第36話 ここで会ったが十年目



 桔梗が海に落ちた。

 なにもスタンリー教諭の魔法陣に足元をすくわれたわけでも、海面から飛び上がってきた人喰い鮫に襲われたわけでもない。冬の朝、子供たちが凍った泉でそうするように滑って遊んでいたら勝手に落ちたのである。

「海全体を凍らせているとでも思ってたのか?」呆れたようにベアトリーチェは言った。

 なんとか自力で氷の陸地に泳ぎ戻り、そこにしがみついた桔梗をペネロペは引き上げてやった。冷たさのあまり、桔梗は仔犬の姿に変わっている。

「ああ、ハチ! 大丈夫!? ずぶ濡れになってもなんて可愛いの!」

「犬。服はどうした。ちゃんと変化させたんだろうな?」

「まっまま、ささっさっささ、さ」

「なんですって?」

 震えて喋ることすらままならない仔犬にヴィルヘルムはため息をついた。そうして、杖に灯した火を向けてやる。

「あ、あああ、あ、ああありが、とっ、ぶぇっくしゃん!」

「ハチ、あなたに偉大な魔女のご加護がありますように!」

「ああ、ありがとうペネロペ君……、ちょっと落ち着いてきたよ。ははっ、まさか落ちるなんてね!」

「『まさか』は俺らの台詞なんだよ犬」

「安心してくれアダム君、服はちゃんと変化させた! ここで全裸はさすがにつらいよ!」

「当たり前だ」

 アダムがそう吐き捨て、ペネロペたち一行は再び氷の道を歩き出す。

 マチュディールラデュレルノワーグの住む森はすでにはるか後方である。目前には岩で覆われた島がせまっていた。ペネロペはその異様な雰囲気にそっとアダムの袖を掴む。

「あー」と、桔梗が珍しく遠慮がちに声を上げた。

「ヴィルヘルム君、申し訳ないんだけどさ、僕のこと服の中に入れてくれない? さすがに寒いや」

「あなたがメス犬だったら一考の余地はありました」

「きみ意外とそういうこと言うよねえ。ベアトリーチェ君は?」

「ヴィルヘルムに同じ」

「ははっ! だよね! ねえ、ペネロペ君は、」

「去勢されてえか駄犬」

「なんでアダム君が言うのさ!」

 悲しげに吠える仔犬をさすがに哀れに思ったのか、ヴィルヘルムが桔梗を抱き上げる。激しさを増した火に、桔梗は鼻先を揺らした。まどろむ仔犬を見下ろして、ヴィルヘルムは何度目になるかもわからないため息をつく。

「我々のチームで命拾いしましたね。レイズなら捨て置かれて終わりです」

「ギャレット君かい? あれでいて彼もそう悪いひとではないんだけど! ティンキー君のことも、やいやい言うわりに今回もちゃんと面倒見てるわけだし!」

 そんな桔梗の言葉でペネロペは思い出した。この本の中には、ギャレットたち『メアリー・アン組』も入っているはずなのである。

 女系の血をひく名門出のメアリー・アンを筆頭に、おとこ魔女の家系として栄えているレイズ家の末弟ギャレット。文武両道、教師たちからの信頼も厚いダニエル・グリーンと、錚々たる魔女のメンバーだ。

 使い魔は二人従えており、こちらはペネロペも何度かともに飛んだネズミ憑きのサミュエルと、黒うさぎのティンキー。ティンキーは使い魔科との初めての合同授業の際に、ギャレットとひと悶着あった使い魔だった。

 魔女科の派手な顔ぶれのわりに、地味な使い魔を選んだ。誰もがそう思っていたが、それを口にすることはなかった。羞恥心を煽られたギャレット・レイズが大暴れしかねないからである。

 結局のところ、ギャレットは自分と揉め事を起こしたせいで評判の落ちてしまったティンキーを気にかけているのだ。だからと言って、怒鳴らないわけではなかったが。

「本当に他のチームと出会わないのね。ニール先生の言った通りだわ」

「先にここを脱出した可能性もあるね」

 感心したように呟くペネロペに、先を行くベアトリーチェが答える。

「ぼくらより早く試験会場に入ってるんだもの。それくらいはしてもらわないと」

「合格条件は同じなのかしら。彼らも塔に向かってると思う?」

「さあ、それはなんとも。スタンリー先生なら、組ごとに本の中の世界を変えることだって出来るだろうし。言わば、ぼくらと彼らは同じ本の違うページに居るようなものだと思う」

