第25話 幸せになる資格 3
負傷兵とはいえ相手は五人。そんな人たちを相手にルイが一人で。いくらルイが軍人だとしても分が悪すぎる。しかも相手はルイに対して恨みを持っている。
セシアは踵を返すと駅舎の中を走り始めた。オリッサは大きな港町なので、駅も広い。しかもセシアは一等用の専用スペースしか使ったことがないから、どこに駅員がいるのかそれもよくわからなかった。
スタイルをよく見せるために裾が引き絞られている長いスカートは、足が動かしにくい。走りたいセシアは、はしたないと思いつつスカートをつかむと膝のあたりまで引き上げた。
スカートをまくりあげ、髪の毛を振り乱しながら走る令嬢の姿に行き交う人々が奇異の目を向ける。
やがて改札口が見えてきた。中に駅員がいる。
「あの……! お願いです、人が、……お、夫が、人に絡まれて、連れて行かれてしまったの!」
肩で息をしながら改札の前に駆けつけ、切符を切っている駅員に早口で告げると。
「……トラブルですか? それなら警備員に連絡をしてください。詰め所は東の突き当りにありますから……」
駅員は手を止めて話を聞いてくれたが、指さした先は改札口とは正反対の方向だった。
――また……駅舎を突っ切って行かなくてはならないの?
相手はナイフを持っている。ひとつだけじゃないかもしれない。駅の裏にもっと仲間がいるかもしれない。
ルイは右手が使えない。動かないわけではないが使えない。些細な違和感ではあったがセシアはそう結論を出していた。そんな人が、一人で戦えるわけがない。間に合わない。
――どうすればいいの?
セシアは泣きそうになりながら、警備員の詰め所に向かって走り始めた。かかとの高い、おしゃれな靴は走りにくい。案の定、床材のタイルの目地につまずいてバランスを崩し、足首がぐにゃりと曲がって派手に転んでしまう。
くすくすと見ていた人たちが笑う。セシアはその人たちを睨んだ。
目を逸らす人、そのまま見ている人。だが誰もセシアを助けてはくれない。ここにいる人たちのほとんどは平民だからだ……貴族階級に対し、いい感情を抱いている平民が少ないことくらい、セシアだってわかっている。アルスターではそれでも奉仕活動で領民に寄り添っていたから、そこまで冷たい視線を向けられることはなかった。
足首が痛い。
「大丈夫かい、お嬢さん」
不意に声をかけられ、セシアははっとなって振り返った。
デッキブラシとバケツを持ったおじさんが、こちらに近づいてくる。駅の掃除員だろうか。
「何か急いでいるみたいだけど、どうかしたのかい?」
セシアは埃だらけの床に座り込んだまま、おじさんを見上げた。じわ……と涙が浮かんでくる。ここでは場違いな存在の自分に声をかけてくれる人がいた……!
