第14話 東の黒龍
「ちょっと。マジでウケるんだけど」
「こっち来んなよオカマ」
「別のオカマと一週間一緒にご飯食べるくせに何言ってんのよ。ねえ、クルスさん?」
「あっち行けって!」
昼食をとる生徒で賑わう食堂で、ペネロペは当然のようにギャレットの隣に座った。
ギャレットはこれでもかと言うほど苦々しい顔──腫れ上がった頬を覆う湿布が痛々しい──、をしながらも、それを受け入れる。根は真面目なのだ。
「おかげさまで今日から一週間、楽しく過ごせそう」
メアリー・アンは至極楽しげに目を細める。
ペネロペはそんな少年に「よかったらそこに座って」とギャレットの隣の席をすすめた。
「ああ、いいのよ。遠くから見てる方が楽しめそうだから」
「早く行けって。そんで、おまえはなんで当然のように居るんだよバックランド」
「ペネロペと何かしようっていうのなら必ず俺がついてくるんだよ。当たり前だろ」
「西の村の常識を持ち出すな」
アダムにそう、律儀に突っ込んでやりながらギャレットはため息をつく。
「ありえない」
「でもこれが現実なのよね。ギャレット、オレンジのソースを取ってくれない? どうもありがとう」
「いやほんと、マジでウケるんだけど」
もう一度同じセリフを言い残し、メアリー・アンはテーブルを立つ。そうして、入れ替わるように食堂へと入ってきたヴィルヘルムの名を呼んだ。
その隣には今日も長い銀髪は輝いていない。ベアトリーチェが居ないことへの違和感は薄れ始めていた。
「最近調子いいみたいね、ヴィル」
「いえ。それほどは」
「またまた、イヤミなんだから。ベアトリーチェさんは?」
一瞬。瞬きの間に隠れてしまうほどわずかな動揺を、ヴィルヘルムが浮かべる。
それはメアリー・アンに悟られることもなく、すっと姿を消してしまった。ペネロペはヴィルヘルムの薄い唇がゆっくりと開くのを、じっと見つめる。
「部屋で休んでいます。まだ本調子ではないようで」
「そう。家の方に連絡は?」
「まだその段階ではないでしょう。ただの体調不良です。季節性のものだ」
「体調不良?」
首を傾げたペネロペに、メアリー・アンが「ああ」と声を上げた。
「あなたがレイズに殴られた日、授業が中断した直後にね、ベアトリーチェが箒から落ちたのよ」
「メアリー、大袈裟におっしゃらないでください。軽い飛びくらみです」
飛びくらみ。ペネロペにも覚えがあった。
寝起きで急に飛んだときや、朝食を食べ損ねたまま飛んだときにくらりと来る目眩である。ヴィルヘルムの言いようから、勢いよく地面に落下したわけではなさそうだとペネロペは胸を撫で下ろした。
同時に、あの日、ヴィルヘルムは中庭で、ベアトリーチェが保健室から出てくるのを待っていたのだとペネロペは思った。やっぱり常に一緒なんじゃないか。
「軽い飛びくらみ、ねえ。そんな可愛げあるかしら、あの男に。昔から身体だけは丈夫だったくせに」
「生活の環境が変わって一ヶ月経ったんです。気の緩みも出たのでしょう」
「気の緩み? それこそベアトリーチェ・アンバーには無縁の言葉よ」
「昔からって? メアリーは昔のベアトリーチェを知っているの?」
「私とベアトリーチェは親戚筋なの」
ペネロペの問いに、メアリー・アンはさらりと答える。
そうして「まあ、女系はみんな親戚筋みたいなものだけど。おたくさんを除いてね」と肩をすくめ、続けた。
「元気ならいいのよ。引き止めてしまってごめんなさいね」
「いえ。ベアトリーチェにも伝えておきます」
「やめてちょうだい。また一触即発よ」
じゃあね、とメアリー・アンはにこやかに手を振って立ち去った。
それに何を言うでもなく、ヴィルヘルムは食堂の中をぐるりと見渡す。ペネロペとギャレット、アダムのテーブルは目の前にあり、席も十分に空いているのだが、ヴィルヘルムがそこに座る気がないのは明白だった。
「ベアトリーチェはっ」
ペネロペの声に、ヴィルヘルムの視線がわずかに動く。今日も眼鏡の奥の瞳は冷たく尖っている。しかし、そんなもので怯えるペネロペではなかった。
私たちは違う。どうやったって分かり合えない。それを認識し、それでもなお一緒に生きるためにこそ、言葉は存在する。それを少女は学んだのだ。
「ベアトリーチェは、元気?」
