第41話 魔女のよすが



「なんだねこれは。ローガン・F・スタンリー?」

 学年末試験を終えた朝のこと。

 日の差し込む呪文学準備室で、ドリトルはそう声を上げた。

「辞表です」

 ドリトルの腰掛ける古びた机には、一通の封筒が置かれている。先ほどこの部屋へとやって来たローガンが、挨拶もそこそこに提出したものだった。

 飾り気のない不愛想なそれは、仏頂面で佇む男そのもののようであった。

「此度の学年末試験のこと、誰かが責任を負わねば父兄は黙っていないでしょう。レイズ家の馬鹿どもを筆頭に」

「そうだろうとも。しかし、提出する相手を間違ってはいないかね。ローガン」

「いいえ。間違っていません。先ほどスチュアート教頭の所へ行ってきました。そこで──そこで、ドリトル先生が、すでに辞職の意を示されたと聞いたものですから。私のこれと、先生の辞表を交換してください。東の魔女の侵入を許したのは私の責任です」

「私の門も突破された。責任の所在は私にある」

「私が辞めるべきだ」

「自己犠牲とは。らしくないな、ローガン」

 そう言って老人は息を漏らすように笑った。

「きみはもっと合理主義だったろう」

「ドリトル先生、あなたはこの学院に必要な存在です」

 そう、ローガンはほんの僅かばかり息を弾ませて言った。

 そんな男をドリトルは静かな青い瞳で見上げている。学生の頃から、誰よりも優秀であった魔女。優秀であるがゆえに、大きな孤独を抱える少年を、ドリトルはずっとその瞳で見守って来た。

「俺が辞めれば済む話だ。レイズの連中だってその方が喜ぶ」

「ローガン」

「生徒たちにはあなたが必要です。兄も、モーガンも、シンイーも、俺も。ここに来たばかりの頃は、魔力と自尊心だけが無駄に強い厄介なガキでした。あなたに出会っていなければ、きっとろくな魔女にならなかった。……今の我々がまともな魔女かどうかは、審議が必要なところですが」

「みんな、私の自慢の生徒たちだ」

「今年度の生徒は非常に優秀です。あなたが導いてくだされば、きっと、この先の時代を作っていく魔女になるはずだ」

「ローガン。ここを出て、きみはどうするつもりだね」

 師の問いかけに、男はふっと口元を緩ませる。不器用な笑顔だった。

「どうするも何も、東の魔女の監視に専念しますよ。サバトが以前から私にそう望んでいるように」

「そうだな。そうしていよいよ、きみは自らの命も省みなくなるのだろう」

 ローガンは黙った。沈黙は肯定と同義である。

 ふう、とドリトルは息をついて椅子から立ち上がる。いつもと同じ苔色のローブを引きずり、老いた魔女は生徒の傍へと寄り添う。そうして、そっとその腕を撫でてやった。

「この学院はきみのよすがだ、ローガン。帰る場所をみすみす手放してはいけないよ」

「しかし、先生」

「きみが言ったのだ。今年度の生徒たちは実に優秀だ。優秀で、勇敢で、無謀で自信過剰で、揃いも揃って馬鹿で下品で乱暴な男たちだ」

 ドリトルは戯けたように肩を竦めて見せる。その声にローガンは穏やかに笑った。

「覚えのある文言だ。耳が痛いです」

「本当に、学生時代のお前たちときたらどうしようもなかった」

「それこそが『ヴェルミーナ魔女学院』でしょう」

「その通り。ちゃんと分かっているじゃないか、ローガン」

 生徒の言葉に、教師はゆったりと微笑んだ。窓から差し込む朝日を反射して、空気に舞うほこりがきらきらと金色に輝く。

「学生こそが『ヴェルミーナ魔女学院』を形作る。新しい時代を作るのは若者だ。老人がいつまでものさばるものではない」

「……先生」

「導いてやりなさい、光の方向へ。ルスア。おまえが最初に覚えた呪文だったろう」

「──はい。はい、ドリトル先生」

 もう一度そう、うなずいて。ローガンは伏せていたまぶたを上げる。

 煌々と輝く赤い双眸で、男は恩師を見据えた。気弱で、鬱屈とした学生であった己を光の下へと導いた師との記憶が、瞳の奥で輝くようであった。

 その光にドリトルは深く頷き、ローガンの腕に触れたままであった手に力を込める。

「きみには血を分けた兄が居る。優秀な朋輩たちも居る。頼ってやりなさい」

「はい」

「決して一人になってはいけないよ。決して──、」

 決して、東の魔女と同じ道を歩んではいけないよ──。

 苦しげに目を伏せる老人の力ない肩に、ローガンはそっと、触れることしか出来なかった。








 

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