第40話 ペネロペ・クルス
呆気ないほど容易く、ペネロペとダニエルは塔のふもとに降り立った。
空を飛ぶ彼らを阻んだのは、どこまでも続く暗闇だけであった。仕掛け魔法どころか、風さえも吹かない常闇の世界。闇が何もかもを飲み込んでいる──、光の精霊を携え、ペネロペはひたいにじんわりと滲んだ汗を拭った。
塔は小高い丘の上に建っていた。辺りには闇以外のものは見当たらない。気を失ったままのダニエルを下ろし、ペネロペはシルビアを塔の壁に立てかける。
ペネロペの肩からアダムが音もなく飛び降り、体勢を低く保ちつつ様子を窺っている。
「立派な塔ね」
おのれの住む東の塔とは似ても似つかない、重厚な造りのそれを見上げてペネロペは呟いた。
「アダム、ダニエルをお願い」
使い魔にそう言い残し、ペネロペは塔の周辺を探索することにした。
塔のてっぺんは闇の中に溶けている。ぐるりと一周するにも数分を要する立派な塔である。隙ひとつ見当たらない建物は、まるで要塞のようであった。びっちりと規則正しく並んだレンガの壁にドアの存在を認め、ペネロペはダニエルの元へと足早に戻る。
ダニエルは丁度目を覚ましたところだったらしく、同級生の姿を見つけて気まずげに頬をかいた。
「やあペネロペ。おはよう」
「目を覚ましたのね。調子はどう?」
「足はどうしようもないね。それから、首と頭が割れそうに痛むかな。あとは問題なし」
「ものすごい音がしてたもの」
だろうね、と言いながらダニエルは身体を起こした。側に居たアダムが黒猫から人型へと変化し、その背を支える。
「ありがとうバックランド」
「ダニエル、あなたはここで待っていて。向こうに塔の入り口があったわ。ここへ辿り着いたのにまだ試験が終了していないことを考えると、合格条件はきっと『塔の頂上へ行くこと』ね。私、ちゃちゃっと上がって先生たちを呼んでくる」
「いや、僕も一緒に行こう」
そう言ってダニエルは立ち上がる。
よろめく同級生を支えつつ、アダムが鼻にしわを寄せた。
「馬鹿言うなグリーン。この足でどうやって塔の頂上まで行くつもりだ」
「僕は魔女だよ、バックランド。飛んで行くさ」
「魔力空っぽのくせに何言ってんだ」
「僕は魔女だ。君はなんだい?」
ひたいに脂汗を浮かべ、少年は笑う。
言外に「魔力供給をしろ」と訴える魔女に、アダムは鼻に寄せたしわを更に深いものにした。金色の双眸がぎらつき、グル、と喉が鳴る。
「足手まといは要らねえよ。塔の頂上へは俺とペネロペで行く」
「遅れるようなら置いて行ってくれて構わない」
「なんだ、やけに拘るな。もしかして成績気にしてんのか、ガリ勉野郎。この非常事態だ、まともに成績表が貰えるかどうかも怪しいぜ。冷静になれよ」
「アダム」ペネロペが幼馴染みを制する。そうして少女はダニエルを見つめた。
深緑の瞳はいつも通り、穏やかに澄んでいる。
「ダニエルは、私のことを心配してくれてるのよ」
ペネロペ・クルスは攻撃魔法が使えない。そんな同級生を、何が起こるとも知れぬ場所に送り出すほど、ダニエル・グリーンは薄情ではなかった。
「行きましょう」未だ無言を貫くシルビアを背負い、ペネロペは言った。
ここでぐずぐずしている時間はない。ヴィルヘルムと桔梗、それからギャレット、サミュエル、ティンキーは行方不明。ベアトリーチェとメアリー・アンは今も応戦中だ。一刻も早く試験会場である本の中から脱出し、助けを呼ばなければいけない。
一行は塔の出入り口に到着した。ペネロペが扉を押すと、薄気味悪いほど軽い音を立ててそれは開く。
塔の中は外にも負けぬ暗闇であった。風が扉から中へと吸い込まれ、天へと巻き上がっていく音がする。
「お願い。灯りをちょうだい」
