その5
怒りは7秒間我慢すればピークを乗り越えるという話を聞いたことがあるが、これはきっと間違っていないのだろうと思う。元々僕はそんなに怒るほうではなかったし、今感情を落ち着かせているのはキンモクセイのおかげだから実際に7秒という数字にはあまりピンと来ないが、ピークをこえれば我慢出来るというのには納得だ。だってそうでなければ、僕は香の効果が切れた途端にアップルンのことを絞めていないとおかしいのだから。
アップルンの姿を見ているだけで不快な気持ちになるのはこの際仕方がないとして、燃え尽きてしまった線香の残り香があるうちに薬を飲む。魔法少女の変身と同様の原理で可能になっているという薬の力で体が光って、僕の体は元のものに戻った。睡眠薬とアルコールを一緒に飲んだ時のように視界がぐらつく中で、自分の部屋のベッドに向かい、そのまま意識を手放す。
「グラビティ、やっと起きたプル。ずっと眠っていたから、アップルンはとても心配したプル」
次に目が覚めたのは、自宅に帰ってきてから12時間が経った頃だ。時間経過のおかげかアップルンに対する怒りはだいぶマシになっていて、口先だけとしか思えない“心配”の言葉を聞いても激高しないくらいの理性が確保できている。
「グラビティ、グラビティが寝ている間にインセンスが来ていたプル。グラビティが寝ているのを見て残念そうにしながら、線香を焚いて、帰って行ったプル」
言われてみると確かに部屋の中からキンモクセイの残り香を感じる。わざわざ僕の部屋でそれを焚いていったのは少し不思議だが、そのおかげもあってなのかアップルンにキレずにいられるので、助かったといえる。つい先ほどまで自分の理性のおかげだと思っていたものが、全く別の物のおかげだとわかったのは、だれに何を言われるわけでなくとも恥ずかしい。
せっかく来てくれたのにお礼を言いそびれてしまったなと考えながら携帯を確認すると、伽羅さんから今から行くねと、寝てたから帰ったとのメッセージが30分前に来ていた。迎えられなくてごめん、来てくれてありがとうと返信すると、大丈夫シュポっと言っているライターンのスタンプが返ってくる。管理局が主導して販売している公式のものだ。魔法少女はみんなのヒーローかつあこがれなので、こうしたグッズ展開もされている。
そのまま放置するも、ただの文章だけで返すのも見方によっては味気なく見えるので、伽羅さんに合わせてこちらもスタンプを送信する。選んだものは、とある黄色い魔法少女が、またねっ!と手を振っているもの。さすがに実写ではなくデフォルメされたキャラクターだが、元になった少女の強い意向で動きのつけられたもの。以前からよく使っていいた、正確には使わないと機嫌を損ねるので使わされていたものだったから、なにか使おうと思うと自然とそこに指が伸びる。
それを送って、黄色い魔法少女が笑顔で手を振っている姿を見て、湧き上がってきた感情を受け止めるよりも先に、線香に火をつける。残り香しかなかったキンモクセイが強くなる。一度大きく深呼吸をすれば、もう大丈夫だ。僕は落ち着いて、僕でいられる。
あまりこの線香にばかり頼るのは良くないと考えながらも、手放せる気がしなかった。ついこの間もらったばかりのものなのに、もう自分の生活に欠かせなくなりつつあるこれに対して少し危機感を覚えなくはないが、実利的に考えれば頼らない選択肢はない。普通なら病院に行くなどで対処するべきなのだろうが、僕の事情を考慮するとそれも難しいのだ。
心が落ち着いたのを実感して、今日この後何をするべきか考える。これまでであれば、一日の多くの時間は管理局で働いていたし、そうでない時間は家族と一緒に過ごしていた。けれど今の僕は、管理局をやめて、家族を失っている。趣味らしい趣味も持っていない人間なので、いきなり自由な時間を大量に与えられても使い道に困るのだ。魔法少女としての活動はやりないことにはなるが、それだって魔物が出てこなければなにも出来ない。
