第11話 その名はシルビア


 生まれもった血がすべて。

 ペネロペはぼんやりと空を見上げ、ローガンの言葉を思い出していた。

「さあて、仔猫ちゃんたち。ついに下手すりゃ死ぬ飛行学が始まるわよ」

 ぼんやりしないの! そう、背を叩かれてペネロペは「ひぇっ」と声を上げる。

 視線を上げた先で「わかってるわね?」と威圧的に微笑む飛行学教師に、少女は何度もうなずいた。

 ヴェルミーナ魔女学院のグラウンド、使い魔科の寮である北棟の更に北に位置するそこ──正門から一番遠い場所である──で、魔女科の少年たちは箒を手に整列していた。

 普段の制服から一変、全員がラフな運動着姿である。足元は丈の長いブーツで、まるで乗馬のようだとペネロペは思った。ベアトリーチェやメアリー・アンがそうするのに倣い、ペネロペも自慢の七色の髪を高い位置でひとつに結ぶ。

「実家で飛行訓練を受けた者も居るとは思うわ。でもここではすべて一から教える。死にたくなければあたしの指示に従うこと。いいわね」

 一列に並んだ生徒たちの前を歩き、馬鞭のような杖を振りながらソフィーは言う。やっぱり乗馬だ、とペネロペは思った。

「いいわね! 聴こえていたら返事をなさい!」

 教師の声に生徒たちが「ハイ!」と叫ぶ。

「軍隊かよ」ギャレットが静かに呻いた。

「よろしい。では始めましょう、まずは安全ベルトを装着して」

 鬼軍曹ならぬ教師の指示に、生徒たちが一斉に動く。

 箒は入学式典の夜、ソフィーがペネロペに見せたものと同じであった。ただし、芸術品と見紛うほど美しかったソフィーのものとは違い、歴代の生徒たちの苦労が垣間見える。柄は煤け、穂先は毛羽立っていた。

 柄に取り付けられたベルトの先端には金具が付いており、ズボンに装着できる形だ。

「なにこれダサい」メアリー・アンがボヤく。

 思春期の少年の嘆きに、軍曹は「確かに洗練されているとは言い難いわね」と笑った。

「でも、あんた達だってはじめて自転車に乗るときはパパに補助輪をつけてもらったでしょう? 鼻の骨を折りたくなければ我慢なさい」

「お言葉ですが、ソフィー先生。骨くらい魔法でどうにでもなりますわ」

「ええ、そうね。魔法ですぐに治せる。でも、怪我をしたら痛いのよ」

 ちゃんと痛いの。ソフィーは思いつめたように低く呟き、しかし、すぐに顔を上げた。表情はいつも通りの明るさだ。

 今日もソフィー・モーガンの瞼には美しい色彩と光が散っている。そこに規則的に並ぶ長いまつ毛。艶やかな赤い唇で、男は言葉をつむぐ。

「さあ、ベルトをつけたら箒に跨って。あたしが安全確認に回るまでは飛ばないこと。サイドサドルの子は箒の左にお立ちなさい。浮力を感じたら速やかに腰かける。いいわね」

 ソフィーの指示通りベルトをつけ終え、ペネロペは箒に跨がった。隣で同じく箒に跨っていたギャレットがギョッとしたように自分を見下ろしたのに、ペネロペははて、と首を傾げる。

