第15話 偽装夫婦の始まり 3

「セシア、結婚おめでとう」


 ルイと連れだって屋敷に入ると、カロリーナに声をかけられた。近くにジョスランの姿はないが、セシアはあわててルイに体を寄せた。セシアに気付いたルイが、肩を抱いてくるのでぎょっとする。


「あとで、あなたのお部屋に結婚祝いを届けておくわね。新しいお部屋はどこかしら」

「それなんだけど、カロリーナ。おじい様の追悼式か終わるまでは、もとの部屋にいるのよ」


 ジョスランからの探りだろう。セシアはそう思い、先手を打っておく。


「そう。わかったわ。では、あなたの部屋にあとで持っていくわね」


 カロリーナは気にした様子もなくそう言うと、あっさりと引き下がった。

 カロリーナがいなくなったところで、セシアはルイの腕を振りほどく勢いで距離を取る。


「……ラブラブカップルのフリをしなきゃいけないんだろ?」


 ルイが呆れたように見つめてくる。


「わ、わかってるわよ!」


 動揺したことを知られたくなくて、セシアは思わず強い口調で言い返した。


「俺の態度をどうのこうの言えた立場じゃない気がするな」

「うるさいわね、慣れてないんだからしかたがないでしょ。私は箱入り娘だから、殿方と親しくしたことなんて一度もないの!」

「……はあ」

「また私をばかにしてるわね? いいこと……」


 言い募ろうとしたセシアの頬に、ルイが不意に手を触れてくる。頬を撫でる指が伸ばされて唇をなぞる。

 突然の甘い接触にセシアは頭が真っ白になった。


「な……なななな……」

「誰かが見ている」


 ルイがセシアにだけ聞こえるように囁く。セシアは息を飲んだ。


「言いたいことがあるなら部屋で聞く。それでいいだろ?」


 そして明らかに誰かに聞かせるつもりで明瞭に言葉を放ち、再びセシアの肩を抱くと階段に向かっていった。

 セシアの視界に、サッと隠れる人影が見えた。女ものの羽織物が見えた気がしたが……カロリーナ?




 成り行き上しかたなくルイを自室に招き入れたセシアだが、ドアに張り付いて聞き耳をたて、人がいないことを確認するとすぐに彼を追い出す。

 ルイが変な顔をしたが知ったことではない。立場でいえば、当主はセシアなのだ。セシアのほうが上なのだ。セシアの方が偉い。……とでも思わなければ、もうルイに対してどう振る舞えばいいのかセシアもわからない。

 権力や立場を振りかざすのは好きではないのだ。

 かつて、自分の立場にあぐらをかいて人を傷つけ、取り返しがつかないことをしてしまったから……。


 ――疲れた……!


 今日結婚したばかりだが、あの人とどれくらいの期間、夫婦をしなければならないのだろう? できれば短い方がいい。

 左手に目をやる。どんな顔をしてあの男はこれを買ったのだろう? ご丁寧に自分の瞳の色と同じ色の宝石がついたものを用意するなんて。まあ大方、例の仏頂面で淡々と注文したのだろうけれど。


 ふと気になって、セシアは指輪をはずし、内側を覗き込んでみた。祖父の指輪には愛を誓う文字が刻んであった。あの指輪が特注品だからか、それとも既製品でも結婚指輪なら同じように文字が刻んであるのか、ちょっと気になったのだ。


「……?」


 確かに何か刻んではあるが、異国の言葉のようだ。既製品に、異国の言葉など刻むだろうか?

 よくわからないが、離縁する時に返すものだ。別に何が書いてあっても別に構わないか。セシアはそう結論を出すと、再び指輪をはめる。


 ルイの青い瞳はどうしてもクロードを思い出す。セシアは自室の居間にある大きな収納棚の一番下にある扉を開けた。その中にある箱を取り出す。


 両手で持つとぴったり収まる程度のそれは、幼い頃に父から王都の土産としてもらったからくり箱だ。箱の表面にあるピースを動かして鍵をはずすのだ。セシアは慣れた手つきで解錠し、ふたを開ける。


 中からぽろりと出てきたのは、先日イヴェールとルイからせしめた書面、そして古びた手紙と貴婦人の首元を飾る美しい首飾り。

 つい最近、これと同じものを新聞で見かけた。

 この首飾りをセシアに寄越してきたのは、誰あろうクロードだ。見たこともない父親にゆかりのもので、母から譲られたと言っていた。でも新聞には、この首飾りは王妃のものであり、王宮から盗まれたと書いてあった。

 身寄りのない、異国から来た難民母子が持っているはずがない。


 よくできた偽物?

