幻の一時間

増田朋美

幻の一時間

その日も何処かの地域では大雨が降ったらしいが、杉ちゃんの住んでいる静岡県富士市では、本当に暑いの言葉しか出ないほど暑い一日であった。その頃は、もう夏休みが始まっていて、子供が遊んでいる声も聞こえてきてもいいはずなのであるが、暑いせいで、外に出ている子供もほとんどいない。そんな中でも、仕事と言うものはしなければ行けなくて、外仕事の人は本当に大変だなと思うのである。

その日、杉ちゃんと、ジョチさんは、暑い中食品の買い出しだけはしなければならなかったので、スーパーマーケットに買い出しに行き、買ったものを持って、バス停に向かって移動していたのであった。それまでの道中、道路工事をやっているところがあって、杉ちゃんたちは回り道するかとか呟いていたところだったが、

「おい、ちょっと!こんなところで、ウロウロしないで貰えないかな!」

と旗振りのおじさんが、そんな事を言っている声が聞こえてきた。それと同時に、一人のスーツ姿の男性が、工事現場の前を歩いているのが見える。

「ちょっとあんた!ここは工事中なんです。行くのなら他の道を行ってください。」

旗振りのおじさんはそう言っているのであるが、その男性が右手に白い杖を持っているのが杉ちゃんたちには見えた。

「待ってください。この方は盲人なんです。だったら、他の道まで案内するとか、そういう事をしてあげるべきなんじゃありませんか?」

ジョチさんは、急いで旗振りのおじさんに向かっていったのであるが、杉ちゃんが思わず、

「あれえ、古川涼さんでは?」

と言ったので、涼さんといわれた男性は、はいと頷いた。旗振りのおじさんは、はあ、皆さん知り合いだったのねといって、旗振りの仕事に戻ってしまった。まるで、関わらなくてよかったという顔をしていた。涼さんが目が見えなくてそこは良かったと杉ちゃんたちは思った。

「とりあえず、この道は工事中です。どちらにいかれるのですか?」

ジョチさんが涼さんにそうきくと、

「はい。ショッピングモール近くのバス停まで行きたいんです。」

と涼さんが答えたので、それなら僕たちも同じところだと言って、二人は涼さんをバス停まで連れて行ってあげることにした。

「どうも失礼しました。先程の道を23歩歩いたら、横断歩道に行けると勘定していました。今日、道路工事をしていたことは知らなかったので、びっくりしました。」

と涼さんは白い杖で周りを探りながら言った。

「そうなんだねえ。大丈夫だ。この道を行っても、バス停は行けるよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうなんですか、車の音がしないから、これは裏道なんでしょうか?」

と涼さんは聞いた。

「ええ。田舎者でなければ知らない道です。それより涼さん、今日は一体どうされたんですか?バスに乗ってどなたかのお宅へ訪問する予定ですか?」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ。新規クライエントの、吉村由美江さんという女性の方を訪問する予定です。なんでも、茶ノ木平団地行のバスに乗って、一時間程度のところにあるらしいです。」

と、涼さんは答えた。

「茶ノ木平団地行のバスは、一時間に一本しかありません。まだバス停では40分くらい待ちます。もし可能であれば僕が小薗さんを呼び出してお送りしましょうか?」

ジョチさんがそう言うと、

「こんな暑い中をスーツなんか着てバスを待っててもしょうがないんじゃないの。それなら乗っけてもらえ。」

と、杉ちゃんが言った。涼さんはじゃあそうさせてもらえないでしょうかというと、ジョチさんは、スマートフォンを鳴らして、小薗さんに迎えに来てもらおうように言った。小薗さんは、数分で来てくれた。小薗さんとジョチさんの二人で、涼さんを車に乗せる。その後で歩けない杉ちゃんも車に乗せて、全員茶ノ木平団地バス停まで向かった。

「本当に今は車がなんでもしてくれるから楽ですね。ですが、僕は運転ができないので、一人では何処にも行けないのが、残念ですね。」

涼さんは車の中でそんな事を呟いた。

「まあね、それは僕もジョチさんも一緒だから、気にしなくていいよ。車に乗れないやつは乗れない同士、使える資源を使えばそれでいいんだよ。」

杉ちゃんに言われて、涼さんは苦笑いした。

「確かに、今は車の運転ができることが当たり前のようになってますよね。それができる人は、本当にできない人の気持ちもわからないのではないでしょうか。」

ジョチさんは、涼さんに言った。それから数十分走って、茶ノ木平団地前のバス停の前で、小薗さんの車は止まった。涼さんはジョチさんに介助されて車をおりた。

「それで、クライエントさんのお宅へ行く道順はご存知ですか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「ええ。近くに石碑があるそうで、そこで待ち合わせようと言っているんですが。」

