第38話 東の魔女



 その瞬間、ローガン・F・スタンリーは跳ね上げるように顔を上げた。

 学年末試験が厳かにとり進められている部屋の中──、それぞれの課題をクリアし、本から脱出する生徒もじき見られるだろうという雰囲気の中で、男は視線を走らせる。

 心臓が激しく拍動していた。口の中が一瞬で乾くほどの緊張感を抱いているのはローガンだけらしく、同僚のソフィー・モーガンやニール、シン・シンイーは変わらぬ様子で試験監督を続けている。

 こめかみを内側から圧迫されるような痛みに男は歯を噛み締めた。限界まで研ぎ澄ませた感覚でもって、魔力の波を追う。

 そうして、部屋の後方、一番端のテーブルに向かって声を上げた。

「シンイー!」

 びくりと、そこに立つ薬学教師の華奢な肩が跳ねる。

 不快感もあらわに顔をしかめつつ、シン・シンイーは己へと迫り来る同僚に向かって口を開いた。

「なんですか、急に。大声を出さないでください」

「シンイー、最後列、一番端の本だ!」

「……何の話です?」

 訝しげにシンイーは眉をひそめる。ローガン・F・スタンリーは性格も愛想も悪いおとこ魔女ではあったが、そうそう声を荒げることはしない。それを知る元・同級生はテーブルへと目をやった。

 そこには、ほかのものと何ら変わりない試験用の本が置かれている。その表紙に触れるべく、シンイーは手を伸ばす──も、激しい魔力に弾かれる。

「シンイー!」

 バチン、と激しく響いた破裂音にローガンは声を上げた。

 部屋の中に火花が舞い散る。

「大丈夫です!」

 焦げた匂いのする皮膚ごと、シンイーは手をシャツの中に隠した。ローガンは彼を一瞥すると本を見下ろし、細く息を吐き出す。

 そうして、唇の先でボソボソと呪文を唱え始めた。

 シンイーにはその意味すらもわからない、精霊との契約。ずきずきと痛み出した手のひらを握って、シンイーは己を戒めた。今は、昔のコンプレックスを蒸し返している場合ではない──。

「どういうことです。なんなんですか」

「この空間に誰かが入り込んだ」

「はあ? 何をおっしゃっているのか」

 生徒が居ないのを良いことに、シンイーはふっと鼻先でローガンを嗤った。

 部屋の後方での諍いに気づいたソフィーが、「何やってんのアンタたち!」と鼻息も荒く向かってくるのを視界の端で捉えつつ、シンイーは薄い唇を開く。

「この部屋はあなたが作ったものでしょう?」

「ああ」

「校舎には結界も張っている。門だって、ドリトル先生がいつも以上に厳重な──、」

「それをも破って入ってきたということだろう。そうだね、ローガン」

 長いローブを引きずり、ソフィーとともにやって来た恩師にローガンは神妙に頷いた。

「相当に厄介な相手だ」

「予想はついています」

 苦々しげに呟き、ローガンは魔力で抑え込んだ本の表紙を開く。

 そうして、そこに書かれていた名前を見て舌を打った。続いて中表紙の署名を見たシンイーが「なんだ」と腑抜けた声を上げる。

「メアリー・アン嬢とアンバー君の組なら問題ないでしょう。グリーン君も居ます」

「通常の試験ならな」

 そう、シンイーを咎めるようにローガンは唸った。

 メアリー・アン、ギャレット・レイズ、ダニエル・グリーン。使い魔にサミュエル・ブランとティンキー・シャラヴィを迎えたメアリー・アン組。

 そして、学年首席の実力者、アンバー家の次男ベアトリーチェ・アンバー。アンバー家に代々仕えるスコット家のヴィルヘルム。

 その下に見慣れた小さな丸い文字を見つけ、ローガンは奥歯を噛みしめた。

 ペネロペ・クルス。どうにもあの女学生は、トラブルに巻き込まれるタチらしい。いや、彼女自身がトラブルを吸い寄せているのか。

 浮かんだ考えに男は首を振る。生徒に責任転嫁している場合ではない。部屋に満ちた魔力の波長は、ローガン・F・スタンリーにとっては嫌というほど見知ったものであった。

 ひたいに滲んだ冷や汗ごと髪を撫でつけ、ローガンは振り返る。

「この本の中に居るのは、おそらく、東の魔女だ」

「えっ」

 さっと、同僚たちの顔から表情が消えるのをローガンはどこか冷めた気持ちで見た。

 彼らにとっての東の魔女は、所詮は『伝承』なのだ。あいまみえることなど決してない、遠い存在。それがローガンには妬ましく、そして誇らしかった。

「ドリトル先生、門をお願いします」

 唯一、項垂れるように息を吐いた恩師にローガンは言う。年老いた師が白い眉で隠れた目をしょぼつかせ、「入学式典からこっち、今年度は忌み年だな」とぼやくのを返事と捉え、ドリトルの隣に立つ女装姿の同僚へと視線を移した。