 それとも……?


 セシアは首飾りを手に取り、しみじみと眺めた。中央には大ぶりの紅玉。重量があるので、この首飾りは本物だと思う。……だとしたら、とても高価なものになるが……。


 何気なくひっくり返してみて、セシアはそこにうっすらと文字が刻んであることに気が付いた。

 異国の文字だ。

 今の今まで気が付かなかった。

 そしてこの文字は、セシアの指輪の内側に刻まれているのと同じ特徴を持っている。


 ――どういうこと……?


 わからない。

 ルイに聞いてみようか?


 ――いいえ、必要ないわ。


 任務でつながっているだけの関係なのだ。これは自分の胸に秘めておけばいい。

 この首飾りの存在が公になると面倒なことになりそうだ、というのはなんとなくわかる。セシアが持っていることは、誰にも知られない方がいい。そんな気がする。……クロードだって「埋めろ」と指示してきていた。

 クロードは何か知っていたのかもしれない。

 でも確かめる方法はない。


 セシアはイヴェールとルイの書面に、古い手紙と首飾りを箱に入れてふたをした。そして元あった場所に戻すと、収納棚の扉を閉めた。




 九歳の時、セシアの両親が事故に巻き込まれて亡くなった。前年に祖母が亡くなっていたこともあり、息子夫婦の死は祖父にとっても大変なショックだったらしい。気丈な祖父のあまりの憔悴ぶりに、九歳ながらセシアは祖父に心配をかけまいと、できるだけものわかりのいい娘を演じた。大人に対しては涙を見せず、自分は大丈夫と言い続けたものの、本当は全然大丈夫ではなかった。


 一人隠れて泣いていると、クロードが必ず姿を現した。何も言わずにそばにいて、セシアが泣き止むのを待っていてくれた。泣きじゃくるセシアを、クロードは何も言わずに抱きしめて髪の毛をなでてくれていた。

 一人じゃない。お父様もお母様もいなくなってしまったけれど、私は一人じゃない。大丈夫。そう、思えるまで。


 もちろん祖父も、リンも、屋敷の使用人たちも両親を亡くしたセシアのことを気にかけてはくれたのだ。みんな優しかった。けれど大人は基本的に忙しくて、セシアの望むままに相手をしてくれるのはクロードしかいなかった。もともと、五歳年上のクロードはセシアに絶対服従の従者(要するに子守り役)だったこともあり、セシアはクロードにますますべったりくっつくようになった。


 クロードは、親友であり、兄であり、従者であり、家族だった。そして、初恋の相手でもあった。永遠に、自分と一緒にいてくれると思っていた。

 けれど、事故は起きてしまった。

 セシアが十歳の冬のことだ。


 冬の嵐がきて増水した川を見に行こうと、クロードを誘った。まだ嵐が去り切っておらず、空は曇って空気がどんよりしており、風が冷たかったことを覚えている。

 嵐が去ったあとの散策が好きだった。いろいろなものの様子が変わっているから。川の流れのそのひとつだ。穏やかな川が濁流になっている様子は、どれだけ見ても見飽きない。ずっと見ているとまるで自分が川の流れに逆らって移動しているような錯覚を起こす。

 セシアがそれを好むから、祖父もリンも、口を酸っぱくして「増水している川に近づいてはいけない」と言い聞かせていた。


「大丈夫よ、遠くから見るだけだから。それにクロードも一緒よ!」


 そう言うたびに、大人たちはクロードに「お嬢様から目を離すな」と言い、クロードは頷くのだった。

 その日もそんなやりとりをして出かけたのだ。


「セシア、あんまり体を乗り出したらだめだよ。今日は雨で濡れているから、足元が滑りやすいんだよ」


 クロードが注意をする。


「わかってるわよ。クロードは心配性ね」


 背後にいるクロードに笑って答えた。覚えている。


 普段は見られない荒々しい流れが面白くて、セシアはもう少しよく見ようと、橋から身を乗り出し――濡れていることは知っていたが、足元に溜まった枯葉がそんなに滑るとは知らなかったのだ――バランスを崩した。