「なあに、ギャレット」

「なんでもねえよ。気安く呼ぶな、気持ち悪い」

「私がなにか? ミスター・ギャレット」

「敬称付けろって言ってんじゃねえんだよ」

 どうにも答えは得られそうにないなとペネロペは周囲を見渡した。そして、合点がいく。

 ペネロペと同じく女ものの服を纏うおとこ魔女たちは、皆、箒に横座りしているのである。ベアトリーチェを筆頭に、メアリー・アンもちょこんと箒の穂先部分に座っている。

「随分と勇ましいわね、ペネロペ・クルス。素敵よ」

 安全ベルトを確認しに来た教師にからかわれ、ペネロペは深くうなずいた。

「私は男の中の男なので」

「あらやだ頼もしい。期待してるわ、王子様」

 二人のやりとりを見ていたギャレットが、口に渋い紅茶でも流し込まれたかのような顔をした。

「さあ、みんな。血の声を聞いて。深呼吸して魔力の波を一定に。力が整ったと感じたら、地面を蹴って離陸、あの旗より高くは飛ばないこと」

 ソフィーが鞭ならぬ杖で空を指す。そこには旗の刺さったカボチャがいくつも浮かんでいた。高度よって旗の色がそれぞれ異なる。下から白、黄、赤、という具合である。

「まずは一番下の白の旗まで上がりなさい。無理はしないこと、いいわね」

「ハイ!」

 生徒たちが一斉に返事をする。既に高揚している者も多いのか、ギャレットの言うように空気はもはや軍隊のそれであった。

「はじめ!」

 ソフィーが杖を振り上げる。

 最初に飛んだのはベアトリーチェだった。それにヴィルヘルムが続き、メアリー・アンが楽しげな声と共にゆっくりと空へ向かう。ダニエルはおっかなびっくりという様子だ。

 次々と白い旗の高さまで上がっていく魔女たち。それを見上げ、芝生を踏みしめるおのれの足を見下ろし、そうして横を向いたその場所にギャレット・レイズが居るのを確認して、ペネロペはひらりと手を振った。

「奇遇ね、ミスター・ギャレット」

「おまえ行けよ!」

「出来るならとっくにそうしてるわ」

「なんでだよ! 入学式の日、勝手に飛んでたじゃねえか!」

 それはそうなのだけれど、とペネロペは一向に地面から浮き上がりそうにないおのれの足を見下ろした。

 ペネロペは静かに混乱していた。手のうちの、見知らぬ誰かの魔力を感じる美しい箒。両の太ももに触れる冷たさ。今まで自分がどうやって飛んでいたのか、さっぱり思い出せない。

 ペネロペは幼い頃から、歩くのと同じように空を飛んでいた。魔女を見慣れた西の村人たちは、ペネロペが空からお使いに現れても驚かなかったのだ。

 自分がどうやって歩いているかなど考えたことがないように、少女は、空を飛ぶということを深く捉えたことがなかったのである。

「焦ることないわ、お二人さん」

 空を漂う生徒たちに「少しでもふざけたら引きずり下ろすわよ」と釘を刺したソフィーが、未だ離陸出来ずにいるギャレットとペネロペへと近づく。

「焦れば焦るほど、箒の魔力とぶつかるだけよ。深呼吸して、まずは自分の波長を整えなさい」

 ペネロペの隣でギャレットが大きく息を吐く。力み過ぎているせいか、羞恥のせいか、白い頬が紅潮し始めている。それに倣って深呼吸しながらも、ペネロペはどこか冷静に「無理だろうな」と感じていた。

 自分の魔力が一定の波をつくっているのは感じる。しかし、それと箒の魔力が見事なまでにぶつかってしまうのだ。

 互いが互いを打ち消しあい、箒は浮くどころか震えもしない。

「毎年、最初の授業で飛べない生徒が十人程度出る。今年が優秀過ぎるだけよ、気にしなくていい」

「最初の授業でって、どういう、ことですか!」

 ギャレットが息も絶え絶えに問う。額にはすでに汗が滲んでいた。

「そのうち飛べるようになるってことよ。箒の魔力と波長が合わなければ、ほかのものを試すことも出来る。それに、テスト飛行が終わればすぐに使い魔科との合同授業が始まるわ。単純な魔力不足なら彼らが補佐してくれる」

 それにね、とソフィーは穏やかに目を細めた。

「今時、飛べない魔女なんてそう珍しくもないでしょう。どうにでもなるわ」

「他の魔女ならそうかもしれません。でも、ヴェルミーナ魔女学院に入っておきながら、そんなこと」

「名門校だからといって飛ぶのが得意な魔女ばかりとは限らないわ、ギャレット・レイズ。あんたの兄さんたちは魔力だけは無駄に強かったけれど、頭は弱かったでしょ。……失礼、今のは失言ね。ディミトリは元気?」