「同じ本の違うページ?」

 ペネロペは首を傾げる。ああ、とベアトリーチェは一度深く頷いてから口を開いた。

「ぼくらはおそらく、同じ素材で作られて、同じ表紙と裏表紙に囲まれた世界の中に居る。元を辿れば背表紙で繋がってもいる。でも、ページは違うんだ。根本的に違う紙の上に居る。これはそういう性質の魔法だと思うよ、あくまで憶測だけどね」

 魔法を使ったときにそう感じたのだろう、ベアトリーチェは杖をゆるく振りつつ言う。

「まぁいいさ。ぼくらのやるべきことは変わらない」

 さて、スタンリー先生の次の手はどんなだろうね?

 ベアトリーチェの言葉にペネロペは鼻からふうっと、深く息を吐く。

 一行はついに海を渡り切り、岩で出来た島に到着した。

 岩が剥き出しになった荒々しい山だけではない、そこかしこに生えた木々すらも岩で形作られた、色の無い大地。まるごと灰で埋め尽くされて死んだ街のように、そこは生命の息吹を感じぬ冷たい世界だった。

 波の音すら消えた海辺で、ペネロペたちは呆然と岩島を見上げた。山の向こうには、霧でぼやけてはいるが、二基の塔が見える。

「行こう。夜が明ける前にここから出なくちゃ」

 全員が息を飲む中、ベアトリーチェは穏やかにそう言い、島への一歩目を踏み出した。それにチームメイトたちが続く。

「硫黄の匂いはしないな」くん、と鼻を鳴らし、アダムは言った。

 ペネロペははっと我に返る。ああ、そうだ。まずはこの地が安全であることを確認しなければいけない。アダムの言うように、硫黄などの有害な物質が島に満ちていれば、魔女や使い魔などひとたまりもないのである。

 一年生の前期、座学で散々叩き込まれた知識を思い出してペネロペは杖を取り出した。

 しかし、ペネロペが呪文を唱える間も無く、ヴィルヘルムはすでに杖の先で秤のようなものを揺らしている。そうして平坦な声で宣った。

「土も空気も、特に問題はなさそうですね」

「なるほど。じゃあこれはスタンリー先生の趣味か」

「あのひとに花や蝶で溢れた島を作られても、それはそれで気味が悪いよね!」

 ひとの姿に戻った桔梗が無邪気な声を上げる。

 その言葉に大いなる同意を示しつつ、ペネロペは岩の島を覆うくすんだ空を見上げた。

 砂と岩で出来た、灰色の世界。岩山の向こうにそびえ立つぼやけた二基の塔。その影を見て、ペネロペははたと歩みを止めた。

 先を行くベアトリーチェが「どうかした?」と振り返る。

「ええと、ビーチェ。これはもしかしたら私の勘違いかもしれないんだけど」

「うん?」

「あの塔、なんだか──、」

 そこまで言いかけて。ペネロペは言葉を止めた。

 それとほぼ同時に、桔梗が「あれ?」と声を上げる。

「アダム君、これ、僕の気のせいかな?」

「気のせいなわけあるか。海に落ちて風邪でもひいたのか、駄犬」

「なに……なにが、起こって……」

 カタカタと、ペネロペのそばに落ちていた小石が岩の上で揺れている。

 ペネロペと使い魔たちにしかわからなかったわずかな揺れは次第に振幅を増し、ついに立っていられないほどになる。

「ペネロペ!」アダムとベアトリーチェが同時に少女の名を呼んだ。

「バックランド、きみはペネロペにつけ! ハチ!」

「オーケー、ベアトリーチェ君! 僕はヴィルヘルム君だね!」

「ベアトリーチェ!」

「ひとの心配をする前にまずは自分の心配をしろよ、ヴィルヘルム」

 この揺れの原因に思い当たっているのか、ベアトリーチェがニタリと笑う。

 ペネロペは素早く背からシルビアを引き抜いた。声をかけるまでもなく飛び乗って来た黒猫とともに、激しく揺れる地を離れる。それに続いて、ポケットから飛行用の箒を取り出したヴィルヘルムに桔梗が飛びついた。

