第8話 祖父の遺言 3

「え……」

「なんだと?」


 セシアとジョスランが同時に声を上げる。


「なんだ、その遺言は。本当に父上が残したものなのか!?」


 ひったくる勢いでジョスランがシモンの手から遺言状を奪い、目を落とす。


「……ばかな。こんなばかな遺言があるか。僕は認めない……!」


 しかし書いてあることはシモンが読み上げた通りなのだろう、ジョスランが遺言をぐしゃぐしゃに丸めると祖父が埋葬されたばかりの土山に向かって投げつけた。


「ジョスラン様。それは旦那様への冒涜行為ですよ」


 トーマがたしなめる。


「なぜ僕ではなくセシアが!? おかしいだろう。侯爵の息子は僕一人だぞ!? セシアは……それにセシアは女だ!」

「女性であっても遺言で指名されていれば家を継ぐことはできます。セシア様にはご結婚という条件がついておりますが……」

「そうだ、結婚だ! おまえは未婚で相手もいないんだったな!? ひと月以内に適当な人物を連れてきて偽装結婚なんてしてみろ、詐欺罪で訴えてやるからな」

「そんな……」


 ジョスランに指を差され、セシアは困惑したような声を上げる。


「これから追悼式までの一か月は喪に服す期間だからな、セシアは屋敷から一歩も出るなよ! おまえあての面会には僕も同席する」

「ジョスラン様、セシア様への干渉が行き過ぎますと、逆にジョスラン様のお立場が悪くなりますよ……欠格事由という言葉をご存じですか?」

「けっかく……?」


 シモンの言葉に、ジョスランがきょとんとなる。


「被相続人や他の相続人に対して詐欺や脅迫などを用いたり、危害を加えたりすると、相続人としての権利を失うおそれがあるのです。セシア様の行動を制限するために部屋から出さない、人との面会を許さないというのは十分、脅迫に当たります」

「……っ」


 ジョスランがセシアを睨む。視線で人を殺せるのなら、セシアはこの一睨みで絶命していただろう。そう思わせるほど憎しみのこもった視線だった。

 セシアはその恐ろしさに、身動きが取れなくなる。


 ――この人は……本当に……?


 ずっと違和感があった。ジョスランに対する違和感。それがはっきりした。

 ジョスランは……祖父の死を嘆いていないのだ……。


 ――やはり、おじい様は……。


 体の底から震えがこみあげる。

 誰かに相談しなければ。誰に。そう、弁護士のシモン。それから、執事のトーマ。ああ……なんということなのだろう。


「……一か月以内にセシアが結婚しなければ、ドワーズ家はどうなる?」


 ジョスランがシモンにたずねる。


「その場合は、法定通りジョスラン様が相続人になります」

「セシアの取り分は」

「遺言書には指定してありません」

「ふん……。では、セシアが結婚して無事にドワーズ家を継いだとして、次の相続人は誰になる?」

「財産はセシア様が受け継ぐことになりますから、セシア様が指定しなければ、御夫君ではなくセシア様に一番近い血縁者になります。お子様がいらっしゃれば、お子様になります」

「……なるほど」


 ジョスランの視線が再びセシアに向く。

 足元がぐにゃぐにゃする。ふらりとなったセシアを、あわててトーマが近づいてきて支える。


「……いいだろう。いいだろう、それで。行くぞカロリーナ。もう用はない」

「相続の手続きはモーリス様の追悼式終了後に開始いたします」


 さっさと踵を返すジョスランと、そんなジョスランに慌てたようについていくカロリーナに向け、シモンが声をかける。

 あまりの出来事に、セシアはもう何も考えられなかった。




 屋敷に戻ってみれば、ジョスラン夫妻はすでに荷づくりの最中だった。なんでも今夜の夜行に乗って王都に戻るのだという。近親者のみで行う会食にも参加しないというので、会食の主宰はセシアがつとめた。

