第6話 祖父の遺言 1
カロリーナが水を持っても祖父は水を飲むことはなく、ジョスランとセシアは床に膝をつき、のたうちまわる祖父を二人がかりで押さえ続けた。
どれくらいそうしていただろう。
「おじい様……?」
やがて痙攣は鎮まり……。
「おじい様!?」
セシアの呼びかけに、祖父はもう答えなかった。紫色に変色した顔に、見開かれた目は充血で真っ赤に染まり、口元は吹き出した泡が筋となって垂れている。苦しさで暴れたためにシャツのボタンはちぎれ、まるで誰かに襲われたかのよう。
凛としたたたずまいしか知らないセシアにとって、それは世にも恐ろしい姿だった。
信じられなかった。
思わず祖父の頬に触れる。
まだあたたかい。
なのに、呼吸をしていない。
つい一時間前までセシアの隣にいて、いつも通りに会話を交わしていたのに。
あまりのことに、セシアの瞳からぽろりと涙が一粒零れ落ちた。
「なんてこった……」
床に座り込み、呆然とジョスランが呟く。
セシアはジョスランに目を向けた。
ジョスランも驚きを隠せない様子ではある。だが、セシアは先ほどの祖父の異常行動を覚えていた。お茶を一気飲みしたあと、ジョスランは「業者の冗談」と笑ってみせたマデリーの売買契約書を、祖父の前に置いて祖父にサインを求めた。冗談であればサインなんて必要がない。
マデリーはもちろん、このタウンハウスもジョスランに「祖父が貸し与えている」だけのものであり、名義は祖父にある。祖父の資産を勝手に売却することはできないから、祖父のサインを求めたに違いない。
ジョスランは現在進行形で金に困っており、マデリーを売るつもりだったのだ。セシアはそう結論付けた。
だから祖父に……!
「なんでこんなことに……」
「叔父様が、毒を入れたんでしょう!?」
セシアは祖父の体に手を置いたまま、ジョスランを睨んだ。
「どうしてそうなる?」
ジョスランがぎろりとセシアを睨む。
「だって、おかしいもの! お茶を飲むまでおじい様はなんともなかったわ。このお茶に、毒が入っているのよ! あの蜂蜜があやしいわ! だって、叔父様はお茶を飲んでいないもの!!」
セシアはテーブルに残されているティーカップを睨んだ。
「毒だと? 言いがかりはよせ。なんで自分の父親に毒を飲ませる」
「売るつもりだったからでしょう、マデリーを。その契約書は本物で、おじい様が邪魔だから毒を飲ませたのよ! だからサインを……サイン……!?」
毒を飲ませて殺すつもりなら、サインなんて求めるだろうか……?
セシアはジョスランの行動が矛盾していることに気付いて、混乱してきた。
「バカなことを言うな! 僕がそんなわかりやすい罪を犯すわけがないだろう? だいたい待てばドワーズ家の財産は僕のものになるんだぞ!?」
「だ、だったらどうして、今、おじい様にサインを求めたの! おかしいじゃない! それは本物じゃないみたいに言ったくせに、さっきはおじい様にサインを求めた!」
矛盾を無視してセシアが叫ぶと、
「へえ。僕が、父上にサインを要求したという証拠は?」
「……証拠?」
「証拠だよ。セシア、おまえは今、憶測で話をしているんだよ。わかるかい? 証拠がなければ、何も事実だとは証明できないんだよ。おまえは何を証拠に、僕が父上にサインを求めたと?」
叔父がセシアを睨んだまま立ち上がる。
「わ、私が見たわ……」
「見たという証拠は?」
震えながら答えたセシアに、ジョスランが強い口調で問う。
「……ッ。私が見たことは証拠にならないの!?」
思わずセシアは大声で言い返した。
「客観的に、誰が見ても納得できる証拠なのか? 気のせいなのでは? それとも僕を犯人にしたいだけの虚言である可能性は?」
「どうしてそんなこと……ッ」
ジョスランの誘導に、セシアが目つきを険しくする。
「まあいい、では客観的に証明してやろう。このお茶に毒物が混入しているかを知りたいんだったな」
そう言うと叔父は、自分自身のカップを持つとぐい、と飲み干した。
「……おまえはあの蜂蜜を疑っているんだろう。僕のカップにも入れたのは見たな? 父上は、すぐに具合が悪くなった。僕は、この通りだ」
空になったカップをわざわざセシアに見せたあとテーブルに戻し、ジョスランが肩をすくめる。そしてカロリーナを振り返り、
