第22話 ベアトリーチェ・アンバー
二人は昼食をとるのも忘れて本を読み漁った。
一度、ペネロペは精霊たちに直接『背高猫鳴き草の解毒薬調合法』を尋ねたが、年老いた精霊から得られた情報は、ローガンが調合したものと同じであると思われた。それでは意味がない。
ペネロペには確信があった。
「スタンリー先生がミスをするわけがない」
アダムもその考えには肯定的であった。
「正しい解毒薬を飲んでも術式が消えない事例、ってのがそもそものイレギュラーだな」
読み終えた分厚い本をわきに寄せ、アダムが天井──だれかにとっての床でもある──、を仰ぐ。隣で古代魔女文字を解読していたペネロペは深くうなずいた。
「背高猫鳴き草の解毒薬は高度な調合技術と魔力を必要とする。効かない場合は調合ミスを一番に疑うべし、って言われても、スタンリー先生がそんなミスをするわけがないわ」
「ああ、俺もそう思う。あいつがあんなドヤ顔してるの初めて見たぞ」
「それから、先生の『自分でかけた呪いは自分でしか解けない』って言葉が気になるわ」
「背高猫鳴き草のことだろ」
「初めから猫鳴き草の呪いが解けないってわかっていたら、きっと先生は解毒薬なんて調合しなかったわ。そんな無駄な労力をスタンリー先生が割くわけがない」
「きみがそこまで言うのも珍しいね、ペネロペ」
「『私は時間を無駄なことに使うのがこの世で一番嫌いだ、わかったら教室から出て行け田舎者、馬小屋で馬糞にまみれて寝ていろ』」
「なんだそれ」
「初授業の日のスタンリー先生のマネ」
「さすがのあいつでもそこまでは言わないだろ」
読み終えた本を読了済の山へと重ね、ペネロペはため息をついた。目は疲れ、文字酔いで胸がムカムカしている。それでもここで諦めるわけにはいかなかった。
「初めからスタンリー先生は、ベアトリーチェの体内で魔力が噛み合ってないって言ってたわ」
「根本の魔法薬の出来が悪かったってことか」
「それとも、重複魔法か。同じような事例がないんじゃ手の打ちようがない」
ペネロペは図書室の窓から空を見上げた。正確には、ペネロペ自身の天地が入れ替わっているため、空は足元にある。見下ろした空は、すでに日が傾き始めていた。
いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。ペネロペは全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。原因は定かではないが、背高猫鳴き草の解毒が出来ていない以上、日没がタイムリミットであることに変わりはない。
「私、もう一度スタンリー先生のところへ行ってくる!」
ペネロペは立ち上がり、地上に戻るべく梯子に飛びついた。慌ててアダムがペネロペに続く。
「ペネロペ、あいつもどうしようもないって言ってただろ!」
「でもこのままじゃベアトリーチェが死んじゃうわ!」
「だったら先にベアトリーチェのところへ行こう! きみになら、あいつの体内のまじないが読めるかもしれない!」
「スタンリー先生にも分からなかったことが私なんかにわかるわけない」
「出来るよ。きみはアルバさんの娘じゃないか」
ペネロペの腕を掴み、アダムは金の双眸で少女を見つめた。言い聞かせるようなその声に、ペネロペは口を開く。
はく、と少女は唇を震わせ、そのまま何も言わずにゆっくりと息を吐いた。
「わかった。そうする」
「日没までまだ少しあるんだ。焦ると視野が狭くなる。難しいことだけど、俺たちこそ落ち着く努力をしなきゃ」
「うん。ありがとう、アダム」
ペネロペはおのれの心臓が、早鐘を刻んでいたそこが徐々にスピードを落としていくのを感じた。
焦ってはいけない。そう自分に言い聞かせ、ペネロペは梯子を登った。天井に上がったときと同じく、部屋の中間地点で重力が入れ替わる。
二人は精霊たちに声をかけ、図書室をあとにした。
東棟三階のベアトリーチェの部屋に向かって、二人は足早に廊下を進む。そうして本館を抜け、東棟に差しかかったとき、意外な人物が自分たちに向かってくるのを目にした。
