エピローグ
東の空に日が昇る。金色の陽が射し込む東の塔で、ペネロペはおのれの、七色に輝き始めた長い髪をゆっくりと編んだ。
頭の後ろでふたつに分けた左右の髪を、それぞれ三つ編みにして肩に垂らす。
螺鈿に縁どられた鏡の中で、もうすぐ十六歳になろうという魔女が顔をこわばらせている。その様にふう、と息をついて、ペネロペはおのれの両頬を手のひらで打った。母お手製の黒いマントを目深にかぶり、時代遅れのトランクを手に取る。
「じゃあ、シルビア。留守をお願いね」
「いい休暇を、小さな魔女さん」
扉に立てかけた友人へと挨拶を済ませ、少女は意気揚々と塔の階段を下りた。
七月上旬。学年末試験を終えたヴェルミーナ魔女学院の空気は、すでに休暇の色を濃くしている。生徒の姿はまばらであった。
ちらほらと残っている同級魔女へと声をかけつつ、ペネロペは東寮を抜け、本館へと足を踏み入れる。
「ペネロペ」
手持無沙汰に足元を眺めていたアダムがぱっと顔を上げた。少年は幼馴染みと同じく、ここへ来た日と同じように漆黒のマントを纏っている。
「トランクを持つよ」
「ううん、平気。ありがとう」
「体調はどう?」
数日前の学年末試験で、ペネロペを含むベアトリーチェ組とメアリー・アン組のメンバーは、突如として未知の外敵に襲われた。
「未確認因子の介入」澄ました顔でそう説明したローガン・F・スタンリーの言葉を、彼らは黙って聞くほかなかった。それはペネロペとて同じである。
「私は平気。アダムは?」
「俺もぜんぜん。アンバーは、なんて言うか。さすがだな」
「うん」
不本意げに唸る幼馴染みの横顔を見上げ、ペネロペは笑った。
学年末試験は七月一日の朝、無事に──無事に、というと語弊があるが──終了した。その後すぐに教職員総出で成績の審議があり、結果はすぐに発表された。
主席、東寮ベアトリーチェ・アンバー。次席、西寮メアリー・アン。
合格条件を満たすどころか、気絶したまま試験を終えた二人がどうして高評価を得たのか。それを知っているのはあの日、同じ本の中に入った生徒だけであったが、表立って文句を言う者は現れなかった。そもそも、一番大きな声で文句を言いそうな少年──ギャレット・レイズ、その人である──は、同じく負傷して医務室の住人となっていたので、順位発表時の教室は静かなものであった。
ベアトリーチェとメアリー・アンの二人はそれぞれ『東の銀狼』『西の金獅子』と二つ名を与えられ、二年次での学年統率を求められる立場になった。
メアリー・アンに至っては、ソフィー・モーガン以来二代目の『西の金獅子』として、すでに校外にも名は知れているようである。
──東の黒龍は、スタンリー先生ではなくエリオさんだった。
あの日以来、重傷を負った事務員の顔をペネロペはまだ見ていなかった。ローガンは「生徒のおまえが気にする事じゃない」と取り合ってくれなかったのだ。
負傷者の中で一番に目を覚ましたのはベアトリーチェであった。その後、主人に引きずられるようにしてヴィルヘルムが。それにメアリー・アンが続き、ギャレット、アダムを筆頭とした使い魔たち、最後に一番外傷が激しかったダニエルが回復した。
その頃になってやっと、シルビアも原因不明の長い昼寝──スタンリー教諭曰く、強靭な魔力の前では誰しもなすすべなどない──から、目を覚ましたのであった。
その間にペネロペは、事務員から採取した火龍の血を使って『延命薬』を完成させた。
ペネロペにその課題を化した薬学教師は、延命薬を受け取る際、訳知り顔でそっと人差し指を唇に当てた。エリオットのことは同級生には話すな、という無言の言いつけであった。
「ともかくだ、全部の試験を無事にパス出来てよかったよ」
「ええ、そうね。大手を振って村に帰れるわ」
そう笑い合って、ペネロペとアダムは講堂の前を行く。かつかつと、石造りの廊下が二人分の足音を響かせる。
約一年前、初めて足を踏み入れた校舎。
その道筋を逆さまに辿る。玄関へと出てみれば、すでに仕度を済ませたベアトリーチェとヴィルヘルムが白い柱を背に立っていた。二人は男装の装いである。
帰省時期が同じならばと、中央駅まで共に列車に乗ることを、彼らと西の村の二人は約束していた。
「随分とのんびりしてたじゃないか。村タイムめ」
ベアトリーチェがわざとらしく声に嘲笑を乗せる。その後ろでヴィルヘルムが眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ごめんなさい。でも汽車には間に合うでしょう?」
「お待ちかねはぼくらだけじゃないんだよ」
「え?」
そう、ペネロペが声を上げるよりも先に、少女の視界に見慣れた黒髪が飛び込んで来た。
くしゃくしゃの癖っ毛を鳥の巣のように乱した青年の姿をとらえるや、ペネロペは駆け出す。ガツン、と廊下に時代遅れのトランクがぶつかる鈍い音が響いた。