正確には、魔法少女の役目として、世に現れる秘密結社の対応も世間に知られているのだが、僕はそちらの方をやるつもりはなかった。僕が戦いたいのは、倒したいのは、あくまで魔物だ。人間である秘密結社の相手など、その実態を知っていればなおさらする気にはなれない。
そういうことは、管理局の魔法少女がするべきなのだ。むしろ管理局は半分そのためにあると言っても過言では……少しあるな。せいぜいが三分の一くらいだ。半分なのは魔物の対策を的確に行うためで、残りのすこしが魔法少女と一般人の緩衝材である。
ともあれ、僕は秘密結社の相手をするつもりはないのだ。そうなると尚更活動の幅が減って、やれることがないのだ。こうなると困った。このままでは、僕は職なし戸籍なし家族なしのプー太郎TSおじさんでしかなくなってしまう。それでも問題ないくらいの貯蓄はあるにはあるが、それでは失った家族たちに合わせる顔がない。
「そんなふうに悩むのなら、尚更早く管理局に行くプル。管理局であれば間違いなく事情を尊重してくれるし、そっちの方がグラビティのためになるプルっ!」
というか、なんでグラビティはまだ見付かっていないプル?と不思議そうにしているアップルンに、管理局のできる人探しは存在している人間限定だからねと教える。出頭しない魔法少女を確認した時の管理局は、まずその魔法少女の活動している時間帯に授業を休んでいる子供を探す。この国には義務教育があるので、少女と呼ばれるような年頃の子供であればその多くが学校に通っているのだ。かなりの高確率で、身元不明の魔法少女の同定はこれで終わる。
それでどうにかならなかった時は、国や自治体が補足している範囲で、学校に通っていない子供たちの確認だ。不登校児や、義務教育を済ませて働いている少女たちを一通り確かめれば、まず漏れることはない。実際に、これまでの魔法少女は全てこれで見つけられていたわけで、最後の手段はマニュアルに載っているだけだった。
その最後の手段というのは、魔法が現れた周辺の防犯カメラなどから画像を強制徴収して、写りこんでいるものから身元と潜伏先を突き止めるというもの。マニュアルによると、警察などの力も借りて全力で確保に務めるらしい。普段は別のことをしている職員たちもフル稼働で探しに行くのだとか。
「そうなると、管理局は今頃大変プル。元同僚たちを困らせて、グラビティの心は痛まないプル?」
痛むか痛まないかで言えば、痛む。けれど、僕にだってそうするだけの理由はあるのだ。元同僚の皆さんには申しわけないが、無駄に増えた仕事を頑張ってほしい。
そんなふうに犯人探しみたいな真似なんてしないで、魔法少女の自主性にまかせればいいのにという意見もないではないのだが、僕としては今のルールに賛成である。まさか自分が探される側になるとは思っていなかったし、だからといって素直に捕まるつもりもないのだが。
そもそも、魔法少女というものは少女であるのと同時に兵器である。対人的な運用が許されていないだけで、できないわけではない。ユウキのおかげで一部再現されているとはいえ、摩訶不思議で面妖な術を使う存在、しかもごく一部の例外を除けば何をしても他人から嫌われることのない存在など、野放しにしておけるわけがない。そう考えれば、形だけとはいえ一度管理局で登録し、管理するという名目は必要なのだ。間違ってもその力を悪用することがないように、間違った方向に進むことがないようにするのは、大人たちの義務である。今の僕にはそれを全うさせるつもりはないのだが。
「こんなことになるのなら、アップルンはグラビティに、正体を隠すなんて約束をするべきじゃなかったプル。どうせすぐに見つかるんだから、こんな約束しても意味なんてないって考えていたアップルンが間違っていたプル」
その間違いのおかげで、僕は自分の正体を守ることが出来たのだ。これまでの魔法少女が全員補足されているという事実と、僕の事情の特殊性のおかげであるが、アップルンの迂闊さには感謝しなくてはいけない。
