第20話 タイムリミット



「女に、なりたくて」

 ぼそぼそと、彼らしからぬ歯切れの悪さで告げられた声が、ペネロペの耳のうちを渦巻いていた。

「女になりたくて」自信に満ち溢れ、常に強く美しく、輝きを放っていた少年が吐露したコンプレックス。己の存在を根本から否定するベアトリーチェの言葉に、ペネロペはおろか、スタンリー兄弟までもが言葉を失った。

 東の空に日が昇る。一夜が明けた食堂で、ペネロペとアダム、エリオットの三名は神妙な面持ちで朝食の席についた。

「──ベアトリーチェは、」

「大丈夫だよ」

 ひよこ豆のスープをスプーンでかき混ぜながら口を開いたペネロペを、エリオットの強い声が遮る。男はいつになく真剣な眼差しで少女を見つめ、もう一度「大丈夫だ」と繰り返した。

「ローガンが薬を調合してる。僕の弟は優秀だよ」

「それだけ優秀だっていうんなら、呪文魔法でパパッと治せないのか」

 苛立った様子で、アダムは揶揄を含んだ疑問を口にした。

 薬学は使い魔科のシラバスに含まれていない。それを知る事務員エリオットは、気さくな態度で口を開いた。

「魔法薬でかけられた呪いは、基本的には魔法薬でしか解除出来ないからね。同じように、呪文魔法は呪文魔法でしか、ってのが一般論さ」

 スプーンですくい上げたスープを、ペネロペはゆっくりと口へと運んだ。あたたかな液体が口の中を満たして、喉を通っていくのはわかるのに、味がしない。

 少女は静かに「どうしてベアトリーチェは、女の子になりたいだなんて言ったのかしら」と呟いた。その独り言ともいえる言葉に、エリオットは視線を天井へと向ける。そうして、ううん、とわざとらしく咳払いをしてから口を開いた。

「ペネロペはさ、誰かを羨ましいと思ったことはある?」

「羨ましいって?」

「自分があの子の立場だったら、とか、もっと違う生まれ方をしていたら、とか。幸せそうにしている他人が異様に憎らしくなったり、知りもしない誰かの幸福を聞いて自分を惨めに思ったり。そういう経験あるかい?」

「……無いと思う」

 ペネロペは他人に対して、エリオットの言うような感情を抱いたことがなかった。

 村での収穫祭の朝、どんよりと曇った空に「せっかくなら晴れてくれればよかったのに」と恨めしく思うことはあっても、収穫祭の花形に選ばれた同じ年頃の少女たちを憎らしく思うことはなかった。

 うつむいたまま、ほとんど口も開かずに答えたペネロペの頭をエリオットは撫でる。

 少女はゆっくりとまぶたを上げた。ペネロペの前で、エリオットが春と夏の空を混ぜ合わせたような笑顔を浮かべていた。やわらかで、広く大きな心を思わせる、明るい笑顔だった。

「それはとても素晴らしいことだよ、ペネロペ。誇るべきだ」

 それから、と男は続ける。

「同時に、それはとてもとても幸運なことなんだ。きみは恵まれた環境で、みんなに愛されて育ったんだよ」

「……ベアトリーチェは、」

 ベアトリーチェはそうじゃなかったの? みんなに愛されていなかったの?

 そう尋ねることも出来ず、ペネロペは唇の裏側を噛む。昨日から痛み始めた胸の奥が、つきりと刺すように疼いた。再びまぶたのカーテンを下ろしたすみれ色の瞳。

 エリオットが「そんなわけないさ」と穏やかな声で言う。

「そんなわけ、ないんだ」

 もう一度繰り返された、同じ言葉。誰かに言い聞かせるようなその声は、エリオットのものではないような音を響かせた。

「おい、いつまでそうしてるつもりだよ」

 静まり返った食堂に低い声が響く。アダムが、ペネロペの頭に触れたままであったエリオットの手をぺしりと叩く。

 どんな時でもいつも通りの顔を見せてくれる幼馴染みの存在が、とてもありがたいと、ペネロペは思った。



 ローガンによる魔法薬精製が終わったのは、十二月二十三日、タイムリミットまであと一日を残した夕暮れのことであった。

「出来たぞ」

 珍しく、勝ち誇ったような言葉とともに男は食堂に顔を出した。普段ならば寸分の乱れもなくセットされている髪は跳ね、シャツはところどころヨレている。それでなくとも悪い顔色が三割増しでくすんで見えた。

