第37話 灯台下暗し
「魔力、すっからかんじゃないのか」
「飛ぶ分には平気だと思うわ」
すっかり闇色に染まった髪をベアトリーチェに指摘され、ペネロペはへらりと笑った。
ヴィルヘルムによって火の島と化した大地は、彼自身の手によって鎮火された。未だわずかな焦げ臭さを残す地に降り立ち、三人の魔女と二人の使い魔は二基の塔を見上げる。
「まあ、これで散歩気分で塔に行けると思えばお釣りが来るだろ」
ひとの姿に戻ったアダムが言い、獣姿のままの桔梗が「僕お散歩大好きだ!」と尻尾を振った。
学年末試験は佳境を迎えようとしていた。月はすっかり西の空へと移動している。試験終了まで、残された時間はそう多くはない。
「急ごう。仕掛け魔法も見当たらない。飛べばすぐだ」
そう言ってベアトリーチェは箒に腰掛ける。
慌ててペネロペは、そんな少年の背へと声を上げた。
「待って、ビーチェ。あの塔のことなんだけど、なんだか妙なのよ」
「妙?」ペネロペの言葉にベアトリーチェは首を傾げる。銀色の髪がさらりと流れ、少年の白い頬に影をつくった。
「そう言えば、マチュディールラデュレルノワーグに襲われる前も何か言おうとしていたね」
「ええ、そうなの。私、森の中の湖からずっとあの塔を見ていたでしょう?」
「方角を確かめるのはきみの仕事だったからね」
「うん。それで、あの。さっき気づいたんだけど、大きさが変わってないのよね」
ベアトリーチェは怪訝そうに眉をひそめる。
「ええと」ペネロペはもう一度、そびえ立つ塔を見やり、口を開いた。
「森からここまで来たけど、あの塔にはちっとも近づけてないみたいなの」
「つまり、なんですか」
ヴィルヘルムが低く唸る。眼鏡のブリッジを押し上げ、少年はそのまま眉間を揉んだ。
「あれはただの幻覚だと?」
「だと思う。だっておかしいじゃない? ほら」
ペネロペは右腕をまっすぐに伸ばし、片目を瞑った。右手をサムズアップして塔に合わせ、瞑った目を切り替える。塔が水平移動して見えた距離と、目と腕の比率。それを掛けた数字が森で見た時から一切変わっていないことを確認し、ペネロペは「うん」と深くうなずいた。
「やっぱり。ちっとも近づいてないわ」
「きみは馬鹿か」
ベアトリーチェのアイスブルーの瞳に見下され、ペネロペは「う」と息を詰めた。少年の整ったかんばせが絶対零度の美をおびる。
その冷たい表情にペネロペは懐かしさを感じた。
ああ、そういえば。出会ったばかりの頃のベアトリーチェ・アンバーはこういう顔をしていた──。
「ベアトリーチェ、お久しぶりね……」
「なぜ今になって言うんだ。この島を進む必要がないのなら、あのバケモノを相手にすることもなかったじゃないか」
「だ、大丈夫よ。戻るにしても、マッチャンは海に沈めたんだし」
「きみは馬鹿か」
もう一度、更に冷たく言い放たれてペネロペは胸に手をやった。ドキドキと、心臓が激しく音を立てている。
恐ろしいほどに整った冷たい表情に見下され、吐息だけで世界を凍てつくしてしまいそうな声で蔑まれているというのに。ペネロペの胸は高鳴っていた。
「海には底が無いとでも思っているのか。どんな深海だろうがいつかは底に行き尽く。そしたらヤツは地底を伝って戻ってくるぞ」
「ビ、ビーチェ」
「なんだよ。何か文句があるなら言ってみなよ、田舎魔女」
「胸がドキドキする」
「バックランド、あなたの幼馴染み、危ない扉を開こうとしてますよ。止めた方がいいのでは?」
「オカマてめー! ペネロペに変な性癖植え付けるな!」
「あなたをもってしても塔のことはかばい立て出来ませんか」
ヴィルヘルムはのんびりとした様子でペネロペたちを見つめていた。「珍しいじゃないか」ベアトリーチェがペネロペの肩越しに従者へと目をやり、言う。
「普段のおまえなら、マチュディールラデュレルノワーグの恨みをぶつけて来そうなものなのに」
