第195話 涙の別れと小谷落城

「市……それに貴様は……」

「どうも。織田家家臣・坂井大助だ」

「坂井、大助……貴様、何しに……」


 俺を見る浅井長政の目は警戒心でいっぱいだ。そして何かを言おうとしたのを市ちゃんが遮る。


「大助に茶々たちを連れだして貰おうと思うの。大助は織田家の将の中で一番強いの、安心して任せられるわ」


 そう言って右の襖の方に視線を向ける市ちゃん。その襖のわずかな隙間から小さな女の子がこちらを覗いている。あれが市ちゃんと浅井長政の娘か。


「待て、僕はその男を信用できない。その男は姉上の服を剥ぎ取るような奴なんだ」

「大助!?」


 市ちゃんの俺を見る目が痛い。あれには事情があったんだよ……。悪いのは変なこと言って捕まった利家だ。


「でも娘たちを脱出はさせないととは思っていた。僕が不甲斐ないせいで娘たちが死ぬなんてことはあってはならない」

「ええ、だから大助に……」

「だがその男は信用できない。そして織田信長もだ。市、そなたの兄は同盟の時の約束、朝倉を攻めるときは浅井に一報入れるという約束を破り金ケ崎に攻め込んだ。僕はもう織田を信用できない、浅井の血を引く娘だ、まともな扱いをされるかどうか……」


 俺たちの今までの行動のせいで信頼が全くない。だが何とか説得しないと。


「3人の待遇は保障する。織田の血も引く子だ、信長様だって無碍にはしないはず。もし信長様が三姉妹にちゃんとした待遇を与えさせないなら、俺が用意してもいい」


 岐阜に今の俺の家の規模をというと少々難しいかもしれないが、俺の領地である清洲なら土地の融通は効くだろう。清洲なら市ちゃんも一時期住んでいたし問題ないはずだ。岐阜でも小さめの屋敷の規模なら用意できるくらいの財産は俺も持っている。


「大助…………ねえ、やっぱり大助に任せよう。大助は信用できる、私が保障する」

「市……」


 俺の説得を市ちゃんが援護、補強する。浅井長政が揺らぐのがわかる。


「おい、坂井大助。一つ聞く。今の言葉に偽りはないと誓えるか」

「ああ、我が主織田信長と2人の偉大な師匠に誓う」


 この言葉に嘘はない。市ちゃんの娘だ、丁重に扱うさ。

 俺の言葉に浅井長政は覚悟を決めたようだ。


「わかったよ、市。茶々、初、江の3人は織田へ送る。ただし……」


 何か条件か? 面倒なのではないといいが……などと思っていたが浅井長政は俺ではなく市ちゃんを見ている。


「市、お前も織田に脱出しろ。坂井大助、お前なら市も安全に織田へ送り届けられるだろう?」

「それはもちろん、でも……」

「待ってください、長政様! 私はここで長政様と……」


 一緒に死ぬ、とでも言おうとしたのだろうか。だがその言葉は声にならなかった。市ちゃんの口を浅井長政が自らの唇で塞いでいたからだ。

 ……知り合いのキスシーン程見てて気まずいものは無いよね。襖の奥で三姉妹が「きゃーっ」と小さな悲鳴を上げている。


「市はここを脱出してあの子たちを育てて欲しい。あの子たちの母親の市にしかできないことだ」

「で、でも……」

「もう一度言う、市にしかできない。市にしか頼めないことなんだ。僕らの娘の成長を見守ってほしい」


 市ちゃんは納得できない顔だ。自分の大事な人が死ぬのに自分だけ生き残るなんて、今後の人生、どんな風に生きていけばいいのだろう。俺は祈がいなくなることを想像し、市ちゃんの心情を推し量る。深い悲しみ、絶望、そんな言葉が頭に浮かぶ。俺は祈が死んだら廃人のようになるか、後を追って死ぬか、とにかく生きたいとは思えないだろう。

 

「茶々、初、江」

「なんですか、父上」

「お、お呼びですか?」

「あう」


 覗いているのがバレていないと思っていたのか、茶々、初の2人が変に上擦った声を上げる。江はまだ赤子だ。茶々、初はこちらの部屋に恐る恐るといった感じで入ってくる。江は当然ながら何が何やらといった感じ。