わずかに漂う精霊がペネロペに応える。ポッ、ポッ、と空気中に浮かぶ埃が光を帯びるように、塔の中に無数の光源が灯った。石造りの階段が壁に沿ってらせん状に伸びている。
ダニエルが魔法ポケットから箒を取り出し、またがる。超低空飛行の上、箒の柄をまっすぐに保つことすら出来ない魔女を見かねたアダムが再び猫の姿に変化し、ダニエルの肩に飛び乗った。
「ありがとう、バックランド」呟く声はすでに掠れている。
──一刻も早くここから出なければ。ペネロペはこくりと唾液を嚥下した。
満身創痍の同級生。顔色一つ変えていないが、アダムの限界も近い。それが幼馴染みのペネロペにはわかる。魔女に魔力を供給することに特化した使い魔とて、魔力に底はあるのだ。
よろよろと不安定な飛行を続ける同級魔女の箒の先を握り、導いてやりながら、ペネロペは階段を上がった。
塔の中は不気味なほど静かであった。ドアを開けた際に聞こえていた風鳴りも今はない。かつん、かつんと、ペネロペのブーツが立てる靴音だけが響いている。
どれくらい登っただろうか。ペネロペのひたいに浮かんでいた汗が小川をつくり、顎先へと滴り落ちた頃、ダニエルが掠れた声で言った。
「やっぱり、変だな」
「え?」
「ここの魔力。どう考えてもスタンリー先生のものじゃない」
「ああ」首を傾げるペネロペをよそに、アダムが肩で息をしながら相づちを打つ。
「嫌なにおいだ。古くて、濃くて、憎しみで満ちてる。階段を上がるたびに、どんどん濃く、強く、なってる」
そこまで言って。ぼとりと、黒い塊が魔女の肩から滑り落ちた。
「アダム!」
「バックランド!」
石造りの階段に叩きつけられた黒猫を抱き上げ、ペネロペは悲鳴を上げた。
アダムの身体は冷え切っていた。瞼を上げる気力もないのか、霞んだ金色の瞳は半分以上が隠れている。ぜえぜえと、柔らかな腹が大きく膨らんでは沈む。
「アダム、どうしたの。しっかりして!」
「魔力不足なら、何か補給できるものをっ」
「違う。これは、違うわ」
アダムが魔力不足に陥ったのは初めてではない。幼馴染みのペネロペは、彼が魔力不足のせいで朝寝をするのを何度も見て来た。しかし、今の彼はそういった類の不調とはまったく様子が違っていた。
ごぽん、ごぽんと手押しポンプのような音を立て、アダムの身体が痙攣を始める。そうして黒猫は激しく嘔吐した。乳白色の固形物と黄色い胃液が漆黒の毛を汚す。
ペネロペは躊躇うことなく、意識を失った猫の口へと指を差し込んだ。
誤飲を起こさぬよう、口内に残った吐しゃ物を掻き出し、抱き上げた身体を横たえる。
「ペネロペ」
「大丈夫。気を失っただけ」
浅く、弱く、それでも呼吸があるのを確認してペネロペは言った。
「魔法酔いよ」
呆然とダニエルは黒猫を見つめる。
「急ぎましょう」
そう、毅然とした態度で言いながらもペネロペは動揺していた。
アダム・バックランドが魔法酔いを──強い魔力に慣れていない使い魔が起こすと言われているその症状を発症したのは、初めてであった。
スタンリー先生相手でも魔法酔いを起こさなかったアダムが、嘔吐し気絶するほどの魔力。南の魔女ヴェルミーナもが認める天才おとこ魔女以上の、力を持つだれか。
いったい、だれが? 背中を冷たい汗が伝っていく。
「ダニエル、ひとりで飛べる? 今のところ危険なものも無さそうだし、ここから先は、私一人で──、」
そう、ペネロペが後ろを振り返った時だった。
ぐにゃりとペネロペの視界が揺れた。──いや、視界ではない。石造りの階段が大きく波打った──、そう思ったときには、身体が落下を始めていた。
「ダニエル!」
階段が崩れた? いいや、違う。階段が消えた──!
