第21話 図書室
「私、何も言えなかった」
ベアトリーチェが薬を飲み、その効果が期待出来ないことを悟るや、ローガンはペネロペたちに部屋を出るよう言った。
エリオットは二、三、弟と言葉を交わし、納得した様子で西の村の二人に向かって微笑む。「僕らは食堂で待っていよう」
東棟から本館へと戻り、三人は食堂の椅子に腰掛ける。
喘ぐように「何も言えなかった」と繰り返す少女の手をアダムがそっと握った。
「何か、彼に言いたいことがあったのかい?」
向かいに座るエリオットが穏やかに尋ねる。
少し迷って、ペネロペは横に首を振った。「わからない」
「何か言いたかったの。でも、言葉が見つからなくて。あんな悲しい目をしたベアトリーチェを、一人になんかしたくなかったのに」
そこで一度言葉を止め、ペネロペは鼻をすすった。そうして震える息を吐き、続ける。視界が涙で滲み始めていた。
「何か言ったら彼を傷つけるんじゃないかって、私、すごく怖くて」
「うん」
「恐怖心に負けたんだわ、私。ベアトリーチェは大切な友達だなんて言ったくせに、彼のために何かをする覚悟がなかった。私は、逃げたのよ」
「ほんとにそうかな?」
幼馴染みに抱き寄せられ、その胸に額を擦り付けていたペネロペはそんな声に視線を上げた。エリオットがもう一度、「ほんとにそうなのかな」と優しい声で少女に語りかける。
「彼が大切だからこそ、きみは躊躇したんだろう?」
「……でも、そんなの、」
「誰かのことを考えて悩むことが、『逃げ』になるわけがない」
そう、エリオットが言うと同時に食堂のドアが開く。姿を現したのはローガンだった。
「兄さん、話がある。ちょっと来てくれ」
声は落ち着いていたが、ペネロペは彼の焦りを肌で感じた。ローガンがエリオットを「兄さん」と呼ぶのを聞いたのは初めてのことだった。
「いいさ、ここで話せよローガン」
「エリオ」
「この子たちにも関係のある話だ」
エリオットは言い切る。その声は食堂に強く響いた。
弟は兄の言葉にしばし息をつめたが、諦めたように「アンバーの頭の中を覗いた」と話し出した。
「彼が何を願ったのかは結局わからなかった。幾重にも思考が重なっている」
「おまえでも願望の核が見えなかったのか」
「ああ。自分でも理解していないらしい」
「思春期特有だなぁ……、大人だと金とか女とか、わかりやすいものだけど。特に男は」
「こうなると俺にはどうにも出来ん。自分でかけた呪いは自分でしか解けない」
自分でかけた呪い? ペネロペはその言葉に疑問を抱いた。ローガンはそんな生徒を気にかけるでもなく、会話を続ける。
「エリオ、シンイーと連絡が取れるか」
「試してみる。ただ、休み明けまで奥さんの実家だろ。身動き取れないだろうからなぁ」
「厄介な……」
二人の男は唇を引き結ぶ。
「願望が見えないとどうなるんですか?」ペネロペは授業のように手を上げて質問した。それにローガンは視線もくれず、「絡み合った魔法を解除しようがない」と短く答えた。
つまり、ベアトリーチェの体内に根付いた魔法はもう解除出来ないということである。
「そんな……、」
「とにかく、俺は下りる。あとは任せたぞ」
「え?」
脱力しきった様子で踵を返す男。その無責任な言葉にペネロペは愕然とした。
聞き間違いでなければ、ローガン・F・スタンリーは「下りる」と言った。つまりもう、ベアトリーチェに手を貸すのはやめるということである。
カッ、とペネロペの頬に熱が集まった。その感情が怒りだということを少女はもう知っていた。しかし、それを厭うことなく口を開く。
「ベアトリーチェを見捨てるんですか!」
「話を聞いてなかったのか女学生。もう私では手の打ちようがない」
「だからって! まだ、明日の日没まで時間はあるのに! 諦めるんですか!?」
「諦めなければいい結果が生まれるとでも?」
ローガンは低く呟き、振り返ってペネロペを見つめた。赤い瞳は穏やかだった。
ペネロペはおのれの感情が間違っているとは思わなかった。それでも、ローガンの冷静な双眸に見据えられると、奮起した怒りが途端に萎んでいくのを感じる。
「でも……、だって、」
「足掻きたいのならそうすればいい。優秀なきみなら可能だろう」