「元気だと言ったはずですが」
「ずいぶんと食堂で会っていないから。食事はどうしてるの?」
「部屋でとっていますのでご心配なく」
「でも」
「失礼。昼休みが終わりますので」
抑揚のない声で言い切ると、ヴィルヘルムは奥のテーブルに向かって歩いていった。目はまっすぐに先を見やり、口は固く引き結ばれている。「これ以上関わるな」という意思が食堂中に伝わる頑なさだ。
「おまえさ、やめとけよ」
ペネロペとヴィルヘルムが話している間も、我関せずといった様子で食事を続けていたギャレットが呟くように言う。
おのれもスープボウルに刺さったスプーンを弄びながら、ペネロペは首を傾げた。
「あいつらは無理だ。アンバーとスコットだぜ? 格が違う」
「格って、なんの格?」
「血」
ギャレットはなんでもないことのようにさらりと言う。
「血の格」ボウルの中のトマトスープを見つめたまま、ペネロペは少年の言葉を繰り返す。
「ひとつ忠告しておいてやるよ、クルス。ヴィルヘルムを怒らせたら、たぶん俺の時みたいには済まないぜ」
「ギャレットの時みたいにって?」
「頬が腫れるとか、口の中切るとかじゃ済まないってことだ。あいつガリガリに見えて脱いだらすごいだろ。なんであんな無駄に鍛えてんだよ──、って、そういやおまえ、着替えとか風呂とかいつもどうして、」
「ヴィルヘルムはぶったりしないでしょ!」
ペネロペは椅子から立ち上がり、そう叫んだ。ギャレットにそれ以上思考を巡らせてなるものかと焦ったのである。着替えや入浴を、おんな魔女のペネロペは当然、自室で済ませている。
しんと食堂が静まり返る。同級生はもちろん、上級生たちも怪訝そうな顔で、突然雄叫びを上げた一年生魔女を見つめた。
その、一番奥。テーブルの端の席に座ったヴィルヘルムが、真顔できゅっと拳を握るのをペネロペは見た。ペネロペの心臓もきゅっと縮み上がる。
口の中で、あの日の血の味が広がる思いに少女は襲われた。
「ギャレット」
「なんだよ。座れよ」
「ヴィルヘルムにぶたれたらどうなると思う?」
「さあな。おまえの首くらいなら吹っ飛ぶんじゃないか?」
「クマじゃん」
それまで静かに食事に勤しんでいたアダムの軽い声に、ペネロペは背筋が冷えるのを感じずにはいられなかった。
夕食の席で課題に唸るペネロペを残し、ギャレットが無言で席を立ったのは、ソフィーが二人に「一週間、三食一緒に食事を」と命じたその日のことだった。
二回目にしてもう堪忍袋の尾が切れたのかと、メアリー・アンは同室の少年が立ち去るのを見送る。ペネロペはと言えば、なおもウンウンと古典の課題に苦しんだままだ。アダムはまだ食堂に来ていない。
「食事のときにまで勉強のこと考えなくてもいいんじゃなくって?」
芝居がかった仕草でグラスを傾けつつ、メアリー・アンは言う。
「ダメなのよ、私」
「根を詰めたところで理解出来るとも限らないわよ」
「そうじゃなくて。部屋で一人になっちゃうと、本当に解けなくなってしまうの」
ペネロペは静かに言い、教科書の文字を指先でなぞった。諦めにも似た穏やかさで話す同級生に、メアリー・アンのうつくしい顔が歪む。
「解けなくなるってなによ」
「全然分からなくて。ここに居れば、誰かに聞けるし。運がよければダニエルが教えてくれるから」
「何がそんなに分からないのよ」
「何を勉強すれば分かるようになるのかが分からないの。それに最近、部屋で机に向かってると息苦しくて。指先が痺れてくるのよね」
「あなた、それ」
完全にストレスよ、とメアリー・アンが言い切る前に、二人の間にドサドサと何かが雪崩れ込んできた。
絵本のような可愛らしい表紙のものから、ちょっとした長編小説のような厚さのものまで。大量の本を前に目を瞬かせ、ペネロペは雪崩れの元へと視線を向けた。
ギャレットが、更に数冊の辞書のようなものを抱えてそこに立っていた。頬の腫れはすでに少し治まっている。
「あら、なつかしい」一冊を手に取ったメアリー・アンがしみじみと言う。
「言ってみろ、落第生ペネロペ・クルス」
「まだ落第はしてない」
「俺には未来予知の能力がある。おまえは絶対に留年する」
ペネロペのまるい鼻先に人差し指を突きつけ、ギャレットは低い声で言った。
