第7話 呪文学


「どう思う? スタンリー先生」

「兄さんたちからも聞いてたよ、危ないやつだって。学生時代は手ェつけらんなかったってさ」

「俺、スタンリー先生が寮監してる東寮なんだけど」

「うわ、ご愁傷さま。三年間地獄じゃん」

 そんな同級生たちの会話を耳のはしで聴きながら、ペネロペは五限目の授業が執り行われる教室へと足を踏み入れた。

 一限目の授業はあれからまるで葬儀のように淡々と進んだ。すすり泣きや別れの愛の言葉があるだけ、葬儀の方がいくらかマシだとも言えた。

「西寮もあれだろ、寮監ソフィー先生だろ。どっちもどっちだって」

「でもあんな言い方はしないだろ」

「優しくして貰いたいのなら、地元でパパから学べばよかったのにね」

 教師の陰口を叩く同級生たちに向けるでもなく、ベアトリーチェが悠然と言う。

 それにヴィルヘルムとともにうなずき、ペネロペはベアトリーチェの隣へと腰掛けた。すかさずベアトリーチェが口を尖らせる。

「ちょっと。ほかにも席はあるでしょう?」

「今日はずっと一緒だったんだから、もう最後までお隣で受けましょうよ」

「最後の授業くらい心穏やかに受けさせてくださらない?」

 一限目、成り行きで隣になった二人は次の授業も、そのまた次の授業も隣に座った。

 一限目の歴史学、二限目の生物学、三限目の数学に、四限目の自然科学。ヴェルミーナ魔女学院の一年生は、前期は基礎学としてこの世界の事象を学ぶ。飛行学をはじめとした学科では実技も実施されるが、ほとんどは座学だ。

 昼食を挟んでからの五限目は、実技も行われる呪文学だった。

「呪文学はいつも五限目なのね」

 配布されたシラバスを見て、ペネロペは言う。

「今朝言ったでしょ。魔力の回復には食事が効率的なの。だから食後が多い」

 律儀にそう教えてくれるベアトリーチェにペネロペは「なるほど」とうなずいた。先ほどの昼食でも、ヴィルヘルムは朝と同じく規格外の食糧をその身体へと納めていたのだ。

「準備なさい田舎魔女。先生が来るわよ」

 それ以上の私語は許さないとばかりにベアトリーチェは言い切る。

 それに従い、ペネロペは杖入れ用の布袋を取り出した。今朝、ソフィーが部屋へと運び入れてくれた教材と一緒に置かれていたものである。

 周りに巻かれた紐をくるくると解き、中から杖を取り出す。白く、光の当たり方によってはうっすらと青色の光を帯びる杖は、ソフィーが持っていた箒と同じ木で出来ているようだった。

 指先に他人の魔力を感じる違和感に、ペネロペは顔を歪める。

「基礎学が終わったら自分に合うものを探せばいいわよ」

 同じく怪訝そうに同じ杖を振りながら、ベアトリーチェは言う。

「スタンリー先生だって違うものを使っていたでしょ」

「エリオさんのは指示棒だったわよね」

「エリオ? あのひとそんな名前なの」

「ええ。自己紹介があったんじゃないの?」

「教室に入ってくるなり「スタンリーだ」って言ったきり」

「エリオと呼んでくれ」ペネロペの脳裏を、柔らかな声がよぎる。

「……お酒って怖いのね」

「急になにを言ってるのあなた」

 ベアトリーチェが鼻にまでシワを寄せ、そう言い切る前に教室のドアが開いた。

 隣の準備室から出てきたのは、ずんぐりとした体型の老人だった。身長はペネロペより少し低いくらいである。見事な白髪と白ひげを蓄えた男は、年老いたドワーフのようにも見えた。ずるずると苔色のローブを引きずって歩く姿は、小さいながら貫禄がある。