「それでも、あの研究者、グラビティに薬を渡した彼はグラビティの正体を知っているはずプル。そして彼は管理局の人間なのだから、いずれ正体はバレるプル。隠れていられるのも今のうちプル」
ユウキが口を割ることに期待をしているのなら、それはきっと無理だろう。あの友人は人類の味方である以上に快楽主義者で、自分の自由を脅かされない限り積極的に人探しをしたりしない。そしてユウキに人探しをさせようなんて、管理局の人間であればまず考えない。
そうなると警戒すべきは、そっちの方が面白そうだからとユウキが喋ってしまうことだが、これでも僕らは友人なのだ。それも、お互いにかけがえのないオンリーワンの友人である。さすがにこんなところで失うことはない……とは言えないのが、ユウキの恐ろしいところなのだが。
空腹感を覚えてリビングに向かうと、テーブルの上に線香が一束と、丸っこい字の書置きがある。書いたのはもちろん伽羅さんで、思ったよりも減りが早いみたいだがら補充しておくとのコメント。ありがたい限りだ。これなら、先にこっちに来てから返信するべきだった。
そこにあるだけでも発香する線香の、炊いた時とはまた異なる香りに癒されて、冷凍庫から出したのはまだ目を開けていた頃の妻が作り置していたハンバーグ。黄色い魔法少女の、あの子の好物だ。ついでに、伽羅さんもこれを好んでいた。伽羅さんの場合は僕たち家族が作るものならなんでも美味しそうに食べてくれたからあまり好物の印象が残らないが、確かハンバーグの時はいつもよりご飯の量が多かったはず。
温めたハンバーグを食べると、無性に寂しくなった。これまでこれを食べている時は、いつだって家族が一緒だったから。一人での食事は味気なくて、ひどく冷たく感じる。
久しぶりに、妻に会いたくなった。つい数日前まで毎日お見舞いに行っていたのだから、久しぶりと言うほど久しぶりではないのだが、毎日あっていた人と何日も合わなかったら、それは久しぶりと言ってもいいだろう。
そうと決めたらハンバーグを流し込んで、外出の準備をする。今回は元の姿のままだから、公共交通機関ではなく自家用車。五人乗りの車に一人で乗るのは、通勤時にはちょくちょくある事だったので、そこまで寂しくはない。
慣れた道を、慣れていない時間に通る。平日の昼間の道路は、朝や夕方の時間とは異なり空いていて快適だ。到着予定時間で着くなんて、いつもならまずありえないことなのだから。
習慣で職員用の駐車場に向かいそうになりながら来客用のところに止めてゲートに向かいそうになりながら受付に行く。顔見知りの受付が、何をしに来たんだという目でこちらを見ているのに対して、退職したことと、妻に逢いに来たことを伝えると、彼は気の毒そうにこちらを見ながら入構許可証を渡してくれた。本来なら身元の確認とか、もっと面倒な手続きがあるのだが、免除されたのは顔見知りだからだろうか。いや、単純に個人情報がまるっと管理局に残っているから、いちいち確認する必要がないだけだな。
管理局の見た目は、大きなビルだ。街の真ん中に建っていて、大きく魔法少女管理局と書かれている。近所の小学生の社会科見学先としても大人気で、たくさんの人が出入りする建物だ。
その中にはセキュリティが厳しいところが沢山あり、先日訪れたユウキの部屋なんかがその筆頭になるのだが、様々な目的の施設が併用されていることもあって、比較的人の出入りが多いフロアもある。今回僕が訪れているのは、そんな場所の一つ。魔法の影響による怪我の治療や、逆に魔法を使った怪我の治療などを試みている実験施設、という名の、ただの病院だ。
そのフロアの片隅に、個室を与えられて眠っている女性。適切な看護のおかげか、まるでただ眠っているだけのような彼女が、僕の妻であり、喧嘩のようなことをしたまま目覚めなくなってしまった
喧嘩の内容は、大したものじゃなかった……なんて言うのが、こういう場合のお約束なのだろうが、あいにく大したものだった。彼女にとっては、結にとってはもしかすると大したことではなかったかもしれないが、いつも置いていかれてきた僕にとっては大したことだ。