「3人はこれから市とそこの男と一緒に織田へ行ってもらう」

「……聞いてた。でも、父上は?」


 浅井長政が押し黙る。浅井長政はこの後、織田勢によって城を攻め落とされ死ぬことになるだろうがそれはまだ10にも満たない子供に聞かせるにはショッキングすぎる。市ちゃんも何も言えない。俺が口をはさむことでもない。

 だが茶々はその状況を察した。察せられた。城外から連続で聞こえた銃声とこちらに攻め込む織田勢の歓声によって。


「父上、もしかして……」


 無言は肯定を示していた。それで本当に理解してしまったのだろう。浅井長政は、彼女らの父はここで死ぬということを。


「なんで!? なんで…………」

「ごめん、ごめんよ。もっと僕が強ければこんなことにはならなかった」

「嫌だ、嫌だよ……父上……」


 茶々、初が涙を流す。畳に涙が落ちる度、心が痛む。天下統一の戦いは別の言い方をすれば侵略戦争だ。今まで滅ぼしてきたたくさんの領地でこういうことが起きてきたはずだ。頭では理解していたつもりだったが、やはり目の前で見るのとでは感じるものが違う。

 だがこれは浅井長政の言う通り、強さが足りなかった者、敗者の末路だ。そして勝者側の俺のすることは敗者に同情することじゃない。


「急げ、すぐにここは落ちる。火が放たれてからだと俺がいても脱出は難しい」

「大助……」

「市ちゃん、あなたと3人の娘さんを無事にここから連れ出すことが俺の使命です。辛いのもわかります、ですが今は時間がない。すぐに別れを済ませてください」


 あまりにも非情な言葉。人の心がないのかという誹りだって受けてみせる。この4人を無事に織田へ連れていくことが今俺にできる最善の行動だと思うから。浅井長政にとってもそうだと思う。


 茶々が俺を睨む。初は浅井長政の膝の上で泣き続けている。江も泣きだした。市ちゃんは頭で理解しているようだが長政の手を握ったまま動けないでいる。


 城の窓から見える小丸から炎が上がり、轟音を立てて崩れていく。思っていたより早い。ここ、本丸もすぐにああなってもおかしくない。


「市ちゃん、早く」

「…………」

「あなた、あなたにはッ! 母上の気持ちがわからないのですか!? それに初も、江も、もちろん私も……そして父上だって!!」

 

 茶々が枯れた声で俺に向けてそう叫ぶ。わからないわけがないだろうが。でも仕方ないじゃないか。これが俺のすべきことなんだ。万が一にでもここで市ちゃんと君たちを死なせるわけにはいかないんだ。


「茶々」

「父上?」

「僕のために怒ってくれてありがとう。でもすぐに脱出するんだ」

「そんな、父上……!」

「僕は君たちが生まれてきてくれて幸せだった。でも君たちが死んだら、死んでも死にきれない。そのくらい不幸のどん底に落ちる、それくらい君たちが大事なんだ」


「茶々、初、江。父として最期に言うことはこれだけだ。生まれてきてくれてありがとう」


 長政の言葉に茶々が再び崩れ落ちる。長政はその頭を撫で、続いて市ちゃんを見る。


「市」

「はい、長政様」

「娘たちを頼む」

「はい。長政様」

「あと、愛してるよ」


 市ちゃんは一瞬肩を震わせると、涙ながらも無理やりに微笑んで、長政の目を見てはっきりと言った。


「私も、愛しています。長政様」


 俺はその様子をただ見ていた。


 俺が護衛し、ここに市ちゃんを連れてきて初めて二人を引き合わせた。その2人を、今度は俺が無理に引きはがす。その最後の別れを俺は唇を強く噛み、拳を強く握ってただ見ていた。

 あの時は、二人の結婚式の時はこんなことになるなんて思っていなかった。同盟が成ったことと市ちゃんが結婚したことを素直に喜んでいた。

 

「別れは済んだな。行くぞ」


 俺は深く深呼吸してから、ただそう伝える。声にのる感情はなんとか押し殺せたはずだ。


 5人が立ち上がり最後の抱擁を交わすのを見届けずに戸を開け部屋を出る。後ろで5人が最後の言葉を交わしている。何を話していたのかはわからない。


 俺と市ちゃん、そして三姉妹は小谷城を脱出した。織田の陣についた時には、小谷城の本丸には大炎が巻き起こり、崩れ落ちていた。

 

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