「過去にとらわれても良いことありませんからね」
「あれへの恨みを十年醸していた男に言われてもな」
「正直、奇妙だとは思っていたので」
そう言って、ヴィルヘルムは海の向こうへと視線を向けた。
ペネロペたちが初めに降り立った森ははるか海の先である。往路と同じように歩いて渡っていては、試験終了に間に合わないことは明白であった。しかし、飛ぶにはこの本の中の空は危険すぎる。
「湖の上空と、森の各所。どうぞ飛んでくださいと言わんばかりに随所で仕掛け魔法が解除されていました。スタンリー先生がそんな抜けのある、甘い魔法を張るはずがない。あれは塔を幻覚だと気づかせるためのスポットだったんでしょう。そこのお馬鹿さんは全く気付かなかったわけですが」
「本当にごめんなさい」
「まあ、こんなこともあろうかとスタート地点に媒介を置いて来ました」
けろりとした顔でヴィルヘルムは言い、続けた。
「移動魔法ですぐ戻れますが。どうします?」
「やっぱり持つべきものは頭のキレるチームメイトだね」
「えっもしかして私イヤミ言われてる?」
「空間編成魔法ではないので、振り落とされないよう気をつけてくださいね」
そう言ってヴィルヘルムは杖を取り出した。ごく自然的な仕草でベアトリーチェはそこに触れる。それにペネロペも倣った。
全員が己の杖に触れたことを確認したヴィルヘルムが、呪文を口にする。
ぐん、とペネロペは身体に圧がかかるのを感じた。背後から肩を引かれるようなそれは、少女にわずかな吐き気をもたらす。ふっと身体が軽くなり、ペネロペは反射的に瞑っていた目を開けた。
そこはすでに、数時間前に見た湖畔であった。
深い深い森の中。静かに揺れる湖。水面では、空に浮かんだふたつの月が溶け、ひとつに混ざりあっている。わずかにヴィルヘルムの魔力を感じるのは、彼の言う『媒介』によるものだろうとペネロペは思った。自分の身体から魔力を分け、そこに留まらせて媒介とする。ペネロペには出来ない芸当だ。
移動魔法酔いも相まって、水面を見つめていたペネロペはくらりとよろめいた。「大丈夫?」すかさずアダムが幼馴染みを支える。
「ありがとう。なんだか、めまいがして」
「湖がどうかした?」
幼馴染みの視線に気付いたアダムが問う。
その問いに答えたのはベアトリーチェであった。
「確かに妙だね」
「妙ってなんだい?」
二足歩行に戻る気がないのか、未だ獣姿の桔梗がベアトリーチェに近づく。
ベアトリーチェは岸辺にしゃがんだまま水面を見つめている。くん、と隣で鼻を鳴らした桔梗が「なるほどね。確かに妙なニオイだ」と笑った。
「トウダイモトクラシってやつか!」
「トウダイモト?」
「僕の故郷のコトワザさ! 近過ぎると見えないものもあるってこと!」
ペネロペたちは引き寄せられるように湖の岸辺へと向かった。揺らめく水面は、なおも月光を反射して輝いている。月が明る過ぎるがゆえに、月の映る場所以外はドス黒い闇に包まれていた。ヘドロのようにすら見えるそれに、ペネロペは一歩、後退さる。
「よく見てみなよ、西の村の魔女。月はいくつ浮かんでる?」
ベアトリーチェが軽い声で言った。そうして次の瞬間、湖に向かって身を投げる。
「ビーチェ!?」
トプン、と闇に飲み込まれた同級生の姿にペネロペは叫んだ。水面は静かに揺らぐばかりで、同級生からの返事はない。
助けを求めるため、勢いよく振り返る。そこに立つ彼の従者は「やれやれ」といった様子で眼鏡のブリッジをいじると、桔梗の首根っこを遠慮のない力で掴んだ。
キャン! 夜空に仔犬の悲鳴がこだまする。
「ちょっとヴィルヘルム君! その持ち方は仔猫にしか許されてなっ、うわぁ!」
「先に行ってください」
ベアトリーチェに続き、放り投げられた桔梗が湖に沈む。
もはや声も出なかった。ペネロペは幽霊でも見たような面持ちでヴィルヘルムを凝視する。
