第32話 あなたは誰なの 5
「セシア様、おはようございます。そろそろ目を覚ましてくださいませんと、本日の予定に遅れますよ」
カーテンが開かれ、朝日が顔を直撃する。
セシアは眩しさに呻きながら目を開けた。見ればメイドがこちらを覗き込んでいる。ひどい起こし方だ。
ああ、それにしても頭が痛い。
「それにしてもオリッサに続いて王都でも、お酒で酔っぱらって前後不覚になってしまうなんて。立派な淑女がすることではありませんよ。ルイ様も呆れて……」
メイドの言葉にはっとなる。
寝室には一人だ。
居間のほうにいるのだろうか?
「ね、ねえ、ルイは? どこにいるのかしら」
「用があるので出かけてくると、私の部屋のドアの下にメモが残されておりました。セシア様は疲れているようだから朝寝させてやってほしい。お知り合いの方と昼食をともにされるご予定があるそうですのでそれまでには起こしてくれとも、申しつけられております。ご覧になりますか?」
メイドがそう言ってセシアの前に一枚の紙を差し出した。
受け取って見れば確かにそこには、メイドが告げたのと同じ内容が書いてある。
待ち合わせは十一時にこのホテルのロビーで。
「さあさあ、お支度を急ぎませんと。もう十時近くなっております」
きょとんとセシアに、メイドが呆れたような視線を寄越してくる。
「十時……っ!?」
思わず叫んでしまった。そんなに長く寝ていたなんて。
「はい、そうです」
「そ、それは急がなくちゃ……お風呂を用意してくれるかしら。昨夜はそのまま寝てしまったから」
上掛けを跳ね飛ばす勢いで起き、メイドに指示を出すと、彼女はわかっていますとばかりに頷いた。
「お着替えも用意しておりますし、本日のお召し物も用意してあります。どうぞ」
やたら用意周到なのは……ルイの手配だろうか。
まったくもってできる「夫」である。
傷跡のことがあるので、入浴は誰かに手伝ってもらったことはない。けがをしてからはずっと自分で体を清めている。
メイドから下着とローブを受け取ると、バスルームに入った。
ドアをきっちり閉めてバスルームの中を確認すると、バスタブには湯が張られ、いいにおいで満ちていた。香油を入れてくれているようだ。
まずは頭にいくつか残ったままのピンを引き抜く。すでに寝崩れてぐちゃぐちゃになっている栗色の髪の毛が、背中に広がる。
続いてシュミーズを脱ぎ、セシアはバスルームにある大きな鏡を覗き込んでみた。
キスひとつで何が変わるわけでもないが、セシアは自分の指で唇をなぞってみる。
――キス……キスしたんだわ。
あれが挨拶のキスではないことくらい、いくら恋愛経験ゼロのセシアにだってわかる。
でも、ルイは何も言わないだろう。セシアとの関係を変えるつもりはないのだ。ルイの態度は一貫している。
じゃあどうして昨日は……?
――隙を見せるなと言っていたわ。私が隙だらけだから……?
だから……
だとしても、彼は任務に忠実な人物だ。
セシアが望んでも関係を変えることはできないだろう。そもそも彼自身が望んでいない。この関係は変わらない。
なら変えない方がいい。
溜息をつき、セシアは湯気の立つバスタブに体を沈めた。
ふわりと花の芳香がセシアを包む。
ルイはクロードで間違いない。でなければ「ずっと好きだった」なんて言わない。
セシアは左手の薬指にはまっている指輪を見つめた。
神の前で誓った人は、幻。近いうちに彼はセシアの前からいなくなり、セシアは一人に戻る。
涙が込み上げてくる。初めからそのつもりだった。ルイもイヴェールも「期間限定の関係」と言っていたじゃない。それを了承してこの関係を受け入れたのはセシアだ。
もともと、一人で生きると決めていたはずなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。どうして……?
誰かが見ているわけではないが、あふれる涙を隠すように、セシアはバスタブに沈んだ。
――私は不幸なんかじゃない。
ルイが、イヴェールが、手助けしてくれたから、祖父や両親が大切に思っていたアルスターはセシアの手元に残ってくれた。ジョスランによってズタズタにされなかったし、セシア自身がアルスターを追い出されることもなかった。
――何も失ってなんかないわ……。ただ、ルイが来る前の生活に戻るだけよ……。
風呂から上がり、入念に水気をふき取って下着姿でバスルームの外に出る。
メイドが用意してあったドレスを着付けしてくれる。
最後に髪の毛だ。香油を塗り込んで髪の毛を結う。先ほど外したばかりのピンがいくつも髪の毛に差し込まれ、その上からドレスと合わせたデザインの髪飾りをつける。
化粧をすれば「ドワーズ侯爵夫人セシア」のでき上りだ。
「朝食をお召し上がりになっている時間はございませんが、何も口にされないままでは目が回ってしまうかもしれませんので」
メイドはそう言って、身支度を済ませたセシアの前にカットフルーツの盛り合わせを置いた。ルイの指示書にはなかったので、メイドの気配りだろう。有能だ。
そのうちのいくつかをフォークで刺して口に放り込む。やわらかくて甘酸っぱい果肉が、からからの喉と体に染みわたる。
「あとはいいわ。見送りはいいから、留守番をお願いね」
ルイがメイドとの接触を避けているらしいので、彼女を部屋に残してセシアは一人でホテル一階のロビーに向かった。広いロビーの片隅、ラウンジスペースに見慣れた横顔が見えた。新聞を広げている。
今日の髪色は銀。
着ているのは軍服ではなく仕立てのよさがわかるスーツだった。ラフな姿ばかりを見て来たセシアは、「ちゃんとした服を着れば青年実業家に見えるものね」と少し感心をした。
近づくセシアに気付いて、ルイが目を上げる。
