夏の庭

空都 真

夏の庭


 浅いまどろみの中、わたしの意識を揺らしたのは、どこか懐かしい響きだった。


 ――さざなみ、みたい。

 ……いいえ、もっと、力強い。


 一旦脳が働き出すと、途端に五感は鋭敏になる。

 厚い壁を貫いてかすかに届くのは、遠い海鳴りのような蝉の声。うっすらと世界を染めているのは、山の端から顔を覗かせたばかりの太陽の光だ。

 鼻先をかすめる、淡くくすんだ香りは、きっとハンガーに吊るしたままの真っ黒いワンピースから漂っているのだろう。


 もう一度目を閉じるも、どうやら眠りの波は引いてしまったらしい。

 観念して、わたしは重い瞼を持ち上げた。白い天井と、飴色の太い梁が、ぼんやりと視界に映る。


 のろのろと起き上がり、枕元に置いたままの細い箱を手に取ると、頼りないほどの軽さにふと不安になった。かぱ、と音を立てて固い蓋を開けると、鈍く輝く真珠のネックレスは、静かにビロードの台座に横たわっていた。


 ――だめよ、素手で触っちゃ。本物の真珠は、指の脂がつくと曇ってしまうの。


 遠い日の声が蘇り、わたしはそっと、黒い箱を枕元に戻した。




 結局何かを食べる気にはなれず、水を一杯だけ飲んで、家を出た。

 昨日が雨だったせいか、それとも早朝のためか、肌にふれる空気は意外にも涼しい。

 先程よりも近くで響く、どこか厳粛めいた蝉の合唱を背に、わたしはゆっくりと歩き出した。


 ――空が広い。それに、何か、流れている空気がちがう。


 久方振りの帰郷だからか、それともわたしの心情によるものかはわからない。けれど確かに、この街の空気も、風も、住み慣れた東京のものとは何かが異なっていた。……否、わたしがそう思いたいだけなのかもしれない。

 知らぬ間に拳を握りしめてでもいたのか、掌に鈍い痛みが走る。

 ゆっくりと手を開くと、あちこちすり減った形跡のある銀の鍵が、陽を弾いて淡くきらめいた。




 十分ほど道なりに歩いていると、やがて古びた金属の門の前に辿り着いた。

 門の素材自体はだいぶ痛んでいたものの、閂にかけられた金属錠は、誰かが磨いてでもいたのか、やけに綺麗な色をしていた。

 持ってきた鍵を差し込み、ゆっくりと回す。するとさほどの抵抗もなく、あっけなく錠が外れた。

 知らず詰めていた息を吐き、門に手をかける。この門を通るのは、実に十五年振りになるだろうか。


 きぃ、と高い音を立てて門が開き、視界が一変する。


 ――懐かしい、と込み上げてきた感傷を押し留めたのは、白い外壁のそこここに走る罅と、家を覆うように生い茂った蔦だった。


 自分が不在にしていた歳月をまざまざと突きつけられたようで、胸が詰まった。

 ああ、もうここは、わたしが住んでいた頃のあの家ではないと、一瞬で理解させられて。

 それでも踵を返さなかったのは、どうしても見たいものがあったからだった。



 門を越え、白い建物へと近付いていく。

 茶色い玄関の扉を開けて、室内に足を踏み入れると、陽で灼けた木の匂いと、かすかな埃の匂いが、鼻をかすめた。

 ゆっくりと、靴を履いたまま、薄暗い廊下を進んでゆく。室内はうっすらと埃で仄白くなっているものの、幸いにも外観から想像していたほど朽ちているわけではなかった。

 壁には、わたしが中学校の時に賞をもらった絵が飾られていた。


 ――飾らないで、って言ったよね?

 ――まあ、いいじゃない。こんなに上手に描けてるんだもの。


 ぼんやりと想い出に浸っているうちに、突き当りの扉に辿り着いた。

 ドアノブに手をかけ、一つ息を吐いてから、扉を開ける。わたしの頬を、足元を、音もなく零れてきた光が照らした。外から射し込む陽射しが、きらきらと舞う埃を輝かせている。


 リビングは、わたしの記憶とほぼ同じ形を保ったまま、そこに佇んでいた。


 焦げ茶色の鳩時計。吊るされたままの、日付に丸がついたカレンダー。

 テレビ台代わりに使っていた、雑誌と文庫が雑多に収められた本棚。

 陽に晒されて、白みがかっている青紺のソファー。下に敷かれている、お気に入りだった白いラグ。

 部屋の中央に置かれた、大きな木のテーブル。行儀よくテーブルの下に収まっている、三脚の椅子。


 ――あれ。確か、椅子は四脚あったはずなのに。


 視線を巡らせると、ほどなく消えた一脚の行方は知れた。

 紐で留めた座布団が乗った椅子は、なぜかガラス戸の方を向いて置かれている。どうしてこんなところに、と訝しみつつその横に立つと、荒れ果てた庭と、とあるものが視界に飛び込んできた。