「さっきから問題解いてるの見てたけど。おまえ、文章を丸暗記してるだろ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げたのはメアリー・アンだった。
いつも飄々としている少年が目を剥くのを見て、ペネロペはびくりと肩を震わせる。
「そんなわけないでしょ! そんなことしてたら世界の終焉にだって間に合わないわよ!」
「だ、そうだぜ。クルス」
「世界の終焉、ちょっと遅らせられない?」
「馬鹿じゃないの!?」
メアリー・アンが絶叫する。なんだなんだとテーブルに集まり始めた生徒たちを、ギャレットは軽く手を振って追い返した。メアリー・アンが興奮するなど今までなかったことなのである。
「クルス、これは俺が三歳のときに読んでた絵本だ。古代魔女語で書かれてる」
「さんさい」
「その調子だクルス、幼児の真似が上手いな」
イヤミを挟むことも決して忘れない。ギャレットが差し出した本をペネロペはめくる。
一本の木に、いくつかの林檎が実っている。木の下では愛らしいクマ──決して人の首を腕の一振りで吹き飛ばしたりしなさそうな──、がニコニコと笑っており、赤い林檎を手にしている。
『林檎は古代魔女語でリアリルムス! ふたつになったらデナ・リアリルムスドになるよ!』
楽しげにふたつの林檎を手にしているクマのセリフに、ペネロペは思わず叫んだ。
「いくらなんでもこれはひどいわ!」
「いや、今のおまえはこんなもんだ」
ギャレットは冷静に答える。
「いいか、ここにある本を全部読め。貸してやるから。それで一度、授業のことは忘れろ。今のおまえがヴェルミーナ魔女学院の授業を理解しようってのが無謀なんだ。イナゴに哲学を説くのと同じだ。虚しい」
「なにもそこまで言わなくても」
「安心しろ、バックランドが居る前ではこんなこと絶対に言わない」
「みみっちい男ねほんとに」
今度は少し分厚い本に手を伸ばしながら、メアリー・アンが鼻で嗤った。
「それにしても、よくもこんなにたくさん本を持って来てたわね」
「兄さんから最新型の魔法トランクを貰ったんでね」
「物量の問題じゃないわよ。よくもまあ、三歳のときに読んでた絵本まで持って来たわねって言ってんの。誰が使うのよこんなもの」
「もし、授業についていけなくなったら勉強し直すのに必要だろ」
「小心者にもほどがあるわよ」
みみっちい男ね、ともう一度言いながらもメアリー・アンはどこか嬉しそうである。
「ま、そういうところ嫌いじゃないわよ」
「オカマに好かれても嬉しくねえよ」
「クルスさん、今度レイズ君連れて飛行デートしましょうよ。泣くまで泣かすわ」
「女系のおとこ魔女ってなんで全員チンピラみたいなわけ?」
ギャレットのその言葉で、ペネロペはふと、風に揺らめく銀色の髪を思い出した。
夕食の席にもベアトリーチェは現れなかった。最後に食堂で彼を見たのはいつだっただろうかと、ペネロペは記憶を巡らせる。首元をゆるく締める青色のネクタイを、きゅっと握りしめた。
「とにかく、食事時くらい勉強やめろ。メシが不味くなる」
「うん。ありがとう」
ぶっきらぼうに言うギャレットへと、ペネロペは微笑んだ。
食堂からの帰り道、ペネロペは薬学教師のシンイーに呼び止められた。
西寮のギャレットとメアリー・アンとは食堂前で別れている。「私ですか?」ギャレットから借りた本を両腕に抱え、首を傾げたペネロペに、シンイーは意味ありげな薄い笑みを浮かべてうなずいた。
「月の葉を採ってきてください」
採ってきてもらえますか、でも、採るのを手伝ってください、でもなく。ぽかんと口を開けたままの生徒へと、シンイーはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「月の葉を採ってきてください。出来れば五十枚ほど。北の森にありますので」
北の森。使い魔科の寮の裏、グラウンドを更に北へと進んだ場所にある、学院内の森のことである。ペネロペも薬学の授業で何度か足を踏み入れたことがあった。
「今からですか?」
「当然でしょう。ボクは何をお願いしましたか?」
「月の葉……、あっ」
「そうです。月の出る時間帯にしか葉が開かない、困った魔法植物です」