 そんなローガン・F・スタンリーの姿にペネロペとアダムはぎょっとしたが、彼の双子の兄は「さすがだね!」と大げさに声を上げて喜んだ。一日早くクリスマスのプレゼントを貰った子供のようである。

「アンバーの部屋に行ってくる」

 乱れた襟を直し、ローガンが言う。

「僕も行く」エリオットの声に「私も」とペネロペが続いた。アダムが黙ったまま魔法法律学の教科書を閉じる。

「きみはここに残りたまえ、女学生」

「えっ、どうしてです?」

「無自覚な無神経が一番癪に触る」

「しゃくにさわる」

 西の村では聞くことのなかった言い回しである。

 ペネロペの頭の中の、記憶の湖が揺らぐ。

「おまえの無神経さにムカついたんだよ」ギャレットの声がプカリと湖面に浮かび、弾けた。また自分はやってしまったのか、と少女は青ざめる。

 そんな少女を残し、ローガンはくるりと踵を返した。

「行こう、ペネロペ」ローガンの背に続いたエリオットが柔らかな声で言い、少女を手招いた。

「でも」

「いいさ、あいつの言葉なんて放っておけば。どうせ意地になってるだけなんだよ。思春期の頃から何も成長しちゃいない」

「聞こえてるぞエリオ」

「もしものことがあったらあの馬鹿を止めなきゃいけない。協力してくれ」

 ペネロペは静かにうなずく。当然のようにアダムは幼馴染みの隣に並んだ。

 東棟の三階、ドアを開けたベアトリーチェ・アンバーの姿は、すっかり幼い少年のものへと変わっていた。身長はペネロペと同じか、少し低いくらいだ。肌や瞳は色素が薄くなり、それでなくとも銀糸のようであった髪が白い光を放っている。

 随分と魔法の効きが早い。やはりシンイーが背高猫鳴き草の存在を生徒に大々的に話さないのには訳があったのだ、とペネロペは思った。

「飲め」

 そう言ってローガン・F・スタンリーが取り出したのは小瓶だった。

 中は紫色の液体で満ちている。ペネロペの瞳の色とは程遠い、雨のぐずつく夕暮れのようなドス黒い紫である。粘度が高く、管壁にべっとりと張り付いているのが見てとれた。そのかたちが苦悶に満ちたひとの歪んだ顔に見えて、アダムとペネロペは同時に「ひぇ」と悲鳴を上げる。

 さすがのベアトリーチェ・アンバーもこれには動揺しているらしく、表情に焦りが浮かんでいた。

「飲め。死にたくなければ」

 寮監に命じられ、ベアトリーチェは小さく息を吸う。そうして細く吐き出すと、意を決した様子で瓶の蓋を開けた。途端、辺りを異臭が包み込む。

 それを物ともせずに、少年は中身を一気に煽った。「やだ、男らしい」エリオットが口に手を当てて言う。なぜか口調がソフィー・モーガンに似通っていた。

「ぷはっ」

 全員が固唾を飲んで見守る中で、少年は瓶の中身を豪快に飲み干した。姿に変化はない。

 よほど酷い味なのだろう、ベアトリーチェは白い顔をしている。ぜえぜえと肩で息をする生徒にローガンは「どうだ」と平坦な声で問うた。

「どうって、何がですか。味のことでしたら、コメントを控えさせていただきますが」

「術式に変化はあるか」

「……自分では、なんとも」

 生徒の答えにローガンはしばらく考え込むと、断ってから少年の腹に手を当てた。

 見る見るうちに、男の眉間のシワが深くなる。そうして、ローガンはベアトリーチェの胸ぐらを掴んだ。あまりに自然な流れで昨夜の光景が蘇り、ペネロペは声を上げることも叶わなかった。

「どういうことだ、ベアトリーチェ・アンバー」

「どういうこと、とは?」

「本当は何を願った? おまえの望みはどこにある?」

 長身の男に胸ぐらを掴まれる少年の、氷の色に近いブルーアイズが戸惑いに揺れる。

「行きたまえ、バックランド君!」エリオットに命じられたアダムが悪態をつきつつも巨獣化し、ベアトリーチェとローガンの間に割って入った。

 エリオットに取り押さえられるローガンと、力なく座り込むベアトリーチェ。その両方を見つめ、ペネロペは小さく声を上げた。

「ベアトリーチェ」

 諦めたような瞳で微笑む少年に、ペネロペはそれ以上何も言えなかった。





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