第12話 事件
事件が起こったのはそれから二週間後、よく晴れた日の午後だった。
入学からひと月を迎えようという一年生の授業はついに本格化し、学科によっては軽いテストなども行われるようになっていた。
呪文学は実技が増え、飛行学においてはアダム待望の魔女科と使い魔科の合同授業が開始された。それはそんな矢先のことであった。
「よろしく、ぼくはサミュエル・ブラン。よかったらサミーって呼んで」
「よろしくサミー。私はペネロペ」
「入学式で飛んでた人ですよね。一緒に飛べて光栄です」
差し出された手を握り、ペネロペは曖昧に微笑んだ。
魔女科と使い魔科の合同授業では、魔女と使い魔がペアになって飛行することになっている。
ペアは授業直前にランダムで決まる。『ファミリア』という固定の使い魔制度が失われた昨今、どんな相手とでも魔力の波長を合わせることが求められるからだ。
その日、ペネロペとペアになったサミュエルという少年は愛想のいい使い魔だった。
くすんだ栗毛が愛らしく、授業前には「ぼく、ネズミ憑きなんだけど平気?」とネズミに変身して見せた。
しかし、ペネロペは抱き続けた違和感が増すのを感じずにはいられなかった。使い魔科との合同授業が始まってからこっち、抱き続けているえもいわれぬ据わりの悪さである。
使い魔科の生徒たちはみんな、どこか魔女科の生徒に怯えているように見えた。気を使い、息を潜め、じっと魔女科を窺って。そうしてペアが決まると、媚びたような言葉と表情で擦り寄ってくる。
西の村で奔放に生きるバックランド親子を見て育ったペネロペにとって、そんな使い魔たちは馴染みのない存在であった。
「ずっとアダム君から聞いてたんです」
「なにを?」
「昼寝出来るくらい快適な飛行だよって」
微笑むサミュエルの瞳にはやはり、どろりとした何かが滲んでいる。それに畏怖にも似た感情を抱きつつ、ペネロペは「ありがとう」と頬を緩めて見せた。自分が村に居た頃のように笑えているのか、自信はない。
ペネロペは疲れていた。ただただ、疲労困憊だった。
毎日、頭が破裂しそうなほどの知識を詰め込まれ、それをテストされ、落第点を取ると更に課題を増やされる。もはやローガン・F・スタンリーのため息など聞き飽きていた。
誰かに相談しようにも、クラスメイトからは明らかに避けられている。入学式で派手な姿を見せたペネロペは、今度は勉強面で悪目立ちしていたのだ。
唯一、ダニエルだけはペネロペに勉強を教えてくれたが、それが可能なのは授業後の僅かな時間だけである。三人部屋のダニエルの部屋に押しかけるほどペネロペは無作法ではなかったし、校則を破ってまで塔に誰かを招き入れることもなかった。
少女は常にひとりぼっちだった。
アダムとは入学当初と変わらず食堂で待ち合わせていたが、彼にも彼の生活がある。課題に追われ、実技テストだ何だのと愚痴を吐きながら、それでも同じクラスの使い魔たちと楽しげに肩を並べる少年に声をかけることは躊躇われた。
ベアトリーチェは最近食堂に姿を現さない。無言で食事をするヴィルヘルムにペネロペは何度か声をかけたが、ろくな返事は得られなかった。
更に、故郷から手紙の返信が無いことも少女を悩ませた。
自分が何者かもわからない、友達も居ない、勉強もできない。同じ村で生まれ育った幼馴染みはうまくやっているのに。村に帰りたいと思ってしまうことに罪悪感を抱かずにはいられなかった。
ペネロペは入学一ヶ月にして、すっかり慢性的な寝不足と食欲不振に陥っていた。
それらは明らかなホームシックとストレスだったが、ストレスという概念自体がない西の村人はそれに気づいていなかった。腹と胸がいつも重く、息が苦しい。