 会食まで残ってくれた親類を送り出し、家族用の居間に戻ってぐったりしていたところに、トーマが飲み物を持って現れる。


「おじい様はいつ、この遺言を書かれたの?」

「先々月……あたりでしょうかね」


 トーマがセシアの前に飲み物を置きながら教えてくれた。


「本当に最近なのね」

「マデリーの売買契約書を見て心を決めたようです。だからセシア様を王都に引っ張って行ったんですよ。今年の夏にお相手を決め手しまえば、いつ何があっても大丈夫だと」

「ねえ待って……でも私が他家に嫁いでしまえば、どのみちこの家は」


 トーマの言葉に違和感を覚え、セシアはソファから体を起こした。


「セシア様の結婚に際しては、初めから婿養子で考えていらっしゃったようです。もし、ジョエル様がご存命だとしても、セシア様のご結婚は御夫君をこの家に迎えることになったでしょう。一人娘ですから」

「……そう……、おじい様は……、お父様が生きていらっしゃった場合の扱いにしてくださったのね」


 祖父はセシアを次期侯爵の一人娘として扱ってくれたのだ。父が亡くなってずいぶんたつのに。


「旦那様も迷われていたようですけれどね。セシア様をドワーズ侯爵夫人、つまり女主人に指名してしまうと、アルスターに関するすべてに責任を負うことになりますから。ただ、やはり、ジョスラン様の行動にも不安を感じていらっしゃったようで……それで結婚を条件に。セシア様お一人でなければ、領主にふさわしい人物を御夫君に迎えれば……と」

「それなんだけれど」


 セシアは、墓地で感じた恐怖についてトーマに話すことにした。




「……旦那様が殺された可能性……ですか」


 一通り話を聞き終えたトーマは、難しい顔をする。


「しかしもし旦那様の死が毒物によるものだとしたら、真っ先に疑われるのはジョスラン様ではないですか? わたしとしては、そんなにわかりやすい犯行に出るのかな、という気がしますが」

「そうね。それは叔父様も言っていらしたわ。でも、疑わしくても証拠がなければ、つかまらないとも、ね。それに、おじい様は心臓が弱くなっていたのも事実……」


 セシアが消え入るように呟く。


「これは私の被害妄想だと思う?」

「……旦那様の遺書公開時の様子から考えるに、ジョスラン様がこの家を継ぐつもりでいらっしゃったのは間違いないでしょう。しかし……そのために旦那様を……? ジョスラン様にとって実の父親ですよ、旦那様は」

「そうね。私の考えすぎに違いないわね」


 懐疑的なトーマの様子に、セシアは頭を振った。


「ジョスラン様が感情的になっているせいでしょう。でも、お父上が生きていらっしゃれば、セシア様がこの家を継ぐことになったのです。ジョスラン様に負い目を感じることはありませんよ」


 トーマが言う。


「とにかく、ここ数日はお忙しくされておりましたので、本日はごゆっくりお休みください。葬儀はすべて終わりましたので、あとはわたしのほうで片付けをしておきます」

「そうね……お願いするわ」


 セシアが頷いた時、トーマを呼ぶジョスランの声が聞こえた。

 トーマがジョスランの声に応えて居間を出ていく。

 居間に誰もいなくなると、セシアは再びぐったりとソファにもたれかかり、目を閉じた。




 夢を見た。

 セシアは森の中にいた。きらきらと木漏れ日がまぶしい、初夏の森。ああ見覚えがある、これはアルスターの森。屋敷からほど近いところにある、大きな森だ。決して一人で行ってはいけない、絶対に奥に入ってはいけないよと、大人たちが口を酸っぱくして言っていた。


 この森に出かけるのが大好きだった。

 特に初夏の森は夏の日差しに鮮やかな緑がきらめいて、美しい景色が楽しめる。森の奥は暗く、見通しがきかない。それはまるで異界への入り口のようで、ちょっぴりわくわくした。あの向こう側には何があるのだろう? もちろん、森の奥に入ることは禁じられていた。