と涼さんは答えた。

「石碑?」

と、ジョチさんが周りを見渡すと、確かに小さな地蔵様が道路に設置されていた。でも待ち合わせ場所にするには、ちょっと不便な場所だった。

「あ、向こうから人が歩いてくるぞ。」

と、杉ちゃんが言った。確かに日傘を差した女性が歩いてくるのが見えた。訪問着を身に着けているので、高級な身分の女性かと思われるが、最近は、身分に関係なく、安い値段で高級な着物を着ることができる時代なので、あまり当てにならなかった。それでもちゃんと帯を締めて、帯締めも帯揚げもつけて、白い足袋を履いている。ということは面白半分で着ているわけでもないのかなと思った。

「もしかして、あなたが吉村さんですか?吉村由美江さん。」

と、ジョチさんが聞くと、

「ええそうです。ここで、カウンセリングの先生と待ち合わせをしているんですが。」

と彼女は答えた。

「ああやっぱりそうですか。古川涼先生はこちらです。先程バス停でたまたま知り合いまして、涼先生をここまでお連れしました。曾我と申します。正式には曾我正輝です。それでこちらは、」

ジョチさんがそう自己紹介すると、

「親友の影山杉三で名前は杉ちゃんです。」

と杉ちゃんも言った。

「そうなんですか。ありがとうございます。今日はとても暑いですし、皆さんもせっかく古川先生を送ってきてくださったんですから、家で少しお茶でもいかがですか?」

と、吉村由美江さんが言った。なんだか、そんな事を言うクライエントも珍しいと思ったけど、杉ちゃんたちは、それに応じることにした。一時間後に小薗さんにここへ迎えに来てくれるように言って、杉ちゃん一行は、吉村由美江さんについていった。

由美江さんの家はお地蔵さんから歩いて五分もかからなかったが、とても大きな豪邸で、やっぱり着物は本物なのかなと思われる気がした。由美江さんにどうぞお上がりくださいと言われて、広い居間に案内された。杉ちゃんたちは、指示通りテーブルに座った。

「はい、こちらはお茶でございます。カモミールティーです。甘いりんごの香りが特徴です。」

と、彼女は杉ちゃんたちにお茶を出してくれた。それに、クッキーまで出してくれた。杉ちゃんなんかはおうありがとうと言って、すぐにクッキーを食べてしまった。

「今日は、とても暑いですね。こちらへ来るのにも、かなり手間取ったんじゃありませんか?確か、ショッピングモールから、1時間位かかりますものね。」

と、彼女が言うと、

「ああ、でも、小薗さんの車だとお客の乗り降りがないから、30分くらいで来れるかな?」

と、杉ちゃんが言った。

「そうなんですか。富士市も広いから。私は、バスが無いと何もできないです。買い物に、映画館に図書館に、いろんなところでバスに乗っていきます。」

由美江さんは、そういった。

「そうなんだねえ。それではかなり大変な生活と言えるな。なんかバスってさ、一時間に一本しか来ないバスもあるじゃない。それでは遅れたら大変だってこともあるでしょ。」

杉ちゃんがお茶を飲みながらそう言うと、

「ええ。確かにそうかも知れませんが、それでも、移動ができるだけ私は幸せです。今はいい時代ですね。こうして変装することもできるんですよ。これ、みんな500円とか、800円で入手したものなんです。インターネットで入手したから、あの家にはよく宅配便が来るな程度で、誰かにバレることはありません。」

由美江さんは着物の袖を見せた。

「そうだねえ。確かに、着物は今では、500円で入手できるもんな。それに、着物を着れば、劣等感とか、そういうものに悩まされる自分もいない。外見を変えれば少し、嫌な気持ちも忘れられるってよく言うしね。」

と、杉ちゃんが言った。

「そういう変身ゲームして、ストレス解消するんだね。もしかしたら、着物セラピーというものかもしれないよね。そういうセラピーとか、そういう事は、まあ一時しのぎに楽をさせてやるっていうことにしかできないからな。それでも、そういう事をしなければならない気持ちになるんだよな。はははは。」

「もう杉ちゃん、今日は僕たちが話すところではありません。涼さんが、由美江さんに話をするんですよ。それを杉ちゃんがおしゃべりをして、そしてこんなにバクバクガブガブ。」