 あっ、と思った時にはもうセシアの体は宙に投げ出されており、かろうじて差し伸べた右腕をクロードがつかんでくれたのだが……。


「セシア!」


 クロードがつかまえてくれてほっとしたのまつかの間、クロードも片腕では支えきれずに手が滑ってセシアは濁流に向かって落ちていった。


「セシア!!」


 クロードの叫び声と、体に突き刺さる冷たい水は、覚えている。だが次の瞬間、セシアは何かに叩きつけられ、その痛みで気を失った。




 クロードがいるから大丈夫。

 一人なら……あるいはほかの人と一緒なら、セシアもごうごうと流れる川を覗き込もうとは思わなかったに違いない。でも側にいるのはクロードだから。

 そんな気持ちがあったのは否めない。




 目が覚めたのは事故から三日ほどたってからだ。セシアはアルスターで一番大きい病院に運ばれていた。

 聞けばセシアは増水した川に落ち、クロードが追いかけて川の中から引っ張り上げてくれたのだという。二人して流されてもおかしくなかったにもかかわらず、クロードは濁流からセシアを引き上げてくれた。しかし、流木に挟まれて浮かんでいたセシアの体は傷だらけで、特に腹部から大量の血が滴っていた。


 セシアを冬空の下に置きっぱなしで助けを呼んだら間に合わない。クロードはそう判断し、セシアをおんぶしてようよう屋敷に戻ったのだが、その時にはおんぶの衝撃で傷口がさらに大きく開いており、血まみれで体が冷え切っていたセシアは瀕死の状態だった。

 リンは「助からないと思った」そうだ。


 けれど自分は助かった。それはクロードのおかげだ。彼はどうしているだろう? セシアを助けるために川に飛び込んだという彼は、けがをしなかったのだろうか?


 セシアはクロードのことが気になり、意識が戻ってからしょっちゅうリンにたずねたのだが、言葉を濁してきちんと答えてくれない。何かおかしいと気付いて、祖父が見舞いに来た際に聞いてみたら、あの二人は屋敷から追い出したという返事だった。


 あまりのことに、そのあとの記憶は残っていない。


 気が付いたら病室のベッドで、セシアは泣いていた。

 そばにいたリンが、しぶしぶという形で、事の顛末を教えてくれた。


 もともと祖父は、異国人であるクロード母子をよく思っていなかったらしい。ルイーズが母子に目をかけていたこと、セシアがクロードに懐いていたことによって屋敷に置いていたのだそうだ。しかし、セシアに大けがをさせてしまったことを理由に、やはり素性のわからない異国人を屋敷に置いておけないと、二人を解雇してアルスターの外に追い出してしまったのだという。

 クロードに非はない、とリンは一生懸命止めたらしいが、祖父は息子夫婦の忘れ形見の命を危険にさらしたことが許せなかったようだ。


 リンからその話を聞いたあと、祖父が見舞いに来るたびに、クロードは悪くない、助けてくれようとしたのだと言ったが、聞き入れてもらえなかった。そのうち、クロードの名前を出すだけでイライラし始め、「そもそも、どこの生まれともわからない人間をセシアに近づけたのが間違いだったのだ。この話はもうなしだ」で話を打ち切られた。

 その後は取り合ってもくれなかった。


 あの日、悪かったのは自分なのに。

 クロードは注意してくれた。聞かなかったのは自分なのに。

 どうしてクロードが去らなければならないの?


 二人の行方を知りたくて、リンを経由してクロード達がかつていたという貧困院にも問い合わせてみたが、二人はそこにはいなかった。


「お嬢様、もうこうなったらクロードの行方はわかりませんよ」


 リンの憐れみを含んだ声に、セシアは泣いた。

 両親を失った時と同じくらい、幼いセシアは泣いた。

 クロードは、親友であり、兄であり、従者であり、家族だった。大好きだった。永遠に、自分と一緒にいてくれると思っていた。


 クロードが今どうしているか知りたい。セシアはしつこくリンにこれからのクロードのことを聞き、苦労の多い人生をたどるだろうことをやんわりと教えてもらった。クロードの身の上では、きちんとした仕事には就けないのだという。その時、初めてセシアは、難民たちが置かれている現実を知った。その中でもアレクシアのような「夫のいない子連れ女性」は本当に立場が弱いのだと。


「アレクシアはまだいいほうですよ。クロードが男の子ですからね」


 リンはそう言っていたが、難民は自国民と同じような仕事に就くことは難しい。さらにアレクシアはもともと体が弱いため、クロードが一人で稼がなくてはならないということも教えてもらい、セシアは目の前が真っ暗になった。

 自分のわがままでクロードの人生を潰してしまったのだ。あの日、自分がわがままさえ言わなければ、クロードはここにいてくれたのに……!


