第31話 ペネロペ・クルスのくじ運



 生まれたばかりの金色の太陽が、東の空から顔を出す。

 目を覚ました精霊たちの寝惚けた声を聞きながら、ペネロペは静かに息を吸った。夜のあいだに湿った空気が、少女の肺を大きく膨らませる。

 中庭に満ちた、草木の爽やかな青臭さ。

 ペネロペはゆっくりと息を吐き出し、両腕を軽く開いた。

 すっかりヴェルミーナ魔女学院の精霊たちと打ち解けた西の村の魔女。少女の心の声を聞いた水の精霊が、くるりと身を翻す。ペネロペの周囲を、井戸からやってきた水の渦が取り囲んだ。上質な絹で出来たリボンのように薄く伸びた、透き通ったそれ。ペネロペの髪が霧で潤い、七色の光が増す。

 十分な量の水が集まったことを確認し、ペネロペは軽く開いていた腕を天に向かって差し伸べた。瞬間、彼女を取り囲んでいた水の精霊たちが一斉に空へと飛び立つ。光を浴び、輝く水は一度中庭の上空へととどまる。

「エリオさん、いい?」

 ペネロペはくるりと後ろを振り返った。そこに立っていたエリオットが微笑むのを見て、もう一度視線を空へと戻す。そうして、「行くわよ、みんな」と口の中で囁いた。

 ぱちん。ペネロペが指を弾く音を聞き、水の精霊はコロコロと笑って空を舞った。

「わあ! さすがね、とってもきれい!」

 上空に溜まった水が小さくちぎれ、中庭の花々へと降り注ぐ。霧雨となったそれにペネロペは声を上げた。

 朝日を反射し、中庭のいたるところで七色の虹がかかる。

「シルビア、行きましょう!」

「お子様は朝から元気ねえ」

 眠たげな声を上げる箒にまたがり、ペネロペは空へと飛び立った。

 虹を掴もうとしては失敗し、また次の虹に向かって舞い上がる。子犬が庭を飛び跳ねるようなその姿に、エリオットは目を細めた。朝日を跳ね返す少女の髪が眩しい。

「朝から騒がしいな」

 明朗な虹色から一変、二日酔いに呻くカエルのような声にエリオットは振り返る。そこには声に違わず不機嫌な闇をたたえた男が立っていた。

 珍しく朝からきちんと髪をセットしている弟の姿に、エリオットは目をまたたく。

「やあ、おはようローガン。珍しいね」

「何をやってるんだ、あれは」

「僕に代わって花に水をやってくれてるんだよ。きみがこんな時間から起きてるだなんて想定はしてないもんだからさ。起こしちゃったかい?」

「今から仮眠を取る」

「そんな生活ばっかしてるとそのうちハゲるぞ」

「生活習慣で毛根の耐久性は変わるかどうか、いい研究対象だろ。おまえはこのまま一生ジジイみたいな健康生活でもしていろ」

「随分とトゲがあるなぁ」

 それ以上言葉を交わすこともなく、二人の男は空を舞うおんな魔女を見上げた。

 光度を増す朝日。中庭は濡れた草の爽やかな匂いで満ちていた。普段は聞こえない精霊たちの喜びが聴こえてくるようだ、とエリオットはその心地よさに身を委ねる。

「調子、悪いのか」

 兄の腕に視線をやり、弟は問うた。

 ローガン・F・スタンリーの心配性は、生徒だけでなく自分にも適用されるらしい。エリオットはへらりと笑う。

「もうだいぶいいよ。ソフィー先輩が診てくれてるし、シンイーから薬も貰ってる」

「そうか」

「そんな不機嫌そうな顔するなって。嬉しいんだろう?」

「嬉しい?」

 眉間にしわを寄せ、ローガンは同じ高さにある兄の顔を見つめた。

 そんな弟に、兄は「ああ」とうなずく。そうして、精霊とともに水を浴びる少女へと目をやった。朝日を受け、キラキラと輝く水の中で笑うペネロペを、男は眩しげに見つめる。

「あんなにも簡単に、精霊と契約を交わすことの出来る魔女が、この世にまだ居るだなんてね。文字通り朝飯前だ」

 エリオットの言葉にローガンは「ふん」と鼻を鳴らした。