咄嗟に箒を引き寄せ、ペネロペは同級生の肩を掴む。が、しかし、ダニエル・グリーンの肉体もまた、使い魔と同様に力を失っていた。
がくりとその首がのけぞる。すでに意識はなかった。
「アダム、ダニエル、しっかりして!」
右手に黒猫、左手に魔女を抱え、暗闇の中で少女は叫ぶ。
視界はゼロに等しい。先ほどまで漂っていた光の精霊たちもいつの間にか姿を消していた。吹き上がる突風がペネロペの髪をほどき、頬を撫でる。自由落下は止まらない。
びゅうびゅうと、ペネロペの耳元で風が激しく唸っていた。
「シルビア、シルビア! お願い、起きて! 飛んでちょうだい!」
少女の背に背負われたまま、箒の精霊はなおも返事をしない。それどころか、魔女が魔力の波長を整え「飛行せよ」とその血に命じても、浮力が働くことはなかった。
ただひたすらに、どちらが上か下かもわからぬまま、暗闇を落ちて行く。
「光を、だれか! お願い、だれか答えて!」
ペネロペは必死に訴える。しかし、そんな魔女の悲痛な叫びに応える精霊はいなかった。
──おかしい。自らの荒い呼吸を聞きながら、ペネロペは辺りを見渡した。
すでに身体が落下を始めて一分は経過している。負傷したダニエルに歩調を合わせ、ゆっくりと塔を上がっていたペネロペたちは、ここまで落下を続けられるほど塔の上方へと歩を進められていないはずだった。
それでも三人は落ちて行く。闇の中を、下へ、下へ、下へ。
「ううっ」
突如として走り抜けた激痛にペネロペはうめき声を上げた。
耳の後ろを引き裂くような、耳を錆びた刃物で削ぎ取られるような、そんな激しい痛みに少女は歯を食いしばる。生理的な涙が滲み、舞い上がって、まぶたを濡らした。
その耐え難い苦痛を、ペネロペ・クルスは覚えていた。
ローガン・F・スタンリーに初めて会った夜。入学式の翌日、ヴェルミーナ校長との初対面。ルイス魔女学校との交流会にて、ジゼル・マッキントッシュ嬢に会ったとき。いいや、この痛みを初めて感じたのは、そう──。
入学式典へと侵入してきた、大烏を追い返したあの日。
強い魔力を感じた際に痛みを生む場所が、未だかつてないほどの熱をはらむ。
なおも続く激痛に大きく息を吐き、唇を噛んでペネロペは顔をあげた。耳の後ろ以上に、腹の深い場所へと熱がこもっていく。
だれが。いったいだれが、こんな事を。よくも。よくも、こんな事を!