お願いしますね、と微笑まれ、ペネロペは「ええと」と眉を下げた。
「私、あの、これから本を読まなくちゃいけなくて」
「ええ、懐かしい本を持っているなと思っていました。ギャレット・レイズですね」
「はい。ギャレットから借りて。だからあの、部屋に戻ってこれを──、」
「では箒の使用を許可しましょう。あなたなら森まで五分もかからないのでは?」
「どうして私なんですか?」
その瞬間、ペネロペは「あっ」と声を上げそうになった。
シンイーの眼鏡の奥、いつも穏やかに緩んでいる切れ長の目が、すっと冷たい色を見せたのである。ああ、これによく似たものを私は知っているぞとペネロペは思った。家事を言いつけられたペネロペが、「なんで私がしなきゃいけないの」と駄々を捏ねた時にアルバがよくしていた表情である。
「あー、ええと」
「どこかの困ったおとこ魔女が、二週連続で喧嘩をしたようでして。薬箱の月の葉が尽きてしまったのです」
「それは本当に、申し訳ないですけれど」
「でしたらよろしくお願いしますね、月の葉を七十枚」
二十枚増えている。
「……喧嘩したのはギャレットも同じなのに?」
恨みがましく、ペネロペはシンイーを見上げた。そんな魔女にシンイーは穏やかに笑う。
すでにその瞳から冷たさは消え去り、春風のような陽気があった。
「こういうのは、無くなったと気づいた方がやるものですよ。夫婦円満の秘訣です」
「最後に使ったのはギャレットじゃないですか」
「あなたが殴ったからでしょう?」
「確かにそうですけど……、えっ? シンイー先生ってご結婚されてるんですか?」
ペネロペの脳内の湖を漂っていた『夫婦円満』という単語が、岸に打ち上げられる。湖岸で跳ねるその言葉は、童顔に分類されるシンイー教諭にはいまいち馴染まなかった。
以前の話しぶりからして、おそらくシンイーはスタンリー兄弟とそう変わらない年齢だろうとペネロペは見当をつけていたのである。
ペネロペの問いかけに二、三度、目を瞬き、シンイーはふっと薄く笑った。
「では、お願いしますね。月の葉を、八十枚」
「また増えてる!」
自分は何かまずいことを聞いただろうかと、ペネロペはしきりに首を捻っていた。
シンイーと別れ、部屋に戻り、ギャレットから借りた本をテーブルに並べる。なおも首を傾げるペネロペを見て、シルビアが「今のあなた、フクロウみたいよ」と壁に立てかけられたまま笑った。
「ねえ、聞いてもいいかしら箒の精霊さん」
「なあに、小さな魔女さん」
「ご結婚されてるんですか、ってそんなに失礼な質問かしら?」
「結婚願望の強い、一部の未婚者には禁句ね。土に埋めた爆発魔法を踏み抜くって感じよ」
ふふっ、とシルビアは小鳥がさえずるように笑う。
「あとは、幸せな結婚をしていないひとにとっても酷な質問でしょうね」
「どうして?」
「現状を認めることになるでしょう? 受け流しているのと、受け入れて自分の口で認めるのは全くちがうもの」
ふうん、とあいづちを打って、ペネロペはシルビアを手に取った。
森の中は空気が湿っていて夜は冷え込む。ここへ来たとき以来着ていなかったマントを羽織り、ドアを開けた。風の鳴る塔の螺旋階段をペネロペは下りていく。
「あなた、夜間飛行がお好みなの?」
「まさか。日が落ちてから飛ぶのは苦手よ」
「そうね。髪もすっかり地味な色味になっているわ」
穂先を天に向けられたシルビアが、からかうように穂を揺らす。それがおのれの黒髪に絡むのを感じて、ペネロペはくすぐったさに首をすくめて笑った。
東の塔を下り、ひと気のない廊下を進む。特に禁止されているわけではなかったが、ペネロペは生徒の部屋がない一階の廊下を使うようにしていた。
「今からアダムを呼び出すのは忍びないから、どうか力を貸してねシルビア」
「ええ、構わないけれど。ここの精霊にも慣れたでしょう?」
「それでもやっぱり夜は苦手だわ。魔法は使いにくいし、おばけも出そうだし」
「夜を恐れるだなんてやっぱり子供ね」
そう、シルビアが言ったときだ。ペネロペは廊下の先から明かりが向かってくるのを見た。
シンイーから正式な許可が下りているとはいえ、夜に出歩くのは気が引ける。入学式の夜、エリオットだと思い込んでいたローガンに叱られたことが頭のすみっこに張り付いたまま離れなかった。