「ポケットから箒が!?」ペネロペは今の状況も忘れて叫んだ。

「馬鹿正直に背負っているのはあなたくらいのものですよ」

「テイラーご自慢の魔法ポケットについて、その田舎魔女に説明してやってくれヴィルヘルム。もちろん空でね」

 ベアトリーチェは一人、揺れ続ける地に向かって呪文を唱える。

 海岸から山道へと続く浜辺一面を氷のリンクに変え、少年は従者と同じく取り出した箒で仲間たちの元へと飛びたった。

 未だ地は揺れ続けている。大地のうめくような音が島を包み込んでいた。──と、ひときわ大きな音を立てて地面が割れた。

 源泉が吹き出すかのごとく、砂埃が天に向かって柱のように伸びる。凄まじい勢いだった。

「なあに、あれ」

 呆然とそれを見下ろすペネロペの隣で、ベアトリーチェが小さく舌を打つ。

「本当に悪趣味だな、あの男」

「え……?」

 どういう意味、とペネロペが聞き返すよりも先に、その答えは姿を現した。

 一部、溶け出した海から、島に潮風がなだれ込む。

 べたつく風は砂埃を絡めとり、再び海へと帰っていく。地から伸びたいくつもの長い蔓を前に、息を飲む音が響いた。ペネロペとベアトリーチェの背後で、ヴィルヘルムが声になり損ねた悲鳴を飲み込んだのだ。

「マッチャン!? マッチャンじゃないか! まさかここでお目にかかるとは!」

 桔梗が興奮しきった声を上げる。そこで長い蔓を揺らしていたのは、紛うことなきマチュディールラデュレルノワーグだったのだ。

 いいや、違う──。ペネロペはじっと目を凝らした。

 地面から伸びた無数の蔓はウネウネと気味悪く揺れてはいるが、ペネロペが教科書で見たものとは随分様子が違っていた。本来、マチュディールラデュレルノワーグは魔法植物なのである。自ら動く触手をもち、ひとを襲うことを除けばただの植物と変わりはないはずだった。根から水を吸い上げ、光合成をし、緑豊かな蔓を伸ばす、ただの植物。

 しかし、今まさにペネロペたちの前で身体を揺らすマチュディールラデュレルノワーグは全身が岩で出来ていた。島が岩で覆われているように、この島では植物すら岩でかたちづくられているのである。

「よかったじゃないか、ヴィルヘルム! おまえ、あのピンク色の粘液が嫌いだったんだろう! ここから見る限り、あいつは粘液まで見事に岩の色をしているよ!」

「何色でも真っ平御免ですよ!」

 ベアトリーチェの言葉にヴィルヘルムが声を荒げる。見慣れない光景を前に、ペネロペは静かに混乱した。

 ヴィルヘルムの表情は落ち着いたものであったが、明らかに飛行が安定していない。「あはは、揺れる揺れる!」箒の穂先にしがみついた仔犬姿の桔梗が楽しげに声を上げた。

 マチュディールラデュレルノワーグの蔓が、まっすぐにペネロペたちに向かって伸びてくる。しかし、ペネロペがシルビアの穂を打つよりも早く、蔓の先端が激しく揺れた。岩で出来た細い触手は、グネグネと揺れては戸惑うようにペネロペの周りを徘徊する。

「ああっ!」ペネロペは思わず小さく叫び、胸ポケットから小瓶を取り出した。

「ヴィルヘルム大丈夫よ! もう泣かないで!」

「泣いてません!」

「私たちにはこれがあるわ!」

 ペネロペはそう、赤血モモのタネから抽出した液体を揺らした。

 マチュディールラデュレルノワーグが最も苦手とするそれを、ペネロペたちはすでに調合済みである。

「ふん」と、どこか得意げにアダムが鼻を鳴らした。

「ペネロペが森で吸血栗鼠に噛まれて命拾いしたな、腰抜け眼鏡!」

「一度でもアレに襲われてみればいいんですよ、あなたも!」

 これで、マチュディールラデュレルノワーグがペネロペたちに近づけない確証は得た。

 ならばこのまま塔まで飛んで行ってしまえばいいと、ヴィルヘルムが彼らしからぬ安直な作戦を打ち出す。しかし、スタンリー教諭がそう易々と課題をクリアさせてくれるわけなどないのである。

