこわばった表情が見てとれた。


「どう様子がおかしいの?」

「呼吸ができないようで喉元をかきむしりながら悶えておりまして……それ以外ですと体中に発疹が」


 ルイとセシアは顔を見合わせた。


「……フェルトンの薬か?」

「おかしいわ……どうしてカロリーナにそれを使うの」

「わからない。セシアに濡れ衣でも着せるつもりかもしれない。部屋はどこだ」


 こちらですと言うトーマのあとについて、ルイとセシアは部屋に向かった。

 ジョスランたちが使う客間に入ると、部屋の中ではベッドの上でのたうち回るカロリーナとその横で名を呼び続けるジョスランの姿があった。


「医師を呼んでいたら間に合わない! 誰か医師のもとに連れて行ってくれ!」


 部屋に入るなり、ジョスランが切羽詰まった様子で叫ぶ。


「ですが、こう暗い中で馬車を使うことは。今、医師を呼びに行きますので」


 トーマが言う。馬は夜眠るものだし、舗装された街道ならともかくそうではない田舎道に馬を使うことは、夜襲でもない限り行わないのが常識だ。


「間に合わなかったらどうする! 医師を待っている間にカロリーナに何かあったら! お……おい、ルイ君、君は……君ならできるんじゃないのか?」

「……なぜそう思う?」

「トレヴァー子爵の息子には軍歴がある。馬の扱いに慣れているんじゃないか?」


 名指しされてルイは一瞬ひるんだように見えた。


「……わかった。俺が連れていこう」


 ベッドの上で喉をかきむしりながら涙の溜まった目でこちらを見つめるカロリーナに気づき、ルイが決断を下す。


「夜中よ? あたりは真っ暗で、お医者様のもとへは森を抜けて行かなくちゃいけない。カロリーナを連れていくより、お医者様を呼んできた方が安全だわ」

「このあたりの地形は頭に入っている。アルスターの森にはそれなりに詳しい。知っているだろ? 幸い今夜は月も明るいし、夜行軍の経験もある。大丈夫だ。かかりつけの医師は誰だ?」


 止めるセシアに、ルイがきっぱり答える。


「……昔と変わっていないわ」


 ルイを止められないと悟り、セシアは正直に答えた。


「馬を起こして、馬車の用意を。俺が連れていく。あなたはどうする、ジョスラン殿?」

「ぼ……僕は」


 ルイに問われ、ジョスランが目をきょろきょろさせる。


「一緒に行った方がいいと思うが。あなたの妻だろう」

「ぼ……僕が行って役に立つのか? そうじゃないなら……ここで待つよ。そのかわり、カロリーナの世話をしているメイドをつける。それでいいだろ」

「……薄情だな」

「あの医者にはいやな思い出があるんだよ!」


 取ってつけたような理由を鼻で笑い、ルイが悶えているカロリーナを上掛けごと抱き上げた。


「……セシアに何かしたら、ただでは済まさないからな。セシアも一人になるな。わかったか。今すぐ部屋に戻り鍵をかけておくんだ」


 そう言い残し、ルイはカロリーナを抱えトーマとともに階下へと降りていった。一気に屋敷の中が騒がしくなる。使用人たちがたたき起こされ、カロリーナを運ぶ準備におおわらわになっているのだろう。


 部屋にはジョスランとセシアだけが残された。セシアは寝間着姿でぼさぼさ頭のジョスランに目を向ける。怠惰な雰囲気はいつものことだが、今は目が血走っているせいか雰囲気が物々しい。

 ルイの言いつけ通りここは早く去ろう。この人は怖い。


「……はは、おまえも僕を疑っているのか? 僕が何かしたと? だが僕じゃない! 僕は何もしていない! カロリーナが勝手に食べたんだ」


 セシアの視線に気づいてジョスランが叫ぶ。


「食べた? 何を」

「クルミをさ!」

「クルミ? どうしてそんなものがここにあるの」


 セシアは首をひねった。


「おまえたちのせいで眠れないから、ワインとつまみとして木の実の盛り合わせを頼んだんだ。そうしたら……暗かったせいだろうな、カロリーナがワインと一緒に木の実を……その中にあったクルミを口にして。……嫌いだとは知っていたんだが、あんなことになるなんて」


 ジョスランが項垂れる。


 まさかそんな。


 セシアは怖くなり、後ずさった。

 脳裏によみがえるのはあの日の祖父。

 ジョスランがすすめるので祖父は熱々のお茶を一気飲みした。あんなことをしたら口の中をやけどするに違いないのに……そもそも湯気が立つほど熱いお茶を一気に飲めるはずがない。

 あの日の祖父はおかしかった。


 カロリーナにもフェルトンの試験薬が使われたのだ。

 この試験薬の作用については軍事機密だとしてイヴェールも教えてくれなかったが、口にした人から正常な判断力を奪う。そして最後には死に至る。……きっとそういう作用があるのだ。