「本人は契約だとは微塵も思っていないだろう」

「『お願い』するんだっけ? 懐かしいな。きみも昔はもう少し可愛げがあったのにね」

 からかうようにエリオットは言う。ローガンはむっすりと黙り込むだけだ。

 墓穴を掘るとだんまりを決め込むのは子供の頃から変わらないらしい。そんな弟に、兄は笑いかける。

「自分と同じように生きている魔女を見つけて、本当は嬉しいんだろ? 素直に喜べよ。自分以外が消えたと思っていた世界で、生き残りを見つけた時の喜びはわかるつもりだよ」

「おまえは喜んでいるようには見えんがな」

「まぁ僕のは例外だな。喜んでいる場合じゃないだろ、実際問題。なにより僕は、あんな風にコケにされて黙っていられるほど紳士じゃないさ」

 そう言って男は目に殺気をはらませる。

 残虐な光を帯びる赤い瞳。無意識だろう、骨が軋むほどに自分の腕を握りしめる兄へとローガンは声をかける。塞がりかけている傷から血が滲み、白いシャツをスタンリー兄弟の瞳と同じ色に染めた。

「ソフィー先輩から聞いたよ。ドラゴンは東に逃げたってね」

「ああ」

「ローガン、僕は」

「目覚めたのならもう一度眠らせる。それだけだ」

「ふふ、頼もしいことで。東の魔女相手にピロートークしようって?」

 明らかな揶揄を含ませて言う兄の腕に、弟は自分のそれを思い切りぶつけた。

 じぃん、と骨まで響く痛みにエリオットが悲鳴を上げる。

「ちょっと。僕、これでも病み上がりなんだけど」

「うるさい。俺はもう寝る。精霊を宥めておけと女学生に言っておけ」

「はいはい」

「はいは一回だ。生徒に示しがつかないだろ」

「はぁーい」

「伸ばすな」

 そう言って笑い合う兄弟を上空から見下ろし、七色の魔女は首をかしげた。



 おとこ魔女育成機関の名門と名高いヴェルミーナ魔女学院のカリキュラムは、二学期制を採用している。

 九月から始まる前期課程、年明け一月から始まる後期課程。前期には冬季休暇があり、後期には形ばかりの春休みと、七月からの長い夏季休暇がある。

 授業内容は課目によって進行具合が異なり、試験についてもそれぞれの科目がそれぞれ好きに試験を行うのがヴェルミーナ魔女学院式であった。──が、しかし。一年間の集大成とも言える学年末試験はそうもいかない。

 新緑の眩しい六月中旬。朝食をとる生徒で賑わう食堂で、ペネロペ・クルスは頭を抱えていた。

「うーん……」

「クルス、おまえまた寝巻きのままメシ食ってんのかよ」

「頭、すごいことになってるよ?」

 寝巻き姿の上、髪に大きな食虫植物を絡ませた同級生をおとこ魔女たちはからかう。それに生返事をしつつも、ペネロペはテーブルに広げた教科書から目を離せずにいた。

「ご機嫌よう、田舎魔女」

「ああ、おはようビーチェ。ヴィルヘルムも」

「何か言い返してよ。ぼく、朝から意地悪言うただの性格悪いヤツになっちゃったじゃないか」

「ビーチェの性格が悪いのは今に始まったことではないし……」

「一年で随分と言うようになったわね、あなた」

 一瞬真顔になってそう言い返し、制服姿のベアトリーチェはペネロペの隣の席につく。

 少年は同級生の手元に目を落とした。テーブルにはいくつもの教科書が並んでいる。

 当然のようにベアトリーチェの隣に腰掛けたヴィルヘルムは、すでに二枚目のトーストに手を伸ばしていた。気遣い上手の竃の精霊が、彼の周りに食糧を集め始める。

「ペネロペ、きみの黒猫は?」

「今朝は自主練があるからって」

「使い魔科も大変だよね。ああそうだ、思い出した。ペネロペきみ、使い魔科の武術授業も受けてるんだって? 無理をすると身体を壊すよ。もうきみひとりの身体じゃないんだから」