「元気ですよ。西寮に入ったと手紙に書いたら「ご愁傷様」ってカードが届きました」

「あの野郎」

 額をピクつかせ、ソフィーは低い声で言う。しかし、すぐに気を取り直して頬を緩めた。

「とにかく、ヴェルミーナ魔女学院出身でも飛ぶのが不得手な魔女は居る。それぞれ得意分野が違うから、こうしてあたしたちは違う授業を受けもてるのよ。わかるでしょう?」

「サー、イエス、サー!」

「ペネロペ、あなたはちょっと落ち着きなさいな」

 ギャレットとソフィーが話し込んでいる間、横でずっと跳ね続けていた少女へと男は言った。

「問題はあなたよ、ペネロペ・クルス。入学式の夜間飛行はあたしたちの集団幻覚だったのかしら?」

「それが! なんとも!」

「とりあえず跳ねるのをおやめない」

 ペネロペが降りた箒を見つめ、ソフィーは頬に手を当てた。

「魔力が合ってないのかしらね。次は他の型のものを持ってくるわ」

「お手数をおかけしてすみません」

「ギャレット、あなたもよ。焦って変なことして鼻の骨でも折った日には──、」

「折った日には?」

 すっかり疲弊しきり、芝生に尻をつく少年が顔を上げて尋ねた。

「鼻の骨折ってやるから。覚えておきなさい」

「鼻の骨折れてるんじゃないんですか」

「治してもう一度折るのよ」

「サー、イエス、サー!」

「ペネロペ・クルス、あんたは静かになさい」

 そう言ってソフィーは空を見上げる。

 真っ青なそこには、美しい箒に跨がる少年たちが自由気ままに浮遊している。彼らへと号令をかけてから、ソフィーは再び地を這う二人の魔女を振り返った。

 燃えるような赤毛が風に舞う。

「お二人さん、聞きなさい。この学院にも、まったく飛べないお馬鹿さんは居るのよ。本人の許可が取れたら教えてあげるから、アドバイスでも貰いにお行きなさいな」



「まったく飛べないお馬鹿さんってエリオさんのこと?」

「久々に会えたってのにずいぶんなご挨拶じゃないか、ペネロペ」

 飛行学終わりの昼休み。中庭にて、作業に勤しむ見慣れた背中にペネロペは声をかけた。

 ヴェルミーナ魔女学院の事務員、エリオット・J・スタンリーはいつものベストを身に纏い、その上から園芸用のエプロンをつけている。相変わらずボサつく黒髪をいつも以上に跳ねさせ、男は中庭の剪定をしているところだった。

 すでにいくつかのトピアリーは整えられ、謎の存在感を放っている。

「エリオさん、それはなあに」

「なんだと思う?」

「じゃがいもから二本の芽が生えたところ」

「残念。これはひよこだ」

 ずんぐりとした球体から二本伸びた耳のようなものを見上げ、ペネロペは「うさぎだ!」ともう一度回答する。エリオットは至極冷静に「ひよこだ」ともう一度言い、自慢じゃないが、と続けた。

「僕は剪定の腕こそイマイチだけど、飛ぶことだけは学生の頃からやたらと得意でね。ほぼ本能だよ。悩んだことすらない」

「まあ。それはとんだ失礼を」

「どうして僕だと思ったの?」

「ソフィー先生があんなふうに言うのってエリオさんのことくらいでしょう?」

「そうでもないさ。あの人はヴェルミーナ魔女学院の獅子だから」

「獅子?」ペネロペは首を傾げる。

「ライオンのこと。王者だよ。ヴェルミーナの西棟に金の獅子あり、ってね」

「金のって?」

「あの人、昔はブロンドだったんだよ」

「そうなのね。それで、東棟には何が?」

「ヴェルミーナの西棟に」というのだから、東棟にも誰か居たのだろう、と。何気なくそう続けたペネロペの言葉に、エリオットの手が止まる。

「エリオさん?」

「……東棟は何もないよ。言ったろ、ソフィー先輩は王様だから」

 そんなことより、とエリオットはいつも通りの笑顔を浮かべた。

「何かあったんだろう、ペネロペ。いつもの元気がないみたいだ」

「……私、飛べなかったの」

 ペネロペは小さな声で呟いた。その場にしゃがみ込み、エリオットの切り落とした古い枝をいじる。

 木々に宿った精霊たちの声。朽ちかけた枝に宿る年老いた精霊が、芽吹き始めた若葉へと力を受け継ぐ淡い囁き。それを感じることはこんなにも容易いのに、とペネロペはため息をつく。

