第5話 トレヴァー少尉の事情 2

 長い廊下を歩きながら、ルイは「面倒なことになったな」と思った。

 

 アレンはまだ自分が使えると思っている。……この腕でいったい何ができるというのか。

 手になじんだサーベルですら重いと感じるし、元通りに扱うことはできなくなってしまった。それどころか、まともにペンすら握れなくなってしまったというのに。


 ――今年で九年か……。


 先ほどのアレンとの会話を思い出す。

 工作員としてはまあ、長生きしたほうだなと思う。




 それまで住んでいた屋敷を追い出されたのは十五歳の時。

 十五歳になるまで、王国南東部アルスターのドワーズ侯爵邸に母とともに住んでいた。

 貧困院で死にかけていた、異国出身の戦争難民である自分たちを引き取ってくれた侯爵家の夫人には感謝している。そこで母は使用人をし、自分は屋敷の雑用のほかに、侯爵家の一人娘の相手をしながら十五歳まで過ごした。

 そして十五歳の冬。


 子守りを任せられていた侯爵家の一人娘が、嵐で増水した川に足を滑らせて落ちてしまった。助けようと手をつかんだのだが、引き上げることはできず、娘は濁流にのまれた。

 子守りは自分の仕事。この国では厄介者である異国の難民の自分を信頼してくれた人たちのためにも、自分たちの暮らしのためにも、娘の安全は絶対に守らなくてはならない。だから、必死で探した。生きていてくれと願いながら。


 どれくらい下流にいっただろうか、溜まった流木に挟まれるようにして浮いている娘を見つけ、濁流に飛び込んで引き上げたものの、どこかで大けがをしたのだろう、娘の腹からは大量に血が流れ出ていた。


 どうやって屋敷まで戻ったのかは覚えていない。


 自分もそれなりにけがをしていて、ずぶぬれになっていたのだが放置された。あの時の屋敷は、とにかく大けがをした娘を助けることに手一杯だった。夜遅く、執事が風呂に入れて着替えさせ、手当もしてくれたが、それは自分を思いやってのことではなかった。多少見れる姿になったところで当主の書斎に呼び出され、「侯爵家の一人娘にけがをさせた罰だ。今すぐ出て行け。領地に近づくな」と告げられたのだ。


 今すぐ?

 真夜中なのに?


 侯爵に荷物を捨てられてしまう前に、と執事が言うので母と二人、大急ぎで荷物をまとめ、使用人の一人が操る荷馬車に乗せられてその夜のうちに領地から追い出された。

 また貧困院を頼ることになるなんてね、と母が力なく笑う。悔しくてたまらなかった。どうして娘の命を助けたのに、追い出されなくてはならない? どうして事故とは無関係の母まで追い出されなくてはならない?


 外国人だから?

 父親がいないから?


 非情な仕打ちをしてきたドワーズ侯爵に対して強い恨みの気持ちが芽生えたのは、しかたがないことだ。

 いつか復讐してやる。具体的に何をすればドワーズ侯爵に対して復讐を果たせるのかわからなかったが、貧困院にたどり着いて保護を求め、院長の蔑むような視線を見た時にそう誓った。

 貧困院は領主によって運営されているが、資金はギリギリで自国の人々を受け入れるだけで精いっぱいだったのだ。

 貧困院にとっていつまでも出ていかない可能性がある外国人難民は、いい迷惑でしかない。


 もともと体が弱い母は貧困院の衛生的とはいえない環境と、そこで出される貧しい食事にみるみる体調を崩してしまった。

 こんなところに長居はできない。出ていかなくては。そのためには金が必要だ。

 仕事を探したが、世間は甘くはなかった。


 大陸の北で戦争が起きて難民が流れ込んだこの国では、そのせいで治安が悪くなったり自国民の仕事が奪われたりした過去がある。そのために異国人への風当たりは強い。そんな自分ができる仕事となると、低賃金の肉体労働しかなかった。