「――――うそ」


 息を止めたのは、一瞬だった。わたしはガラス戸の錠を開け、白いワンピースの裾を揺らして駆け出した。


 夢ではありませんように。どうか、どうか、わたしが辿り着くまでに、消えてなくなりませんように。


 青い草木の匂いが香る中、祈るような気持ちで、夏椿が植えられた庭の奥、小さな四阿あずまやの前で、足を止める。


 ――そこには、古びたピアノが、静かに佇んでいた。




 一歩、一歩と近付き、震える手を伸ばす。

 ヴェールのような白い薄布をめくり、現れたその姿に、知らず吐息が零れた。

 どこか敬虔な想いすら籠めて、ひとときピアノを見つめる。


 いくら屋根があるとはいえ、屋外に設置されているピアノゆえか、漆黒だった側面は色が褪せ、ところどころ塗装が剥げている箇所もある。それでも、こうして立派に形を保っていてくれた。


 静かに鍵盤を覆う蓋を上げ、置かれていた椅子に腰を下ろす。少し椅子の高さの調整をしてから、おもむろに人差し指で鍵盤にふれた。


 ――ポーン、と、波紋のように音が響く。


 懐かしいその調べに誘われるように、わたしはもう一度、ゆっくりと指を下ろした。

 最初の一音が、澄んだ空気を震わせる。その音が庭に透けてゆく頃合いで、わたしの指先から、ひそやかな旋律が流れ始める。


 ――母が昔、よく弾いていた曲だった。

 庭で遊び回るわたしを、やさしいまなざしで眺めながら。時には、はっとするほど静かな横顔を、垣間見せながら。

 ……作曲家だった父が亡くなったのは、わたしが四つの時だった。

 幸い父も母も名家の出だったゆえか、わたしはそれほど金銭的に苦労をした記憶はない。けれど、実際のところはどうだったのだろう。――そんなことすら、聞けないままだった。


 いつの間に目覚めたのか、蝉の合唱が周囲から降り注いでくる。夏を感じさせるその声は、かつては苦手だったはずなのに、今この時は伴奏のように聞こえた。


 ――展開部。きらきらとした音が色を変え、まるで陽射しのように、わたしの身体に降り注ぐ。

 そうだ、このフレーズは、蝉の合唱に似ている。弾いているとそうとしか思えなくなり、くすりと笑みが零れた。

 まばゆい木漏れ日が揺れる。蝉が鳴く。そんな風景を、きっとこの調べは描いているのだろう。


 と、蝉の合唱に、他の音が加わってくる。

 規則的なリズムかと思えば、不意に止まったり、時には弾んだり。波のように近付いてはまた遠のいていく、この旋律はなんだろう。


 曲の世界に浸りながら、ひたすら奏で続けていると、さあっ……と涼しい風が吹き抜けた。好き放題に生い茂った庭の草が揺れ、さわさわと軽やかな音を立てる。


 その音に誘われるように、何気なく、本当に何の気なしに、庭に目をやると。

 

 ほんの一瞬だけ。

 美しかった頃の庭園の姿が――かつての自分が手を振る姿が、見えた気がした。


 同時に、雷に打たれたように悟る。

 今、自分の指先が奏でているメロディは。この旋律は、きっと。



 庭の中から、母に向かって手を振るわたし。穏やかなまなざしの母。

 綺麗な花を見つけたのだと、母のもとに軽やかな足取りで駆けてゆくわたし。

 おかあさんはそのままピアノ弾いててね、と、うんと背伸びして、白い花を鍵盤の横に置くわたし。

 再び庭に駆け出していくわたしを、笑いながら見つめる母。



 ――これは、庭で遊んでいるわたしだ。母に向かって駆けてゆく、わたしの足音だ。

 ようやく思い至り、胸が、さざなみのように震える。



 あの、一脚だけ庭に面して置かれた椅子は。

 あれはきっと、母が動かしたのだ。



 独り、病床で何を想っていたのだろう。――帰らないわたしを、どう想っていたのだろう。

 視界が滲み、鍵盤の上に雫が落ちる。報せを受けた時から流れなかった涙が、堰を切ったように溢れ出した。


 最後の一音を弾き終わった後も、わたしはしばらく、動けなかった。




 しばらくぼうっとしてから、はたと灼けつく肌と流れる汗に気付き、帰ろう、と立ち上がる。久し振りに泣いたせいか、頭と瞼が重かった。

 ぶぅん、と耳元をかすめた蚊の羽音に身をすくめ、室内に退散しようと慌ただしく足を進める。

 ちょうどガラス戸に手をかけた瞬間、ポーン、とかすかな音が聴こえた。

 え、と思わず振り返ると、鍵盤の上には、夏椿の花が、落ちていた。――母がこよなく愛した、白い花が。


 その時不意に、わたしは、かつて母が奏でていた曲の名前を思い出した。



「――夏の、庭……」



 ざあ……っと吹く風に応えるように、庭の草木がさわさわと揺れていた。

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