「見たか、カロリーナ? 僕はお茶を飲んだ」
そうたずねる。彼の妻はこくこくと頷いてみせた。
第三者の証言……。
先ほどのサインには第三者の証言がないから、客観性がないというのか。
「……私のも飲んでみてください。口はつけてないわ」
セシアが震える声で言えば、ジョスランはセシアのカップを持って、とっくに冷めたお茶を一気にあおった。
「お茶そのものにも問題がないことが証明されたな……僕は無実だ。めったなことを言うな」
カップをさかさまにして振って見せたあと、ジョスランが低くうめく。
「だいたい、僕が父上を殺すわけがない。借金癖のある放蕩息子を訪ねたら、その場で父親が亡くなりました? 中央広場の芝居小屋ですらもう少しまともな筋書をするだろ?」
うぐ、とセシアは返事に詰まる。
だが、お茶を飲んでから祖父の様子がおかしくなったのは間違いないのだ。
――でも叔父様は、それを「なかった」ことにしようとしているわ……。
あやしい。何かある。でも、
――証拠がない。
その場にいたのは、祖父、ジョスラン、セシアの三人。ジョスランとセシアの証言が食い違っている……客観的に証明してくれる人はいない……。
何を証拠として出せば、祖父が叔父に殺されたかもしれないと証明できるのだろう。
祖父は間違いなくお茶に混ぜられた何かに反応して倒れた。けれど、それはお茶でもカップでもないところに入れられていた。
――どういうことなの……?
「医者を呼んでくれ、カロリーナ」
叔父が立ち上がり、部屋の真ん中で立ち尽くしたままのカロリーナに指示をする。
何が証拠になるの?
セシアも立ち上がり、部屋を見回した。
――おじい様のカップ!
だが食器類はセシアが手に取る前に、ジョスランが回収してワゴンに乗せてしまう。
「片付けなさい」
カロリーナが部屋を出て行くタイミングで、ジョスランが部屋の外に声をかける。目をやれば、騒動に気付いて部屋の前にやってきた使用人の影がちらほらと見えた。
「証拠隠滅をはかったのね」
セシアはジョスランを睨んだ。
「証拠隠滅だと? さっき、すべてのお茶を飲んでみせた。この通り僕はなんともない。おまえの妄言に付き合っている暇はない」
ジョスランが吐き捨てるように言い、背を向けて屋敷の人たちに追加の指示を出していく。
証拠がどんどん失われていく。どうしよう。
気持ちばかり焦るが、どうすることもできず、セシアはきれいに片付けられていく部屋を見つめていた。やがて呼ばれた医師が祖父の死を認め、ジョスランが明日朝までに祖父を運ぶための簡易的な棺を用意するようにことになった。棺が届き次第、鉄道を使ってアルスターに戻るという。
その日の夜、セシアは祖父が取っていたホテルに先に行かせた使用人とともに宿泊し、翌日、荷ほどきをしないままの荷物を持って搬送用の棺に納められた祖父、そして叔父夫妻とともにアルスターへ戻ることになった。
***
キルス中央駅。
東の最果て、グレンバーからキルスまでは約十二時間の旅である。時間が長すぎるので夜行を利用し、ルイは鞄ひとつを持って早朝の王都に降り立った。
王都に来るのは久しぶりだ。
ここへ来ると、どうしてもドワーズ家のタウンハウスを見に行ってしまう。あそこにいるのはセシアではない。セシアが生まれる前からセシアの叔父、ドワーズ侯爵の次男ジョスランが暮らしているので、セシアとは縁がない場所なのに。
セシアに関しては、毎年、婚約の知らせが出ていないかも確認してしまう。
妄執というのだろう。
セシアがどうしているか知ったところで、自分にはどうすることもできないのに。
かつて子守りをしていたあの少女。明るくておてんばで、アルスターにいた頃の思い出のほとんどはセシアでできている。
侯爵家という特権階級に生まれ、祖父母にも両親にも愛されていた。祖国を追われ父にも捨てられた自分とは違う……その屈託のなさが憎らしくもあり、眩しくもあり、愛おしくもあった。お屋敷のお嬢様と使用人の息子という関係上、セシアは自分に対して少しわがままではあった。こっちの都合は無視して呼びつけてくるし、無茶な要求も多かった。