「……お、夫が、変な人達に絡まれて、連れて行かれてしまったんです」
薄暗い路地裏を指さすと、おじさんは「ああ」と頷いた。
「駅の北口の路地裏だね、あのあたりに浮浪者がたくさん住み着いていてねえ。ほら、リーズの戦争でロレンシアに捕まっていた人たちが最近返されているだろう?」
「負傷兵は、貧困院とかで保護してもらえるのでは……?」
捕虜の帰還のことについては聞いてはいないが、戦争で働き口がない、住む場所がない、という人なら保護してもらえるはずだ。
「もうどこもいっぱいなんだよ。それにほら、負傷兵は手やら足やらがないから、五体満足の人間のように働けないだろう? それでどこも入れてくれないらしいね」
「そんな……」
同じ戦争の被害者でも、五体満足の人間とそうでない人間とに差別があるなんて。
それならますます……ますます、危ない。どうやらルイはあの人たちを置き去りにしていった側のようだった。
「おじさん、お願いがあります。私のかわりに警備員を呼んで。私、夫を助けなくちゃ。……このデッキブラシを貸してください! あとで必ずお返しします!」
セシアはそう言うと立ち上がり、おじさんの手の中にあるデッキブラシをつかんで奪い取った。
「あ、これ。そんなものでどうしようと……」
おじさんの言い分はもっともだ。けれど悠長に人が来るのを待っていたのではルイがどうなるかわからない。大声で怒鳴り込んで脅せばあの人たちを追い払えるかもしれない。追い払うことができればいい。ルイと二人で逃げおおせることさえできれば。
セシアは走りにくい靴を脱ぎ捨てると、デッキブラシを持って走り出した。足首はずきずきするが、挫いてはいないようだ。
それにしても長いスカートは走りにくい。片手でめくりあげていたが、やっぱり無理。
そう決断を下したセシアは立ち止まると腕の内側にデッキブラシを抱えたまま、力をこめて縫い目を引っ張った。貴族令嬢用のドレスは繊細な生地でできていることが多い。果たして、ビリリ、とドレスが避ける。勢いあまって下のペチコートまでつかんでいたようで一緒に裂けてしまったが、ちょうどいい。これで足が動かしやすくなった。
セシアはストッキングをはいた足をひらめかせながら、再びデッキブラシを持ってルイが消えたあたりを目指した。
怖くないといったら嘘になる。怖いに決まっている。うまくいくかどうかもわからない。おとなしく警備員を呼んだほうがいいに違いない。ここまでする必要はないのかもしれない。しょせんかりそめの関係なのだ。
でも、と思う。左手を握り込んで、薬指にはまっている指輪の感触を確かめる。
――でも、「夫」を見捨てて逃げるなんて、「私」にはできない。
脳裏に両親が浮かぶ。クロードが浮かぶ。祖父が浮かぶ。みんなセシアを置いていった。悲しいなんて言葉では表現できないくらい、大きな喪失感を与えた。
大切な人を失う痛みを知っている。だからこれ以上、失いたくない。
――大切な人?
そこに思い至り、セシアはルイを思い浮かべた。セシアを疎んじている、いけすかない男だと思った。でも本当にそう?
セシアに左腕を差し伸べてエスコートしてくれたルイを思い出す。必要以上には関わらないと言ったくせに、足を引きずりセシアを思いやって休ませてくれたり、ゆっくり歩いたり、お酒を飲んでひっくり返ったセシアを運んでくれたり。……嘘つき。言葉と態度が正反対ではないか。
――嫌な人を演じるのならもっと徹底してやればいいのに。
ルイと関わった時間は長くない。でも彼は少なくとも任務には忠実で、その点は誠意をもって取り組んでいる。セシアのために、多くを差し出してくれている。ないがしろにしていい人ではない。自分があがくことでルイを失わなくて済むのなら、あがくに決まっている。
――だから何もしないでいるなんて、無理!
その時、セシアの向かう先から乾いた発砲音がいくつか聞こえた。
――そんな!!
「ルイ!」
セシアは薄暗い路地裏に飛び込むなり、夫の名前を呼んだ。
「ルイ、どこ!?」
ルイの返事はない。だが、うめき声が聞こえる。
あの発砲音はまさか。
だとしたら……。
ためらったのは一瞬で、セシアはデッキブラシを抱えたまま声のほうに足を向けた。
雑然とものが積まれた薄暗い路地を曲がってすぐの場所に、複数の人間が倒れ、一人だけその場に立っている。立っているのは誰? 硝煙が立ち込めてよくわからない。
セシアは目を見開いた。
ゆっくりと薄れていく煙の向こう、背の高い人物がこちらに目を向ける。
青い瞳。
立っているのはルイ。まわりに倒れているのは先ほどセシアに絡んできた男たち。
「文句があるなら、次は直接アレンに言いに来い」
ルイはそう言いながら左手にしていたものを地面に投げ捨てた。
「畜生……片腕のくせに、化け物が」
地面に倒れている男がうめく。
ルイが目を上げる。ゾッとするほど冷たい目をしていた。セシアはデッキブラシを抱えて凍りついた。誰……この人は誰?