 それ以来、セシアはすっかりおとなしくなってしまった。祖父はセシアのおてんばぶりが落ち着いたことを評価してくれたが、成長したからおとなしくなったわけではない。けがの後遺症もあるが、何より、クロードの不在が堪えた。


 クロードがいなくなって三度目の冬のある日、セシアのもとに、一通の手紙が届いた。

 中からは首飾りの飾り部分と、一枚の封筒。


『セシアへ


 傷の具合はどうですか。

 これは母から譲られたものですが、自分が持っていてもどうしようもないので、母が好きだったアルスターの森のどこかに埋めてやってください。


 クロード』


 文章から察するに、アレクシアは亡くなったようだ。

 ここにいればもしかしたらクロードの母は死ななくて済んだかもしれない。クロードの住む家も、母も、セシアの無謀が奪ってしまったのだ。

 手紙にはどこにいるとも、何をしているとも書いていない。でも大切なものを自分のところに寄越してくるということは、クロードの身にも何かあったに違いない。けれどクロードの現在は何もわからない。


 セシアは手紙を抱きしめて泣いた。自分のせいなのだ。最後には、母親の形見の品までセシアが奪うことになってしまった。

 首飾りは埋めてくれと書いてあったが、そんなことができるはずもない。


 セシアは手紙と首飾りを、両親からもらったからくり箱に入れて収納棚の奥にしまった。今となってはクロードと自分をつなぐ唯一のものだからだ。そして時々取り出して眺めては、クロードを思った。


 ――今、あなたはどこで何をしているの?


 クロードがいなくなって十二年。

 けがは成長とともに多少よくなったものの、体は元通りにはならなかった。それは愚かだった幼いあの日の自分への罰なのだと思う。

 濁流に近づくなと言われていた。クロードは危ないと注意してくれた。

 守らなかったのは自分。

 そして大切なものを失った。


 そのことに気付いて以降、セシアは奉仕活動に力を入れてきた。時期的にリーズ半島での戦いが始まったこともあり、生活に困窮する人々が目に見えて増えてきたのもきっかけのひとつだ。特に貧困院に身を寄せる子どもたち。罪もないのに戦争の影響を一番大きく受ける小さな背中は、クロードを彷彿とさせる。


 クロードの母アレクシアは頑として何も語らなかったというが、アレクシアが故郷を追われた時期とクロードを身ごもった時期は重なる。彼女の生まれたイオニア王国はすでにロレンシア帝国に飲み込まれ、存在しない。蹂躙された小国の人々の扱いは、それは悲惨なものだ。……セシアが生まれる前のできごととはいえ、イオニアの様子は伝え聞いている。

 着の身着のまま逃れてきて、このアルスターの貧困院に運ばれてきたアレクシアのおなかは、大きくふくらんでいた。


 自分は今、貧困院にいる子どもたちの未来を明るいものに変えることができる立場にいる。そのひとつが工場の誘致だ。身寄りがないからという理由で最下層になるのはおかしい。アルスターの貧困院にいる子たちは、誰一人として、その日暮らしなんてさせない。


 使えるものはなんでも使おうと思った。自分の立場も、クロードを追いやった祖父の名前も使おうと。「結婚しない」は覚悟のつもりでもあったが、願掛けの意味もあった。それだけの覚悟をもって臨めば、きっと夢は叶う……と。もちろん、傷跡を見られたくないというのもあるが。


 けれど、祖父は突然いなくなってしまった。もう少しの間、助けてほしかったのに。一人では、うまくやれる自信なんてない。現実が甘くないことはよく知っている。

 そして目の前にルイが現れた。

 外見がクロードを想起させるルイは、セシアの心の傷を抉る。自分の傲慢さ、愚かさ、そういったものを突き付ける。彼のそっけない態度もあるが、ここまで反発心を覚えるのはクロードに似ているせいだと自分でも気が付いている。だからこそ、大人の態度を取れない自分がいやになる。


 ルイを避けたい。

 でもできない。

 人生はうまくいかないものだ。


 夕方、カロリーナがセシアのもとに結婚のお祝いを持ってきてくれた。

 開けてみてびっくり、それはなんともセクシーな下着で、思わず固まったセシアである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る