 だからいつも「ここまでなら近づいてもいい」というギリギリの場所までクロードにせがんで連れてきてもらっていたが、いろんなものに夢中になるうちにたいていクロードとはぐれて、セシアは一人迷子になっているのだ。


 そのたびに、クロードがセシアを見つけてくれた。彼の姿が見えた時の安堵感はたとえようもない。毎回見つけてくれるクロードはまるで、絵本の中でお姫様を守ってくれる騎士のよう。

 本人には恥ずかしくて言えないが、毎回そう思っていた。


 目の前にクロードの背中がある。頭の後ろで束ねている銀髪がしっぽのように揺れる。


「ちゃんとお屋敷に着く?」


 見渡す限り木々に囲まれ、人の気配がない。本当にこの道であっているのか不安になって、セシアは思わず前にいるクロードにたずねた。


「大丈夫だよ、道を覚えているから」


 クロードが振り返って言う。見た目は十二、三歳。少女といっても通用する、整った顔立ちの銀髪の少年。自分の声もなんだか高いし、視線はいつもより低い。足元を見ると、つま先まで隠すドレスではなく、七分丈のワンピースにブーツをはいていた。

 これは夢だ。子どもの頃の夢。

 幸せだった頃の夢。まだ両親が健在で、クロードもお屋敷にいて。あのけがもまだ負っていない。


「本当に?」

「本当だよ」

「私を置いていかない?」


 セシアの言葉に、クロードがびっくりしたような顔をする。


「置いていかないよ……なんで? 今まで、一度だってセシアを置いていったことなんかないじゃないか。セシアが俺を置いていったことなら何度もあるけど」

「わからない」


 確かにそうだ。セシアの子守りを任されているクロードが、セシアを一人にしたことは一度もない。……逆に、セシアが一人で駆け出して置いていったことは、何度もある……。

 でもなぜだろう……怖くてたまらない。幸せな夢のはずなのに、怖くてたまらない。


「じゃあ、手をつなごう、セシア」


 クロードが手を差し伸べて来る。


「手をつないでおけば、一人ぼっちにはならないから」


 セシアは小さな手をクロードに伸ばした。




 けれど、


「セシア!!」


 場面が急転換する。


 爽やかな初夏の空気がいきなり、体を切り裂くほど冷たい北風に代わる。空は今にも泣きだしそうな曇天。

 強く風が吹いている。


 クロードがセシアの手をつかむ。セシアの体は橋の手すりの外側にあり、クロードがつかんでいることでかろうじてぶら下がっていられた。


「クロ……、たすけ……」

「今、助けるから!」


 クロードの必死の叫びは、だが強い衝撃によってかき消されてしまう。何かがセシアの体にぶつかり、そのせいで手が離れ……、

 灰色の空、クロードの銀色の髪の毛。色のない世界に、大きく見開いたクロードの青い瞳だけが、鮮やかに浮かんで見えた。




 ズキリと右腹部に激痛が走り、セシアははっと目を開けた。

 涙が一筋、零れ落ちる。


「私……」


 部屋が薄暗くなっているせいで、自分が一瞬どこにいるのかわからなかった。

 心臓がバクバクしている。


 夢を見たのはわかった。事故の夢だ。

 遠い日の出来事だ。涙をぬぐってあたりを見回すと、自分が屋敷の居間のソファで横になっていることがわかった。部屋の外はバタバタと騒がしく、使用人たちが片付けをしているようだ。窓の外に目をやると、夕焼けが広がっていた。


 眠っていたのはそんなに長い時間ではないようだ。

 セシアは体を起こして自分の手を見つめた。


 ――一人にしないって言ってくれたのに……。


 その手を握り締める。

 つないだ手は永遠に失われた。

 自分からすべてを台無しにしたくせに、あの日からずっと、自分は迷子になっている気がする。

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