 まずは港で荷物運びをやった。中身については知らない。荷運びの自分を見張る人物の柄の悪さから、きっと知らない方がいいと判断し、質問することはなかった。

 大の男でも逃げ出すきつい仕事だが、お金が必要だったから歯を食いしばった。そんな自分に見どころがあると違う仕事を持ちかけてきた男がいた。今よりまともな待遇になるならと飛びついた。それが転落の始まり。

 さらにヤバイ荷物を運ばされるようになり、やがてその荷物を運ぶ人間を見張る側になり……、落ちるのはあっという間だった。


 仕事の内容が変わるタイミングでナイフや銃の扱い方も教えてもらった。戦争に従軍していたという元兵士が「おまえは見どころがあるな」という程度には、得物の扱いが上達した。重たい荷物を抱えて運ぶよりずっと、ナイフを使って人を言いなりにするほうが楽だ。それに金になる。


 そうして働いて手に入れたお金で母を貧困院から連れ出し、小さな部屋を借りた。清潔で、あたたかい部屋だ。昼間だけ手伝ってくれる人も雇えるようになった。


 生活の質は向上したが、それに反比例するように心は荒んでいった。そんな息子を母はずっと心配していたが、仕事を失うわけにはいかない。生きていくには金が必要だからだ。

 屋敷で使用人をしていた頃の母はそれでも人並に動くことができていたのに、屋敷を追い出されてから急に弱り、三年後には立つことさえやっとになってしまった。体調を崩しやすいので、医者にもかかっている。診察料と薬代はばかにならない。

 ドワーズ侯爵への復讐は胸の内にくすぶってはいたが、目の前のことに精一杯で将来のことなんて考えられない。


 最終的には金さえもらえれば何でもやるゴロツキになり果てていた自分の前に、今まで見たこともない金額の仕事が舞い込んできた。十八歳の時だ。


「王都から来るガキを消せ」


 しかも「仕事に出ている間、母親の面倒を見る。費用はこちらで持つ」という破格の条件つきだ。

 自分のところに話が来たことを喜んだものだが、あとから思えば同業者は不気味なくらいその件について沈黙していた。

 当然だろう。

 標的は、士官学校を卒業し東方軍司令部に着任してくる第二王子のアレンだったからだ。


 王子ともあろう者が、そんなにあっさり暗殺されるわけがない。初めから、アレン暗殺計画の「おとり」あるいは「捨て駒」として雇われていたのだ。だからあっさり捕まり、アレンの前に引きずり出された。


 雇い主を言えと拷問を受けたものの、意地でも口を割らなかった。自分の知っている情報はたぶん依頼主にはたどり着かないとは思うが、母親が雇い主の人質にされていることに気が付いていたからだ。そしてアレン暗殺作戦だが、失敗したからアレンはこうして目の前にいるんだろう。


「このままだとおまえ、死んじゃうよ?」


 ある日、様子を見に来たアレンがボロ雑巾のように転がっている自分に声をかけてきた。

 うるさい……、と、答えたかったが、もう声も出なかった。


「……なあ、おまえ、本当の髪色は銀色なんだな? 目も青い……イオニア人か?」


 仕事を始めてから外見で判断されるのがいやで、髪の毛を黒色に染めていた。この国では銀色の髪の毛の人間はいない。青い目の人間はちらほらいるから、そちらは特に問題ないが、捕まっている間に髪の毛が伸びて、本来の色が現れてきたらしい。


「ところでさあ、オレを殺そうとした連中……たぶんおまえの直接の雇い主だろうな、あいつらが囲っていた銀髪の女性……もう少しで売られるところだったんだよ」

「……ッ」

「危なかったよなあ。美人だもんな。イオニア人ならいなくなっても誰も探さないし……もちろんこっちで保護したんだけど」


 焦りを見せた自分に対し、アレンが面白がるような視線を送ってくる。


「このまま彼女を保護してやるよ。おまえの口の堅さは素晴らしい武器だ……オレ、おまえみたいなやつを探してたんだ」


 にっこりとアレンが笑う。血液と汚物にまみれた犯罪者に見せるには、美しすぎる笑顔だった。


「おまえを切り捨てた連中に、おまえはもったいない。オレのために働けよ。そうすれば銀髪の彼女を助けてやる」

「……っ」

「そのかわり……、わかっているよな?」


 オレを裏切ったらおまえの母親の命はない。

 言葉にならなくても、アレンの言いたいことは十分伝わった。




 アレンに忠誠を誓っているわけではない。ただ、難民である上に体が弱い母は一人で生活ができない。母の生活と安全を保障してくれるというアレンの提案は魅力的だった。だから従う。それだけ。