「モーガン、動ける教員を集めてくれ。ここで残りの生徒たちの監督を頼む。ニール、おまえは盤石の状態で待機を」

「待機て、なに言うてるん……」

 頬にぎこちない笑みを浮かべたニールが問う。

 いつもの溌剌とした笑顔はそこにはなかった。不自然な微笑みは、強い恐怖心を薄く溶かしたときのそれでしかない。ニールは喘ぐように息をして、続ける。

「東の魔女って、そんな……そんな、アホみたいな話、」

「俺もそう思いたいがね。俺はあなた方より、少しばかり彼女の魔力に詳しいもので」

「うそやろ。だって、そんなん」

「ニール。もしものことがあったら、まともに戦えるのはおまえだけだ。頼んだぞ」

「シンイー」戸惑うニールをそのままに、ローガンは再び元同級生である薬学教師へと目をやった。

 そこで呆然と本を見下ろしていたシンイーが、跳ね上げるように顔を上げる。眼鏡の奥の細い目が揺れていた。それをローガンは真っ直ぐに見据える。

 夜色と朝焼け色の瞳が、視線が、混じり合う。

「この本を出来るだけ安全な場所に運んで、結界を張ってくれ。内外の干渉を出来ないように。こうなってしまえば屋外の方が都合がいい。方法は任せる──ああ、魔法陣がいいか。得意だろう、おまえ」

「──こんな時に、嫌味な男ですね。毎度毎度、準備室の魔法陣を破るくせに」

「まさか。あんなのを初見で破れるのは、追い詰められた馬鹿なおとこ魔女くらいだ」

「そういうあなたはどうなさるおつもりです」

「本の中に入る。名前さえ書ければ中には誰でも入れる、その術式は変わっていない」

 東のお嬢さんは、名前も書かずに入ったみたいだけどな。

 そう、静かに言い放ったローガンに声を上げたのはソフィーだった。

「馬鹿も休み休み言いなさい、ローガン! 東の魔女相手に真っ向からぶつかって適うわけがないでしょう! 外から生徒を救う手立てを考える方がよっぽど現実的だわ!」

「中に居る生徒は真っ向からぶつかるしか方法がない」

「そうかもしれない。でもっ」

「俺の結界魔法が甘かったから易々と侵入された。自分の尻は自分で拭う」

 それに、とローガンは続ける。

「俺の生徒だ。俺が取り返す」

「飛べもしないくせに。勇ましいこと」

「ああ。そうだな」

 その時、ソフィー・モーガンは後輩が薄く微笑むのを見た。どこか、諦めたように。力なく微笑んだ男は、部屋の出口へと向かう。羽織っていた黒い外套が、ばさりと広がった。

「兄を呼んできます」

 そう短く言うと、ローガンはドアノブに手をかける。そうして軽い仕草で振り返った。

 赤い瞳が己の姿を捉えるのを感じて、シンイーは息を詰めるように唾液を嚥下した。

 己のコンプレックスを、卑下する気持ちを、物を運ぶだけの仕事を割り振られた後ろめたさを──、そして、なにより、それすら無事に遂行できるか案じている己の器の小ささを、悟られたくはなかった。