「箒の魔力とうまく波長を合わせられなくて」

「なにも箒は一本だけじゃないさ。他の型を試してからでも落ち込むのは遅くない」

「ソフィー先生もそう言ってくれたけど……」

 エリオットと同じく、今までほとんど本能で空を飛んできたペネロペにとって『飛べない』というのは衝撃的な出来事だった。また前のように飛べると、そう自分を鼓舞しようにも、どうしても気持ちが沈んでしまう。

「このまま飛べなかったら、私、どうしたらいいか……」

「わかった。ペネロペ、ちょっとついておいで」

「え?」

「いいから」

 エリオットは俯くペネロペの手を引いた。切り落とした枝や葉もそのままに、ハサミすらも放置して。

 ペネロペは黙ってそれについて行くほかなかった。村を出てから重く痛むようになった胸の下辺りが、今も脈打つように痛んでいる。食欲はなかったし、食堂に行ったところで一人でとる食事は味気ない。

「埃っぽくて申し訳ないね」

 エリオットがペネロペを連れて行ったのは、中庭のはずれの建物だった。

 レンガ造りの小屋である。建てつけの悪い扉を開け、男はペネロペを手招いた。小屋の中はカビと埃、それから濃い魔法の匂いで満ちている。

「君のバディがどの子かは、僕にはわからないんだけどさ」

 小屋へと足を踏み入れたペネロペは、ぐるりと部屋の中を見渡した。

 芝刈り用の鉈や、飛行学で使ったベルトの束、それからガラクタとしか呼びようのない謎の道具。その奥に立てかけられた数本の箒を見て、ペネロペは声を上げた。

「入学式の日の箒!」

「同じもので一度試してみるといい」

 エリオットに言われるまま、ペネロペは箒の前へと進み出た。どれも見た目に大きな差はない。しかし、ペネロペはしっかりとあの夜の箒を覚えていた。

 日が沈んでいたにも関わらず、ペネロペに応えてくれた、やさしい精霊の声。

 迷いなく選び取った一本の箒へと、少女はひたいを寄せた。

「ごきげんよう、箒さん。あの夜は助けてくれてありがとう」

 入学式の夜をなぞるように。目を覚ました精霊が、「ごきげんよう、小さな魔女さん」と囁くのをペネロペは心で聞いた。

「気分よくお昼寝していたのに。またあなたに起こされたわ」

「無作法でごめんなさい。もう一度助けてほしくて」

「構わないわよ。何十年も掃除にばかり使われて、退屈していたところなの」

 精霊の言葉にペネロペは笑った。「こんなに立派な精霊の宿る箒を掃除にしか使わないだなんて、ヴェルミーナ魔女学院は本当にとんでもないところね」

「私はペネロペ。西の村の、ペネロペ・クルスよ」

 精霊の許しを得て、ペネロペは古びた箒の柄を撫でた。精霊の魔力が身体に馴染んでいく。

「私はシルビア」精霊もまた、魔女に名乗る。

「ほんとはもっと長い名前だった気がするのだけれど、少し話さないうちにすっかり忘れちゃった。だから、シルビア。シルビアでいいわ」

「よろしく、シルビア」

「目覚めのお散歩でもいかがかしら。私も身体がなまっちゃって」

「もちろんよ」

 箒を手に、ペネロペは振り返る。そうして、そこに立ち尽くすエリオットの表情がこわばっていることに気づいて首を傾げた。

「エリオさん、ありがとう。シルビアだったわ」

「シルビア?」

「この箒に宿る精霊の名前。きっと長い間、誰かが大切にしていたのね」

「あー、ええと。ひとつ聞いてもいいかな、ペネロペ」

 エリオットを残し、小屋を出たペネロペはシルビアに跨がった。そうして、なおも小屋の中で怪訝そうにしている男を振り返る。

「なあに、エリオさん」

「きみ、さっきから誰と話しているんだい?」

「シルビアよ」

「ええと。箒、だね?」

「ええ、そう。箒のシルビア」

 そう、言うが早いか空へと飛翔した少女を追うように、男は小屋から出た。空のてっぺんにある太陽へとペネロペは迷いなくぐんぐん昇っていく。

 エリオットが空を見上げる頃にはすでに、少女ははるか上空で小鳥のようなサイズになっていた。

「……参ったな」

エリオットは耳の後ろをかいて、誰に言うでもなく呟いた。

「格が違うよ」





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