その13

 また来るねと結に伝えた伽羅さんに急かされて、昨日のうちに連絡しておいた二井の元に向かう。用件は一つで、伽羅さんの身元についてだ。再び伽羅さんの面倒を見るという話は、人一人の命の話とは思えないくらい簡単に進んで、ほんの数分で伽羅さんはうちの子に戻る。


 本人がずっと、一時的なものだと言い続けていたことと、魔法少女の要望だということを踏まえてもなお早い対応。信頼の表れだと考えればそれは嬉しいことだが、こんなに簡単でいいのかと少し不安にもなる。


「伽羅さんは、あなたのことを必要としているんです。あなたたちだけが、あの子にとって家族だから。私でも、他の誰でもダメだった。その重さを忘れないでください」


 別れ際に、釘を刺す用に言われた二井の言葉。その重さは理解しているつもりだったが、他人から言われるとまた少し感じ方が異なる。しみじみと自分の行いを反省していると、伽羅さんから急かされたので車に急ぐ。


 伽羅さんとはどこぞのリンゴとは違って話をしながら運転して、向かったのは伽羅さんが一人暮らしをしていたマンション。僕がのんびり遊びに来れるほどメンタルが無事なら、そもそも一人暮らしさせることにならなかったこともあり、当然のようにここに来るのは初めてだ。二井が隣に住んでいるのだと、あまり興味のない個人情報を聞き流しつつ部屋に入ると、そこに広がっていたのは何もない部屋。一組の布団と、折りたたみのテーブルと、あとは備え付けらしい家具がいくつかあるだけの殺風景な部屋。一般的な社会人よりも多い収入を持つ少女の部屋とは思えない部屋だ。


「あまり物を買っても、帰る時には捨てることになるから勿体ない。えすでぃーしーず」


 ものがない理由を聞いて、まず間違いなくSDGsを理解していないであろう少女の返答を聞く。二井からは言われていたけれど、正直僕は伽羅さんの状況がここまで極端だとは思っていなかった。ものが無いとは言ってもとても少ないくらいの話で、ここまで何も買っていないとは思わなかったのだ。


「伽羅、すぐに戻るつもりだったからこれで十分だった。大事なものは全部置いてきたから、新しいものはいらない」


 純真な少女の、無垢な感情。穿った見方をすれば、お前が遅くなったせいで随分不便な思いをしたのだと責められているとも取れるかもしれないが、この少女の言葉にそんな裏なんてないことは、僕もよくわかっている。


 だからこそ、それは僕の罪悪感を存分に刺激した。こんな少女を、僕はひとりぼっちにしたのだ。理由こそあれ、待たせてしまったのだ。それに対して勝手に待っていただけだろうと割り切れるほどの冷たさは、僕にはない。



 運び出した私物は、テーブルと、いくつかの食器と、着替えくらい。あとは学校で使っている教材を持てば、この家に持ち込んだものは全てだそうだ。正確には昨日持ってきた荷物もあるのだが、どちらにせよ人一人の荷物としては少ない。


「暇な時は、ひとりでトランプしたりお勉強したりしてた。伽羅いい子だから、わかんないところがあってもたくさんお勉強した。かしこ」


 こんなにものがないのに家で何をしていたのかと聞いてみると、伽羅さんは自分がいかにいい子にしていたのかをアピールする。素直に褒めてあげたいところだが、結語としての使い方を間違えているのでそれを指摘すると、伽羅さんはお目目大なり小なり……と無念そうにつぶやいた。


「過ぎたことはもういい。変えられないことよりも、伽羅はこれからを大事にしたい。……ちょっとだけ嘘。これからも大事だけど、それよりも大切な過去があったっていい」


 過去は振り返らない!とか言いそうだった伽羅さんが、途中で僕の表情を見て固まり、そっとフォローするように言い直す。よっぽど酷い顔をしていたのだろうが、自覚はある。なんたって、家族を失ってからの僕は酷い顔と作り笑いくらいしか浮かべるものがなかったのだ。