 塔へ向かって飛ぶ魔女たちを、再びマチュディールラデュレルノワーグが迎え撃ったのだ。

 突然地面から飛び出した岩の蔓に、ペネロペは後ろを振り返る。しかし、背後には先程見た蔓が変わらずペネロペたちを追ってウネウネと揺れていた。

「言ったろ、マチュディールラデュレルノワーグは森全体に蔓に似た触手を伸ばす。捕食されなかったとしても、逃げられるわけじゃない」

 目の前で揺れる数本の触手を凍らせたベアトリーチェが低く唸る。

「彼らを撃退する方法は? 答えたまえ、ペネロペ・クルス!」

「ここまで来てスタンリー先生の真似するのやめてよ!」

「その壱、根の在り処を探し出して──、」

「ぬるい」

 ペネロペに変わり、マチュディールラデュレルノワーグの撃退方法を答えんとしたアダムをヴィルヘルムが遮る。ゾッとするほどに平坦な声であった。ペネロペは恐る恐る、後ろを振り返る。

 飛行用の箒にまたがり、杖を構えた男がそこに居た。ダークグレーの双眸はくすみ、顔からは表情が抜け落ち、まるで蝋人形のようである。

 恐怖のあまり、ヴィルヘルムがおかしくなってしまった。震え上がるペネロペの前で、ヴィルヘルムは杖を持った手で器用に眼鏡のブリッジを押し上げる。カチャカチャと眼鏡が不恰好な音を立てた。

「ひどく手が震えているよヴィルヘルム君!」桔梗の言葉にヴィルヘルムは返事をしなかった。それが恐ろしさをより引き立てる。

 ベアトリーチェは呆れ返った表情で従者を見つめるばかりだ。

「五つの頃から、決めていたんですよ、私」

「ヴィ、ヴィル……?」

「あの雑草、次会ったときは、故郷の森ごと消し炭にしてやるって」

 あ、このひと村ごと焼くタイプの悪い魔女だ。

 不気味なほど歪な笑顔を浮かべる同級生を前にして、ペネロペは「ヴィルヘルム・スコットだけは敵に回すまい」と、固く心に誓った。

「火傷に気をつけて。回避は自己責任でお願いします」

 据わりきった目で地上を見下ろし、ヴィルヘルムは至極冷静に宣った。

 しかし、発言は無責任極まりない。戸惑うペネロペをよそに、少年は静かに薄い唇を開く。

「フラム、ヴュールナ、イグニス」

「えっ」耳に入った数々の呪文に、ペネロペは勢いよく後ろを振り返った。呪文の詠唱を続けるヴィルヘルムは、そんなペネロペの姿など目に入っていない様子で髪の端を燃え上がらせている。

 激しく燃え盛る真紅の炎、静かに燃え上がる青い炎。東西南北、それぞれの精霊たちが好き勝手に暴れ狂い、笑い、地上の魔法植物を焼き尽くさんと島に向かって飛びかかる。

「インファーナル」

 ヴィルヘルムのダークグレーの瞳の奥に、地獄の業火がちらついた。

 岩島は一瞬で火の海と化した。巻き上がった灼熱の風は、魔法植物だけでなく、容赦なくペネロペやベアトリーチェの肌を焼いた。

「ネーヴェ!」ペネロペのお粗末な氷魔法など一瞬で溶かし尽くされてしまう。

 苦笑いを浮かべたベアトリーチェがシルビアの柄を引き寄せ、自分とペネロペのまわりに厚い防御壁を張った。魔女たちの足元で、マチュディールラデュレルノワーグが奇妙な音を立てて崩れ落ちる。

