第89話 かつての臣下とかつての主人

 時は少しだけ遡り犬山城での会議が行われる半日前。清洲西の坂井大助領はパニック状態に陥っていた。突然、北伊勢を治める北勢四十八家のうち浜田氏と田原氏、長野市、千種氏ら有力国人が徒党を組んで尾張に侵攻してきたのである。伊勢との国境を守る坂井大助隊は迫る3000の軍を前に動揺と恐怖を隠し切れなかった。

 だがそれを率いる山下彦三郎は冷静だった。国境では敵の進行を食い止めるのは不可能だと判断し全軍を清洲城まで戻した。そこで滝川一益不在の一益隊もまとめ上げ、清洲で敵を迎えうつ算段を立てた。


 だが彼には軍をまとめる以外にもすべきことがあった。彼はそのすべきことをするために主人である大助の屋敷へと向かった。

 大助の屋敷は大きな風呂を作るとかで今は工事中だ。そして屋敷の中には大助の嫁である祈がいた。祈は大きな鍋を小さな体でかき混ぜていた。だがその後姿は少し元気がないように見える。夫と2か月もの間会えていないのだから当然か。


「祈さま、失礼いたします。緊急の要件が!!」

「あ、彦三郎。どうしました?」

「む、彦三郎か。久しいな」


 祈が返事するのとほぼ同時に隣の部屋から出てきたのは彼の以前の主である坂井大膳。彼を見て少し微笑んだ。大助や祈と一緒に暮らすようになってから昔より笑顔が増えたように思える。何しろ信長様と戦っているときの大膳様は笑顔なんて一切見せなかった。


「大膳様、お久しぶりです。お二人に緊急の要件が」

「なんでしょう?」

「北伊勢の軍3000が攻めてきました。ここまで攻め込まれることはないかと思いますが、念のため城の方まで避難していただきたく……」


 彦三郎のすべきこと、それは主の家族の安全確保。ひとまず清洲城内にお連れして、それでも危険そうなら主のいる犬山城へ、という算段だ。


「わかりました。行きましょう」

「ありがとうございます。大膳様も……」

「今、清洲は手薄な上、武将もいないだろう。誰が率いるのだ?」


 大膳の的確な質問に彦三郎は言いづらそうに答える。


「わ、私が率いようかと……」

「……勝てるのか? そなたはそんな大軍率いたことはないであろう。しかもこれは尾張を守る重要な戦……」

「他に誰がいるというのです!!」


 付き合いの長い大膳ですら今まで聞いたことのない大声を出した彦三郎に思わず大膳がたじろぐ。


「一益殿はいない!! 林殿も那古野へ帰った!! 我が主は犬山で待機中、信長様は美濃へ遠征中だ!! 今、この軍を率いることができるのは私か常道くらいしかいないのです!!」

「……」

「確かに私は500までしか率いたことがありませんよ!! 常道も実戦で兵を指揮したことはないし、隆康だってそんな経験ありません!! 本当に、他に、誰がいるというのですか!!」


 最後はほとんど嘆きだった。それもそのはず、たかが1500人部隊の中の500人隊の一隊長ごときが突然1500人を率いて尾張を守る戦いをしなくてはならないのである。心中お察しだ。

 そんなかつての部下の姿を見て大膳は一瞬の葛藤の後、こう言った。


「俺が出る」

「え!?」

「大膳様!?」


 彦三郎と祈が驚きの声を上げる。だが大膳の意志はすでに固まった。一度部屋に戻り、しばらくぶりに甲冑を取り出す。大刀を腰に差し、その他諸々戦に必要なものを部屋からかき集める。そして最後になんだかんだ渡す機会を掴めないでいた家宝であるソハヤノツルキも腰に差す。これだけはいつ何時も手放すわけにはいかない。

 数年ぶりに甲冑姿になった大膳は部屋を出て彦三郎に話しかける。


「行くぞ、彦三郎。尾張を救いに」


 彦三郎の頭の中にはそれを止める言葉が多く思い浮かんだ。だが大膳の決意のこもった目とその言葉の前にすべてが飛散した。


「は! 我が主!!」


 かつて何度も言った言葉。尾張のため、大助のため戦に出るという覚悟を決めた大膳に言える言葉はそれしかなかった。


 

 坂井大助の隊の多くは坂井大膳の軍や清洲織田家の織田信友らの元家臣で構成されている。そんな坂井大助隊はこの緊急時に坂井大膳が率いるのに最適と言えた。滝川一益隊は信長が長い間争っていた大膳が率いるのに少々抵抗があるようだったがそれ以上に指揮官がいなさすぎるため受け入れざるを得なかった。

 さらに大膳は昔共に戦っていた清洲近辺の農民に緊急徴兵の命令を出した。すると指揮官が大膳と聞いた農民たちが続々と集まり、500人の足軽隊が完成した。これで兵力差は1000まで縮まった。さらに大助に報を伝えるため常道を犬山へ送った。


 大膳は集まった2000の兵を前にして大膳は話し始めた。

 

「今回、織田軍総大将を務める坂井大膳である。この中には長い間信長公と戦っていた俺がなぜ織田軍を指揮するのかと思う者もいると思う」

「そんなことありません!!」

「我ら一同、大膳様をお待ちしておりました!」


 元大膳や清洲織田家の者は快く大膳を受け入れる。一益隊や大膳とかかわりのない者は良い反応ではないがひとまずは受け入れてくれたようだ。


「長い間信長公と戦っていた俺ではあるが今回は尾張のため、信長公のために戦う。皆、いつもの主がいなくて不安だとは思うが、どうか尾張のため俺に力を貸してくれ!!」

「「うおおおおおおお!!」」


 主にもと坂井大膳の兵たちが大きな声を上げる。部隊ごとに多少の士気の差はあれど十分と言えるだろう。


「全軍、出陣!! まずは溝口城を目指すぞ!!」

「「オオオォォォ!!!!」」


 坂井大膳率いる2000の軍が伊勢からの侵略者を迎撃するため、清洲城を出陣した。故郷と息子の未来を守るため、坂井大膳最後の戦が始まる。

 



 

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