 また気を使わせてしまったなという後悔と、こんな調子でこの子の保護者としてやって行けるのかと言う不安が大きくなる。きっと伽羅さんは僕が多少情けないところを見せても、気にすることなく慕ってくれるのだろう。これからを大切にしたいなんて口では言っていても、この子が本当に求めているのは、執着しているのは、家族が揃っていた頃の僕で、僕らなのだ。その面影が残っていれば、多少形が変わったとしても見捨てたりはしないのだろう。


 そう、何となく想像がつくからこそ、僕は真っ当な保護者でなければならないのだ。情けなければ見捨ててくれるのなら、僕はひとりでどこまで落ちても問題ない。けれどそれにこの子が着いてきてしまいそうだから、おちおち絶望することもできない。


 そう考えると、この小さな少女の存在は、とても大きいのだ。流石はに愛された魔法少女と言ったところだろうか。その形はどうであれ、人を惹きつける何かを持っているのだろう。


「おじさん、おじさん、そろそろかえろ。おうちにかえろ」


 少しの間心を思考に沈めていると、僕の袖をちょいちょいと引っ張りながら、伽羅さんが妙にリズムに乗せながら呼んでくる。抑揚もつけられないのに、器用なことだ。


「伽羅、帰ったらやりたいことたくさんある。おじさんと一緒にお掃除して、お片付けして、ご飯作る。お勉強も沢山教えてもらう」


 車に乗り込んで、指を一つ二つと折りながら、掃除機、窓拭き、雑巾掛けとつぶやく少女。そのどれも今日終わらせたと伝えると、お口おめが……と言って凹んだ様子になる。


 なんだか悪い事をした気持ちになるが、実際のところは僕の行動はなんの問題もないはずなのだ。子供が帰ってくるから、その前に掃除をしておく。まさか掃除を楽しみにしているなんて想像もしていなかったし、そうだと言われてもなかなか信じるのが難しい話でもある。


 ごめんねと謝りながら、それならお風呂の掃除をお願いしようかなと言ってみると、それなら昨日の夜にほとんど終わらせたと返される。確かに言われてみれば、カビとかはそのままだったものの昨日は壁が心做しか明るかったような気がした。


 結構しっかり落ち込んでしまったらしく、それからお喋りも少なくなってしまった伽羅さんを乗せたまま家に着けば、テンションが戻っている様子もなくとぼとぼと家に入って覇気のない声でただいまと言う。管理局を出る時や、一人暮らしをしていたマンションを出る時とは比較にならないほどの、寂しそうな様子。仮に悪いことをしていなくても謝りたくなるような、そんな空気を、今の伽羅さんはまとっていた。



「小幸が来るから、おうちをピカピカにしないといけない。伽羅、お友達をお家に呼ぶの初めてだからとても楽しみ。るんるん」


 機嫌を直してもらうためにいくつかお願いごとをして、働いてもらっているうちに伽羅さんは悲しんでいたことを忘れたのか、すっかり元気を取り戻した様子でパタパタと歩き回るようになる。


 この言い方だとまるでしょっちゅううちに訪れている縁呪は、伽羅さんのお友達ではないかのようだが、伽羅さんはきっとそんなことまで考えて話していない。それに、あの子の中では縁呪は友達と言うよりも家族に近いから、お友達を呼ぶという認識にはならないのだろう。あっているかは分からないけれど、おおよそ間違っていない気はする。


 少女の一人暮らし、それも学校からそれなりに近いとなれば、お友達たちのたまり場に成り果てそうなものだが、そうならなかったのは伽羅さんがいい意味でアンタッチャブルになっているのか、それともあの部屋に行きたがる人がいなかったのか。


 伽羅さんが嫌われているということは、伽羅さんが魔法少女だということを考慮すれば考えなくてもいい。魔法少女は変身していない時であっても自然と周囲から好かれやすいオーラみたいなものを放っていて、人々は魔法少女を嫌えるようにできていない。魔法少女に目覚めた以上、悪い意味で浮いているというのは考え難い状況なのだ。


 それならどちらが正解なのか今度縁呪に聞いておかなくてはと考えながら追加でお手伝いを頼んで、週末までには片付けておこうと思っていたタスクのほとんどが終わってしまったことに気がつく。僕が昼間無心でやっていたのが原因か、あるいは学校から帰って直ぐに、夜ご飯の時間までひたすら自主的にお掃除をしていた少女が原因か。