 母はアレンがグレンバー赴任に際して購入したという別荘に住むことになった。破格の扱いなのは身寄りがないことと体が弱いためだという。要するに自分が裏切らないための人質なのだ。工作員の家族は必ず人質にとられる。

 その母は、一人息子の安否を不明にされているらしい。生きていることを信じているとは聞いている。

 母とは十八歳で別れたきり、会っていない。


 その母から十五歳の頃に託された、不相応なほどの豪華な首飾り。アルスターを出て体調を崩した時に、死を覚悟した母から譲り受けたものだ。父にゆかりの品だというが、アレンはそれを「王宮から盗まれた王妃の首飾り」だという。


 わけがわからない。母は戦争によって故郷を追われた難民だ。この国の王宮とはなんの縁もないはずだが、この首飾りがろくなものではないことだけははっきりとわかる。どんな経緯で母の手元に来たにしろ、正直に言って関わり合いになりたくないが、母が大切にしていたらしいので捨てることもできず、持てあましていた。アレンに捕まり自分の名前と過去を捨てなくてはならなくなった時、首飾りを捨てるにはちょうどいい機会だと思った。


 捨てる先を、十五歳まで過ごした屋敷の令嬢にしてしまったのは……気の迷いとしか言いようがない。こんないわくつきのものなら、自分で処分すればよかった。

 アルスターに送りつけたあとで、それがどうやらアレンが探している首飾りだということを知ったのだが、後の祭りだ。

 自分は死んだことになっているので、今さら首飾りを取り返すこともできない。




 廊下の突き当りにある事務室のドアをノックすると、中から返事がある。今日はいるようだ。

 ドアを開ければ中肉中背の中年男性が机の前で難しい顔をしている。


「やあ久しぶり。体の具合はどうだ?」

「元気ではありますが、右腕だけは戻りませんでしたね」

「そうか。残念だな」

「俺は今日からルイ・トレヴァー少尉だそうですよ、スコット大尉」

「へえ……少尉とは、出世したもんだね」


 スコット、こと青がにっこり笑う。


「身分証は殿下からいただいたな? 階級章はこれ、あと経費請求の許可証。無駄遣いはしないように」


 青が机の引き出しを開けていろいろと机の上に並べる。


「殿下から聞いたと思うが、おまえに出された指示は『ジャン・フェルトンを追う』だ。捕まえる必要はない……できれば、フェルトンが試験薬を売り込むだろうところまで見届けて、フェルトンの顧客ごと潰したい。だが、無理はするな」


 青みがかった灰色の瞳を向け、スコットが言う。


「これが終われば一生困らない金額の手当がもらえるぞ。楽しい余生のためにも早まるなよ」


 机の上に並べなられたものを手に取りながら、ルイは笑った。


「俺、まだ二十七歳ですよ。そうそう、このあと俺も通常業務に切り替えだそうなんで、こちらにお世話になる可能性がありますね」

「ははあ、ということはおれ自身もお役御免の日が近いのかな! アレン殿下の無茶振りはすさまじいから、胃薬は常備しておけよ」


 青がにぱっと笑う。


「アレン殿下はあなたのことを手放すとは思えませんが。ところで、フェルトンの足取りはまったくわからないんですか?」

「ああ。まあジェラール派の誰かに接触をもくろんでいるはずだから、王都に行ったんじゃないかとは思うんだが、王都も広いからな……。王都には脱走直後に三人ほど行かせたんだが、とりあえず誰からもなんの連絡もない」


 青が肩をすくめる。


「……王都に行ってみます」

「連絡はマメに入れろよ」

「わかっています」


 ルイはそう言うと青に敬礼し、背を向けた。

 部屋を出る。再び、司令部の薄暗い廊下に踏み出す。

 しばらくはこのグレンバーともお別れだ。

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