黒い髪を乱した男は、血相を変えて二人の前までやってくる。珍しく、ローガン・F・スタンリーは肩で息をしていた。
「スタンリー先生?」
「ベアトリーチェ・アンバーを見なかったか」
「ベアトリーチェ? 部屋に居ませんでしたか?」
「部屋に居るならきみたちに聞くまでもないだろう」
「俺たちはさっきまで図書室に居ました。図書室でも、廊下でも、アンバーには会っていません」
事の重大さを察したアダムが冷静な口振りで言う。
使い魔科の生徒からの的確な情報に、ローガンは低く「そうか」と唸った。その表情は険しい。鈍感なペネロペにとて、わからないわけがなかった。
「ベアトリーチェが出て行ったんですね?」
「おまえたちは部屋に戻っていろ」
「先生。一人で探すより、三人の方が早いわ」
先生、とペネロペはもう一度ローガンを呼んだ。
男のこめかみにグッと力が入る。奥歯を噛み締め、ローガンは口を開いた。
「魔力を追ったが、部屋を出たところで途切れている。校内に居るのかすらわからん」
「魔力消しですね。彼、授業でも一番の成績でした」
「だったら俺の仕事だな」
アダムが得意げに腕を組む。
「魔女の匂いなら使い魔に、だろ。魔力消しだって完璧じゃない」
「追えるのか」
「俺が優秀だってこと、ご存知じゃあなかったんですか?」
ふふん、と笑った少年に男は目を瞬き、そうして「大口を叩くだけのことはあるんだろうな」と唇を歪ませた。ヴィルヘルム・スコットにも劣らぬ不器用な笑顔であった。
廊下の窓から差し込む日は、すっかり冬の夕焼けだ。
「先生、ベアトリーチェのまじないは──、」そう尋ねようとしたペネロペを、ローガンは「説明している暇はない」と制する。
「アンバーを見つけ次第、私に知らせてくれ」
短く言葉を交わし、三人は別れた。
ペネロペは中庭へと向かうべく走り出したが、数歩進んで足を止めた。
少女の頭の中を、薄ぼんやりとした記憶が渦巻く。
鬱蒼とした森の中をさまよい歩く少年の姿。揺れる銀色の髪。太い幹に身を寄せ、生き絶えるように最後の息を吐いた美しいけもの。
「助けて」夢では聞こえなかったベアトリーチェの声が、聞こえた気がした。
「シルビア!」
気付けばペネロペは友人の名を呼び、駆け出していた。北の森へと向かって、中庭を越え、北棟を越え、グラウンドを駆け抜ける。
「ハァイ。呼んだかしら、無作法な魔女さん?」
「出来るだけ早く飛んで! 北の森で一番の古株のところへ!」
背後よりひとりでに飛んできた箒に少女は飛び乗り、まっすぐに森へと向かう。
「ふふっ。あの森の中で「株」なんて言ったら埋められちゃうわよ」
楽しげに笑いながらもシルビアはぐんぐんスピードを上げていく。森に入る寸前、ペネロペはちらと夕焼けに染まった空を見上げた。太陽は西の空に沈みかけている。
森に入っても箒は力を弱めることなくまっすぐに飛んだ。密集した木々は無断で侵入してきた魔女を拒むように枝を広げ、ペネロペを阻む。腕で防いだとて、少女の頬や四肢はすぐに傷だらけになった。獣にひっかかれたような傷に血が滲んでいく。
「ねえ、地面を歩いた方がいいんじゃないかしら」
「それじゃあ間に合わないわ!」
「でもあなた、傷だらけじゃない。女の子が顔に傷なんて作るものじゃないわ」
「顔の傷なんて大したことじゃない」
傷はチリチリと痛んだが、少年の胸の痛みに比べれば可愛いものだと、少女は頬を伝った血を払う。
森の奥深く、木々の密集したそこは日を通さない。太陽はまだ出ているのか。日没までどれくらい時間があるのか。魔力の最大値が上がったペネロペの髪は日没からしばらくは七色に輝くようになっていた。
時間の目安にならなくなってしまったおのれの髪を、ペネロペは乱暴に解いた。
森の中は冷たく湿った空気で満ちている。中心部に進むにつれ、気温は更に下がっていくようだった。ペネロペの呼気が真っ白に染まる。
その空気に漂う精霊の数が増えたことに、少女は気づいていた。それと同時に、森の奥に輝く光を見つけ、弾かれたように叫ぶ。
「ベアトリーチェ!」
変わり果てた少年の姿が、そこにはあった。