「伽羅、お片付け頑張った。おじさん、沢山褒めて」


 有言の圧を感じて、ありがとうと伝えながら差し出された頭を撫でてやると、伽羅さんはむふー。と満足そう?にしている。何かしらのハラスメントになるんじゃないかと心配になる行為だが、伽羅さんが喜んでいる内は大丈夫。……のはずだ。


「これならいつ小幸がきても大丈夫。明日、いつでも来ていいって伽羅が伝えといてあげる」


 伽羅は気が利くいい子。えへんと自分で言う伽羅さんに、そこまで気を使う必要はないと伝えるべきかどうか悩む。小幸さんを家に呼びたいと思ったのは確かに僕だし、その準備を進めてくれるのは素直にありがたい。けれど、それは僕がやりたいことなのだから、何も伽羅さんまで無理に付き合わなくてもいいのだ。


「おじさんはちょっと勘違いしている。伽羅はたしかにいい子だし、おじさんのお手伝いも好きだけど、やりたくないことならやらない。伽羅はただ、おうちにお友達を呼ぶのが楽しみなだけ」


 そこまで気を使わなくていいのだと伝えると、勘違いしないでと少し冷たく言われる。ちょっと言い方がキツイのはショックだったが、友達のために準備をしていたら勘違いした保護者がおかしなことを言ってきたと考えれば、それも納得だ。


 知らず知らずのうちに、伽羅さんを被害者として決めつけてしまっていたことに反省して謝罪すると、心配してくれること自体は嬉しいから問題ないと返される。……いや、自分で気が利くとか言ったら、気を使っていると思っても当然じゃあないだろうか?冷静に考えると少し腑に落ちないが、そういうこともあるさと無理やり納得しておく。



 それからは特にすることもなく、夕食を用意して、伽羅さんの宿題を見て、一日が終わった。最近の僕にしては珍しく行動量の多い一日だったが、悪い気分ではなかったのは、これまでが運動不足だったのだろうか。


 運動はさておき、暇だったのは間違いないだろう。行動らしい行動をとることなく、ただ管理局と家を行き来するだけの生活。飽きが来て当然だ。それも、伽羅さんがいれば変わるかもしれないと、少し期待してしまっている自分が嫌だった。自分の意思でそうしていたのに、過去に縋っていたのに、変化を喜んでしまう自分が嫌だった。



 一晩が明けて、昨日に引き続き早い時間に起きる。伽羅さんは寝坊するほうではなかったので、起こす手間はかからないのだが、しっかり朝ごはんを食べさせようと思ったら、そんな伽羅さんよりももっと早く起きなくてはならない。


 そうして朝ご飯の用意をしていると、寝坊こそしていないものの寝ぼけまなこの伽羅さんが目をくしくししながら出てきて、もきゅもきゅとご飯を食べ始める。そのまま食べ終わるのを見届けて、家から出るのを見送れば今日のやることは半分終了。はたらくことも家事に追われることもない生活というのはなんと暇なものだろう。


 暇になったので追われずに片付けを進めて、一人暮らしの間に溜め込んだ負債を少しでも減らす。家の中を全部掃除しようとしたら、それは1日くらいじゃ終わらないのだ。何日もかけて細かいところまで完璧にするために、ひとまずはトイレの掃除。


 その他にも、伽羅さんに任せるのは気が引ける箇所や、身長的な意味で任せられない場所を優先的に掃除していき、人を呼ぶための準備をする。掃除が終われば次は料理。どんな時間までいることになるのかがわからないから、一応用意するだけ用意しておいて、多かったらまた明日の僕のお昼にでもすればいい。


 体は奏と一緒だから、きっと味覚も大きくは変わらないであろうと予想して、奏の好物だったものでメニューを固めて、副菜は栄養バランスを考えたもの。小幸さんには、その体を使うものとして最低限の気は使ってほしい。奏が大切にしていた体を傷つけたりせず、太らない為にとおやつを我慢していた意志を継いでほしい。今はもう奏がいなかったとしても、あの子がそうあろうとした姿のままであってほしい。