七色に輝いていたペネロペの髪はここ最近、ずっと灰色に濁っている。
「使い魔科は飛行準備を。魔女科は安全ベルトの確認をなさい、使い魔科の分もよ」
青空の下、ソフィーの指示が出るや、使い魔科の少年たちはそれぞれ姿を変化させる。
ペネロペの視界のはしでアダムが黒猫に変わった。その隣ではブチ猫が鳴き、カラスが羽ばたく音も聞こえる。
サミュエルも再びネズミに変身し、ペネロペは自分の安全ベルトを固定してからサミュエルを肩に乗せた。使い魔科の生徒たちには細い糸が結ばれ、魔女科のベルトと連結されている。
「ほんとにその箒で飛ぶんだね」
肩にしがみついたサミュエルが、シルビアを見下ろして言う。「天才だって、先生たちも言っていましたよ」
倉庫からシルビアを探し出して以来、ペネロペは必ずシルビアとともに空を飛んだ。他の箒も試してはみたが、思うような結果は得られなかったのだ。
「ええと、ありがとう。でも私、本当に飛ぶことしか能が無くて──、」
「私語は慎みなさい!」
鬼軍曹と名高い飛行学教師の怒号に、二人は同時に肩を震わせ、口をつぐんだ。
「まずは互いの波長を覚えて。波長が合ったら、離陸なさい。今日は黄色の旗までよ」
ソフィーが杖を振り上げたのと同時に、数組のペアが空へと飛び上がる。
ペネロペはサミュエルの魔力を探り、相手があわせてくれるそれにおのれも擦り合わせた。チゥ、と驚いたようにサミュエルが鳴く。
「行くわよ、サミー」
そう、ひと声かけてからペネロペはシルビアの穂先を足の側面で軽く叩いた。
ふわりと一瞬軽く浮いた身体が勢いよく上昇する。「焦らない!」ソフィーの声を聞き、ペネロペはシルビアの柄を握りしめて速度を調節した。やはり初めて飛ぶ相手となると、一筋縄ではいかない。
「ぼく、そんなに下手だった?」
肩にしがみつく使い魔の声を聞きながら、ペネロペは足を揺らしてバランスを取る。魔女科の生徒たちはみんな、カボチャに刺さった黄色い旗を目印に高度を探っている。
不安定ながら魔力が定まったことを確認してから、ペネロペは口を開いた。
「ごめんなさいね、まだ慣れなくて!」
「揺れるのは構わないよ。でも、その」
「それ以外になにが?」
「魔女の方から魔力を合わされるの、初めてだったから」
「……それって、どういう、」
「もうすこし上手く合わせろよ!」
ペネロペが言い切る前に、グラウンドに激しい罵声が響き渡った。
サミュエルの意識が地上へ向かったのを感じて、ペネロペも同じく視線を落とす。すでにほとんどの生徒が空へと飛び立ち、地上に居る生徒は数人だ。そのうちの一人、ギャレット・レイズが黒いウサギの首を掴んでいるのが見えた。
「鬱陶しいんだよ、ころころ波長変えやがって!」
「だって、安定しなくて」
ピィ、と鳴いたウサギをギャレットが地へと叩きつける。怯えて縮こまった小さな動物を目にした瞬間、ペネロペは腹の奥の『グラグラ』が膨らむのを感じた。
煮えるような熱は瞬く間にペネロペの腹を焦げつかせ、脳天へと突き抜ける。鼻の奥を圧迫する、痛みにも似た感情が吐き気をもたらす。
「ペネロペ!?」
戸惑うサミュエルを無視し、ペネロペは地上へと向かった。
地に足がつく前に安全ベルトをはずしてシルビアから飛び降り、勢いのままギャレットと使い魔の間に割り込む。芝生に転がったシルビアの非難の声など、今のペネロペには聞こえなかった。
「どうしてそんなひどいことするのよ!」
ペネロペは叫ぶ。そうしなければ、膨らみ続ける熱で今にも腹が裂けてしまいそうだった。