「先生、お願いします! 私、ベアトリーチェとまだ、一緒に、ここで──、」
「エリオ、頼んだぞ」
「わかった」
ローガンの視線はすでにペネロペをすり抜け、エリオットへと向かっている。
藁にも縋る思いでペネロペはエリオットを見つめたが、彼もまた諦めた様子で「期待はするなよ」と弟に返事をするばかりだ。ペネロペの視界が涙で滲んでいく。
「ペネロペ」
幼馴染みが慰めるようにおのれの名を呼ぶのを聞いて、少女は少年の胸にすがりついた。
悲しげに微笑むベアトリーチェの顔を思い出す。
少年の、自信に満ち溢れたアイスブルーの瞳を最後に見たのがいつだったのか。ペネロペにはもう思い出せなかった。
教科書のページを教えてくれた横顔。ネクタイを結んでくれた白い手。ペネロペの頭の中の少年は、いつも美しく、そして、どこか悲しい目をしていた。なぜそれに自分は今まで気づかなかったのだろうと、ペネロペは声を上げて泣いた。
その夜、少女は夢を見た。
美しい少年が、ひとりで森の中を歩いている。風も通さぬ鬱蒼とした森であるにも関わらず、長い銀髪が揺れている。その頬には影が落ち、表情は窺えない。
少年が足を止めた。森の主とも言える太い幹のふもとに少年は寄り添い、薄く口を開く。
ベアトリーチェのつむぐ言葉が、ペネロペには聞こえなかった。
十二月二十四日。
クリスマス・イヴの空が朝を迎えるのを、ペネロペは東の塔から眺めた。
東の空が白んでいく。濃い夜の匂いはすでに消え失せ、澄んだ空気は空を高く見せる。顔を出した太陽に、ペネロペは人生で初めてうらめしい気持ちを抱いた。
朝日が昇らなければ、夕日が沈むこともない。そうすればベアトリーチェは助かるのに。
ペネロペは乱暴にカーテンを閉めた。そこに散った星々が陽の光に当てられ、朝の空気に溶けて消える。
七色に輝き始めたおのれの髪を一つにまとめ、ペネロペはドアへと向かった。
「メリークリスマス、ペネロペ」
「まだ日は昇ったばかりよ」
「あら、随分とつれないのね」
ドア横に立てかけられたシルビアが軽い声で言う。
西の村では、前夜祭である二十四日の日没から二十五日にかけて「メリークリスマス」と祝いあうのが習わしだった。
二十四日の日没。奇しくもベアトリーチェに課せられたタイムリミットと同じである。
一刻も早くベアトリーチェに会いたいとペネロペは思った。
今、彼はどんな姿をしていて、どんな気持ちでいるのか。ベアトリーチェにかかった魔法はどうなったのか。今すぐに確かめ、手を打ちたい。しかしそれと同時に、「スタンリー先生に出来なかったことが自分に出来るわけがない」という確信も抱いていた。
そんな自分にひどい苛立ちを感じる。いいや、違う、とペネロペは顔を上げた。
「ごめんなさい、シルビア。私すごく焦ってるみたい」
「ええ、そうね。迷子の子供みたいな顔してるわ」
「ええ。進むべき道がわからなくて、とても不安なの」
私は不安なのだ、とペネロペは自分に言い聞かせる。まずはおのれの感情を整理しなければ、ひどい結果を生みかねないことを少女はすでに知っていた。
なにより、一番不安なのはベアトリーチェ本人のはずだ。自分がこの悪しき感情に振り回されてはならないと、ペネロペは深呼吸する。
「進むべき道なんてないわ」シルビアは軽やかな声で言った。
「あるのは道を切り開く意志だけよ」
「うん。ありがとうシルビア」
「困ったときはいつでも呼んでちょうだい。私たち、友達でしょう?」
「もちろんそうさせてもらう。メリークリスマス、シルビア」
「日は昇ったばかりよ」
おかしそうに笑う箒の精霊に礼を言って、ペネロペは東の塔を下りた。
朝日の降り注ぐ中庭にはひとの気配がない。
中庭だけではない。東寮の廊下にも、窓にも、教室にも、冬の冷たい空気が満ちているだけだ。澄んだ空気は少女の足音を高く響かせる。ペネロペはふと、足を止めた。
長期休暇に入るまでは必ず誰かの笑い声が響いていた廊下に一人佇み、ペネロペは思う。まるでこの世界に取り残されたようだと。
それはとても寂しく、不安なことだった。しかし、途方もなく自由であることもまた事実であった。寂しいのに、清々しい。自由とはそういうものなのかもしれない。それはペネロペにとって初めての感覚だった。
