第10話 田舎魔女の憂いごと


 呪文学に続き、ペネロペを悩ませたのは薬学であった。

 本格的な調合や魔法薬生成などの実技は一年の後期から始まるため、前期は座学が主である。薬草の効能や生息環境に始まり、栽培方法、そして、魔女が魔力を加えることによってどんな薬や毒に化けるのかを学ぶのだ。

 長期保存の可否──、日に干すのか、発酵させるのか。弱毒処理が必要なものもある。更にそこに、魔力を籠めるための呪文学が加わってくる。

 もちろん、そのすべてを暗記することなど不可能だ。

「ここに記されているすべてを覚える必要はありません。あなた方は、どの本のどの項を見れば、その薬の情報が得られるのかを理解すればいい。簡単なことです」

 薬学を担当する教師、シン・シンイーはそう言って穏やかに微笑んだ。眼鏡の奥の瞳はへびのように鋭いが、ローガン・F・スタンリーのような冷たさはない。

 シンイーというのは女性の名前らしい、ということを、ペネロペはダニエル・グリーンから聞いていた。事実、シン家は女系魔女の名門で、シン・シンイーもソフィー・モーガンと同じく学生時代は女子学生用の制服を着用していた。今はラフなシャツに細身のスラックスという出で立ちである。

「薬草の種は膨大です。まずは卒業までに、すべての教科書を読み終えることを目標にしましょう」

 シンイーの言葉に、ペネロペだけでなく教室全体が震え上がった。

 その「教科書を読む」ために設けられている古典の授業が、更にペネロペを追い詰めた。

 呪文学にも言えることであったが、古の魔術を再利用している現代の魔女たちは古い書物を読み解く必要があった。薬草の種類や加工方法が記されたものも得てして古いものが多い。魔女の古い文字はペネロペにとっては暗号も同じだった。

「慣れだよ、諸君。諸君とて今話している言語を誰かに教わったことはあるまい」

 入学式以来、初めて生徒の前に姿を現したスチュアート教頭は式典の時と同じく、大きなアクションをつけて話す。

 古典を受け持つ教頭は、小さな身体で大きな本の上を走り周りながら授業をするため、いつも息切れ気味だ。あれでどうして痩せないのだろうかと、ペネロペはピクシー族の揺れる腹を見つめた。

「とにかく、読みたまえ。数をこなしたまえ。本校には素晴らしい蔵書が読みきれないほどにある」

「ペネロペ・クルス君」突然名前を呼ばれ、ペネロペは素っ頓狂な声を上げた。

「式典では無様な姿を見せてすまなかった。よもや私もあのような大烏が侵入してこようとは思わなんでね。参ったよ」

「いえ、そんな」

「しかし、きみの助けがなくとも勝機はあった。私はカラスに責め立てられながらも、それを考えていたのだ」

「はあ。それは、私ったら余計なことをしてしまって……、あの」

「きみが謝ることはない。間違いは誰にでもある」

 隣でベアトリーチェの瞳が冷えていくのを感じながら、ペネロペは「はあ」と相槌を打った。

「きみにこの授業での初回答の権利を与えよう。ページ十七からだ、クルス君。読んでみたまえ」

 一斉に、生徒たちがページをめくる音が響く。

 ペネロペも辞典のようなそれを開き、エリオットの文字よりも解読の難しい目次を見て吐き気を覚えた。そうして十七ページを開くべく、ページ端のノンブルへと目をやり、今度こそ泣きたくなった。