「あなたも。さっさと来てくださいよ」
それだけ言い残し、ヴィルヘルムは主人と仔犬の消えた湖へと足を踏み入れた。
それまでの喧騒が嘘のように、静まり返った湖畔。おのれと幼馴染みだけが残されたそこで、ペネロペは呆然と立ち尽くす。
水面はなおも静かに揺らいでいた。空に浮かんだふたつの月がひとつに混じり、そそり立つ一基の塔の先端に影をつくる。
「え……?」
ペネロペは目を瞬かせた。湖の中にも塔がある。そこに、もうひとつの世界が広がっているのだ。
先に声を上げたのはアダムであった。「ペネロペ、俺たちも行こう」そう言って、アダムはペネロペを抱きかかえて湖へと飛び込んだ。
ペネロペはとっさに目を瞑る。しかし、冷たい水が肌を撫でたのは一瞬のことであった。
「遅かったじゃないか」
つんと尖ったそんな声に、ペネロペは恐る恐る目を開いた。
先ほどまで輝いていた、眩いばかりの月光はそこにはなかった。薄暗い森の中で、ベアトリーチェが精霊を使ってランタンに明かりを灯している。自分の足元すら見えず、湖と陸地の境目すらあやふやであった。西の空には、小さな月がポツンと浮かんでいる。
「こっちが本丸だろうね」
「ええ」
主人の言葉にヴィルヘルムがうなずいた。
少年は明かりを灯した杖の先を、常闇の湖へと向ける。湖に映った月は、揺らめく水面でふたつに分かれ、もうひとつの世界の存在を静かに知らせていた。
「本当に、趣味の悪いおひとだ」
「悔しいなあ! 最初の狼さえなければ魔法の匂いに気づけただろうに!」
「そのための狼の奇襲だろ。忌々しい」
結局、俺たちはスタンリー先生の手のひらの上か。
そう言ってアダムは低く唸る。そんな使い魔に魔女たちは無言の同意を返しつつ、闇の広がる森へと目を向けた。
「リュウラ」
ベアトリーチェがそう唱えるや、杖の先から一瞬の閃光が弾けた。
瞬きの瞬間だけ、世界は夏の正午のような明るさを取り戻す。森を抜けた先に、高くそびえ立つ塔が見えた。
「あれだね」小さく息を吐いたベアトリーチェに、ペネロペはゆっくりとうなずいた。
その時であった。
ぐらりと、ペネロペの足元が揺れる。地面が波打つようなそれに、ペネロペは初め、マチュディールラデュレルノワーグが再び襲いかかってきたのかと身構えた。しかし、顔を上げ、そこに広がっていた光景を目にした瞬間、そうではないと息を飲む。
あたりを闇が包み込んでいたのだ。
夜の闇ではない。湖を満たしていたドス黒いヘドロが、波打つように天へと向かって吹きあがる。ヴィルヘルムとペネロペとの間を隔てる壁となった闇は瞬く間に彼らを分断し、飲み込まんとするかのように覆いかぶさってくる。
「ヴィルっ」
「ハチスカ!」
「合点承知の助!」
ペネロペがヴィルヘルムの名を呼びきるよりも先に、アダムが同室者の名を叫んだ。
白い何かがペネロペの視界を横切る。それが獣姿の蜂須賀・桔梗だということを認識した時には、すでにそこは黒い壁に成っていた。
黒曜石のような壁にペネロペは手をつく。少女の細腕で押したところでびくともしないそれは、空へ向かってどこまでも続いているように見えた。
そうして、ペネロペは気づく。おのれの立つその場所が、さきほどまでの森ではなくなっていることに。
辺りは途方もない闇であった。木も、森も、湖も存在しない。地面すら見えず、自分が真っ直ぐに立っているのかさえ定かでない。
遠くに建つ塔だけが月光に照らされ、薄ぼんやりと見える。
「やられたね」
ベアトリーチェが憎らしげに言い、壁に触れる。
「とりあえず試してみようか」
少年はそう言って、いくつかの攻撃魔法を壁に向かって放った。
火属性、氷属性、とどめの爆破魔法。学年主席と名高いベアトリーチェ・アンバーの魔法をもってしても、壁には傷ひとつ付かなかった。アダムから魔力補助を受けたペネロペが壁を花びらに変えようと試みるも、結果は同じであった。