 甲高い断末魔とともに、揺れる岩の蔓が砂埃を上げた。

「すごい」

 ペネロペは呆然とヴィルヘルムを見つめ、嘆息した。

「あれだけの火の呪文を同時に使うだなんて。それでなくとも、北と南の精霊は相性が悪いのに」

「本の中だからこその芸当とも言えるね」得意げにベアトリーチェは続ける。

「本来なら同じ地には存在しない精霊だ。スタンリー先生が、東西南北、すべての精霊を集めているからこそ成り立つ魔法だよ。本の外で真似しようとは思わないことだ」

「それにしたって、どうやって」

「身体の中で魔力の巡りを変えているんだろう。それぞれの精霊に、それぞれ違う魔力で指示を出してる」

「さすがヴィルヘルムね。学年次席は伊達じゃないわ」

「ああ」

 ペネロペの言葉に短く返事を返し、ベアトリーチェは己の従者を見やった。

 炎に照らされた黒髪が揺れている。冷徹な瞳で島を見下ろす横顔。その頬が、わずかに歪んだ。

「ベアトリーチェ! 高度を上げてください!」

 ペネロペが声を上げる暇も無かった。再び天へと吹き出した砂埃。今度は炎をまとったそれが、次々と島全体を飲み込んでいく。

 ペネロペは慌ててシルビアの穂先を蹴った。ベアトリーチェの腕を掴んだまま、勢いよく月に向かって上昇する。それに続いたヴィルヘルムが、低い声で悔しげに唸った。

「ちっ、溶かし尽くすのは無理か……!」

 岩島の至るところから、マチュディールラデュレルノワーグは蔓を天へと伸ばす。

赤く焼けた岩の触手が不気味に揺れていた。肌に触れればひとたまりもないだろう。

 フー、とペネロペの肩でアダムが威嚇の息を吐き出した。

「どうすんだ、クソ眼鏡。余計厄介なことになったじゃねえか!」

「さっき試したけど、凍らせるにも限界がある」

 ベアトリーチェは触手を睨みつけて言う。

「火も氷も効果は薄く、逃げながら進むことも出来ない。スタンリー先生はちゃんと正解を用意しているのかな」

「アダム、あなたさっき、何か言いかけたわよね?」

 マチュディールラデュレルノワーグの撃退法。それを話し合っていたとき、幼馴染みは何かを言いかけていた。それを思い出し、ペネロペは問う。

 魔女たちの視線が一斉に黒猫に集まる。「あー」と、アダムは気まずげに声を上げた。

「得策があるってわけじゃない。教科書通りの答えだ」

 そう前置きし、アダムは話し出す。

「マチュディールラデュレルノワーグの蔓はダミーだろ、確か。本来なら根っこの苗を特定して、燃やすなり萎らせるなりしなきゃいけないって話だったはずだ」

「小さな個体なら、蔓を燃やせば根もやれるんです」

「つまり、この個体は小さくないってことだね!」

「じゃあやっぱり根っこを見つけなきゃ」

 ペネロペは燃える島を見下ろした。なおもマチュディールラデュレルノワーグはゆらゆらと蔓を揺らしている。火は効かない。氷も効かない。なぜならば、相手は岩だからだ。

 そしておそらく、根を見つけたところでそれも岩でかたちづくられているのだろう。火や氷が効くとは思えない。

『本の中だからこその芸当とも言える』

『本の外で真似しようとは思わないことだ』

 ペネロペの脳裏にベアトリーチェの言葉が浮かぶ。

 次の瞬間、空を飛ぶ魔女たちに向かって蔓の触手が振り上げられた。彼らを分断させんと割り込んだそれは、やはり怯えたように激しく揺れる。赤血モモから抽出した液体がある限り、マチュディールラデュレルノワーグはペネロペたちには触れられないのである。

 やるしかない。ペネロペは深呼吸すると、大きく声を張り上げた。

「ビーチェ! ヴィルヘルム! 二人でマッチャンを根まで追い込んで!」

 きょと、と目を丸くする同級生にペネロペは続けた。

「赤血モモがある限り、彼らは私たちに触れられない! 攻撃を続けて、追い込んで行けばいつかは大本の根に戻るはずよ! そこを私が撃つわ!」

「なるほどね! 巻狩まきがりだ! 本丸まで追い込むってわけだね!」

 桔梗の声にペネロペはうなずく。

 巻狩り。西の村での猟の手法であった。勢子と呼ばれる、追い込み担当の者が獲物を追い詰め、そこを射手が射止める。うさぎや鹿を狩るときや、川で魚を追い詰めるときにペネロペたち村の子供はよく勢子役として駆り出されていた。

「撃つって言ったって、きみ、攻撃魔法は──、」

「大丈夫! 信じて!」

 当然、都会育ちのベアトリーチェとヴィルヘルムは狩りなどしたことがない。

 しかし、ペネロペが瞳に強い意志を滲ませているのを見て「わかった」と箒の柄を握りしめた。

「何か手があるんだね。わかった、きみの案に乗ろう!」

「私は高度を上げる! 二人の距離が近づいたら、そこが本丸よ!」

「ヴィルヘルム、おまえは南へ! ぼくは北から行こう!」

 ベアトリーチェの指示にヴィルヘルムは素直に南へと向かった。

 ペネロペは月を目指して高く飛び立つ。途端、冷えた空気が頬を撫でた。気遣うようにすり寄ってきたアダムに「ありがとう」と短く礼を言う。

 ベアトリーチェとヴィルヘルムは巧みな飛行技術で蔓を追い込んでいった。時には呪文魔法や魔法陣を駆使し、彼らはマチュディールラデュレルノワーグを追い詰める。次第に触手は島の中心部へと集まっていった。