「何もかも彼が悪いの!? 何でも全部使い魔のせい!?」
熱くて熱くてたまらない。腹の底で脈打つマグマを吐き出すように、ギャレットを責め立てる。そうすれば少しだけ楽になれる気がした。
「飛べないのは魔女の力が安定しないからよ!」
──その瞬間、おのれに何が起こったのか。ペネロペには分からなかった。
ガツン、と重たい何かが頬の骨にぶつかって、気づいたときには芝生が顔のそばにあった。芝生に転がったサミュエルが、身を震わせながらこちらへと視線を向けている。
ジンジン痛む頬と、口から鼻へ抜ける鉄の匂い。くらくらと揺れる頭でペネロペは理解した。ああ、私は殴られたのか、と。
「うるさいんだよ、甲高い声でキャンキャンと」
ギャレットは地を這うような声で言う。腹の底で燃え滾っていた熱がさっと冷えていくのをペネロペは感じた。今度は血管に氷の針でも刺し込まれたように身体がすくむ。
熱をもつ頬を押さえて顔を上げたところで、もう一度殴られた。
「おまえはいいよな、おつむの出来が悪くてもヘラヘラしてられんだもんな」
再度振り上げられた拳にペネロペはぎゅっと目を瞑った。声を上げることも出来ないままに、胃の中のものがせり上がってくる。それほどの恐怖だった。
「やめなさい、ギャレット・レイズ!」
振り上げたギャレットの拳にぐるりと安全ベルトが巻きつく。それはひとりでに、ペネロペに馬乗りになる少年の胴体へと絡みつき、背で固定された。
ソフィーが走り寄ってくる。ペネロペは芝生の上を泳ぐようにしてギャレットの下から這い出した。恐怖で身体ががくがく震える。そうして、血走った双眸でおのれを睨めつけてくる男を見て、ハッとした。
その瞳の奥に、黒ウサギの少年と同じ感情を見た気がしたのだ。
「大丈夫? 鼻の骨は折れてない?」
ペネロペの肩を掴み、ソフィーは問うた。すでに腫れ始めている頬に顔をしかめ、唇からこぼれた血を拭ってやる。「口を開けて。歯は無事ね?」
ソフィーが魔法で冷やしたハンカチを受け取りながら、ペネロペは何度もうなずいた。
「ギャレット、あんたは落ち着きなさい。アダム・バックランド! あんたもよ!」
いつもとはまるで違う、低い声でソフィーは怒声を上げた。
「授業は一度中断します。あたしはこの馬鹿が暴れないよう連れていくから、ペネロペ、あなたは保健室に行きなさい。ほら、立って! ひとりで行けるわね?」
ソフィーは唸るように続ける。
「男の子だものね」
厳しく光る緑色の瞳に見下ろされ、ペネロペはもう一度、静かにうなずいた。
芝生の上でうずくまったまま震えている黒ウサギが、「余計なことしないでよ」と恨みがましげに涙を流すのを、黙って見ていることしか出来なかった。
「あなたが男としてここに居る以上、こういう事は今後も必ず起こるわ」
声を潜めて、ソフィーは言った。
「そういう事も含め、これからの事をよくよく考えなさい」
「……はい」
「まずはその頬ね。保健室に行きづらかったら、シンイー先生のところでもいいから必ず行くこと。いいわね?」
ソフィーの言いつけ通り、ペネロペはシンイーの居る薬学準備室へと向かった。
廊下を歩む足が覚束なかった。膝はまだ恐怖に震えている。殴られた頬は、痛みと熱が増していくようだった。
「おやおや。今年の一年生はおとなしいものだと思っていたのですが」
薬学準備室の扉を開けたシンイーはペネロペを見下ろし、その腫れ上がった頬を見て、全てを察したようだった。眼鏡の奥の鋭い目をふわりとゆるめ、「こちらへどうぞ」とペネロペを招き入れる。
「これで口をゆすいで」
渡されたカップを受け取り、ペネロペは中身を口に含む。