「さて、初登校でお疲れのところ申し訳ないが、本日最後の授業だ」

 たっぷりと時間をかけて教卓の椅子へと腰掛けた老人が嗄れた声で話し出す。

そうして、穏やかな声で言った。

「私はイアン・ドリトル。縁あって、諸君らに呪文学を教えることとなった果報者だ」

 ──ドリトル。どこかで聞いた覚えのある名だった。

 しばらく思案して、ペネロペは思い出す。昨日、スチュアート教頭を奪還すべく、玄関ホールでエリオットが出した指示のことを。

「ドリトル先生は門をお願いします」そう叫んだエリオットと、空に舞った魔法の星。「ルスア」と呪文を唱えた魔女は、たしかに目の前の老人であった。

「とはいえ、呪文など書物を暗記すれば済むことだ」

 よっこらせ、と小さな声を上げつつドリトルは椅子からおりる。そうして、ぐるりと生徒たちを見渡した。

「この中で、学院に来るまでに魔法を使ったことのある者は?」

 教室の中のほとんどの者が手を挙げる。

 ペネロペも机からすこしだけ手を浮かせた。

「よろしい。では、呪文は誰から学んだのかな。えー、最前列の、きみ」

「父からです」

「なるほど。では隣のきみは?」

「僕は、兄から」

「なるほど。アンバー家の次男、きみはどうだね」

 ドリトルが顔を上げる。ベアトリーチェは戸惑うこともなく、静かに口を開いた。

「姉がまだ屋敷に居るうちに、姉から学びました」

 何の感情も伴わない声に、ペネロペは隣の少年を見つめる。

 ベアトリーチェは澄んだアイスブルーの瞳をまっすぐに教師へと向けていた。くすみ一つない白く滑らかな頬は、ぴくりとも動かない。

「よろしい。皆、一度は耳にしたことがあるだろう。魔女の呪文を」

 そのとき、ペネロペはドリトルの視線が一瞬おのれを貫いたのを感じた。何を言うでもなく、老爺は再び教室を見渡し、「しかしだね」と続ける。

「そのルーツを知る者はとても少ない」

「ルーツってなんですか」

 ドリトルの話は、彼の歩調と違わぬ緩やかさだった。

 それに焦れた生徒の一人が手を挙げて問う。赤いネクタイを締めた、可憐な少女に見える男子生徒だ。

「メアリー・アン嬢、素晴らしい。常に考え、疑問をもつことは大切だ」

 メアリー・アンと呼ばれた少年は複雑そうに顔を歪めた。それを隣に座るギャレットが鼻で嗤う。

「決して馬鹿にすることではないぞ、ギャレット・レイズ。なぜ呪文を使うのかと考えたことはないかね」

「精霊への命令です」

 ギャレットがきっぱりと答える。

 一限目以来の、腹の奥のぐらぐらが再びペネロペを襲った。ぎゅっとジャケットの上からへその上を押さえつけて、鼻から息を吐く。隣でベアトリーチェが「腹痛なら出ていけば」と冷たく言った。

「左様。半分正解だ」

「残りの半分は?」

 今度はメアリー・アンが、ギャレットを鼻で嗤って問う。

 ドリトルはそんな二人に目をやった。白い眉の垂れ下がった瞳はペネロペには見えなかったが、その瞳が穏やかに若き魔女たちを見つめていることはわかる。

 ドリトルは、ふ、と薄く笑って窓の外へと目をやった。

「その昔、魔女たちは皆、呪文など使わなかった」

「大昔、何百年も前の話ですよね?」

「その通りだ、メアリー・アン。古の魔女は自然とともにあった。木々や風や炎の精霊と契約を結び、魔術を使った。我々はその時の契約にあやかっているに過ぎないのだ」

「ルスア」静かにドリトルが唱え、教卓の上に小さな太陽が生まれた。

「フォスティア」今度は金平糖のような星が浮かぶ。

「これらは光を灯す呪文だ。ふたつの作用にさほどの違いはない。しかし、ルーツが違うんだな」

 さて、長くなるよと老爺は口元の白ひげを震わせる。

「その昔、魔女たちは精霊と契約を交わし、魔術を使った。それぞれの地で、さまざまな気性をもつ精霊と直接言葉を交わしたのだ。気が合う者もいれば、合わない者もいる。当然のことだね、それは人間も魔女も使い魔も、精霊だって同じだ」

 ドリトルは教卓上のカップへと口をつける。

 口元からこぼれたお茶がひげに雫を作る。それを叩きながら、男は続けた。

「魔女たちは魔術が必要なときに、必要な契約を結んだ。しかし、時代が進むにつれ、魔女は力を失っていった。もう、常に新しい契約を結ぶことは難しいと考えた彼らは、名高き先人たちが結んだ古い契約に目をつけた。契約を簡略化し、名をつけ、再利用し始めたのだ。それが呪文のルーツだ」

「僕の家系は「北へ行くな」というのが教えでして」

 浅黒い肌をした少年が手を挙げる。ペネロペは彼の名前を知っていた。

 ダニエル・グリーン。同級生で唯一、昼休みにひとりで昼食をとっていたペネロペに声をかけてくれた少年だった。

「先祖が何をしでかしたのかは知りませんが、僕の家系の血は北の精霊とすこぶる相性が悪いみたいなんです」

「素晴らしい事例を挙げてくれた、ダニエル君。かくいう私も北西はてんで駄目だ。つまりだね、諸君。我々は、先祖が何百年も前に結んだ契約の名前を引っ張り出しているに過ぎんのだよ。それを聞いた精霊たちは、記憶をほじくり返してこちらの意思に答えてくれる。いわば、パスワードだな」

「パスワードって」

 ふ、と空気の漏れるような音がする。ペネロペが目をやった先で、ヴィルヘルムが恐ろしいほどいびつな笑顔を浮かべていた。もはや苦悶に近い表情である。

 少年は肩を震わせ、頬を震わせ、興奮したウサギのように小鼻をひくつかせて息を漏らす。ペネロペは心底彼のことが心配になった。

「ねえ。ねえ、ベアトリーチェ。彼、大丈夫?」

「こうなると長いわよ。しばらく笑ってる」

「笑ってるの? あれで?」

「だまって」

「はい」

 仕方なくペネロペは机の上の杖を見つめた。

 顔も知らない誰かの魔力を感じる、不思議な、うつくしい道具。

「杖はその媒介だ。諸君に手配しているものは中央区で作られている一級品でね、サバトお抱えの職人が魔力を込める。クセがなく、扱いやすい。初心者向けというやつだな。それに叩き起こされた精霊たちは、古い契約を蒸し返されて、我々の血にその契約者の血が混ざっているならばと仕方なく言うことを聞いてくれるのだ。今や、呪文なしで新しい契約を結べるのはほんのひとにぎりの魔女だけだ」

