第7話 祖父の遺言 2

 午後六時過ぎ、セシアたちはアルスターの駅に降り立った。鉄道に乗る前に電報で知らせを入れておいたから、悲痛な面持ちの執事が何人かの男性使用人を引き連れて出迎えてくれる。丸一日しか離れていないのに、こんなことになるなんて誰が予想しただろうか。


「おい、荷物を運んでくれ」


 言葉も出ないセシアを無視して、ジョスランが声をかける。


「まずは旦那様をお屋敷にお連れしましょう。お話はそれからです」


 執事のトーマに促されて、セシアは頷く。祖父に長年仕えているトーマは祖父に年齢が近い。

 ジョスランたちとは分かれて馬車に乗り、アルスターの屋敷へと急ぐ。

 故郷の風景も楽しむ余裕などない。セシアは真っ青な顔をしたまま、執事と同じ馬車で屋敷に向かう。叔父は妻とともに、祖父の棺も載せて。


 屋敷につくと、メイド頭のリンがセシアを抱きしめてくれる。

 母親を早くに亡くしているセシアにとって、リンは母親代わりのようなものだ。リンの顔を見た途端にセシアは心の堰が切れてしまい、声を上げて泣き始めた。

 躾は厳しく、時には理不尽と思う指示も受けたものだが、祖父が早くに亡くした両親に代わりセシアを慈しんでくれたことは間違いない。それがわかっているから、悲しくてしかたがない。




 屋敷の居間に入れば、連絡を受けて祖父が懇意にしていた弁護士のシモンに加え、国教会の司祭の姿がすでにあった。そこにセシア、叔父夫婦、執事のトーマが加わる。

 一通り挨拶を済ませ、明日の葬儀とその後の会食の打ち合わせをする。

 明日、祖父の棺をここから教会に運び、そこで葬儀を行う。その後、ドワーズ家の墓地に埋葬する。遺言の発表はその場で行われる。埋葬後は再び屋敷に戻り、近親者で会食を行い、お開きとなる。


「おじい様はすでに遺言を書かれていたの?」


 セシアはトーマにたずねた。


「はい。少し前に……実は旦那様は、このところ心臓が弱ってきておりましてね。もしもの時のことを考えていらっしゃったようです」

「心臓……」


 トーマが悲しそうに言う。祖父の心臓が弱っていたなんて初耳だ。


「へえ、父上は心臓が……。そう聞くと納得がいくな。うちで突然倒れた時に、セシアには毒を飲ませたのだろうと言い切られたからな。まったくもって心外だ。昨日は興奮しすぎた父上の心臓が耐え切れず、発作を起こしたに違いない! 身内でなければ侮辱罪で警察に突き出してやるところだ」


 ジョスランがセシアを睨みつけてくるので、セシアは縮こまった。

 確かに毒を飲まされたと決めつけてジョスランを詰ってしまった。決めつけるのは早計だったと思う。


 ――そういえばおじい様は、健康には気を付けているつもりだけれど、いつまでもそばにいてやれるわけではない……そうおっしゃっていたわ。私に結婚を急がせたのも、心臓のことがあったからなのね……。


 そしてセシアの嫁ぎ先を具体的に見繕っている気配もあった。

 きっと遺言には、ドワーズ家をジョスランに譲り、セシアにはいくらかの財産分与があるとでも記されているのだろう。


 ――おじい様は私の嫁ぎ先を探しているようだったし。


 いよいよこの家から出なくてはならないのか。……工場誘致の話はどうなるのだろう。そして自分は、どうすればいいのだろう?

 普通に考えれば、ドワーズ家の当主になるジョスランに従って嫁ぐことになるのだろうが……。


 ズキリ、と右下腹部の傷口が痛む。

 この傷のことは……誰にも、知られたくはない。


 ――なんとか結婚を回避しなくては。




 打ち合わせ後、セシアは祖父の遺体が安置されているという応接間に向かった。

 テーブルやイスは片付けられ、がらんとした応接間の奥にいつの間にか大きな棺が設置してある。搬送用のものではない。ふたはされていなかった。


 ゆっくり近づき、中を覗き込むと、そこには祖父がいた。乱れた衣類や髪の毛は直してもらい、昨日セシアと鉄道の旅をした時の外見に戻っている。だが顔は紫色に変色したままだ。……目を閉じているのはまだ救いかもしれない。白目の部分が真っ赤に染まった祖父は、怖かったからだ。


 眠っているよう……とは言い難い顔色のせいで、祖父がもう生きていないことは明白だ。

 セシアは棺の傍らに腰を下ろし、そっと腕を伸ばして体の上で組まれた祖父の手に触れてみる。

 冷たい。

 人の体はこんなにも冷たくなるのか……。

 どうして、と思わずにはいられない。


 どうして?

 どうして、昨日の夕方までは元気だったのに。

 ジョスランには否定されたけれど、本当に心臓発作だったの?


 どんな思い返してみても、お茶を飲んだあとの祖父の行動はどこかおかしい。マナー云々の前に、まず熱いお茶を一気飲みするなんてことがおかしい。そのあと、ジョスランがマデリーの売買契約書にサインを求めたのもなんだか違和感を覚える。なぜあのタイミングでサインを求めたのだろう、それも祖父には「本物ではない」と言っていた売買契約書に、だ。


 おかしい。絶対におかしい。でも、そのあとジョスランは祖父やセシアのカップからもお茶を飲んでみせた。毒物を混入したという証拠がない……。


「お嬢様、こちらにいらっしゃいましたか」


 その時、リンが声をかけてきた。


「何か用?」

「お嬢様が明日の葬儀に着る喪服がないので、奥様の喪服が着れるかどうか確認したいんですよ」

「喪服……」


 セシアはリンの言葉をオウム返しに呟いた。

 喪服のことなんて失念していた。


「お母様の喪服が残っているのね。知らなかったわ」


 セシアがたずねると、リンが頷く。


「奥様のドレスのうち、特に仕立てのよいものは残してございますよ。もしお嬢様とサイズが合うようなら……と。でもドレスには流行がございますからね……その点、喪服はそれほど流行に左右されませんので」