「だれか、こたえて……、お願いよ!」
両手に抱えたふたつの身体は、すでに氷のように冷たくなっていた。
無力感から涙があふれ、少女の視界にわずかな光を散らす。
その涙すら、もはや色を帯びない。太陽のもとで七色に輝くペネロペの髪は、とっくに闇に同化していた。
「光を!」
幼い魔女に応える精霊は、居ない。
──私が助けを呼ばなくてはいけなかったのに。私が倒れたら、アダムも、ダニエルも、ビーチェもメアリーも、ヴィルヘルムもハチもギャレットもサミュエルもティンキーも、 みんなみんな、死んでしまうかもしれないのに。
「シルビア!」
箒はただの箒として、少女の背にあった。──ああ。ペネロペの身体から力が抜けていく。両腕にある二つの身体を抱き寄せて、抗うことを諦めた少女はそっと目をつむった。絶望に染まった意識が闇に飲まれていく。
──助けて。だれか。だれでもいいから。
「助けて、スタンリー先生」
無意識に、そんな言葉が口をついて出ていた。
はた、とペネロペの思考を蝕んでいた闇がその動きを止める。
スタンリー先生。ローガン・F・スタンリー教諭。彼から受けた数々の仕打ちが、走馬灯のようにペネロペの脳裏を駆け抜けていく。
ペネロペを嘲る声。一年間で合計二百枚に到達しようという反省文。ベアトリーチェ・アンバーへの許しがたい仕打ち。投げつけられた毒槍人参草。髪に咲いた花を力づくで毟り取られた痛みも、ネクタイが歪んでいると締め上げられた喉の息苦しさも、到底忘れられるものではなかった。
少女の腹で風前の灯と化していた火種が、激しく燃え盛る。
このまま死んでたまるか。あの教師にひと言言ってやるまでは、「俺が悪かった」と言わせてやるまでは、死ねない。こんなところで、死ねるわけがない! その一心でペネロペはアダムを小脇にはさみ、杖を取り出した。
白い木目は、じんわりと息づくように淡い青光を放っている。
「我が名はペネロペ。西の村のアルバ・フィン・クルスが娘。私は、ヴェルミーナ魔女学院のペネロペ・クルスよ! 耳かっぽじってよーくお聞きなさい、精霊たち!」
このまま死んだら、この世界を、魔女という種族を、あのおとこ魔女を!
一生恨み続けてやるんだから!
「ルスア!」
あの日、ペネロペが初めて知った呪文魔法。
西の村で人知れず生きていた魔女の娘ペネロペ・クルスが、ヴェルミーナ魔女学院の生徒として生きていくために学んだ、初めての魔法。少女はとっさにそれを天へと向けて放っていた。
少女の唇が紡いだ呪文を聞きつけた精霊が、勢いよく力を放出する。
瞬間、天へと向かってまっすぐに閃光が走り抜けた。それはまるで、闇を押し上げる光の塔のようにも見えた。──が、しかし。ペネロペの魔法は一瞬で力を失った。精霊たちの声どころか、かすかな息づかいすら聞こえない。
もはや、ここまでか。そう、ペネロペが血が滲むほどに唇を噛んだその時だ。
「女学生!」
足元から響いた聞き慣れた声にペネロペは視線を向ける。
闇の中を、無数の精霊がゆらゆらと漂っていた。──いや、違う。鱗だ。煌く鱗をまとう何かが物凄いスピードでこちらへと向かって飛んで来る。
なんだ、とペネロペが目を凝らす間もなく、それはペネロペの足元をすくうようにやって来た。突然現れた『地面』に少女は無様に尻もちをつきかけ──、
「よくやった、ペネロペ・クルス!」
そんな声とともに、手を握られ助け起こされる。
「スタンリー先生!?」
「ああ。説明はあとだ、クルス。おまえの光で道が開けた」
そう言って男は天へと向かって顎を上げる。そうして、叫んだ。
「エリオ、今の光を追って飛べ! 速く、もっと!」
二人は蠢く生き物の上に居た。それは、先ほどペネロペが見た『鱗をまとう何か』であった。そのぬめるような漆黒の生き物を、ペネロペは知っていた。
漆黒のドラゴン。ルイス魔女学校との交流会の夜、白いドラゴンと激しく争っていた二本の角をもつ龍は、ペネロペたちを乗せて飛ぶ。
「安心しろ。全員無事だ」