「さあさあ、諸君も一緒に考えてみたまえ。初歩中の初歩だ」

「……スチュアート先生、あの」

「なんだね、クルス君。答えがわかったのかね」

「いえ」

 教室中の視線が自分に集まっているのを察し、少女はおのれの頬にも熱が集まるのを感じた。

「十七ページがどこか、わかりません」

 古の魔女が使ったとされる数字すら、ペネロペには読めなかったのだ。



「無理だと思うの」

 早朝の食堂にて。勢いよくテーブルに突っ伏した幼馴染みに、アダムはかけるべき言葉を失った。

「無理だと思うの」

「繰り返すほどにひどいのか」

「ひどいなんてものじゃないわ」

 入学して一週間と経たずして、ペネロペ・クルスは寝不足と精神疲労に襲われていた。

 なにも移り住んだ塔での生活が劣悪だったわけではない。むしろ、立派なレンガ造りの暖炉や星の散るカーテン、絵本のようなベッドやバスルームに少女は心を弾ませた。

 問題は、学業の方であった。

「どうしてみんな、あんなに歴史も薬学も覚えるのが早いの? 古い文字をスラスラ読めるの?」

「ここ、そもそもが名門校だろ。おとこ魔女のとはいえ、エリートの集まりだからな」

 テーブルの上のリンゴを齧りながらアダムはけろりとした顔で答える。

「アダムは? 授業についていけてる?」

「なんとかね。使い魔科に薬学は無いし、歴史は面白くて先に教科書全部読んじまったよ」

「古典は?」

「最初は苦労したけど、あんなのパズルみたいなものだろ。ただの」

「ただの」

 そうだった、とペネロペは恨みがましい気持ちで幼馴染みを見上げた。

 昔からアダムは何でもソツなくこなす少年だった。それは勉強にも言えることだ。──が、所詮は西の村での話だと本人も言っていたのに。

「裏切り者」

「ひどいな。古典なら今度教えに行くよ、塔まで」

「ああ、それはダメなのよ」

 今度はアダムが、けろりとした顔の幼馴染みに顔をしかめる番だった。

「ダメって? どうして?」

「聞いてない? 寮監の許可なく塔に上がるべからず、って新しい校則が出来たでしょう?」

「知らない。使い魔科には関係ないと思われたのかな」

「見てないだけかも」

「そんなルールを作ったら、きみがその……だって、バラしてるみたいなものじゃないか。この学院の教師は全員馬鹿なのか?」

 アダムは苛立ちもあらわに吐き捨てる。

「それは大丈夫みたい。やんごとなき家の、ってので今のところ全部誤魔化せてる」

 それに、とペネロペは小声で続けた。

「私がその、だって話も、先生全員が知ってるわけじゃないみたいだし」

「なんだって?」

「先生方にも色々あるんですって。サバトに賛同してる先生が、私がだってことを知ったら、間違いなく通報されちゃうから──、」

「ペネロペ」

「そう、だから私がだってことは、ソフィー先生やスタンリー先生しか知らない」

 殊更に声を潜めたペネロペの言葉にアダムは唇を尖らせた。「事務員もだろ」

「随分と引っかかってるのね、エリオさんのこと」

「なんか、どうもイヤな感じがするんだよアイツ。におう」

「土と草と太陽のいい匂いだと思うけど」

「浮気だ。変化した俺の腹をすぐ吸うくせに」

 ムキになる幼馴染みにペネロペは笑う。

 そんなペネロペを見て、アダムも頬を緩ませた。

「大丈夫だよペネロペ。そろそろ飛行学も始まるんだろ? きみの得意分野じゃないか」

「どうしてアダムが魔女科の授業内容を知ってるの?」

「俺たちもそっちに合わせて授業をしているからね。魔力の補助・補強の実技がそっちの飛行学に当たるんじゃないかな。魔女科が何回かテスト飛行したら合同授業になるって聞いてる」

「私、聞いてない」

「聞いてないだけかも」

 先ほどのペネロペの言葉をなぞるようにアダムは言う。そうして幼馴染みの細い肩にそっと触れ、穏やかな声で続けた。

「焦ると視野が狭くなる。大丈夫だよペネロペ、きみは優秀な魔女だ」

「……呪文だって、ろくに覚えられないわ」

「きみなら呪文なんて必要ないだろ。今までもそうやって来たじゃないか」

「『必要ない』はすべて習得し終えてから言いたまえ、ペネロペ・クルス」

 背後で響いた抑揚のない低い声に、アダムは勢いよく、ペネロペは慣れたものだとゆっくりと振り返る。

 そこにはいつも通り、漆黒のベストを身につけたローガンが立っていた。時刻はまだ早朝と呼べる時間帯であるのに、髪まですっかりセットされている。

「おはようございます、スタンリー先生。食堂に来られるなんて珍しいですね」

「おはよう。今戻ったところだ」

「まぁ。朝帰り」

「座学で随分と苦しんでいるようだな」

 冷徹な赤い瞳に見下され、ペネロペは「はい」と目を伏せた。隣で幼馴染みが喉を鳴らして威嚇しようとするのを、シャツを掴んで遮る。

「さっきも言ったが。己には必要ないなどと驕るな。常に盤石の体制で物事を迎えられることばかりではない」

「ええ。よくわかります」

「確かに呪文による魔法など、きみの魔力からすれば些末なものだろう。しかし、簡易的であるという利点を忘れるな。手足を捥がれ、眼球をえぐり出されんという瞬間に精霊と契約を交わす余裕があるのなら話は別だが」