「これがこの森の主よ」シルビアが無機質な声で言う。
ペネロペは太い幹に埋もれるように身を寄せていた少年の元へと降り立った。
銀色の髪。白い肌。その色はベアトリーチェのものだとしか言いようがないのに、ペネロペにはそれが彼であるという確信が持てなかった。その少年が、もうほとんど幼児と言ってもいいような姿に変わり果てていたからだ。
「ベアトリーチェ! しっかりして!」
「……最後まで、あなたはわたしを不快にさせるのね」
少年はそう言って身体を起こす。ふっくらとした丸い頬に、アイスブルーの瞳。腕や足はむちむちと柔らかな肉で張っており、彼が四肢を曲げると線が入る。
ミルクの匂いすらしそうな子供であった。年は二つか三つくらいだろう。
「最後くらい放っておいてくださらない?」
ベアトリーチェ・アンバーは、幼い頬に皮肉な笑みをたたえて言う。
「これ以上、恥を晒したくないの」
「最後ってなに。恥ってなによ。絶対にイヤ!」
「ヴィルヘルムから聞いていた通りね。傲慢な女」
「傲慢な……」
「安心して。彼はあなたがおんな魔女だってことには気づいてないわ」
そこまで言って少年は深く息を吐き、再び太い幹に背を預けた。その身体は更に小さくなっている。
髪は細く、薄く、子猫の身体を覆うもののようだ。ひとりで身体を起こしていることすら出来ないらしい少年をペネロペは抱き寄せた。氷のように冷たい。
ベアトリーチェは一瞬むずがったが、すぐに諦めたように身体から力を抜いた。
その時、ペネロペは森の精霊たちが一斉に騒ぎ出す声を聞いた。そして、身に覚えのある魔力がずっと先で力を解放するのを感じた。
アダムだ。彼もベアトリーチェの魔力の行き先を嗅ぎつけたのだ。それを察したペネロペは声を張り上げた。
「お願いみんな! スタンリー先生を呼びに戻るようアダムに伝えて!」
ペネロペの周りを漂っていた精霊たちが南へと向かって飛び立つ。それを見送り、ペネロペは「大丈夫よ」と胸の中で枯れるように小さくなっていく少年を抱きしめた。
「きっと、スタンリー先生が助けてくれる」
「西の村の住民は、みんな、お節介を焼くのが趣味なの?」
ペネロペの指を握るだけでやっとのサイズになってしまった己の手を空にかざし、少年は「このまま死なせて」と、幼い声で誰に言うでもなく呟いた。ペネロペはそんな少年を更に強く抱きしめる。
「イヤよ。絶対にイヤ。どんな魔法を使ったの? 何を願ったの? 教えて、お願い。お願いよベアトリーチェ」
「言ったでしょ。女になりたかったのよ」
「背高猫鳴き草のまじないは消えているわ」
ペネロペは言い放つ。ベアトリーチェの体内の魔法は未だ回り続けている。しかし、それは背高猫鳴き草によるものではないという確信が少女にはあった。
見知らぬまじないの波。その魔力はベアトリーチェ・アンバー自身によるものだと、魔女の血がペネロペにそう教えてくれた。
「どんな魔法を使ったの、ベアトリーチェ。もう時間がないの。教えて、お願い」
「知らないわよ」
「明日もあなたと一緒に居たい。明日も私に意地悪を言ってよ。日が沈んでも、夜はいつか明ける……、明けない夜なんてないの! 一緒に明日の太陽が昇るのを見ましょうよ、ねえ、ベアトリーチェ!」
「──あなたがうらやましい」
「ベアトリーチェ……?」
「朝日に怯えたことなんて、あなたは無いんでしょうね」
ベアトリーチェはそう言い、諦めたように薄く笑った。
「朝ね、目が覚めると一番に身長を測るのよ。鏡を見るのに勇気が要るなんて、あなたにはわからないでしょう? おんな魔女のあなたには絶対にわからない。朝日に怯えるのにはもう疲れた。もう、全部終わりにしたいの」
少年は顔を背け、小さな手で目を覆ったまま続ける。
「毎日、男に変わっていく自分に怯えて暮らすのよ。身長が伸びて、肩幅が広くなって、骨が太くなっていくのをどうすることも出来ないまま見ているの。自分の身体が、自分から離れていくのよ。喉仏が目立つようになって、声が低くなって。そのうち髭だって生えるようになるんでしょうね。家にとって自分が要らないものになっていくのを成すすべもなく見ているの。もう、要らないのよ。わたしなんて」
