『千日の空白』

ふとんねこ

『千日の空白』

 事の始まりは、確か「狂」という文字を含む単語が使えなくなったという話であったと記憶している。


 何て馬鹿らしいことをと嘲った者もいたし、言葉狩りだと言って危惧を示した者もいた。私は茫漠とした不安感を覚え、しかし特別声を上げるようなこともせずにいた大多数の内の一人だった。


 そして――この国の出版業界はどんどんおかしくなっていった。そういう懸念や疑問の声を商業出版物に載せることも困難になるほどに歪んでいってしまった。


 誰かを傷つける恐れのある言葉を使ってはならない。

 特定の団体、集団を誹謗する言葉を使ってはならない。

 人種、民族、性別に関する言葉は常に平等と配慮を心がけなければならない。


 自由は無かった。数多の作家が声を上げたけれど、利権まみれの政治が絡んだこの大きすぎる流れに逆らうことは出来なかった。


 こんなのはおかしいと言えば配慮が足りないと謗られる。表現は時に誰かを傷つけるものだと言えばそれは異常だと糾弾される。危惧を口にしたものは差別主義者と晒上げられ、数日で職を失った。


 こうして私の本棚に新作が並ぶことはなくなった。本屋に並ぶのが、曖昧で、ふわふわとした言葉で綴られた「自由と平和と平等」の物語ばかりになったからである。


 私にとってそれらは少しも面白いものではなかった。けれどメディアはそれらの物語を大々的に取り上げ、その多様性への理解の素晴らしさと感動を、沢山の声と共にセンセーショナルに喧伝していた。


 吐き気がした。

 こんな状況こそ「狂っている」と言うべきだった。

 いかれていると叫びたかった。


 誰もその言葉を文字にして、印刷し、広く社会に投げかけることは出来なくなってしまって久しいのだけれど。



 そして、そんな状況が「広く通用する状態」と――この言葉も、一部の人間に非難されて使えなくなってしまったので何とも形容しがたいのだが、かつての言葉ではそれを「普通」と言った――なって二年と九ヵ月程経過した頃。


 ある一冊の本が出版された。


 真っ白な表紙の一番下に『千日の空白』というタイトルが、つるりとして透明なPP加工でこっそりと、秘めるべきもののようにして付けられていた。

 よく見なければタイトルが印刷されていない真っ白な表紙だった。その意味を、書店の真ん中で私は緊迫感と共に図りかねていた。


 手に取る。はらり、と開いて愕然とする。


 ――文字がない。


 ページ数の表記すらなかった。作者名も不明だった。どこが目次で、どこまでが本編で、どこが後書きなのかも不明な、ただひたすらの白。


 何だこれは、と衝撃を受けた私は、しかしすぐに思い出した。二ヵ月ほど前、ネットを騒がせたある活動家の言葉を。


『そもそも文字というものを読めない人もいるんです。そんな状況で、文字に溢れた本というものを出版するなんて間違っています。文字を読めない人々にも配慮するべきではありませんか。』


 そしてこの言葉の後に続いた賛同者たちの「その通りですね、出版社に抗議のメールを送ります!!」という言葉まで思い出して、私はその本をレジに持って行った。



 発売からすぐ『千日の空白』は社会現象になった。ベストセラーとして話題をかっさらい、日夜各媒体でその本のことが議論されていた。


 私含む読書家たちは、名も知れぬ作者と、きっと物凄い苦労の果てに発売までこぎつけたであろう編集、出版社のことを思って涙した。


 寡黙な読書家たちの抗議の声だったのだと思う。狩り尽くされた言葉と、ついに魔の手が伸びてきた文字そのものを表す、真っ白な叫びだったのだと思う。


 私は『千日の空白』を眺めては色々と考えた。

 ここに普通の通りに文字が並んでいたとしたら、いったいどんな言葉が綴られているのだろうかと空想してみる。

 今の出版業界を、それを形作る政治を、狂っていると非難する内容だろうか。


 ……それとも、そんな苦々しい現実なんて関係ないと言わんばかりの、かつての物語たちのような、本当に自由で、楽しくて、心躍らせる内容だろうか。


 ほ、と息を吐いて瞑目する。素晴らしい物語を読み終えたあとのような、少しだけ寂しい満足感。


 きっとそういう内容だ。ここにはきっと私の心を揺さぶる物語がある。絶対そうだと考えると、私はまだ、本が好きだと胸を張っていられる気がした。

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