「誰がそんなことを?」

 ペネロペは首を傾げて問う。

 ここ数十年、魔女界で争いらしい争いは起こっていないはずだった。人間との戦争や、他の種族との抗争のない今の時代に誰がそんな恐ろしいことをするというのだ。

 その時ペネロペは、ローガンの口元に一瞬、いびつな笑みが浮かぶのを見た。自嘲とも呼べるそれは瞬きの間に姿を消し、いつもの仏頂面へと戻ってしまう。

「さあな。未知の悪意か、それとも」

「私かもしれない」平坦な声でローガンは言う。

 その横顔に見知らぬ感情が滲んでいるのを見て、ペネロペは口を開きかけた。しかし、それを阻む者が居た。

 小さなおんな魔女と同じ村で育った使い魔は、少女を押しのけ、立ち上がる。そうして、ギラギラと光る金色の瞳で黒ずくめの男を睨み上げた。

「だとしたら、俺があんたの喉元を喰い千切るのが先だ」

「アダム・バックランド」

 後ろ髪を逆立て、獣の目を血走らせる少年をちらと見て、ローガンは今度こそ左頬を一度だけ震わせた。今度は自嘲ではなく、明らかな嘲笑が浮かんでいる。

「随分と優秀らしいじゃないか、きみは」

「それはどうも。あんたの噂も聞いていますよ、スタンリー先生。使い魔科であんたがどんな風に言われているかご存知ですか」

「聞くまでもないな、くだらない」

 声を荒げるわけでもなく、目に殺気を滲ませる幼馴染みの袖をペネロペは引いた。

「やめて、アダム。先生よ」ペネロペの言葉は、怒りのあまり微笑みすら浮かべる少年には届かない。

「使い魔は連れない主義らしいですね?」

「必要に応じて手を借りる。本来、魔女と使い魔とはそういうものだ。きみのように、相手が魔女だからと何でも受け入れ、擁護することが使い魔の仕事ではない」

「俺はっ!」

 ダン、と食堂に重い音が響く。

 テーブルを打った拳を震わせながら、アダムは「俺は」と繰り返した。

「俺は、自分が使い魔で、こいつが魔女だからって、こいつと一緒に居るわけじゃない」

「…………」

「たとえペネロペが魔女じゃなくても、俺が魔女だったとしても、同じことをする。ペネロペが人間だろうが、ピクシーだろうが、同じ使い魔だったとしても変わらない。生まれ持った血なんて関係ない。馬鹿にするな!」

「それは軽率に口にしていい言葉ではないぞ、アダム・バックランド」

 ローガンの目の奥が、残虐な血の色に染まる。表情を消し去った男にアダムは息を飲み、ペネロペは幼馴染みを今度こそ自分の元へと引き寄せた。

 本能的な恐怖に膝を震わせる少年は、椅子へと倒れ込む。それを背にかばい、少女はまっすぐに教師を見上げた。

「先生。私、全部やります。呪文学も、薬学も、古典も。ちゃんと、ぜんぶやってみせます。みんなより時間はかかるかもしれないけれど」

「──ああ。励みたまえ」

「はい。それで、先生。私に何か御用だったんじゃないんですか」

 強い光をともす、すみれ色の瞳。風もないのに揺れた七色の髪に、ローガンが「ああ」と視線を逸らす。

「故郷から返事はあったか」

「……いいえ」

 ペネロペはゆるく首を振った。最近の彼女を悩ませているのは学業だけでなく、そのことでもあった。

 ヴェルミーナ魔女学院でおのれの血の謎を知った少女は、すぐに故郷に手紙を書いた。つまり、彼女の母、西の村の魔女アルバ・フィン・クルスにである。

 それから約五日。ペネロペのもとに、母からの返信は届いていない。

「五日もあれば手紙は届くだろう」

「ええ。一度、町で荷が貯まるのを待つことはありますけど、そろそろ届いていると思います。その気になれば、母ならすぐに返事を寄越せるはずですし。カラスにでも、ノアおじさんにでも頼めるわ」

「ノア?」

「俺の父親だ」

 アダムが不貞腐れたままにつぶやく。

「なるほど」ローガンは相槌を打った。

「では、なにかトラブルか」

「もしくは、読んでないかなんですよね」

 ペネロペは初めて、ローガンが目を丸くする姿を見た。

 こうして見るとやっぱりエリオさんとそっくりね、と少女は思ったが、その気持ちは口に出さずにおいた。ペネロペとて学習しているのだ。

「よく言えば、おおらかな魔女なんです」

「悪く言えば」

「ズボラってやつでして」

「度し難い」

 ローガンは頭痛を堪えるように目頭を揉む。そうして、「まあいい」と顔を上げた。いいと言うには深刻すぎる溝が眉間に出来上がっている。

「返事が来たら、すぐに私かソフィー先生に連絡するように」

「エリオさんは?」

「あいつはアテにならない」

 それだけ言い残し、ローガンは食堂の出口へと足を向けた。

 しかし、数歩進んで足を止める。固唾を飲んでその姿を見送るペネロペとアダムを首だけで振り返り、ローガンは低い声で言った。

「ここに居れば、きみたちにもわかる日が来る」

「わかるって、何がです?」

「生まれ持った血がすべてだ」

 呆然とする二人を残し、男は食堂を後にした。




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