「……なぜ、戻ってきた。駅員に保護してもらえと言っただろう」
セシアを認めるとルイは足早に近づいてきて、セシアの腕をとる。……やはり、左手で。
「あなた……その右腕……」
まわりに立ちこめる煙のせいでよく見えていなかったが、右腕はシャツが血に染まり、指先から下にしたたっている。
「かすり傷だ、たいしたことはない」
ルイが言う。
――そうなの?
セシアはルイの後ろに倒れている男たちに目を向ける。
一人の男と目が合った。地面に伏せたまま、ルイが先ほど投げ捨てたのとは別の銃口をこちらに向けている。
セシアは慌ててルイを押し倒した。
鋭い衝撃がセシアの右腕に走る。
二人して地面に倒れ込んだかと思った次の瞬間には、ルイがセシアのつかんでいたデッキブラシを取るとやり投げの要領で銃口を向けた男に投げた。
いい音がして、男の頭が崩れ落ちる。
ルイは何も言わずにセシアを助け起こすと、腕をつかんだまま、セシアを引きずるようにして後ろを振り向かずに足早にその場をあとにした。
「どうして戻ってきた」
駅構内に戻るなり、ルイが怖い顔でセシアを振り返る。
「俺は駅員に保護を求めろと言った。戻ってこいなんて言ってない……俺に助けなんて必要ない。忘れているようだが、俺は戦闘職だ。何もできない娘の助けは必要ない」
「だ、だって、ルイが殺されたら……」
いきなり怒られると思っていなかったセシアは、冷たい光を宿す青い瞳に震えあがった。
「ルイが殺されたら、私が困るもの……っ」
「困る? 別に困らないだろう。セシアの契約はイヴェールとの間のもの。イヴェールはフェルトンを逃がしたくないから次の手を打つ。あんたはイヴェールの役に立つとみなされているから、見捨てたりはしないはずだ……セシアは何も困らない」
「困るわよ!!」
つまりルイは、自分がピンチに陥った時は見捨てろと言っているのだ。助けは不要……どうしたらそんな考えに至るのだろう。ルイの理屈にセシアは怒鳴り返した。
「あなたは残される人の気持ちがわかってない!!」
ルイが怪訝そうな顔をし、じっとセシアを見つめる。
ああ本当にわかってない。
「『夫』を見捨てるなんて私にはできない!」
こみあげる涙を抑えることができず、セシアは泣きながら叫んだ。この人は見捨てること、見捨てられることが当然の場所で生きてきたのだとわかる。でも普通の人はそうではない。そうじゃないから、見捨てる見捨てられることも、とてもつらい。この人はそのことがわからないの? 長く軍人をしているから感覚が一般人とずれてしまっているの? だとしたら、セシアはそのことがとても悲しい。
この人は何を守るために心を捨てて……ううん、凍らせてしまったの?
心を捨てていないことはわかる。セシアに対する気遣いを見せるところから、わかる。
涙で視界がにじむ。その向こう側でルイが顔を歪めるのが見えた。セシアと関わりたくないというルイに対し、「見捨てることができない」は「あなたと関わりたい」と言っているのも同じ。きっとそんなことは言われたくないんだろう。
不快に思っているみたい。彼がここまで感情を表に出すのは初めてかもしれない。
――だから何!? 私は怒っているんだから!