枯葉色の液体は容赦なく口の中の傷に染みた。
「王の座の新芽を煎じたものです。効能は?」
痛みで答えることの出来ないペネロペに、男は「冗談ですよ」と微笑んだ。
吐き出した液体は血で真っ赤に染まっており、くらりとめまいがする。
「こちらにかけて。どうぞ」
薬学準備室は壁という壁が薬箱で埋まっていた。膨大な数の本は行き場を失い、床高く積まれている。その間を縫うように歩き、ペネロペはシンイーがすすめるまま一人がけのカウチに腰掛けた。古びたカウチには薬草のにおいが染み込んでいる。
「毎年、入学三日目で骨折者が出るんですよ。血気盛んな若者らしく、良いことです」
ペネロペは何も答えることが出来なかった。
口の中で、薬草のにおいと血の匂いが混ざる。腹の奥で煮えたぎっていた何かはすっかりおさまっていた。あれは怒りや苛立ちだったのだ、と少女にも分かり始めていた。
それを自分は、彼にぶつけてしまったのだと。
「あなたにここへ来るように言ったのは、ソフィー・モーガン?」
ペネロペは小さくうなずく。
薬研で薬を潰しながら、シンイーはおかしそうに笑った。
「彼も丸くなったものです。昔は西の金獅子、東の黒龍と全生徒から恐れられていたのに」
「西の金獅子と、東の……黒龍?」
「ええ。あの人、もとはブロンドですから。今は赤毛に染めているんですよ」
「東寮には黒龍が居たんですか?」
ペネロペの問いにシンイーは一瞬だけ手を止め、そうして口を開く。
「昔の話です」
まぶたを伏せた男が、この話はここで終わりだとでも言うように息を深く吐く。
ペネロペもまた、それ以上を追う気にはなれなかった。痛む頬骨と切れた唇のせいで、話すだけでもつらいのだ。
シンイーは薬研から薬を移しつつ、極めて明るい声で話し出した。
「それにしても、元気がないようですね。やり返してやる前に止められてしまいましたか」
「先生がそんなこと言っていいんですか?」
「男ばかりの学校ですからね。多少は寛容でいなければ」
ボクには最後まで理解しかねましたが、とシンイーは続ける。
「拳で語る友情というやつも、あるそうで」
「……普通の友情がいいな」
「それにこしたことはありませんね」
小さく笑って、シンイーはペネロペの頬に触れた。
腫れて熱をもったそこをいたわるように、男の手が撫でる。その冷たさが心地よく、ペネロペは目を細めた。
そうしてシンイーは、ペネロペの頬に湿布を貼り付けた。
「月の葉と、発酵させた雪溶草の根を染み込ませた湿布です。すこし匂いは目立ちますが、腫れは今夜中に引くでしょう。痛みが続くようなら明日また来てください」
「魔法で治してくださらないんですか?」
ペネロペの問いかけに、シンイーは「ええ」とうなずく。
「うちの校訓です。喧嘩の怪我は自然治癒、ですよ」
「どうして?」
「そうしないと、喧嘩の痛みを忘れてしまうから」
喧嘩の痛み。ひんやりと冷えた頬の痛みが和らいでいく。その代わりに小さく痛み出した胸を、ペネロペはぎゅっと押さえつけた。
ギャレットの罵声。震える使い魔科の少年の瞳。おのれの感情のまま、他者にぶつけた攻撃のための言葉。それを聞いたギャレットの、怯えの滲む目。
ずっと感じていた痛みとは別物の何かが、少女の胸の奥を小さく刺す。
「シンイー先生、私──、」
「喧嘩をすることは悪いことではありません。問題は、そのあとです」
諭すようにシンイーは言って、「さあ」とペネロペの背を押した。
「わかったらお行きなさい、小さな魔女」
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