だがセシアは両親を亡くした時、まわりに心配をかけまいと人前では泣かずに、誰もいないところで一人泣くことができる娘でもある。両親のいない寂しさを押し隠して明るく振る舞う子だと、知っている。
自分がもらったお菓子やお土産を、自分に分けてくれる子なのだ。
あの子はとても優しい。あの子の優しさがほしくて、大切なものを隠したり、わざと置き去りにしたりなど、いつも少しだけ意地悪をした。
まったく、小賢しいことをしていたものだ。
だから、アルスターを追い出された理由が「卑しい難民がセシアに近づいてけがをさせたことは断じて許さない」だったのには……正直、自分の気持ちが見抜かれていたのかと思って笑ってしまった。
かわいいセシア。あの子の菫色の瞳が自分に向けばいいと、ずっと考えていたから。
近づけるはずもない。自分はこの国には居場所がない異国人で、難民で。彼女は侯爵家の一人娘で。
けれど、自分はもう過去を捨てた。それにとても人に言えないようなことをしてきた自覚もある。
今さらだ。セシアに対して名乗り出たり、接触したりしようとは思わない。
時計の針は午前九時過ぎを指している。何かするにしても早すぎるので、ルイはまずドワーズ家のタウンハウスに向かった。
来るたびに王都の眺めは変わっている。かつては栄華を誇った大きな帝国の首都だっただけあり、歴史ある建造物が多い。そこに新しい建物が次々とできているのだ。時の移ろいを実感しながら、ルイは王都中心部をぐるりと一周するように敷設された路面電車に乗った。
華やかで活気に満ちた王都ではそうでもないのだが、地方都市に行くと殺伐とした雰囲気になってくる。戦争の影響は地方ほど色濃い。
そろそろ降りる停留所が近いな、と思いながら何気なく通りを眺めていた時だった。
見覚えのある人物が行き交う人混みの中にいることに気付く。
ルイはあわてて自分の前にいる乗客を押しのけ、窓の外を覗いた。押された乗客が毒づくが、知ったことではない。
――あいつは……!
フェルトンではないか?
ジャン・フェルトンはルイも見たことがある。ひょろりとした体躯、明るい色の髪の毛。病的なほど白い肌。間違いない。
おそらく王都にいる。だが足取りはつかめない。そう言われた標的があっさり見つかったことに、ルイは驚きを隠せない。
とにかくあいつを追わなければ。
フェルトンがどんどん遠ざかる。ルイはあわてて下車のベルを鳴らした。ほどなくして路面電車がスピードを落とし始める。人を押しのけるようにして強引に乗降口に向かい、小銭を料金箱に入れるのももどかしく路面電車から飛び降りた。鞄を抱え直し、先ほどフェルトンを見かけた場所まで走って戻る。
――いない。どこだ?
あいつはさっき、路面電車とは反対方向に向かって歩いていた。
なら、こっちか。
あたりをつけて再び走り出す。
王都は人も多ければ、隙間のような路地も多い。追いかけっこの舞台としては難易度が高い場所である。そんな路地をひとつひとつ確認しながら移動していくルイのすぐ目の前に、不意にフェルトンの後ろ姿が現れた。ぶつかりかけ、あわててフェルトンから距離を取る。遠くに行ったのではと焦って速足で探していたせいで、思いがけず近づいてしまったらしい。
――気付かれてはいないな……?
あわや衝突という距離にまで近づいてしまったにもかかわらず、フェルトンはルイに気付かなかった。フェルトン本人もまたルイのことは知っている。リーズ半島でも司令部でも顔を合わせたことがある。
捕虜を実験動物のように扱う男だ。虫唾が走る。もっとも自分のしてきたことを思えば、人のことは言えないが。
――油断しすぎじゃないか? それとも、護衛でもついているのか?
そう思うルイの前でフェルトンは立ち止まり、一軒の屋敷の裏口のドアを開ける。使用人たちが使うドアだ。
その屋敷を見上げ、ルイは凍り付いた。裏側から近づいてきたので気が付かなかったが、これはもしかしてここは……。
あわてて表通りに向かい、そこから建物を見上げ直す。
葡萄に蔦が絡まった紋章。それは、ドワーズ家の紋章。
「なんだと……?」
ルイは、思わず呟いた。
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