自分を大切にしないルイが許せないのだからしかたがない。なんと言われようと引き下がるもんかという気持ちでルイを睨みつけた時。
不意に、大きな腕が伸びてきて、ルイがセシアを抱きしめた。
強く抱きしめられて、セシアの背骨がしなる。
「……悪かった」
ルイが耳元で囁く。
「真っ先に言うべきなのはセシアの勇気に対する感謝の言葉だったな。……ありがとう。でも俺は、セシアを巻き込みたくなかった。傷つけたくなかった。それなのに……けがをさせてしまった」
非難の言葉が飛び出してくるかと身構えていただけに、ルイの言葉はセシアの胸を衝いた。
嗚咽をこらえきれず、ルイにしがみついて泣きだす。
怖かったのだ、とても。
この人を失うかもしれないと、そう思ったら、とてもとても怖くて。
周囲に人が集まってくるのがわかる。きっとデッキブラシのおじさんや、駅員たちに違いない。いい年齢の、しかも貴族の身なりをした女性が人前で泣いていいわけがないのだが、セシアはどうしても泣き止むことができなかった。
ルイが何度も背中をなでてくれる。
もう大丈夫だからと繰り返す。
本当にもう大丈夫?
本当にこの人は……私を置いていかない?
ルイは任務を帯びた軍人。戦闘職と言っていた。戦地に行ったこともあると言っていた。
この人は何度も決断を迫られたんじゃないだろうか。そのたびに……。
この人は……任務が終わったら私を置いていってしまう。どこか遠くへ。私の知らないところへ。
そう気づいてしまうと、悲しくて悲しくて、涙が止まらない。
――この人とは必ず別れることになる。
そう気づいてしまった。いや、初めからわかっていた。そのつもりでいた。なのにどうしてこんなに悲しいのだろう。
セシアをかき抱くルイの体温に、腕の力強さに、胸が締め付けられる。
いなくなってしまうなんて、いやだ。この人との関係が幻でしかないなんて、いやだ。
――けれど、私はこの人を引き留めることはできない。
***
駅員室で手当てをしてもらい、王都行きの切符が手にできたのはお昼近くになってから。
ルイもセシアも腕を負傷していることから、今日ではなく明日の出発で切符を取った。
警備の不行き届きに関して駅長から丁寧な謝罪を受けたあと、ルイとセシアは馬車止めへ向かって歩いていた。
はからずも号泣してしまったせいで、顔がひどいことになっている。とても恥ずかしいのだが、どうしようもない。
「仕事はいいの? 私のせいよね……」
そもそも、セシアが駅に一緒に行きたいと言わなければこんな騒動に巻き込まれることはなかったのだ。そう思うと申し訳なくて、セシアはしょんぼりしながら聞いてみた。ルイは急ぎの仕事で王都に向かうはずだったのだ。
「連絡は入れておく。俺の仕事のことは、心配しなくてもいい」
ルイはそっけなくそう答え、改めてセシアを見降ろした。
「……ひどいかっこうだ。王都に着いたら、ドレスを新調しないと」
「別に、いいわよ」
「任務に関する費用はイヴェール持ちなんだ。それに今回の王都行きの指示もあいつから来ている。あいつの言い出したことでセシアはドレスを一着だめにしたともいえるわけだ。あいつは金持ちだ、高額な請求書を回してやらないと俺の気が済まない」
ルイの無茶苦茶な理論に、セシアは思わず笑いだした。
「……俺は反対だったんだ。フェルトンを追い詰めるのに、セシアを……第三者を巻き込むことが」
「そうだったの」
ルイの意見については初めて聞いた。
「……今回は完全に俺の落ち度だ。セシアの安全を守る、それが俺の任務だ。二度目はない。その代わり、セシアは俺の指示に従ってくれ。あんたが無茶をすると、守るものも守れなくなる。あんたが勇敢なのはわかってはいるが、勇気と無謀をはき違えたらだめだ」
「肝に銘じるわ」
セシアは頷いた。
勇気と無謀……。
その言葉に、ズキリと右下腹部の傷が疼く。
あの日の、十歳のセシアが嗤う。
あなたにできるの? と。
あなたに賢い選択ができるの? と。
――私、また、浅はかな考えで行動してしまったのね……。ルイは一人でも大丈夫だったんだわ。それなのに私が、彼を信用していなくて……私の助けなんて、本当に不要だったんだわ……。
そうよ、と十歳のセシアが囁く。
愚かなあなたに「誰かと一緒に幸せになる価値なんてあるの?」と。
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