 もし粗末にするようなら……と考えて、自分がまた冷静ではいられなくなっていることを自覚する。それを解消するために使うのは、伽羅さんからもらったキンモクセイだ。


 心が穏やかになったのを客観的に認識して、このキンモクセイをこのまま焚いておくべきかと考える。甘くやさしい香りとはいえ、その本質が線香であることに変わりはないので、人によっては苦手ということもあるだろう。実際、ユウキはあまり好ましくなさそうな態度であったし、この匂いがすることで不快な気持ちにさせてしまうかもしれない。


 定直なところこれで不快になる人がいるとは思えないのだが、ユウキの反応を考えれば絶対ではないのだ。ひとまずは残り香を残す程度にしておいて、反応が芳しければ追加を焚くなんかでもいいかもしれない。


 そんなことを考えながら作業をすること一時間強。防音性のおかげで事前に足音が聞こえるなんてこともなく、扉が開く音と、よく知っている声の他人行儀な挨拶が聞こえてくる。


「おじさん、ただいま。約束したとおり、小幸を連れてきた。どやっ」


「伽羅ちゃんから聞きました。この前話したしたばかりなのに、もう私のことを呼ぶ準備をしてくれたのだとか。奏さんの気持ちをちゃんと伝えられるかわからないけれど、精一杯頑張ります!」


「もう……今日はのんびり勉強しようと思ってたのに……」


 褒めて!とアピールしてくるのはわかりやすく伽羅さん。敬語を崩すことなく、けれど元気よく挨拶をしてくれるのが小幸さん。そして最後に、文句を言いながらもしっかり着いてくるには着いてきている縁呪。現在管理局に所属している魔法少女たちが、全てこの家に集まっている様子は、知らない人が見れば何かあるのかと興味を持つこと間違いなしだろう。


 ついでに言えば、管理局に所属していないもう一人の魔法少女である僕も一緒にいるのだから、この家だけにすごい数の戦力が集められていると言っていいだろう。魔法少女をもし一般兵器として運用できるのであれば、無理をすればこれだけで小国であれば壊滅状態にできるくらいだ。どう考えても過剰戦力なのだが、それでも安心しきれないのが魔物という存在である。


 その魔物の発生を知らせる携帯は、当然のように何も通知することがない。今日は魔物が出てきていないのだから、当たり前のことと言えるだろう。なお、魔物の発生は魔法少女であっても予期できないので、可能性としては今から突然戦いが始まるなんてこともありうる。その点、だいたい推測を立てられる秘密結社が相手というのは楽でいいのだろう。


「いらっしゃい、よく来てくれたね。君の中にいる奏が起きてくれるように、何かを伝えてくれるように、今日はゆっくりしていってほしい。何もわからなくても問題ないから、そうだね。伽羅さんや縁呪と遊ぶだけくらいのつもりで過ごしてくれるとうれしいな」


 かなりズレていた思考を無理やり方向修正して、あまり気負わず気楽に過ごしてくれるように伝える。これは別に嘘なんかではなく、ただ沢山来るようになればそれだけ奏が反応する機会も増えるだろうという理由だ。


 本当に聞こえているのかもわからない相手に反応してもらおうと言うのだから、長期戦になるのははなから想定済みである。むしろ、たった一日家ですごした程度で戻ってくるのなら、もう戻ってきていないとおかしいくらいだ。


 だから焦ることはせずに、三人で遊ぶように仕向けたり、お菓子の差し入れを持っていったり、一緒に宿題をしている時にわかっていなさそうなところを解決したりする。友達の家の親にしては少し干渉が多いと見られるかもしれないが、体だけとはいえ、せっかく我が家に奏が帰ってきたのだ。少しでも一緒にいたいし、快適に過ごしてほしい。今の僕が望んでいることは、それくらいのものなのだ。