そう、一気にまくし立てた少年の言葉にペネロペは言葉を失った。
いつも自信に満ち溢れ、気高く、美しかった少年。ベアトリーチェ・アンバーがそんな感情を抱いているなど、ペネロペは考えもしなかった。彼が初めて「女になりたい」とその心のうちを吐露した時さえ、これほどまでの衝撃は受けなかった。
「どうして」ペネロペの口から弱々しい息が漏れる。
「女系のお家に生まれたって、男の子は必要だって……、メアリー・アンも、シンイー先生も、それにソフィー先生だって……、要らないだなんて、そんなこと」
「あの人たちは一人きりの嫡子だもの」
「ひとりきり……?」
「わたしはね、アンバー家に産まれた二人目のおとこ魔女なの。正真正銘、望まれなかった子なのよ」
ベアトリーチェは笑った。影のない笑顔であった。ただただ、事実としての己の価値を語る幼い少年。その痛々しさにペネロペは喉の奥が締まるのを感じた。彼が笑うたびに、息が苦しくなる。
それ以上喋らないでとペネロペは思った。自分の魂にナイフを突き立てないでと。
いつかの箒の言葉が蘇る。「受け流しているのと、受け入れて自分の口で認めるのは全くちがうもの」
ゆるく首を振る少女を無視し、なおも少年は言葉を紡ぐ。
「うちはね、兄様が一人居ればよかったの。女系の魔女は懐妊がわかった時点で胎児の性別を判断する。ひよこの雌雄分けみたいにね。わたしはおんな魔女だって診断されたのよ。だから産むことになっていた」
「男の子の場合は、どうなるの?」
「おろすのよ。おとこ魔女なんか妊娠して、一年を棒に振る必要はない」
当然だとばかりに少年は言う。
「じゃなきゃあんなに女ばかり生まれるわけないでしょう? シン家は一男十一女、モーガン家は一男十三女、メアリー・アンのところは来年妹が生まれて一男八女になるんだったかしら」
何も言えずにいるペネロペをちらりとベアトリーチェは見た。
「わたしはひどい難産でね。あろうことか、母はわたしを産んで子供の産めない身体になってしまった」
「でも、でも、ベアトリーチェは優秀な魔女よ。女の子に間違われたのだって、きっと、魔力がとても強いからで──、」
「でも所詮は男なの。アンバー家にとって隠しておきたい恥なの。ずっとわかっていたつもりなのに、あなたが女だって知って、それを久しぶりに思い出した。それだけよ」
「そんなわけないわ! 子供を愛さない親なんてっ、」
「やめて」
硬い声でベアトリーチェは言った。ペネロペは口をつぐむ。
子供を愛さない親なんて居ない。ペネロペはそう思っていた。そう思いたかった。しかし、それが西の村で生きてきた自分の価値観でしかないことも、少女は理解していた。
自分とベアトリーチェ・アンバーは違う人生を生きている。おのれの価値観を押し付けることは、心のやわらかい部分にナイフを突き立てることだと、ペネロペはもう知ってしまっていた。
「わたし、ずっとあなたを見下していた」黙って唇を噛むペネロペを見上げ、ベアトリーチェは言った。
「どんなに魔力が強くったって、田舎者で、育ちが悪くて、不器用な男だって思ってた」
「それで、間違ってないでしょう?」
「間違っていた。あなたはおんな魔女だった。わたしなんかとは比べものにならないくらい、価値のある生き物だった」
「…………」
「あなたを見下して、優しくしてあげて、優越感に浸っていた自分に耐えられなくなったのよ。それで薬を飲んだだけ。あなたが罪悪感を抱くことはない」
だから放っておいて、と続ける少年に少女は首を振る。
「違う。違うのよ、ベアトリーチェ。私があなたを助けたいのは、罪悪感があるからじゃない。あなたが好きだからよ。あなたがここに居てくれなきゃ、私なんかきっと、最初の授業でくじけてた」
「らしくないわね、クルスさん。あなたが嘘をつくなんて」
ベアトリーチェは笑った。ペネロペのことなどお見通しだと言うような、大人びた顔で。
ペネロペの頬を熱い雫が伝う。ベアトリーチェ・アンバーの諦めを、目を逸らし続けていた少年の目の奥に潜む「死を受け入れる色」を、少女は見つけてしまった。