「ペネロペ!」
食堂に顔を出した幼馴染みをアダムが呼ぶ。
今日も食堂の長テーブルには様々な朝食が並んでいた。アダムの隣の席に着いたペネロペは、ここ数日そこにあったボサボサの黒髪が見えないことに声を上げる。
「エリオさんは?」
「さあ。今日は姿を見てないな。中庭じゃないか?」
「中庭には居なかったように思うけど……」
「そんなことより、あのオカ……、ベアトリーチェ・アンバーのこと、どうする」
いつものように「オカマ」と呼びかけ、しかしそれこそが彼のコンプレックスであったことを思い出したアダムが言い直す。
それにペネロペははにかみ、「やれるだけのことはやろうと思う」と答えた。
「やれるだけのことって?」
「背高猫鳴き草の本を図書室で探して、もう一度、解毒薬を作ってみる」
「あー……、こんなこと言いたかないけどさ、ペネロペ。ヴェルミーナ魔女学院の教師にも出来なかったことが、俺たちに出来ると思うか?」
『俺たち』初めから自分を頭数に入れる幼馴染みの優しさに、ペネロペは胸がジン、と甘く痛むのを感じた。
決して悲しみや苦しみではない、あたたかなそれを少女は噛みしめる。少年の愛に触れたペネロペの髪が七色の輝きを増した。その眩しさに、少年はめまいにも似た陶酔を感じ額に手を当てる。
「でも、じっとしてなんかいられない。まだ日が沈むまで時間はあるわ。諦めるには早すぎる」
「わかった。きみがそう言うのなら、俺も手伝う」
「ありがとう。そうと決まればさっさと朝ご飯片付けちゃいましょ」
不安に打ち勝つには体力がいる。
食事と睡眠はその戦いに欠かせないものなのだと、少女は知っている。
生きているから腹が減る。生きているからひとは悩み、迷い、学ぶのだ。
ペネロペ・クルスはもう、それを知っている。
「いただきます!」少女は大きく口を開け、トーストにかぶりついた。
食事を終え、食堂を出たペネロペとアダムはその足で図書室へと向かった。
「今まで来たことなかったのか?」
「ええ。みんな勉強は食堂でしてるでしょう?」
「それか談話室だね。初めてなら驚くと思うよ」
悪戯っぽく笑って、アダムは図書室の扉を開ける。
最初に感じたのは古びた皮の匂いであった。それから、少しの埃臭さとカビの匂い。図書室へと足を踏み入れたペネロペは、はあ、とため息にも似た嘆声を漏らした。
そこは一面、本の世界だった。
壁一面、ひしめくように並んだ本棚。カーテンの隙間から溢れる微かな光。講堂にも劣らぬ広さの広間は、天井の高さも引けを取らない。
ひとつ違うのは、天井がアーチ状でないことである。部屋の半分には狭い通路を残して等間隔に本棚が並び、残りのフロアには自習用のテーブルが並んでいる。
本棚は天井まで続き、そこを支える柱のようにすら見えた──と、少女は目を瞬く。天井にも、テーブルや椅子が並んでいるのである。それも逆さまにだ。突き刺さっている、という表現が一番しっくり来る、とペネロペは思った。鏡写しのように、床と天井に同じ光景が広がっているのである。
「アダム、あれはなに?」
「机と椅子。自習用だけど、調べ物がない奴は他を使えって司書に言われるよ」
「机と椅子がどうして天井に?」
コウモリみたいに天井からぶら下がる生徒でもいるのかしら。ペネロペは首をひねりつつ、本棚まで足を進めた。天井と接している最上段を見上げれば、首のうしろが痛む。
魔法がかかっているらしい梯子が気ままに移動しているとは言え、あの高さまで本を取りに上がるのは難しいだろうな、とペネロペは苦笑した。
「下の方の段に必要な本があることを願うしかないわね」
「ああ、大丈夫だよペネロペ」
幼馴染みの言葉にそう言って、アダムは軽い足取りで一脚の梯子へと足をかけた。梯子はなおも、踊るように本棚を左右に行き来している。
「アダム、危ないわ! 下りてきて!」慌てるペネロペを無視し、アダムはすいすいと梯子を登った。そうして、梯子の半分──つまり、床と天井のちょうど真ん中である──、へと少年が到達したとき、それは起こった。
くるりと、少年の頭と足の方向が反転したのである。まるでそこに時空を繋ぐ穴でも開いているかのように、頭から進んだはずの少年が足の先から姿を現す。