「まあ、それで私はお母様のドレスの存在を知らなかったのね」


 リンに促されて応接間を出ながら、セシアが言う。


「そういえば、奥様と若旦那様の婚礼衣装も残っているんですよ」

「……お母様の花嫁のドレス?」


 二人は連れだって玄関ホールを抜け、屋敷の二階へ向かうために大きな階段をのぼる。

「わたしとしては、お嬢様にそのドレスを着てもらいたいところですけど、まあお嬢様の夫となる方の意見もありますからねえ」

「……リン、気が早いわよ。私には結婚の予定はないんだから」


 まるで結婚予定があるような口ぶりのリンに、セシアは微笑んだ。


「意中の方がいらっしゃるなら早めに決めたほうがいいですよ、お嬢様。ジョスラン様がお嬢様の幸せを願った縁談を持ってくるとは、限りませんからね……」

「……。そうね……」


 意中も何も。

 セシアは暗澹とした気持ちを抱えながら、リンのあとをついて亡き両親が使っていた部屋に向かった。両親の部屋はそのまま残してあるのだ。続きになっている衣装部屋の存在も知ってはいる。そのままにしておくように指示したのは祖父である。そして祖父が時々、その部屋で亡き両親を偲んでいるのも知っている。だからなんとなくセシアは近づいてはいけないのだと思っていた。祖父にとって大切な場所だから……と。




 祖父の葬儀の前日の夜、セシアは自分のスタイルが母親とほぼ変わらないことを知った。


「補整は必要なさそうですね。ではこちらも、着ることができますよ」


 喪服のサイズや着心地を確認したあと、リンはセシアに豪奢な純白のドレスを出して見せてくれた。

 それは見事な花嫁衣装だった。


「……お母様は、さぞかしきれいだったでしょうね」


 もはや記憶が遠くなってしまった母の顔を思い浮かべながら、セシアは絹で出来たドレスをなでた。

 リンはセシアにこれを着てほしいようだが、きっとセシアがこのドレスを着ることはない。でもここに置いておくことはできない。もし家を出ることになったら、母の花嫁衣装は持って出よう。


   ***


 翌朝、セシアは母の喪服をまとって祖父の葬儀に参列した。

 葬儀はジョスランが取り仕切ると言い張ったが、祖父は遺書だけでなく葬儀の手順についてもあらかじめ指示を残していた。それに従い、執事のトーマが葬儀を取り仕切ることになった。

 なんて段取りがいいのだろう。まるで祖父は自分の死を予見していたようではないか。


 ――まさか……。


 健康が取り柄だった祖父にとって、心臓が弱まりつつあることは認めたくない事実だったのかもしれないし、人に知られたくないことだったのかもしれない。セシアの腹部の傷のように。


 だが、祖父が葬儀の手順を細かく指示してくれていたおかげで、トーマは迷うことなく準備ができたようだ。セシアが部屋で寝ている間に教会や近くの親類に連絡を入れ、地域に連絡を回す。空調設備もなければ防腐処理もできない時代である、遺体が傷む前に埋葬まで終えなくてはならないため、基本的に連絡を受けてすぐに駆けつけられない距離にいる人間に対しての訃報は、葬儀後になるのが一般的だった。遠方の人たちのお別れは、葬儀からひと月後の追悼式だ。


 だから葬儀は血縁者や故人ゆかりの人よりも、地域の人間のほうが多くなる。

 棺を外に出すべく屋敷の玄関を出たところで、祖父の葬儀のために大勢の人が集まっていることに気付いた。アルスターの人たちだ。


 改めてセシアは祖父が領地で慕われていた領主だったのだと思い知った。

 ちらりと自分の前にいるジョスランを見る。神妙な顔をしているが、どうにも違和感が拭えない。なんなのだろう……?


 ――考えすぎかしら。




 集まった人々と一緒に祖父の棺を教会に運ぶ。長い列ができた。教会から弔いの鐘の音が聞こえる。葬列に加わらないまでも、多くの人が葬列を見送るべく道端に現れた。


 たどり着いた教会でいよいよ別れの祈りを捧げる。棺のふたが閉められ、釘を打ち付けられる前にセシアは手紙を入れた。突然の別れであり、祖父にきちんと気持ちを伝えられなかったからだ。本当は何か品物を入れたかったのだが、何を入れたら祖父が喜ぶのか思い浮ばなかったのである。


 やがて棺はふたをされ、ドワーズ家の人々が眠る墓地へ移された。あらかじめ掘ってあった場所に棺を納め、参列者が花を供える。その上から土がかぶせられ、やがて祖父の棺は見えなくなった。


 天国へ旅立ったのだ。悲しいことではない。祖父が会いたがっていた祖母も、セシアの両親も、みんな天国にいる。だから悲しいことではない……悲しいことではないけれど、涙が止まらない。

 黒いベールの下、セシアはこぼれる涙を何度も何度もハンカチでぬぐった。


「では、ドワーズ侯爵モーリス様の遺言をここに発表します」


 埋葬が終わり、参列者が近親者のみになったところで、弁護士のシモンが祖父の遺言状を取り出しておもむろに広げた。




「次男ジョスランに貸与している財産はジョスランに相続させるものとし、それ以外の爵位を含めたドワーズ家のすべての財産は、孫娘セシアに相続させるものとする。ただし自分の死後一か月以内にセシアが結婚し、子孫を残せる場合に限る」

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