ベアトリーチェは死を受け入れている。己の生を見限っている。そしてそれを止めるすべが自分の中にないことに、少女は涙を流す。
「わたしの知るあなたは、そんなことでくじけるほど繊細な魔女じゃない」
「でも、そんな……、ヴィルヘルムは、どうなるの」
「彼だって、わかってる」
ふ、と息を吐くように少年は言った。
ヴィルヘルムが。先生が。みんなが。そんな言葉には意味などない。今のベアトリーチェ・アンバーにはそんな言葉は届かない。
涙の味を残したままの唇を、少女はひらく。
「確かに私は……、ここにベアトリーチェが居なくたって、ベアトリーチェに出会わなくたって、今もこの学院に居たと思う」
「ええ。あなたはそれでいい」
「でも」
少年の言葉を遮り、ペネロペは涙を拭った。
そうして、自分で首すら支えられなくなった少年を抱きしめる。
「でも、それは今の私じゃない。あなたの隣の席に座って、あなたに教科書のページを教えてもらった私じゃない。それは、ベアトリーチェ・アンバーにネクタイの結び方を教わった私じゃないわ」
「そんなことくらい、誰でも教えてくれるでしょう」
「そうかもしれない。でもあの日、私にそれを教えてくれたのは他でもないあなたよ。ベアトリーチェ・アンバーが、あの日の私に居場所をくれたの」
「ベアトリーチェ」少女は同級生の名を呼び、彼の美しい顔を眺めた。
すでに少年は生まれたばかりの赤子のような姿に成り果てている。少年の体内で渦巻く魔法は解除される素振りもない。ペネロペはただ、アイスブルーの瞳を見下ろした。
「ベアトリーチェ。教室での居場所も、ヴェルミーナ魔女学院の生徒であるすべも、あなたがくれた。私はそれに報いなければいけない。あなたが与えてくれた優しさを、私もあなたに返したいの」
ベアトリーチェ。少女は何度も彼を呼ぶ。
戻ってきてくれと、懇願するように。神にでも祈るように。
「朝が怖いのなら、夜通し私がずっとそばに居る。朝日が昇るまで片時だって離れないわ。絶対に」
「うるさくてねむれやしないでしょうね」
「ええ。夜通し話をしましょう。そのうち私たち、きっと疲れて眠ってしまうわ」
「……ええ。いいわね。わるくない」
「あなたが、あなたの生に意味を持てないと言うのなら、私の身体をあげる。魔女という種族に申し訳が立たないというのなら、あなたの代わりに何人でも子供を産んであげる。私、あなたに助けてもらってばかりで何も返せていないのよ。セミウィンザーノットだって、まだ教わってない。だから、このままあなたが居なくなるのは困る」
「……傲慢だな、本当に」
ベアトリーチェの声が震える。赤ん坊の顔が、泣き出す寸前のようにくしゃくしゃに歪んだ。骨ばった肩がひきつけでも起こしたように跳ねる。それをペネロペはかき抱いた。
「ぼく……は、」
「うん」
「ぼくは、ただ、たださ──、」
「うん」
「ただ、ぼくは、ぼくのまま、今のままの自分でも、生きていてもいいんだって……、ただ、そう、母さんに言ってほしかっただけなんだ」
アイスブルーの瞳から大粒の涙が溢れおちる。森の苔へと染み込んだそれに、木々がざわめいた。
森の中を冷たい風が吹き抜ける。西へと向かって。
日が沈む、とペネロペは思った。それをベアトリーチェも感じているようだった。ペネロペの腕の中で小さな身体がわなないた。少年の腹に根を張った魔法が、彼の身体を喰らわんと覆いつくす。
ペネロペはただ、強く少年の身体を抱きしめた。骨が軋むほどに。少女の胸の中にあるのはただひとつの感情だった。それは熱く少女の心臓を焦がし、瞼の裏を濡らす。
「ベアトリーチェ。私はあなたが大好きよ」
ペネロペの髪が毛先から闇の色に溶けていく。
頬をつたった輝きは、真っ直ぐに少年の頬へ落ち、やわらかなそこを熱く濡らした。少女の腕の中で、少年の身体が炎のような熱をもつ。
「ペネロペ!」
「女学生!」
大きな獣に乗った男が、森の主のもとへとやってくる。巨獣化したアダムから飛び降りたローガンは、うずくまったまますすり泣く少女を見下ろした。