でも、喧嘩の内容なんて、もうどうでもいいのだ。こうなってしまったら、今更気にしても仕方がないことなのだから。これまでも何度かしたことのある喧嘩、意見の食い違いで、こういうことにならないために話していたことっだったが、今となっては何の意味もない。
結局、僕は守れなかったのだ。力がなかったせいで、守れなかった。力がなかったせいで、戦うことすらできなかった。力がなかったせいで、傍にいることすらできなかった。そんなにも何も出来ないのなら、もうなんのために鍛えたのかすらわからないじゃないか。守るための力で守られることしかできないのなら、そんな僕はなんのために生きているのかすらわからない。僕にはもう、自分が生きている理由すらわからない。
頭の中が、ネガティブな考えでいっぱいになる。このままだと一生目覚めないとユウキに太鼓判を押された結の手を握っていることしか、僕にできることはない。魔法少女の力を手に入れても、結を目覚めさせることはできない。力を手に入れるのが遅すぎたのだ。守りたかったものは、もう失ってしまった後なのだから。
「おじさん、そんなに強くにぎったら、おばさんの手が折れちゃう」
周りも見えなくなっていた僕の耳に届いたのは、抑揚のないあ少女の声。ついでにふわりと香るキンモクセイは、僕の感情を無視して気持ちを落ち着かせる。
「おじさんは力が強いから、そんな風に握りしめたらおばさん泣いちゃう。もともと白いのにこんなに真っ白になっちゃってるし、伽羅は心配」
言われて目をやると、伽羅さんの言葉通り、結の手は真っ白になっていた。もともと温かかった手は血流が悪くなったせいか冷たくなってしまっている。僕が何も考えずに感情だけで握ってしまったせいだ。止められていなかったらずっとこのままだったかもしれないことを考えると、胆が冷える
「伽羅さん。教えてくれて、結の見舞いに来てくれてありがとう。危なく結の手がなくなってしまうところだった」
「ん。なくならなくてよかった。伽羅、おばさんの作ってくれるハンバーグ大好きだから、手がなくなっちゃったら困る。しぐま」
キンモクセイのおかげか、一番精神的に不安定になっているであろう今の状態でも、問題なく伽羅さんの前で話すことができる。以前見舞いが被ったときは、自分の気持ちを抑えられずにあたってしまったが、妻の見舞いに来てもらえるのは嬉しいのだ。きっと結も、我が子のように思っていた伽羅さんが来てくれていると知ったら喜んでいることだろう。
それはそうと、シグマとは一体何なのか考えてみてもわからないので、ついでに聞いてみる。最近の子の流行なのか、ただ僕が知らないだけか、どちらにせよわからないものは聞いてみないとそのままだ。
「しぐまはしぐま。結合の方じゃなくて、総和の方。伽羅、表情でコミュニケーション取れなくなっちゃったから、ちょっとでもわかりやすいように顔文字使うことにしたの」
これなかよくなりやすい、どや。と口に出している伽羅さんは、もしかすると僕が魔法少女状態のときにつんけんしていたことを気にしているのかもしれない。そのせいで変な方向に向かおうとしていることには謝りたいが、今の姿ではそうすることはできないのが歯がゆい。
ところで、σ結合と総和のΣなんてよく中学生が知っているなと思って聞いてみたら、どうするべきか相談したときにユウキが教えてくれたのだそうだ。こんないたいけな少女に変なことを教え込むなんて、あの友人はいったい何をしているのだろうか。
ぷるぷる体を揺らしながらしぐま。と言っているのを見るに、びっくりしている時の顔文字の横の∑を表現したいのだろう。やりたいことは何となくわかってきたが、だからといってそれが本当に有用だとは、少なくとも僕には思えなかった。
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まともな感情表現の機能を奪われちゃった系少女をすこれ(╹◡╹)
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