呆然としているペネロペをちらと見て、ローガンは言う。
視線を移せば、ドラゴンの鱗に蔓で縛り付けられた同級生たちの姿がそこにあった。ベアトリーチェも、メアリー・アンも、ヴィルヘルムも桔梗も、ギャレット一行もである。全員気を失っている様子であった。
「女学生、立て」
いつの間にかへたり込んでいたペネロペにローガンは言った。しかし、今度は先ほどのように手を差し伸べてはくれない。
「自分の足で立て。おまえはこの世界を見ておく必要がある」
ドラゴンの頭の上、二本の角の間に立つ教師に言われ、ペネロペはよろめく足で立ち上がった。恐怖で膝が震えている。しかし、ペネロペ・クルスは見ておかなければいけない。ひとりのおんな魔女として。
ペネロペは角の一本に縋りつくようにして下界を見下ろした。
ドラゴンはずっと、天に向かって飛び続けている。その、揺らめく尻尾の先を掴まんとするかのように。ペネロペたちを襲った黒い影がとぐろを巻きながら追い上げてくるのが、少女の無垢な瞳に映る。
その姿はやせ細った老女のようにも、呪いの言葉を吐く罪人のようにも見えた。こちらを引きずり込まんと腕を伸ばし、朽ちた肉体から腐臭を放つ影。光に追いやられ、強い恨みだけをその落ち窪んだ目に宿す、哀れな生きもの。
吐き気を催すほどの憎悪。妬み。嫉み。怨嗟。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり合ったどす黒い魔力を前に、ペネロペはぐっと喉を締め上げた。そうしなければ胃の中のものをぶちまけてしまいそうだった。
「先生、これは……」
「東の
「え?」
「エステルが滅んだなんてのはまやかしだ。魔女や、人間たちを安心させるための」
東の魔女はまだ、俺たちを赦してない。
そう、苦いものでも飲み下すように言って、男は視線を落とす。そうして再び、光をたぎらせた赤い瞳で天を見上げた。
「エリオ、そのまま飛べ! 扉を繋ぐ! 外へ出るぞ!」
気付けば、ペネロペは見知らぬ丘の上に居た。
辺り一面柔らかな草原が続く、開けた場所であった。
初め、ペネロペは自分がどこにいるのか分からずに混乱した。まだここは本の中なのか。「東の魔女」が見せる幻想なのか。しかし、辺りに転がる友人たち──なぜそこに、シン・シンイー教諭が混ざっているのかは皆目見当もつかなかったが──が、やわらかな朝日に照らされているのを見てほっと息をつく。
ペネロペが居たのはヴェルミーナ魔女学院の東に位置する丘の上であった。森の終わり、張り出したそこからは学院の校舎やグラウンドが見下ろせた。
なだらかな地平線を朝焼けが染めていく。すっかり闇色に染まっていたペネロペの髪も、つむじから毛先へと、太陽の七色へと染め上げられていく──。
「落ち着け、エリオ!」
朝焼けの空に轟いた叫びに、ペネロペは顔を上げた。
丘から山へと続く場所にローガンとドラゴンが居た。ドラゴンは怪我をしているらしく、腹から血を滴らせている。ローガンが制するのも無視し、手負いの獣は激しくのたうつ。
黒く光る鱗からは鮮血が噴き出し、辺りの草や木々へと飛び散った。
「エリオ、もういい。俺だ、ローガンだ! わからないのか!」
「スタンリー先生」
「向こうへ行っていろ、女学生」
ペネロペは立ち上がる。そうして、一人と一匹──いや、双子の兄弟のもとへと、足を進めた。「クルス、離れていろ!」そう、ローガンが叫ぶのも無視して。
「エリオさん、怪我してるんですか」
「ああ。頭に血が上って訳が分からなくなっているらしい。長くこの姿で居過ぎた」
そう言うローガンも、朝日のもとで見てみれば満身創痍である。頭から血を流し、闇色の髪がべったりとひたいに張り付いていた。
「エリオさん」
暴れ狂うドラゴンへと近づき、ペネロペは手を伸ばした。
二本の禍々しい角と、黒光りする刃物のような鱗。背には大きな翼が生えていたが、右の翼は損傷が激しく、骨が歪んでうまく開かないようであった。
──それでも、私たちのために飛び続けてくれた。