「この身体はまだ私のものよ?」

「ぼくに身体をくれるって言ったあの言葉は嘘だったの?」

「私の身体にあなたの魂を移し替えるにしても、身体と魂の入れ替えなんてほとんど黒魔法に近いものじゃない。黒魔法は三年生の履修科目よ。もちろん私が無事進級出来れば、約束通りちゃんとお渡しするわ」

「その必要はないよ」

 どこかアンニュイに囁き、少年はペネロペの手に己のそれを重ねる。

「きみはただ天井のシミを数えてればいい。嫌な思いはさせないと約束する」

「天井にシミなんて無いけど」

 ペネロペは食堂の天井を見上げ、首を傾げた。

「やめろ、メシが不味くなる」通りがかったギャレットが二人に向かってそう吐き捨てる。

 ついでのようにペネロペの髪に絡んだ食虫植物を魔法で剪定し、少年は食堂から出て行った。まるで何事もなかったかのように。

 そんな少年の背にペネロペは肩をすくめて笑った。

「また怒られちゃった。食堂で勉強してるといつも怒られるの」

「いや、ペネロペ。たぶん今のはそういう事じゃない」

「じゃあどういうこと?」

「あの男も分かりやすいですよね」

 それまで黙って食事に専念していたヴィルヘルムが言う。すでに彼の周りから食糧は消え失せていた。ヴェルミーナ魔女学院の毎朝の光景である。

 ペネロペたちは自分の周りにある手付かずの皿をヴィルヘルムのテーブルに寄せた。これもまた、慣れた作業だった。

「ああ、どうも」眼鏡を押し上げ、ヴィルヘルムは続ける。

「それにしてもよくもまあ、魔女科のあなたが武術授業を受けられることになりましたね。使い魔科の専攻授業でしょう?」

「攻撃魔法が使えない以上はどうしてもね。ニール先生が口利きしてくれたの」

「その上、薬学で最高難易度を引き当てるとは。さすがです」

「それを言わないでよ」

 ヴィルヘルムの言葉にペネロペはうなだれた。目下、少女を悩ませているのは薬学の期末試験であった。

 シン・シンイーが受け持つ薬学は、比較的、試験の少ない科目である。

 シンイーは、暗記や実習に重きを置かない教師であった。彼は「教科書や古書から必要な知識を得られればそれで良し」という考えの持ち主だ。薬学においては、その索引こそが困難なわけではあるが。

 小テストが少ないかわりに、薬学は前期と後期に大きな試験を設ける。

 前期末の試験はさしたる問題もなく終了した。苦労する者も居るには居るが、再試験が大々的に開かれるほど落第者を出したわけではなかったのである。

 ゆえに、ヴェルミーナ魔女学院の一年生たちは油断していた。

「後期試験は少し趣向をこらしましょう」

 そう、眼鏡の奥の鋭い瞳を緩ませたシンイーは箱を抱えて言ったのである。

「この中には、試験内容を記した紙が入っています。同じ内容のものはひとつも存在しません。制限時間も異なります。制限時間が一番短いものはこの授業中に提出する必要があります。続いて、本日中、今週中、一番長いものですと今年度中期限のものもあります」

「今年度中?」ざわめく生徒たちにシンイーはにっこりと微笑む。ヘビのようなそれに、ペネロペは言いようのない寒気を感じた。

「ご心配なく。難易度はどれもそう変わりません。ただ、それでは面白くないでしょう? この中のうち、ひとつずつ、とても簡単なものととても難しいものが混ざっています。フォーチュンクッキーだと思って楽しんでください」

 思えばあの寒気は未来予知や第六感の類だったのだと、ペネロペはテーブルの上のメモを見下ろした。そこにはシンイーの整った文字で『延命薬』『今年度中に提出』『手段問わず』と書かれている。