「女学生──、」
ローガンが触れるより先に、ペネロペの肩を白い手が這った。
痩せて骨ばった、華奢な手。それでも男のものであると一眼でわかるそれは、泣き濡れる少女の頬を柔らかに撫でた。
まるで愛撫でもするかのようなそれに、ペネロペは顔を上げる。
「ペネロペ・クルス」
すっかり低くなった声で、ペネロペに抱かれるベアトリーチェ・アンバーは言った。
「きみ、こんなに美しい髪をしていたんだね」
少年はそう言って、美しい頬を緩ませた。
「考えたいことがあるから、すこし一人にしてほしい」
北の森に駆け付けた面々に、ベアトリーチェ・アンバーは静かに言った。
その声は低い男性のものへと変わっていた。よろめきながらも少年は一人、立ち上がる。ぎこちなく揺れる肩は、己の性を否定するための過酷な食事制限で痩せ細ってはいるが、それでもペネロペのものとはまるで違う。
十五歳の少年、ベアトリーチェ・アンバーは「馬鹿はもうやり飽きたから心配しないで」と笑った。
「真実の愛で解ける魔法だなんて、ロマンチックじゃないの」
一部始終を見守っていた箒は言う。ペネロペは曖昧にうなずいた。
ベアトリーチェが一命をとりとめたことは喜ばしい。しかし、本当にこれでよかったのか、ペネロペにはわからなかった。うつむいたまま校舎へと向かう女子生徒に、ローガンは何も言わなかった。
日が沈んだグラウンドを進み、ベアトリーチェは自室へ、ペネロペとアダム、ローガンは食堂へと向かった。相変わらずごちゃごちゃと雑多な飾り付けのなされた部屋は、前夜祭で更に賑わっている。
一度、東の塔に戻って着替えたペネロペを、アダムとスタンリー兄弟が迎えた。
「ああ、ペネロペ。素敵なドレスだね」
今日一日姿を見せなかったエリオットは、そう、にこやかに微笑んで言った。
そんな男に「どこへ行っていたのか」と尋ねる気にもなれず、少女はやって来た幼馴染みに手を引かれるままテーブルについた。
テーブルには、前夜祭に相応しいご馳走が並んでいた。具沢山のスープに、分厚いローストビーフ、丸々と肥えた七面鳥はこんがりと焼かれ、空腹を刺激する匂いが辺りを満たしている。
「あいつから貰ったドレス?」
アダムの問いにペネロペは頷いた。淡いピンク色のドレス。ベアトリーチェには小さすぎ、自分には大きすぎるそれを能天気に繕っていた頃の自分を思うと恥ずかしかった。少年の苦しみを知ろうともしていなかった自分が情けない。
「よく似合ってるよ」
「……アダム。ベアトリーチェは、どうなるの」
「俺たちに出来ることは全部やったろ」
少年はグラスに飲み物を注ぎながら言う。
「あとはあいつ自身がどうするかだよ。自分の心と向き合えるかどうかは、あいつ次第」
「一人で戦うには、敵が多過ぎる」
「敵って?」
「魔女という種族そのもの」
「ペネロペ、まずはきみ自身が落ち着くべきだな」
オレンジジュースの入ったグラスをペネロペへと差し出し、少年は笑った。
「ずいぶん怖い顔してるぜ」
「やっぱり、おかしい。この世界はおかしいわ、アダム」
「そうかもね。だとしたら長い戦いになるよ、ペネロペ。まずは空腹を満たして、戦うすべを得て、それから敵を詳しく知ることだ。『魔女』だなんてざっくりした勘定で戦えるほど、相手はきっと甘くない」
それにさ、とアダムは自分のグラスを軽く持ち上げて続ける。
「戦うには仲間が必要だろ。どんな物語だってそうだ。最初に集めるべきは旅の仲間だよ」
「私なんかと一緒に行ってくれる人、居るかしら」
「俺はきみについて行く。どこまでだって」
そう、アダムが言うと同時に、食堂の扉が開く。
ペネロペとアダム、それから壁際で話し込んでいたスタンリー兄弟はほとんど同時にそちらへと目をやった。
食堂の扉を開けたのはベアトリーチェ・アンバーであった。
長い銀髪を馬の尻尾のように背に垂らし、少年はきっちりとスーツを着込んでいる。
「見た感じだと、ポリッジは無さそうね。席は空いているかしら?」
どこか照れ臭そうに、今まで通りの口調で話すベアトリーチェを見て、ペネロペはじんわりと痛んだ目から涙が溢れ出すのを感じた。
