第33話 あなたは誰なの 4
ゆらゆらする。
ゆらゆら……ふわふわ……。
ベッドの上かな、と思ったが、それにしてはこう、体に自由がない。それに前後にゆらゆらと揺れる……ベッドじゃないみたい。水に浮かんでいるのかしら。でも冷たくない。湯船につかったまま寝てしまった……?
「こちらです」
「ありがとう」
男の人の声。ドアが開く音……閉まる音……鍵がかかる音。
わかった。ルイが部屋に連れてきてくれたのだ。なんということだ、オリッサの二の舞をやってしまった。今すぐ起きて「ありがとう」と言わなくちゃ……あの時は服を脱がしてもらった……あれをもう一度は、恥ずかしい。ああ眠い……。
体がそっとベッドの上に横たえられるのがわかる。あのゆらゆらがよかったのに。
「セシア」
ルイの声が聞こえる。ちゃんと聞こえているが、まぶたは開かないし声も出ない。
「寝ているのか? セシア」
ぷにぷにと頬をつねられる。
痛いです。寝てないわ。起きてるけど……眠くてたまらない。ああこのまま眠ってしまいたいけど、歌劇を見に行くためにドレスアップしているから、脱がなければ……首飾りだってつけているし……。
「人の気も知らないで、いい身分だな」
ルイのぼやきが聞こえる。珍しい。セシアが寝ていると思っているからだろう。
「でもな、少し、痩せたほうがいい。重い。落とさなかった俺は偉い」
失礼すぎるわね……気にしていることを……。最近のドレスの流行が細身のデザインのせいで太って見えるけど、胸が大きいだけで、体全体はそうでもないのよ。見せることができなくて残念だけど!
内心ぷんぷんしているセシアだが、眠気が強くて指先ひとつ動かすことができない。
起きて、着替えなければ。そう思うのだが、もう眠くてたまらない。このまま寝てしまったら、首飾りもドレスもだめにしてしまうかしら……大丈夫よね、うん……寝るだけだし、などと考えていた時だった。
ルイの手が、セシアをごろんと横にする。おや、と思っていたら、首筋をまさぐられた。くすぐったくて身をよじってしまう。
「動くな。はずせないだろう」
寝ているはずのセシアにルイが指示を出す。寝室の薄明りの中で、首飾りをはずそうとしているのだろう。しかたがない、おとなしくしてあげる。
しばらくして、首元にあった重みがスッと離れていった。かちゃり、と固いものを置く音がする。首飾りは外せたらしい。その次に耳に触れ、重たいイヤリングを取り去る。
これでおしまいね?
そう思って安心していたら、今度はルイの手がすっと頬を撫でた。
「あんたは危機感がなさ過ぎる。男と二人きりの時に酔っぱらって潰れるなんて、襲ってくださいと言っているようなもんだぞ」
お説教が始まった。
そうはいってもルイとは「そういう関係」にはならない前提での夫婦ごっこだ。心配していないからこそ酔っぱらっているのだ。でなければ人前でこんなに酔っぱらったりするわけがないでしょう。まあ、私がここまでお酒に弱いとは知らなかったけど。
アルコールが回った頭で、セシアはそんなことを考えた。
「……俺以外のやつと飲むなよ、絶対に」
頬を撫でていた指先が、今度は唇に触れてくる。
指先は優しいが、ゾクゾクとしたものが背筋を駆け抜けた。
何かしら、これ。
指先は優しく優しく何度も唇をなぞる。
傷つける意図がないのがよくわかる。むしろ逆だ。大切なものを扱うような指先に、セシアは泣きたくなった。まるで大切にされているみたい……セシア自身が、ルイに愛されているみたい。そんなわけがないのに。自分たちの関係はお互い利害が一致した、それだけの上に存在するかりそめのものだ。
しばらくセシアの唇をなぞっていた指が離れる。
指先から伝わる優しいぬくもりがなくなったことに寂しさを覚える。もう少し、ルイの指先を近くで感じていたかった。頬よりも、唇に触れてもらうほうが彼を近くに感じられて……嬉しかったのだ。
遠い昔、両親が生きていたころ、二人はよくセシアの頬にキスしてくれた。セシアもお返しにキスを返していた。
厳格な雰囲気の祖父にはキスをすることができなかったので、久しぶりにキスの感覚を思い出した。まあ、これはキスとはちょっと違うだろうけれど。
不意に、ルイがセシアの頭のすぐ横に手をつく。
ぎし、とベッドが鳴る。
なんだろうと思った次の瞬間、ふわりとセシアの唇に指よりも柔らかくてあたたかいものが触れてきた。
さすがにぎょっとなって目を見開くと、すぐそばにルイの顔があった。至近距離なんていうものではない。
ルイは角度を変えてセシアの唇をついばむ。
それは優しいけれど同時にルイの気持ちも伝えてくるキスだった。
――どういうこと……!?