ジョチさんは杉ちゃんに言った。確かに杉ちゃんの前には、由美江さんにもらったお菓子のからの袋が大量に置かれている。

「いいえ、いいんです。こうしてお客様が来てくれることなんて、ほんとにないですから。ぜひ、食べて行ってください。」

と由美江さんはにこやかに言った。

「ご家族では食べ切れないの?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「はい。家族はどうせ、皆仕事で出て行ってしまうんで、昼間は私が家に一人で居ることになりますから、こうしてお客さんが来てくれるのは嬉しいことです。」

と由美江さんは言った。

「はあ、お前さんの家族構成は?」

「ええ。父と母と祖父ですが、父も母も仕事で出ていってしまいますし、祖父もデイサービスに行ってしまっているので、私は家に一人ぼっちです。こんな豪邸と人には言われますが、私には何だかすごいがらんどうみたいで。父も母みんなまだ元気ですし、祖父は祖父でやってますから、私だけが、何処にも行くことができないです。」

「なるほどねえ。それで、話を聞いてもらいたくて、涼さんを呼び出したわけか。」

と、杉ちゃんはクッキーを食べながら言った。

「杉ちゃん、本来は、あなたが話を聞き出すのではなくて、涼さんに話をさせるときでしょう。それなのに、あなたが話をしたら、涼さんの業務妨害をしていることになりますよ。」

ジョチさんがそう言うと、

「いえいえ、いいんです。一対一で話すのもいいけど、こうして皆さんでテーブル囲んで話すなんて、夢を見ているみたいだわ。だって、いつも一人ぼっちでこんなところにいても、何もできませんものね。それでは、ただ寂しいばかりで、時間がすごく遅く感じるんです。私、今何もしてないし、どうせ、仕事もできるわけじゃないし、こういう事ができるなんて夢にも思っていませんでした。今でも信じられないくらいですよ。」

と由美江さんはとてもうれしそうに言った。その顔はとてもうれしそうだったので、ジョチさんも涼さんも止めることはできなかった。

「そうなんだねえ。ほんなら夢じゃなくて、現実にそうしてもいいんじゃないか?こういう変なお茶会を催すだけじゃなくて、実際に人にあって話してみることが大事だと思うなあ。お前さんはなにか精神疾患とか、そういう診断は受けてる?お前さんが閉じこもるようになったきっかけは?」

杉ちゃんに言われて由美江さんは恥ずかしそうに、

「はい。大学のとき、友達とトラブルになって、それから電車の中で見られている気がするとか、悪口を言われているとか、そういう事を言って居るんじゃないかと思ってしまいました。それで私は、統合失調症と診断されています。」

と言った。

「それでお前さんは何歳だ?」

杉ちゃんが聞くと、

「もう39歳です。そうなると、もう20年も外へ出ていないことになります。はじめは、仕事しようとか思ったんですけど、何も採用もされなくて。スマートフォンはあるんですけど、自分のパソコンは持ってないし。だから結局何もできないでこうして過ごすしかないんです。」

と、由美江さんは答えた。

「へえ、39歳か。20年も自宅にいたんじゃ、お前さんは大変だろうな。それでは、少し家から離れてみてもいいんじゃないか?車に乗れないんだったら、僕らが迎えに行くぞ。」

「そんな強引に持っていくのも、杉ちゃんですね。そうやってしまったら、涼さんの出る幕がないじゃありませんか。」

と、杉ちゃんがそう言うのを、ジョチさんは呆れていった。

「由美江さん、僕もそう思いますね。確かに病気で大変な事はあるとは思うんですけど、少し家を出てもいいかもしれない。もし可能であれば、働くというのは無理かもしれないけれど、何処かに通って、居場所を見つけるということも、必要なんじゃないかな。そのためには多少の無理をされてもいいと思います。」

と、涼さんが、由美江さんに言った。

「でも私、車の運転もできないですし。」

由美江さんがそう言うと、

「だったら、迎えに来てもらえばいいじゃないか。」

杉ちゃんは平気な顔で言った。

「それに、変な罪悪感とか、恥を持ってはいけないよ。そういう事をして通勤している人は、外国ではいっぱいいるんだぜ。こんなせったかの大山の中で、一人で寂しくやってるんじゃ、何の意味もないぜ。」