ペネロペはドラゴンに向かって一歩、また一歩と足を進める。
ドラゴンは不埒な魔女の行動に何度も雄たけびを上げ、火を噴き、威嚇した。
それでも魔女は止まらなかった。血生臭いケモノの呼気が吹きかかるのも構わず、近づき、大きな赤い瞳を見つめる。
ここ一年、毎日のように見ていた瞳がそこにあった。
「本当だ、エリオさんね。どうして交流会の夜に気付かなかったのかしら」
ペネロペは手を伸ばし、ドラゴンの鼻先にそっと触れた。
一瞬の間、怯えるように身を引いた獣は、それでも少女の体温が心地よかったのか、穏やかに、ゆっくりと、王の前で首を垂れる騎士のようにかしずいた。
「助けてくれてありがとう、エリオさん。気付かなくてごめんなさい」
それから、一つお願いがあるんだけど、と少女は言いづらそうに口を開く。
「少しだけ血を分けてくれない? 薬学の試験で、どうしても必要なの」
「まったくおまえは──、ペンとインクの準備を……いや、準備が必要なのは俺の方か」
そう、彼の弟が呆れたように呟いたのと、ドラゴンが人の姿となって少女へと倒れ込んだのは、ほとんど同時だった。
覆いかぶさって来た男の身体をペネロペは咄嗟に受け止める。が、筋肉質なエリオットの身体は小柄な少女一人で支えられるものではない。どさりと二人して草むらに倒れ込む。
全裸の男の身体が触れる皮膚の感触を、少女は出来るだけ考えないよう努めた。
「俺と同じ顔で妙な事件だけは起こすなと言っただろう」
そう言って、ローガンがエリオットの後頭部を掴んで引き剥がす。ペネロペの身体を圧し潰さんばかりであった重みがふっと消えた。
代わりに、ローガンの手のひらには小さな毛玉がおさまっている。
黒い毛で覆われた、二本のウサギの耳のような角と、立派な翼をもつ、小さな毛玉。長く伸びた尻尾はだらりと力なくローガンの手のひらからこぼれている。
いつぞや見た使い魔の姿に、ペネロペは「ああ」と息を漏らした。
「あの日の、ひよこ」
「俺とエリオットは、人間の母と、魔女の父の間に生まれた」
だれに言うでもなく、独り言のようにローガンは話し出す。
「俺は魔女としての生を受けた。しかし、兄はこの通りだ。魔女にも使い魔にも、ドラゴンにもなりきれず、害獣扱いを受け……、故郷に帰ることもままならん。生まれもった血は変えられない。だが、生きる道は選べる」
「ペネロペ・クルス」静かに名を呼ばれ、少女は「はい」とこたえる。
見上げた先で、朝日に照らされたローガンの瞳が赤く輝く。彼の兄と同じ、優しい瞳。それをペネロペはまっすぐに受け止め、同じだけの熱を男へと返した。
「東の魔女は滅んでいない。だからこそ、入学式典も学年末試験も、交流会も、彼女が力を失うとされる夜間に行って来た。だがもう、それもあてにはならないだろう。今後も彼女は我々を執拗につけ狙うに違いない。今回は運がよかった。東の魔女に勝る魔女は、この世に存在しない。彼女を殺すことは絶対に出来ない」
「はい」
「おまえは手違いでここに来た。何事もなかったものとして、西の村で静かに暮らしていく道もある」
ローガンは穏やかな目でおんな魔女を見つめた。ペネロペにそれを望み、懇願しているようにも見えた。──でも、とペネロペはゆるく首を振る。
「入学したばかりの頃なら、その道も選べたかもしれません。でももう、私はたくさんのことを知ってしまいました。もう、なにも知らなかった頃には戻れないわ」
「そうか」
「はい。私はここで、自分の生きる道を選びとるための地図を描きます。もちろん、おとこ魔女として。この世界で私に何が出来るのか、知りたいんです」
ペネロペの夜の帳色の瞳と、男の朝焼け色のそれが交じり合う。
光を帯びた瞳を、若い熱を、ローガンは目を細めて見つめた。朝日が金色の光となって、辺りを照らし出していく。
少女の七色の髪が、夜明けを、新しい朝を、知らせている。
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