 でなければ祖父が熱いお茶を一気飲みなんてしないし、あのあとジョスランがしつこくサインを求めた理由もわかる。試験薬で祖父の判断力を奪い、ジョスランはマデリーの売買契約書にサインをさせたかったのだ。

 カロリーナには、本人が食べられないと自覚しているクルミを食べさせた。


「……自分の妻に対して、なんということを……」

「……僕はメイドを呼ぶ。おまえはさっさとこの部屋から出ていけ」

「言われるまでもないわ」


 ジョスランに睨みつけられ、セシアは踵を返した。……メイドを呼びにいくというのは口実で、もしジョスランが追いかけてきたらどうしよう。そんな思いに囚われたため足早に廊下を歩き、部屋に戻って鍵をかける。

 怖くて怖くてたまらない。

 ドアにもたれるようにして床に座り込み、セシアは自分の体をかき抱いた。真夏の夜なのにがたがたと震えが止まらない。

 しばらくそうしてるうちに、自分の戻ってきた部屋が主寝室であることに気づいた。

 娘時代に使っていた部屋ではなく、わずか一日ばかり使っただけの主寝室。


 にわかに外が騒がしくなる。そろそろ出発の準備が整ったのだろう。セシアは力の入らない体を引きずるようにして窓辺に向かい、建物の下を見下ろしてみた。ここからはちょうど玄関が見える。

 何人かがあわただしく行き来している。しばらくして馬小屋から引き出されてきた馬車が玄関につけられ、ルイがカロリーナを連れて乗り込むのが見えた。そのルイはすぐに馬車から降り、かわりに誰か女性が乗り込む。ジョスランもいるようだ。ルイも付き添いの女性も着替えているようだが、ジョスランは寝間着にガウン姿のままだった。


 ――一緒に行かないと言ったけれど、見送りくらいはするのね……。


 ルイが御者台にまわる。そうこうしているうちに馬車は動き出し、あっという間に屋敷の敷地から出ていった。

 あとは医者に任せるしかない。


 ――どうか、カロリーナが助かりますように。


 セシアには祈ることしかできなかった。そして、口にするものには徹底的に注意しなければと心に誓った。少なくとも、ルイが戻ってくるまでは。




 眠れない夜が明けた。ベッドに戻る気になれず、セシアはぼんやりと長椅子に座って、だんだん明るくなっていく空を眺めながら夜を明かした。

 カロリーナはどうなっただろう。ルイは。ジョスランは。そして私は、どうすればいいの。


 カロリーナが倒れた頃は騒然としていた屋敷だが、しばらくして静けさを取り戻し、やがていつも通り朝が始まる。そろそろ誰かが起こしに来る頃だと思っていたら、案の定トントンと誰かがドアをノックした。


「おはようございます、お嬢様。起きていらっしゃいますか」


 声の主はリンだった。セシアは長椅子から転げ落ちるように降りるとあわててドアに向かった。


「起きているわ、リン。ねえ、カロリーナはどうなったの?」


 ドアを開けてたずねると、すでに着替えているリンは大丈夫と頷いてみせた。


「ルイ様が迅速にお医者様のもとへ連れて行ってくださったので、大事には至らなかったようです。さきほど使いの者が知らせて来ましたよ」

「よ……よかった……」


 祖父の最期を知るだけに、優しいカロリーナが同じ目に遭わなくてほっとした。安堵のあまり、セシアはその場にへなへなと座り込んでしまう。


「まあまあ、お嬢様。安心して気が抜けたんですね。そんなところに座っていてはお寝間着が汚れてしまいます。そろそろルイ様もお戻りになりますから、きちんと着替えましょう」


 リンに促されて立ち上がり、セシアはリンとともに併設されている衣装部屋に向かった。

 母の衣装だらけのはずなのに、いつの間にか手前側にセシアの自室にあるはずの衣装が引っ越してきている。

 新婚のセシアのために、リンが気を利かせてくれたらしかった。

 その中からセシアはライラック色のデイドレスを選んだ。自分の瞳の色。


「お食事はどうしますか。こちらに運びますか? それとも食堂で?」

「食事はここへ。その前にトーマに会いたいんだけど、いいかしら」

「ここへお呼びしますか」

「ええ……いいえ、下に行くわ。書斎に。呼んでくれる?」


 セシアはリンにそう言いつけ、書斎に向かった。部屋に呼びつけなかったのは、第三者になんとなくこの部屋にいるところを見られたくなかったからだ。その点、書斎はいい。気持ちを切り替えるのにぴったりだ。それにあの部屋は鍵がかかる。ジョスランに乱入されることもないはずだ。

 トーマなら昨夜のできごとを詳しく報告されているだろうから、話を聞かなければ。

 そのことで頭がいっぱいのセシアは、ルイから「一人になるな」と言われていたことをきれいに忘れていた。

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