「そうですね。由美江さん、あなたは具体的になにか病気の症状があるのでしょうか?話をしていると、筋の通っていない事を話すということはなさそうですが。」

と、涼さんが聞いた。

「ええ。私も自分のことだからよくわからないんですけど、昔は確かに、見知らぬ人の声が聞こえてきたりして、怖い思いをしたことがありました。今はその様な事は、感じたことはありません。まあ確かに、家族と喧嘩したりすると、変な事を言ってしまうことはありますけど。」

「うーんとそれはねえ。意外に家以外の場所に居場所を見つけられたら、変わって来るもんだよ。そうなれば家族と喧嘩しても逃げる場所ができるでしょ。意外にそういうところって必要になるもんなんだよな。ほんなら、製鉄所の部屋を貸してあげるよ。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「製鉄所?鉄を作るんですか?」

由美江さんが聞くと、

「いや、そういうところではありません。ただの福祉施設です。勉強や仕事をするための部屋を貸して居るところですよ。施設は大渕の富士山エコトピアの近くにあるんです。ここからですと、吉原中央駅まで行き、富士山エコトピアのバスに乗り換えていけばいいのかな。」

と、ジョチさんは言った。

「そうだよ。少なくとも製鉄所に来て、他の利用者と話したら、きっといい気分転換になるよ。そうすればつらい気持ちも少しは和らぐんじゃないかな。」

杉ちゃんがまたお茶を飲みながら言った。

「きっとお前さんの悩んでいることを聞いてくれるやつだって現れるよ。保証してあげるさ。」

ジョチさんは、手帳を取り出して製鉄所の住所と電話番号を書き、そのページを破って、由美江さんに渡した。由美江さんは、ありがとうございますと言って、それを受け取った。それと同時に、ジョチさんのスマートフォンがなる。誰だろうと思ったら、理事長そろそろ迎えに行きますという小薗さんの声だった。

「ありがとうございます。今日は、お客さんを招くことができて嬉しかったです。またこちらへ来てください。」

由美江さんがそう言うと、

「いやあ、こちらへ来てくださいじゃなくて、お前さんが製鉄所に来られるようにするんだよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。それから数分後に小薗さんが迎えに来たので、杉ちゃんたちは、それで失礼したが、由美江さんは本当にありがとうございましたと、何度も杉ちゃんたちに頭を下げていた。

「一時間だけでも、素敵な時間でしたわ。皆さんに感謝いたします。」

由美江さんはにこやかに笑った。

「僕にはその笑顔は見えませんが、それがずっと続いてくれるようになると良いですね。」

涼さんは車に乗ったあと、そういった。それと同時に、小薗さんが車のエンジンをかけ、その立派な屋敷をあとにした。

それから数日が経ったけど、由美江さんから連絡はなかった。由美江さんとはじめて知り合ってから、一週間ほど立った日。杉ちゃんとジョチさんは、また買い出しで、ショッピングモールに向かった。もう道路工事は終わっていて、二人はその道を通って、バス停へ向かうと、また涼さんが立っていた。

「あれ、涼さんここで何をしているんだ?」

杉ちゃんが声をかけると、

「ええ。あの、吉村由美江さんが、自殺を図ったと家族から連絡があったものですから。」

涼さんは表情も変えないで言った。

「それはどういうことかなあ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「なんでも製鉄所に誘われたと、ご両親に話したら、今まで静かに過ごしてきたのに、外部から人が入ってこられてはたまらないと、ご両親に叱られてしまったのだそうです。SNSで連絡があって、僕はすぐに応答できなかったのですが。」

と、涼さんは言った。確かに、目が不自由な涼さんにとって、メールを読んだり、SNSを読んだりすることは難しいと思われた。もしかして、涼さんがSNSをもう少し早く見つけてくれたら、大事にはならなかったかもしれない。

「とりあえず行きますよ。どんな顔しているかはわからないですけど、きっと悲しい思いをしているでしょうから。」

「ほんなら僕も行く。」

と、杉ちゃんが言うが、ジョチさんはそれを止めた。こういうときは、専門的な知識があったほうがいいとジョチさんは言った。杉ちゃんがそれもそうだなと言ったのと同時に、茶ノ木平団地行のバスが目の前に現れた。涼さんは、すみません乗せてくださいと運転手に頼んだ。運転手は、わかりましたと言って涼さんを事務的にバスに乗せてくれた。そのやり方が本当に冷たいなと杉ちゃんもジョチさんも思ったけれど、二人はなにも言わないで、バスが動き出すのを見送った。




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幻の一時間 増田朋美 @masubuchi4996

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