 目をそらしたら負けだ。そんな思いで赤い瞳を睨め上げるシンイーに、ローガンはさらりと言ったのだ。

「任せるからな、シンイー。頼んだぞ」

「……早く行ってください」

「ああ」

 ドアが閉まる。規則的な靴音が、空間編成魔法によって聞こえないはずのそれが聞こえそうなほどの静けさが、部屋の中を重く煮詰めていく。

「──さて、諸君」

 何事もなかったかのように、ドリトルはのんびりと声を上げた。張り詰めた空気に飲まれていたおとこ魔女たちが、はっと我に返る。

「我々も、やれることをやらねばな」

 穏やかな老人の声に、男たちは静かにうなずいた。



「フォルゴレ!」

 少女特有の甲高い声が闇の中に響く。

 言葉尻を疲労に掠れさせるそれに追い立てられ、細く流れた青白い雷が暗闇を照らした。

 闇に蔓延る邪悪な影が一瞬怯んだのを見て、メアリー・アンは背後に感じる友人の気配に向かって声を張り上げた。蠢く影から目をそらすことはしない。

「ダン! ダニエル! まだ生きてるわね!?」

「ああ、なんとかね」

 そう、浅い息を繰り返しながらダニエルは答えた。

 二人は暗闇の中に居た。本の中に入った際に見た森や湖、空に浮かぶ満月は既にそこにはない。ただただ、永遠に続く闇色の地に、二人はポツンと取り残されていた。

 横たわったままのチームメイトに影がにじり寄ったのを感じ、メアリー・アンは杖を構え再度呪文を詠唱する。

 雷は弱々しい光を放ち、影を退けた。メアリー・アンの魔力が底をついたのか、魔女に応え続けた精霊たちがついに死に絶えたのか。あるいはその両方か。繰り返すほどに弱くなりつつある魔法に、少年は唇を噛む。

 迫り来る影の目的など分からない。しかし、これは学年末試験である。それ以上に、戦わねば命はないという本能的な焦燥がメアリー・アンにはあった。

 もう一度、もう一度と、祈るような気持ちで少年は雷を呼び続ける。

「トゥローノ!」

「メアリー、一度代わろう!」

「あんたはさっさとその脚を治して! それから代わってくださいな!」

 メアリー・アンはぎらつくエメラルドの双眸を闇の先に向けたまま言った。背後を振り返ることすらままならないが、闇の中で匂い立つ血の香りは、薄くなるどころか濃くなっている。

「ああ」と、ため息とともにダニエルが唸った。

「骨は戻せたけど、これ以上は無理かな」

「男が簡単に諦めてんじゃないわよ!」

「そうは言ってもね。これ以上治癒魔法で魔力を消費したら、脚は治るかもしれないけど体力が尽きるよ。気絶するかもしれない。健康だけど意識のない僕と、歩けないけど意識のある僕、どっちがマシだと思う?」

「どっちもゴミじゃないの! 両方ダメなら第三の道を考えなさい! 諦めてんじゃねえってのよ、ダニエルあんたそれでも金タマついてんの!?」

「きみは本当に強いなあ、メアリー」

 チームメイトに罵られ、ダニエルは己の左足首を見下ろした。

 血にまみれたスラックスからは醜く溶けた肉が覗いている。先ほどまでつま先が本来向くべき方向と逆を向いていたことを思えば、ずいぶんマシな仕上がりだとダニエルは薄く笑った。痛みと魔力消費によって浮かんだ汗を腕でぬぐい、口を開く。

「どうしてこうなったのかな。幸先は良かったように思うんだけど」

「ええ。良すぎたくらいよ」

 こちらも杖を握ったままの手でひたいの汗を払い、メアリー・アンが答える。

 試験開始直後、メアリー・アンたち一行はすぐに湖の仕掛けに気がついた。ダニエルとギャレットが森の狼たちを迎え撃ち、その間にメアリー・アンが湖にかかっていた魔法を解く。正しい『試験会場』に入るまでは順調すぎるほどだったのだ。

 異変が起こったのは、薄暗い森を抜けたその時だった。

 突然、彼らを闇が包み込んだのだ。それまでも光源といえば空に浮かんだ小さな月だけであったが、その比ではない。暗幕で包まれたかのように世界を闇が満たした。月どころか森や海さえも消え、ただただ、だだっ広いだけの闇に彼らは取り残された。

 唯一、試験課題である塔だけがその姿を残している。

「……なんかへんだ、ここ」

 闇の中で、ティンキーが震える声で言った。しかし、気付いたときにはもう遅かった。

 地面から突然這い出た影。ダニエルの左脚に絡みついたそれは、彼に悲鳴を上げさせる暇も与えず、彼の足首をへし折った。突然の奇襲に彼らは動揺した。

 そしてその一瞬をついて、今度はサミュエルとティンキーが闇の中に引きずり込まれた。彼らを追ったギャレットとともに、三人は闇の向こうへと消えたのだった。

「ギャレットたちは大丈夫かな」

 同級魔女が呼ぶ雷に目を細めつつ、ダニエルは呟く。

 ふん、とメアリー・アンが鼻を鳴らした。

「大丈夫でなきゃ困るわ、使い魔を二人も連れてったのに。それに、防御魔法の精度で言えば、あいつのそばに居るのが一番安全よ。魔力補助さえあれば死にゃしないわ。大丈夫」