驚きに目を瞬き、声も出せないでいるペネロペをよそに、アダムは天井に足から着地した。
「驚いただろ?」
子供の頃、カエルを使って悪戯を成功させたときと同じ顔でアダムは言う。幼馴染みの言葉にペネロペは何度もうなずいた。
「俺も初めて見たときはびっくりしたよ。天井と床の真ん中で、重力が入れ替わってるんだ」
「確かに落っこちる心配はなさそうね。でも、頭に血が昇らない?」
「言ったろペネロペ、重力が入れ替わってるんだって」
天井からコウモリのようにぶら下がった少年の髪は天井──彼にとっての床である──に向かって、真っ直ぐに伸びている。衣服にも乱れは見られない。
「ほんとにとんでもない所ね、ここは」
「ペネロペもおいでよ」
天井に突き刺さっている幼馴染みに手招かれ、ペネロペは恐る恐る梯子に飛び乗った。そのまま、踏みざんを上がっていく。
目前には皮で出来た背表紙がずらりと並ぶ。それに軽いめまいを感じつつ、ペネロペは床と天井の中間地点まで梯子を登った。ペネロペの頭上で、同じ梯子に逆さまに掴まったアダム──鏡で映したように、頭と足の方向がペネロペとは逆向きだ──、が「ゆっくり下りれば大丈夫だよ」と手を差し伸べる。
ゆっくり、下りる? 梯子を上がるペネロペの頭の中は疑問符でいっぱいだった。
ふと、ペネロペは本棚に目をやった。『魔女と歴史』『魔女歴史戦』『あの日の魔女たち』みっちりと肩を寄せ合う書物たち。
ペネロペはその書物が途中の段から上下反対に並べられていることに気がついた。
「ねえ、アダム、ここから先の本の並びが、」
変よ、と言い切る前にペネロペの視界がグルンと半転した。
「ね、大したことなかったろ?」
「……ええ」
アダムに肩を抱かれながら、ペネロペは再び本棚へと目をやった。先ほどまで見ていた『魔女と歴史』や『魔女歴史戦』といった本が上下反対になっている。
違う、とペネロペはアダムに続いて梯子を下りる。
私が反対向きになってるんだ。床におり立ち、少女はさきほどまで自分が床だと思っていた天井や、頭上に取り付けられた扉を見上げた。
「これなら本を無駄なく並べることが出来るわね」
「机や椅子も倍の数置けるしね。さて、ペネロペ。この中から本を探すのは骨が折れるぜ」
「ええ。でもやらなきゃ」
ペネロペは本棚に手をあてる。頭の中で精霊へと呼びかけ、空気中を漂う彼ら呼び起こした。
長らく眠りについていた精霊たちがあくびを浮かべる。なんだなんだと喧嘩っ早い精霊が我先にと集まってくるのを感じて、ペネロペは笑った。本棚に宿る、のんびり屋の木の精霊が最後に目を覚ましたのを確認し、少女は口を開いた。
「ごめんなさい、みんな。少し手を貸して欲しいの」
若き魔女の頼みに意気込む者も居れば、馬鹿馬鹿しいと再び眠りにつく者も居る。おのれの周りに集まってきたわずかな光に手をやって、ペネロペは続けた。
「私の友達を助けて欲しい。背高猫鳴き草についての文献を集めるのを手伝って」
ペネロペが言うが早いか、少女の周りに漂っていた精霊たちが部屋の隅々へと散った。
さっそく一冊目の本がどさりとペネロペの前に飛んでくる。それに礼を言い、ペネロペは床に座り込んで本を開く。小さな字で綴られたそれは読むだけでも苦労しそうであった。
ふと、ペネロペは幼馴染みが立ち尽くしていることに気がついた。
少年は、形容しがたい表情で幼馴染みを見下ろしていた。苦笑しているようであり、困惑しているようでもあった。
「アダム、どうしたの?」
「いや、なんか。さっきの、アルバさんみたいだった」
「親子だもの」
「そうじゃなくて、なんだか……、こう」
「こう?」
ペネロペは、尚も立ち尽くしているアダムを見上げる。少年はしばらく目を泳がせると「なんでもない」と小さな声で言い、少女の隣に腰を下ろした。
すでにペネロペの目前には十数冊の本が積み重なっている。それに深呼吸し、アダムは袖をまくった。
「よし、やろう」
「ええ。やりましょう」
目で文字を追ったまま、二人は拳をぶつけ合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます