2023/08/01 孤独と恋愛と物語
世の中には、常に他者と共に過ごしたいという人がいる。
実際、私の身の回りにもそういう人は多い。他者と共に行動し、語らい、交流することで癒されたり、救われたりするらしい。そのような人々は、往々にして皆マメだ。出かけることをためらわず、他人とのやりとりに物怖じしない。そういった人々が羨ましい。
私は真逆の生態を持っている。人の中にいると、孤立する自分を深く実感させられる。周囲と断絶する自分、他人と他人との断絶を意識する自分。そういった視点に苦しめられて、くつろぐことができない。若い頃は何も知らず、世界のすべてが新鮮で面白かった。だから友人たち──今は全員疎遠──と十泊寝食を共にしても大丈夫だったが、最近は駄目だ。旅先では絶対に個室がいい。一人の空間がないと耐えられない。
もっとも、他者と共に過ごしたい人々とて、そういったことを気にしないわけではないらしい。それでも彼らがくつろげるのは、何故だろう。人の安らぎの個人差というのは、不思議だ。
物語の好みにも、似たようなことが言えると思う。
私は恋愛小説に食指が動かないのだが、世間の人々は恋愛というものが大好きだ。何かとボーイがガールに、ガールがボーイに出会っては、おむすびコロリンすっとんとんといった具合に恋に落ちる。
そういった様を見る度に、私の脳裏にはマッカーサーの顔が浮かぶ。
恋愛という概念が輸入されたのは明治時代以降だ。その後、戦後のGHQの改革の一環として恋愛映画の上映が奨励され、今では日本のスクリーンにアメリカ式の恋愛を映すのが一般的になっている。戦前に恋愛映画というものはなかった。かつて日本にあったのは世話物であると聞いている。
現代の日本人は、はたしてマッカーサーの意図した恋愛の精神のどれだけを分かっているのだろう。
そんなことを考えるが、生まれも育ちも日本の私は西洋主義的な恋愛を知らないし、かつて日本人が明治より前から親しんだ人情の醍醐味も分からない。
だから、物語の中で愛し合う二人を見たり、その様子を賛美する人々を見たりする度に、途方に暮れている。
そして、そんな自分と周囲の断絶に気づき、また己の殻に引きこもるのである。
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