「そうだといいんだけど」

「私たちも、ひとの心配してる場合じゃなさそうよ」

 彼らを探しに行こうにも、影は次々と迫り来る。視界の端でちらつく塔を横目に、メアリーは重傷のダニエルをかばいつつ、影に応戦し続けていた。

 こうし始めて、どれほどの時間が経ったのか。闇で満ちた世界では、時間の感覚など無いに等しかった。しかし、そろそろ限界だろうとメアリーは霞む視界と揺れる頭でぼんやりと思う。

 身体に熱がこもっているのに、魔力が尽きた体内は酷く軽く、寒い。手が震え、杖の切っ先が定まらない。まるで風船にでもなったようだと少年は薄く笑った。喉の奥から血の味がせり上がってくる。

 勝手にまわる口と声が、他人のもののように思えた。

「スタンリー先生は私たちを殺す気かしらね」

 鼻の奥から口内へと回って来た血を地面に吐き出しながら、メアリーは笑う。もう笑うしかなかった。

 よろめいた少年に代わり、ダニエルが攻撃魔法を放つ。そうして、足元に広がった自分の血で簡易的な魔法陣を描いた。

 忍び寄ってきた影が魔法陣の淵に触れるたび、赤い火花を放って彼らを退ける。

「試験で死人が出たなんて話、聞いたことないわ。薬学でのクルスさんを笑ってられないわね、私たち。とんだハズレくじを引いたかもしれないわよ」

「その事なんだけどさ、メアリー・アン」

「ええ、なに」

「たぶん、この魔法はスタンリー先生のものじゃない」

「え?」

 バチン! 最後に激しい火花を散らし、魔法陣が破られる。メアリー・アンは振り返り、背後のチームメイトを見下ろした。ダニエルはいつも通りの生真面目な表情を崩しもせず、今度は呪文魔法で影を追い払う。

 影を睨みつけたまま、ダニエルは続けた。

「君たち名家出身の魔女はさ、子供の頃から魔女しか居ない環境で育ったからわからないんだろうけど。魔力って、ひとによって案外違うものだよ」

 そこまで言って、ダニエルは己の血の広がる地面に手のひらをつける。

「エシュー」血が油のごとく燃え上がり、二人と影とのあいだに壁を作った。踊る炎と、戸惑う影たちが重なり合う。

 ダニエルは──、人間の社会で多くの時間を過ごしてきたその少年は、苔色の瞳をチームメイトへと向けた。

「この魔力は、スタンリー先生のものじゃない」

「……じゃあ、一体誰が、こんな」

 メアリー・アンが、戸惑いとも非難ともつかない声でそう呟く。

 ダニエルは無言で首を横に振った。

「それに」と、メアリーが震える唇を開く。しかし、彼が言葉を紡ぎきるよりも先にダニエルの炎魔法が消えた。火の精霊たちをもその大きな口で飲みくだした影に、ダニエルは息を飲む。

「イグニス!」

 メアリー・アンの声に応え、もう一度火花が弾ける。死に絶えた南の火の精霊たちに代わり、燃え盛る北の火の精霊が世界を明るく照らし出した。

 ふと、メアリー・アンは空と呼ぶべき方向へと視線を向けた。そうしてため息を漏らすように薄く笑う。

「メアリー?」ダニエルが首を傾げ、チームメイトの名を呼ぶ。

「──それに、スタンリー先生の編成魔法に他のだれかが介入出来るわけがない。あのひとはサバトですら扱いに困ってる天才おとこ魔女よ? 何人であろうとも、この本の世界に手を加えることなんて出来ないわ。……って、言おうと思ってたんだけど。ダニエル、あんたの勘が正しいかもしれない」

 こちらに向かって猛スピードで飛んでくる二つの光。

 ローガン・F・スタンリーが作り出した完璧な空間編成魔法の中では出会うはずのない、他チームの魔女。いけ好かない親戚の少年と、その友人の姿を見て、メアリー・アンは言った。

「真打ちのお出ましみたい」

 その憎らしげな低い声が、同級魔女の登場に安堵した自身への苛立ちであることなど、本人以外は知る由もないのである。







 

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