「見事に引き離されたね」
ベアトリーチェは諦めきった声で言う。
「どうしようビーチェ。ヴィルヘルムがひどいめに遭ってなきゃいいんだけど……」
「大丈夫だよ。あいつはそんなヤワじゃない」
「ああ、犬っころも付いてる。魔力が尽きてなすすべもなく、って事にはならないはずだ」
二人はけろりとした表情でそう、ペネロペに言った。
同室者への信頼を無意識に語る少年たちをペネロペは微笑ましく思った。それと同時に、少しだけ羨ましさを抱く。私が同じ状況になっても、アダムとビーチェは「大丈夫」と言ってくれるかしら──。
「そんなことより」気持ちを切り替えたベアトリーチェがそう、話し出す。
「向こうがどうなっているかはわからないけど、ぼくらの方にはまだ塔がある」
「ええ。でも、ヴィルヘルムとハチを置いていくわけにはいかないわ」
「向こう側にも塔があるのかもしれない。試験の合格条件は『全員が目的をクリアする』ことであって、『全員が同時にクリアする』ことじゃない。ぼくらだけでも向かうのが得策だよ」
「俺もそう思う」
ベアトリーチェの意見に、珍しくアダムが同意を示した。
使い魔の血をもつ少年は、先ほどからしきりに金色の瞳をキョロつかせて辺りを警戒していた。時おり鼻を鳴らしては、眉間にしわを寄せる。
「アダム?」ペネロペの問い掛けに、アダムはゆっくりと口を開いた。
「なんだか変だ、ここ」
「ああ。こっちに来る前にもハチが妙な匂いだって言ってたわね」
「違うんだ」
「違うって、何が?」
「さっきまでの魔力の匂いと、ここの魔力の匂い。全然、違うんだ。この匂い、前にもどこかで嗅いだ覚えが──、」
「アダム……?」
ペネロペがそう、思案する幼馴染みの肩に触れようとした時だ。
一瞬、常闇の空が白く光る。
ペネロペは反射的にベアトリーチェを振り返った。彼が再び呪文魔法を使ったのだと思ったのである。しかし、ベアトリーチェは呆然と一点を見つめたままだ。
形のいい薄い唇が、震えるように開く。
「ぼくじゃない」
「じゃあ、いったい誰が」
もう一度、空が白く光る。
今度は天から流れ落ちた稲妻を、彼らの目ははっきりと捉えた。
天から地へと、突き刺さるように。空を切り裂くように、塔の姿を明るく見せるほど激しく降り注ぐ光が、ベアトリーチェの蒼い瞳に映る。
「メアリーだ」
ベアトリーチェは低く言い、箒を取り出す。
そうして、ペネロペにもシルビアにまたがるように言った。
「行こう。あいつがあんなにも乱暴な魔法の使い方をするなんて何かおかしい。トラブルかもしれない」
「ビーチェ、待って! そもそもニール先生が、本の中でほかのチームに会うことは絶対にないって言ってたわ! メアリーなわけがない!」
「だからだよ。あれは確実にメアリー・アンの魔力だ。スタンリー先生がそんなミスをするはずがない。何かおかしな事が起こっていることは間違いないよ。バックランド、きみはペネロペの補助を!」
「言われなくてもそうする!」
「ぼくが先行する。──仕掛け魔法が見当たらないのも、気味が悪いな」
ぼくの勘違いなら、いいんだけど。
それだけ言い残し、ベアトリーチェは暗い空へと飛び立った。黒猫に変化した幼馴染みを抱え、ペネロペもそれに続く。
「やっぱりなにか変だよペネロペ。この世界の匂い、なんかおかしいんだ」
ペネロペはぎゅっと箒の柄を握り締めた。いつもお喋りな箒の精霊が、今日は一度も返事をしない。その事実がペネロペの不安を駆り立てていた。じんわりと、背中を冷たい汗が濡らす。
ちくちくと痛み出した耳のうしろの痛みを振り払うように、ペネロペは前を行くベアトリーチェの側に箒をつけた。
空から止めどなく降り注ぐ稲妻が、不気味な塔の姿を闇の中に浮かび上がらせている。
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