 早く。早く。見つけなきゃ。

 はやる気持ちを押さえつけ、ペネロペは島を見渡す。ドキドキと心臓が痛いほどに早鐘を刻んでいた。──と、一本の蔓がペネロペの目にとまる。

 明らかにほかのものより太く、形の違う触手。先端は深く二股に別れ、グロテスクなひだが並んでいた。

「ペネロペ!」

「ええ! あれが雌しべね!」

 肩に乗った使い魔に返事をし、ペネロペは箒の柄を垂直に地面へと向けた。まっすぐに地面に向かって飛ぶ。すでに地に潜ろうとしている根にペネロペは杖の切っ先を向けた。

「あの困ったさんにはお引っ越し願いましょう!」

 ペネロペは強くイメージした。ここは本の中。同じ素材で出来た、同じ表紙と裏表紙に囲まれた世界。繋がっている背表紙にも、違うページにも傷をつけてはいけない。

 同じページに二つの穴を開けて、そこを、空間編成魔法で繋ぐのだ。

「岩なら岩らしく、水の底に沈みなさい!」

 そう、少女が叫ぶや否や、沖合の海で水の柱が立つ。海面を白く見せるほどに激しく水しぶきが上がった。その間から見えた岩の蔓に、ベアトリーチェは目を見開いた。自分が追い詰めていたはずの魔法植物の姿はいつの間にか消えている。

 しんと静まり返った岩の島。「ベアトリーチェ!」慌ててやって来たヴィルヘルムも、ベアトリーチェと同じく、呆然と揺れる海面を見つめた。

「マチュディールラデュレルノワーグは」

「海に、沈めたんだよ。ペネロペが」

「そんなこと、どうやって」

「マチュディールラデュレルノワーグの本体が潜っていた場所と、海を空間編成魔法で繋いだんだろう。落とし穴に落とすようなものさ。岩は深海から上がっては来られない」

「まさか」

 ヴィルヘルムが顔を強張らせる。形のいい唇には歪な笑みが浮かんでいた。恐怖にも似た感情が、少年の声をわずかに震わせる。

「ここはスタンリー先生の、二重の編成魔法で出来た世界ですよ。その中で更に空間を繋ぐだなんて、そんな馬鹿な……」

「それをやったんだよ、あの馬鹿は」

 ベアトリーチェの銀髪が潮風に揺れる。巨大な魔法植物を抱えた海は、島に大波と風をもたらした。わずかに湿った髪を撫で付け、「とんでもない男だ。本当に」とベアトリーチェは声を上げて笑った。

「やることのスケールが違うな。やっぱり本物の馬鹿には勝てる気がしない」

「そのわりに、満足げに見えます」

「ああ。惚れ込んだ男が優秀だと嬉しいものだよ」

「それは……よく、わかります」

 ベアトリーチェとヴィルヘルムは上空を見上げた。

 ふたつの月に照らされたペネロペの髪が揺れている。夜空に溶け込むような黒髪が、潮風になびく。

 古びた箒。黒い髪に、黒猫。海の向こうを見据える白い横顔。

 まるで絵本に描かれているような魔女の姿を、二人の少年はただただ、静かに。畏怖にも似た感情とともに、見上げるしかなかった。

「マッチャン……、ここでお別れかぁ……」

 肌がぴりつくほどの緊張感を解きほぐしたのは、そんな間延びした声であった。ヴィルヘルムの背後で、仔犬姿の桔梗がしょんぼりと肩を落としている。

 目をしょぼつかせる桔梗を見下ろし、ヴィルヘルムは小さく息をついた。

「あなたのその能天気さはある意味救いですね」

「えっ、そう? そうかなぁ?」

「言っておきますけど、褒めてませんから」

 月が西の空に傾いている。ベアトリーチェの見つめる先、白く照らされたペネロペの横顔は、どこか見知らぬ魔女のもののようであった。








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