「エリオさん!」
ヴェルミーナ魔女学院の正面出入口、その傍に設けられた守衛室の前に、男は立っていた。未だ首には白い包帯を巻かれ、右腕を吊ってもいたが、にこやかな頬には健康的な血の気がさしている。
飛び込んで来た魔女を片手で受け止めて、男はぎゅっと腕の中の華奢な身体を抱きしめた。背後ですかさずアダムがヒステリックな声を上げる。
「事務員、てめえ!」
「いいね、バックランド君。入学式の夜から一年経ったなんて嘘みたいだ」
「スタンリーさん、淫行罪ってご存知ですか」
「うーん、厄介なのが増えっちゃったなあ」
静かな怒気を漂わせるベアトリーチェに苦笑いして、エリオットはペネロペの肩をゆるく叩いた。「ほら、お姫様。ナイトたちがお怒りだよ」ペネロペにだけ聞こえるようにそう言って、男は少女を地上へと戻す。
ペネロペは滲みかけた涙を拭った。そうして、高い位置にある赤い瞳を見上げる。
「エリオさん、無事でよかった。本当に」
「あれ? ローガンから聞いてなかったかい?」
「聞いてなかったって、なにを?」
「僕、しばらく湯治に行ってたんだよ。ソフィー先生と蜂須賀について。あのひとたちはそのまま帰郷しただろうから、もう学院に残ってないだろ? 僕も昨日戻って来たところだったんだよ」
「とうじ?」
「温泉治療です」
首を傾げたペネロペにヴィルヘルムが平坦な声で答える。
湯治。温泉。
目を覚ました途端「休みだ!」と、散歩に興奮する犬のような勢いで飛び出して行った桔梗。つまり、あの頃にはすでにエリオさんは動けるくらいには回復していた──?
脳裏に浮かんだ、目の前の男と同じ顔をした教師を、今度こそ殴ってやりたいとペネロペは思った。
「そうならそうと言っ……ああ、もう! なんなのあのひと!」
「ごめんねえ、うちの弟が。悪い奴じゃないんだけどさ、ほんとに性根が歪んでるんだよ。生まれた瞬間から」
「ローガンから聞いたよ。学院に残るんだってね」背後で何やら言い争いを始めた二人の魔女と使い魔に聞こえぬよう声をひそめ、エリオットは言う。
ペネロペは静かに頷いた。
「そうか」
どこか苦しげにそう言って、エリオットは顔を上げた。
誰もが知る「事務員」の明るい笑顔を張り付けて、男はペネロペを同級生たちの元へ行くよう促す。
「行ってくれ、西の村の小さな魔女。きみは僕ら兄弟の希望だ」
その言葉の意味が、ペネロペには分からなかった。
ペネロペとアダム、ベアトリーチェ、ヴィルヘルムの一行はヴェルミーナ魔女学院の正面玄関を抜けた。入学式典のあの日、月が輝いていた空には太陽がさんさんと輝いている。
緑の眩しい庭を行く。馬のかたちをしたトピアリーは、事務員兼庭師の不在のせいで少々いびつなポーズで前足を上げている。
「この学院に来てよかった」
陽の降り注ぐ中庭に相応しい、爽やかな声でベアトリーチェは言った。
一年前、不快感をいっぱいに湛えてペネロペを見下ろした少年はもう居ない。過重量の積み荷を背負ったまま長い旅路をつづけていたさすらい人は、やっと己のよすがを見つけた。
この学院であり、ここで出会った友人たちであり、ペネロペ・クルスであった。
精霊たちが行き交う澄んだ空気を吸い込んで、吐き出す。満ち足りた微笑を浮かべる同級魔女にペネロペも倣った。胸いっぱいに吸い込んだ空気はどこか甘く、それは『大切なひととのささやかな幸せ』の香りがした。
「私もよ、ビーチェ」
「……ペネロペ。ぼくはきみを、」
「おい、そこまでだ。ペネロペに話があるなら俺を通せ」
「きみは変わらないな、バックランド」
心底うっとうしそうに顔を歪め、それからベアトリーチェは笑う。その後ろでヴィルヘルムが眼鏡のブリッジを押し上げる。
変わるもの。変わらないもの。変わっていくもの。
すっかり背の伸びた三人の少年を眺め、少女は目を細める。
私もここで、変わりたい。
言い争いを始めた少年たちをよそに、ペネロペは足を止めた。くるりと踵を返し、一年を過ごした校舎を振り返る。
白い壁と、そこに並ぶたくさんの窓。数えなくとも、ペネロペはその建物が四階建てであることを知っている。部屋の数と窓の数が合わないことも、校舎の向こうに事務員が手掛ける中庭があることも、東の塔があることも。
ペネロペ・クルスは知っている。
そこがおのれの居場所であることを。
ふわりとやわらかな風が吹いて、ペネロペの漆黒のフードをはらった。
「ペネロペ、帰ろう。俺たちの村に」
そう、使い魔が差し伸べた手を取って。再び校舎へと背を向けた西の村の魔女は、軽やかに足を踏み出した。
太陽に照らされた少女の髪が、きらきらと七色に輝いている。
【七色の怒れる魔女・第一部 完】
七色の怒れる魔女 よもぎパン @notlook4279
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