「ポテトチップス、美味しいです!私、お菓子の中で二番目に好きなんです」


 三種類のお菓子を持っていくと、そのうちの一つを沢山食べながら小幸さんはそう言った。三人の好みに合わせた時の、縁呪が特に好んでいるものだ。


「数学、得意なんです。右と左、どっちも一緒で、みんな一緒。とても幸せな世界だと思います」


 だから今の不等式はあまり好きじゃないですと、小幸さんは続けた。それを隣に座っている伽羅さんが、理解のできないものを見る目で見ている。


「トランプ、得意なんですよ。特にババ抜きとか、負けたことの方が少ないです」


 三人でトランプをして、毎度最後まで残る伽羅さん。一番遊べてるってことだからいいもん……といじけているのはきっと強がりだろう。


「晩御飯まで、ありがとうございます。オムライス、大好きなんです。こんなに美味しいの、初めて食べたかも」


 スプーンを片手にニコニコ笑うその姿に、その様子に、嘘は見られない。言葉だけ聞けばいかにもお世辞っぽいが、本心からそう思っているのではと思わせるような空気を纏っていた。


 カチリと、限界が来てキンモクセイに火をつける。甘くやさしい、線香の香り。一筋の白い煙が昇って、拡散する。


「お線香、お好きなんですか?管理局でも焚いてましたよね。……あ、嫌とかではないんです!ただ、いい香りだからどこのものなのか教えてほしいなぁって思って」


 目の前にいるのが奏ではないのだと、頭では十分に理解していた。理解していたし、奏ではないからこそもてなした部分もある。だから今更そのことにショックを受けることなんて、ないはずだったのだ。


「この線香は、伽羅がおじさんのために作った特別なもの。他のところで売っていることはない」


 けれど、つい思ってしまうのだ。小さな行動の一つ一つが、好むものが、奏とは違う。僕の中にあった淡い期待が、当たり前の現実にすり潰されていく。


「伽羅ちゃんが作ったの!?いいなぁ、私にも分けてもらったりってできないかな?」


 奏なら、ポテトチップスではなくチョコレートを食べていた。奏なら、数学は難しいから嫌いだと言っていた。奏なら、ババ抜きは伽羅さんと同じくらい弱かった。奏なら、オムライスじゃなくてオムレツが良かったのに……と言って文句を口にした。


「これは伽羅がおじさん用に作ったやつだから、同じやつはだめ。代わりに別のやつで良ければ、小幸のためのも作ってあげられる」


 わかってはいるのだ。目の前にいる少女は、奏だけれど奏ではない。同じと思って接してはいけない。別の人間、独立した個人として考えなくてはならない。そうわかっているのに、その体がどこまでも奏のものであるから、そう割り切ることができない。


「本当!?これじゃないのは少し残念だけど、伽羅ちゃんが私のために作ってくれるなら、楽しみにしてるねっ!」


 キンモクセイがすっかり頭に回り、頭の中がスッキリして冷静になる。いつの間にかすぐ近くには伽羅さんがいて、小幸さんと話してくれていたらしい。思い返してみると、確かにすぐ横でおしゃべりしていたのを思い出した。


「ところでその、共田さん。あそこにある櫛って、何か奏さんにとって大切なものだったりしますか?」


 どうやら僕に用があったらしい小幸さんが、おずおずと指を指して聞くのは、壁に掛かった一つの櫛。飾られている以上、何かしらの価値があるものなのはわかるだろうが、わざわざ他のものではなくそれについて聞いたことが、僕の中では気になることだった。


「なんというか、見ていてとても不思議な気持ちになったんです。心の内側から幸せな気持ちが沢山溢れてきて、きっと奏さんにとって大切なものなんだなっておもって」


 違いましたか……?と、少し不安そうに聞いてくる小幸さん。小幸さんの言う通り、その櫛は僕たち家族にとって、とても大切なものだ。とても大切なものだから、キンモクセイで落ち着いたはずの僕の感情は揺さぶられた。


 だって、そのことを言い当てるということは、偶然でなければ本当に奏の意思が、何かが残っているということになる。今日一日もてなして、違いを突き付けられるだけだったのに、名残りを見つけられたことになる。


 その事実に、僕は何も言えなくなってしまった。



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 そろそろ過去編を少々(╹◡╹)


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