「延命薬なんて、現役の先生たちにだって作れるかどうか怪しいのに」

 すでに薬学期末試験の提出を済ませたベアトリーチェがボヤく。

「でもまあ、『生き返らせ薬』って言われなかっただけマシかなあ」

「完全に黒魔法じゃないか」

「材料と調合法はわかったんですか?」

 それまで我関せずといった様子だったヴィルヘルムが尋ねる。

 これは心配云々というより知的好奇心だな、とペネロペは少年の灰色の双眸を見据えた。

「うん。一年生の教科書には載っていなかったから図書館で調べたわ」

「集められそうなものだったんですか」

「ほとんどはね。手段問わずだから、材料さえ分かればシンイー先生の秘蔵庫からいくつかは貸してもらえるし。問題は──、」

「問題は?」

 うつむいたまま口を閉ざしたクラスメイトを、ベアトリーチェとヴィルヘルムが見下ろす。

 胃が重くなるのを感じながら、ペネロペは再び口を開いた。

「問題は、最後の材料で」

「なんですか。火山花でも出ましたか」

「火山花の方がいくらかマシかも」

 ペネロペは力なく笑って肩をすくめる。

 そんな同級生に二人のおとこ魔女は眉をひそめた。

「ペネロペ、ぼくに出来ることがあるなら言ってくれ」

 ベアトリーチェは真摯な態度でペネロペの肩にそっと触れる。

「金ならある」

「ベアトリーチェ、差し出がましいようですが発言がかなり下品です」

「最悪、ヴィルヘルムが火口まで行ってくれるよ」

「あなたのためなら喜んで行きます。しかし、その男のためというのなら椅子ひとつ移動させたくありません」

「ありがとう、ヴィルヘルム。でも火口は危ないわ。あなたを行かせられない」

「私の話聞いてました?」

 ふう、と息を吐いてペネロペは同級生へと目をやる。

 ヴィルヘルムもすでに薬学の提出を済ませている。それがペネロペにはひどく羨ましかった。

「火龍の血」

「は……?」

「仕上げに、火龍の血が必要なの」

「この世に存在しないものが材料なのか」

「東の地にそういう物語ありましたよね。プリンセスが、自分との婚姻を望む男たちに無理難題を押し付けるという。彼女が望んだのは龍の鱗でしたっけ」

「ルイス魔女学校との交流会の夜、血だけでも取っておけばよかった」

 ペネロペはため息とともにそう呟き、椅子に背をあずけた。「ドラゴンの血ならそこら中に散っていたのに」

 あの夜、校舎に血をまき散らした二匹のドラゴン。その討伐のために出て行ったソフィーをはじめとする教師たちが講堂に戻って来た頃には、校舎はすっかり元の白さを取り戻していた。

 ルイス魔女学校のお嬢様方に、あんなおどろおどろしいものを見せるわけにはいかない。わかってはいるが、採取しなかったことを悔やまずにはいられなかった。

「シンイー先生、隠し持ってたりしないかしら」

「薬学準備室の魔法陣を突破するなら手伝うよ、ペネロペ」

「ありがとうビーチェ。でもあなた、今度こそネズミに変えられて吊るされちゃうわ」

「この地からドラゴンが消えて千年近く経ちます。『火龍の血』しか方法のない魔法が残っているとは考えにくい。先人たちが代替品を考案していると考えるのが妥当でしょう」

 食堂中の食糧を腹に収めたヴィルヘルムが、眼鏡のブリッジを押し上げながら言う。「そちらを探した方が建設的かと思いますが」

「ありがとう、ヴィル。そうするつもりよ」

「そうと決まれば、今、やるべきことをやらなきゃね」

 ベアトリーチェが静かに席を立ち、厳かに言った。

「あと五分でスタンリー先生の一限目が始まる。本棚にされたくなきゃ急ぐことだ」

 未だ寝巻き姿のペネロペの悲鳴が、朝のヴェルミーナ魔女学院に響き渡った。








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