明るさが輝度を増し、近づいてくる。まるで全てがあの日のままだと、ペネロペは息をひそめた。口内が緊張で乾いている。
顔を覗かせたのは、ローガンであった。あの日と同じ黒の外套をまとい、あの日と同じように顔をしかめてペネロペを睨みつけている。
違うのは、ペネロペがほっと安堵の息を吐いたことだけだ。
「なにをやっている、女学生」
「スタンリー先生こんばんは。昨日出た課題はすでに終えています。消灯時間を過ぎてはいませんが、そろそろ部屋に戻らなければならない時間帯ですよね。わかってはいるのですが、薬学のシンイー先生から月の葉を採ってくるようにとお使いを頼まれました。私とギャレットが喧嘩をしたせいで、月の葉の在庫が──あ、今日の分の反省文はスチュアート先生に提出済みですので確認をお願いします。それで今からちょっと北の森まで行こうかと思っているんですが、先生はこんなお時間からどちらへ?」
「おまえは全自動無駄話製造器か?」
「ペネロペ・クルスです」
ローガンの大きな手にひたいを掴まれ、ペネロペははっきりと言い返す。
ペネロペを『全自動無駄話製造器』とするならば、ローガン・F・スタンリーは『全自動説教話製造器』である。時には冤罪でまくし立てられることすらあるため、ペネロペは先手を取ってまくし立てることに決めていた。
ローガンは頭痛をこらえるように、今度は己のひたいへと手をやった。そんな男の外套の襟から、なにかフワフワとした黒いものが蠢きながら這い出てくる。
「先生、それは?」
黒い、手のひらサイズの毛玉だ。足は見当たらないが、それはきっと、ふわふわの羽毛に埋もれているからだろうとペネロペは思った。頭と思しき場所からは耳のようなものが二本、天へと向かって伸びている。背中には羽根に似たつくりの部位も見受けられた。
うさぎか、ひよこか。そう悩んでいたペネロペを嘲笑うように、毛玉は長く伸びた尻尾を揺らした。黒光りする鱗で覆われたそれは、ローガンの外套の中からするすると際限なく出てくる。
うさぎか、ひよこか、へびか。ぱっちりと開いた赤い瞳を見て、ペネロペは「このうさぎ」と毛玉を指差した。
「このうさぎ、先生の使い魔ですか」
「違う」
「じゃあペット?」
「違う。これはうさぎじゃない」
「うさぎじゃない」
ローガンの言葉をおうむ返しする。
当然だとでも言うように毛玉が「にゃー」と鳴いた。
「ねこ?」
「きみの使い魔はこんなだったか?」
「じゃあひよこ?」
「そういうことにしておこう」
ローガンはここが妥協点だとばかりに言う。
その姿を見て、ペネロペは「はて、こんな会話を前にもしたような」と記憶を巡らせた。しかし、ついぞ記憶は彼女の湖から上がってくることはなく、湖岸に、行く先のない記憶を打ち上げただけであった。『夫婦円満』もそのひとつだ。
「夫婦円満」
「なんだと?」
「いいえなんでも」
ぼんやりとしたままの少女にため息をつき、ローガンは「北の森に入るならこれを持って行きなさい」と、持っていたランタンを握らせた。こちらも入学式の夜と同じく、中でオレンジ色の光が二つ三つ、漂っている。
「先生も出られるのでは?」
「私はいい。門を出れば物好きな精霊が少しくらい起きているだろう」
「門を出られるんですか? どちらまで?」
そう尋ねたペネロペに、ローガンは口の中で小さく舌を打った。そうして、少女の質問に答えないままに本館へと向かって足を踏み出す。黒い外套が大きく広がり、大海原をゆく帆のように風を受けた。暗闇で翼を広げた生き物のようにも見える。
ああ、とペネロペは思った。頭の中の湖岸に打ち上げられた記憶が、跳ねる。
「あの、スタンリー先生!」
漆黒の背中へと少女は叫んだ。
「東の黒龍って、ご存知ですか?」
「……くだらないことに時間を割くくらいなら、教科書の一ページでも読みたまえ」
ああ、やっぱり。ペネロペはぎゅっとランタンを握った。ローガンの低い声と、足早に立ち去る靴の音が耳の奥でこだましている。
『東の黒龍』は、スタンリー先生だ。
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