堪える間も無く頬を流れた熱に、少女は顔を覆う。
「おい、オカマ。俺の幼馴染みを泣かせるな」
「誰がオカマだよ」
スーツの襟を正したベアトリーチェが、低い声でアダムに言い返す。
「ペネロペ」
初めて呼ばれたファーストネーム。
ベアトリーチェの声に、ペネロペは涙を拭って顔を上げた。
「ベアトリーチェ、あなたったら何を着ても似合うのね」
「ああ、それはどうも。きみはそのドレス全然似合ってないな」
隣で幼馴染みが喉を鳴らすのを感じ、ペネロペはアダムの首根っこを掴む。そうして、見慣れたイヤミな笑顔を浮かべる少年へと笑ってみせた。
「意地悪ばっかり言うんだから」
「意地悪言えっていったのはきみだろ。そのドレスじゃきみの髪の美しさを殺してるよ。今度、似合うものを贈らせてくれ。今日のところはぼくの負けだ」
「ええ、そうよ。髪の色ならあなたにだって負けないんだから」
「でも、私はベアトリーチェの髪が好き」そう言って笑う少女へと、ベアトリーチェが手を差し出す。
「前夜祭だ。踊ってくれる?」
もちろん、とペネロペが少年の白い手を取るよりも先に、アダムがそれを遮った。
息巻く使い魔を、ベアトリーチェは呆れ顔で見つめる。
「男の嫉妬は醜いよ、アダム・バックランド」
「うるせえよオカマ」
「誰がオカマだ」
「おまえだよ、この泥棒猫」
「猫はきみだろ」
アダムの威嚇を無視してベアトリーチェはペネロペの手を取った。室内雪の被害を免れたフロアへと、少年は少女を誘う。
まるで絵本の王子様のようにエスコートする銀髪の少年へと、ペネロペは慌てて声を上げた。
「ベアトリーチェ、私、村でしか踊ったことがない」
「安心して。ぼくも長らく男のステップなんて踏んでない」
ベアトリーチェは悪戯っぽく笑う。
少年の骨ばった左手がペネロペの手を誘い、右手が腰を抱く。ぐ、と引き寄せられてペネロペは息を詰めた。近くで見たベアトリーチェは、ペネロペが想像していたよりずっと頼もしい姿をしていた。
「本当に男の子だったのね」
「きみも。本当に女の子だったんだな」
抱いた腰の細さに驚いたらしい少年がそう言うのに、ペネロペは唇を尖らせた。
「共同バスルームで見たじゃない」
「正直、驚きすぎてあまり覚えてない。もっとちゃんと見ておけばよかったな」
「ベアトリーチェ」
「ビーチェでいいよ」
ペネロペが問い返す間もなく、ベアトリーチェが足を踏み出す。
まともに踊ったことのないペネロペにはそのステップが何という種類のものかすら分からなかった。西の村では皆、好き勝手に身体を揺らすようなものしか踊っていなかったのだ。しかし、ベアトリーチェの完璧なエスコートはペネロペを優雅に踊らせた。
白い手が促すまま、その安心感にペネロペは身を委ねた。
食堂に並べられていた楽器たちが音楽を奏でる。ローガンがゆるやかに杖代わりのタクトを持ち上げているのを、ペネロペは視界の端でとらえた。
「まだ、自分でもわからないんだ」
少年は穏やかに話し出す。
「やっぱり自分が男だってことを思うと苦しいし、家や母さんに申し訳ないって気持ちも消えない」
「うん」
「だからって、問題から目を背け続けていたって何も変わらない。男の自分を受け入れて貰いたいっていう感情は、無視しても無くなるわけじゃなかった。ぼくが目を逸らしてる間にも傷は膿むんだなって、思って。だから、見るよ。これからは自分の弱さごと、ちゃんと明日に連れていく」
「やっぱり、あなたはすごいひとね」
「どうかな。また逃げ出すかもしれない」
「その時はまた私が迎えに行くわ、ベアトリーチェ」
「ビーチェでいいってば」
アイスブルーの瞳がゆるく弧を描く。あたたかなそれに、ペネロペは目を伏せる。溢れ出した涙を隠すべく少年の胸にすり寄れば、見た目よりずっと力強い腕がペネロペの背に回った。
それを咎める幼馴染みの罵声と、迎え撃つ友人に、少女は笑う。
七色の髪がキラキラと星屑を滑らせたように輝く、クリスマス・イヴのことだった。
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