ルイは自分のことを嫌うまではいかなくても、できるだけ関わりたくないと思っていたのではなかったのか。
優しくするのも構ってくれるのもすべて任務遂行のため、しかたなくではなかったのか。
任務の遂行に、こんなキスは必要ない。
どういうことなの……!?
眠気も吹っ飛んでしまったが、意識があることをルイに悟られるのはよくない気がする。なぜならルイはセシアが寝ているからこそ気持ちを吐露しているのであって、ルイの「本音」を聞いてしまったことがバレたら、自分たちの関係が変わってしまいそうで――壊れてしまいそうで……。
避けられたり、冷たくされたりするのはいや。
だから寝たフリを続けるべきだ。
セシアは目を閉じた。
どれくらいキスされていたのだろう。やがて唇が離れていく。
ルイが遠ざかることに、セシアは一抹の寂しさを覚えた。
だが、体の横に手はつかれたままだ。すぐそばにいる。
「……俺は、ずっと、あんたのことが好きだった」
ややあって、ぽつりとルイが呟く。
「手が届かないお嬢様のままでいてほしかった。俺の手は汚れている……セシアに触る資格なんてないんだ。なのになんで、こんなことになったんだろうな。偽物の夫婦なんて」
ルイが自嘲的に笑う。
セシアは動揺が表に出ないよう気をつけながら、ルイの告白を聞いていた。
ずっと好きだった?
手の届かないお嬢様のままでいてほしかった?
――私のことを前から知っているの……?
セシアのことを前から知っている。セシアとそう年が変わらない。そんな知り合いは……数えるほどしかいない……まして青い瞳の持ち主は一人だけだ……。
――まさか、そんな……。
心臓が早鐘を打つ。
だめだ、平静さを保てない。
目を開けてルイに聞き返すべきだろうか。あなたはもしかして……と。
でも否定されたら。……ううん、否定するに決まっている。ルイは初めから他人という体裁でセシアの前に現れた。今の今まで祖父の死のタイミングで初めて会った体裁を保っていた。
――あなたはクロードでしょう、なんて、聞いてはいけないこと……。
否定どころか、セシアそのものを拒絶するようになったら。
そんな結果なんてほしくない。
悩むセシアに気づくはずもないルイが、やがて体を起こして部屋から出ていく。
ぱたん、とドアが閉じて一人になった途端、セシアは盛大に息を吐いた。
寝たふりというのもけっこう気を遣うようで、体ががちがちだ。
――私はどうしたら……。
ルイの触れた唇に、指を這わせてみる。
セシアの指先もたいがいぷにぷにしているが、ルイの唇には及ばない。
それにしても、唇同志のキスとは、あんな感触なのだ……。
もしかしなくても、これはセシアにとって初めてのキスだった。
初めてのキスに対しては、少女時代にロマンティックな空想を繰り広げたことがある。しかし結婚を諦めてからは、キスをする機会もないだろうと空想すら自分に禁じてしまった。まさか自分にキスの機会が訪れるなんて。
それも……もしかしたら……セシアがずっと好きだった男の子、かもしれない人と……だ。
心が揺れる。どうしたらいいのかわからないので、セシアはぼんやりベッドの上で天井を見上げていた。
しばらくしてドアがノックされ、返事をする前に連れてきたメイドが入り込む。
「お嬢様、起きてくださいませ。ドレスのまま寝てはいけませんよ」
甲高い声。ルイが着替えさせるように頼んだのだろう。
オリッサのように自分で着替えさせる……という手段は諦めたらしかった。
セシアはのろのろと体を起こし、メイドに従うことにした。
目は覚めたものの、アルコールそのものはまだ体の中をぐるぐるまわっている。とりあえずドレスとアクセサリー類だけ外し、風呂は明日の朝にまわして、下着姿になるとセシアはすぐにベッドにもぐりこんだ。
ひどく疲れており、すぐに眠りたかった。
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