「……おはよう、というべきなのかしら……」
「もうすぐ昼だが」
セシアが声をかけると、ルイが新聞をたたみながら答える。
「……昨日は、迷惑をかけてしまったみたいね。メイドから聞いたわ。実は……途中からまったく記憶がないの。朝までぐっすりよ。ちょっと、頭が痛いけれど」
「二日酔いだな……まあ、酒量そのものは多くないから、すぐによくなるだろう」
何も覚えていない「設定」で話しかければ、ルイもその設定に乗ってきた。
――これが「正解」……。
「あのあと、あなたはどこに? フランクさんのところに?」
ルイはどういう設定のつもりでいるのだろう。そう思って聞いてみる。
「あいつの部屋は狭い。違うところに宿を取った」
「……そう」
ルイの答えに、セシアは頷いた。
セシアの連れてきたメイドにも自分たちが偽物夫婦だということは伏せている手前、ルイは夜遅くに抜け出して朝早くに戻る、という話にはなっていた。行き先はフランクのところだとばかり思っていたが、違ったようだ。
「もう、人前でワインを飲むのはやめるわ」
「それがいいな。所かまわず寝てしまうみたいだから」
ルイが立ち上がり、セシアの前にやってくる。青い瞳がセシアを見下ろす。いつも通り端正な顔立ちに表情はなく、何を考えているのかはわからない。こういう時のルイは心を押し殺しているのだと推測できるようにはなった。
セシアはすぐ思っていることが顔に出てしまうのだが、彼は心を殺すことに慣れている。そういう場所に長くいたからだろう。
「ヴェルマン伯爵に会う約束が取れたんだ。忙しい人で、なかなか面会の予定をねじこむことができないんだが……」
「……どなた?」
「セシアの力になってくれるだろう人だよ。イヴェールからの詫びだ」
「詫び? 私、ルイには迷惑をかけている自覚はあるけれど、イヴェール少佐にご迷惑をおかけしている覚えはないわよ……?」
「以前、アルスターへの工場誘致の話を潰しただろう。俺が。その埋め合わせだ。俺の報告にイヴェールが呆れて、紹介してくれることになった。ヴェルマン伯爵は製糸工場を経営しているし、経済にも明るい」
「……え?」
セシアはぽかんとルイを見つめた。
あの時、工場誘致の話は白紙になってしまったので、セシアとしては王都に足を運びツテを作るところから始めなければならないのだろうかと、暗澹とした気持ちになったものだが。
「セシアはイヴェールの『恩人』ということになっているから、悪いようにはならないさ。それにヴェルマン伯爵は若い頃、外国で暮らしていた人だから見識も広い。セシアの心意気を買ってくれる人物だろうと、イヴェールのお墨付きをもらっている」
「……どうしてイヴェール少佐はそこまで、してくださるの?」
ルイには迷惑をかけている。間違いなく。でもイヴェールがそこまでセシアに気を遣う理由がわからない。
「……フェルトン捕獲はイヴェールにとって最重要事項だからだよ。セシアには無茶を言っている自覚があるんだろう。侯爵令嬢に偽りの結婚を強いたんだから、これが明るみに出たらイヴェールは破滅だ」
「……そうなの?」
イヴェールには「協力を断った場合、どうなっても知らない」と脅されるような形で、偽りの結婚を承諾させられた気がしたのだが。
「そうなんだ。だからイヴェールはセシアにとことん恩を売りたい。仇を返されたくないから」
「……私は、そんなことはしないわ……」
セシアはぎこちなく微笑んだ。やっぱり、イヴェールという人は怖い。
「表に馬車を待たせている。そろそろ行こう」
そう言ってルイが手を差し伸べる。また左腕。
セシアはその腕に自分の手をかけた。こうして「夫婦」のふりをするのもあと何回?
ルイがセシアをエスコートする。……いつもよりゆっくりのような気がする。
「……昨日はたくさん歩いただろう。足は、痛くないのか。オリッサでは痛そうにしていたが」
ふと、ルイがたずねてきた。
「今日は大丈夫。……少し、だるいくらいよ」
セシアは当たり障りなく答えた。嘘は言っていない。
上流階級の女性に見えるセシアを伴っているからか銀髪のルイに対してもホテルの職員たちは丁寧な対応をするが、視線は冷ややかだ。
上質な服をまとっていても、貴婦人をエスコートしていても、この国の人のイオニア人への意識はそんなものなのだという現実。
銀色の髪の毛は、時として「ホコリをかぶったかのようだ」と表現されることもある。
「……あなたのその髪、私はきれいだと思う」
セシアは歩きながら小さな声で囁いた。
「それは、どうも」
聞こえなくてもいい。そう思って呟いたのに、ルイが丁寧に返事をしてきたので驚いた。それと同時に、この人は自分にきちんと注意を向けてくれているのだと気付く。
オリッサの町で気を遣ってくれていることはわかっていたが、工場誘致の話を潰したことにも同じように気を遣ってくれるなんて思わなかった。
もししかたら本当は気づかなかっただけで、ずっといろいろ気を遣ってくれていたのかもしれない。
――だめね、私。本当に心が弱くて……。
ずっと一緒にいられたらいいのに。そうしたらきっと心強い。
本音を言えば一人は怖い。女が一人で生きていくことが容易ではないことくらい、世間を知らないセシアでもわかっている。
でもきっと無理。なぜならルイの態度は一貫しているから。彼を振り向かせる努力をしようとは思わなかった。彼にはひどく迷惑をかけた過去がある。これ以上彼を自分のわがままに付き合わせるべきではない……。
それなら、一緒にいられる時間を大切にしなければ。
彼の顔も、声も、広い背中も、記憶に刻み付けて忘れないようにしなければ。
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