「ずいぶん横暴なんですね」

「その通り。我々はとても横暴なことをしているのだよ」

 その上で、学ぼうではないか。

「知っているのと、知らないのでは、心がけが変わってくる。さあ、教科書を開いて」

 ドリトルの言葉を聞いた生徒たちが教科書を開く。それに倣ってページをめくりながら、ペネロペは頭の中で教師の言葉を反芻した。

 今や、呪文なしで新しい契約を結べるのは──。

 教科書を読み上げるドリトルの声が、どこか遠くのことのように思えた。

 ああ、ママ。どうしてママは、呪文を使わなかったの。どうして私に何も教えてくれなかったの。何を思って、私をここへと送り出したの。

 私たちは、いったい何者なの。ねえ、ママ。



 ドリトルの呪文学の授業が終わっても、ペネロペはその場から動けなかった。

 教室からすでにドリトルの姿は消えており、初登校で疲弊した生徒たちもそれぞれが寮や図書室へと向かった。もちろん、ベアトリーチェとヴィルヘルムがペネロペを待っているわけもない。

 教室でひとり、ペネロペはおのれの頭の中を渦巻く言葉を噛みしめていた。

 魔女の歴史のこと。少なくなったおんな魔女のこと。呪文を使わずに魔法を使うことが、本来はとても難しいらしいこと。

 母と自分が普通だと思っていたことが、村を出ただけで普通ではなくなってしまった。いや、もともと普通ではないことを母はやっていたのだと、ペネロペは初めて思い知らされたのだ。

 机の上に開いたままの呪文学の教科書を見下ろして、ペネロペはこめかみが激しく痛むのを感じた。

 ヴェルミーナ魔女学院の教科書はどれも持ち運ぶのに苦労するほど分厚かったが、呪文学のものは群を抜いている。教科書で学ぶ文化のなかったペネロペは授業で初めてそれを開き、読み解いて、その分厚さの意味を理解した。

 本には、歴代の魔女たちが結んできた契約が記されている。

 どの地方のどの魔女が、どの地方の何の精霊と、どうやって契約を結んだか。教科書にはそれらすべてが記載されており、呪文を使うにはすべてを理解、暗記している必要があった。

 しかも、呪文は一つではない。ドリトルが使って見せた『光の魔法』だけでも、二つどころか、数ページに及ぶのである。もちろん、ペネロペが持っているものは一年生魔女のための教科書なので、難易度は年を追うごとに上がる。すべての呪文を一冊に記すことなど不可能である。

 そんな膨大な契約の中から、魔女たちは自分の家系の血や、まじないを使う土地に合わせて、呪文を選び取る。北では北の精霊との契約を。南では南の精霊とのものを。重複魔法を使うときは、精霊同士の相性まで考えなければいけない。

 一度目の授業で、ペネロペの頭はすでに爆発寸前だった。

「……何も知らなかった」

 私、ほんとうに、何も知らなかった。

 ペネロペはおのれの無知を恥じた。昨日の夕方まで、ペネロペは「本当に魔女学校になんて通う必要があるのだろうか」と疑ってかかっていたのだ。村で生きていくのなら、村を出てまで学ぶ必要はないと思っていた。

 それは、自分が何も知らなかったからなのだと、ペネロペは気づいた。

『自分は何も知らない』ということを知らなかった。

 それはとても不幸で、そして、罪なことだと少女はおのれを恥じたのだ。

 ──でももう、私は知ってしまった。ペネロペは顔を上げる。

 窓の外の空では、夕と夜が混ざり合っていた。ペネロペの両の三つ編みが、毛先から夕焼けの色に染まり始める。母と同じ色に変わりつつある髪をぎゅっと握り、ペネロペは息を吐く。

 知らないのなら、知ればいい。私はそれを許されたのだから。

 カタン、と背後でドアの開く音がして、少女は振り返る。そこに立っていたのはエリオットだった。一限目と同じく、据わった目でペネロペの三つ編みを睨みつけている。

「女学生」

「エリオさん、私、ここで学びます」

 エリオットが何かを言うより先に、ペネロペは机から身を乗り出した。

 まっすぐにエリオットの、朝焼けの色をした瞳を見つめる。手の中で、自らの髪が燃えるような赤をはらむのをペネロペは感じた。

「私、何も知りませんでした」

「そのようだな」

「このまま西の村に帰るのは嫌です。私、知りたい」

「……何をだ」

「自分が、何を知らないのかを」

 何を知ればいいのかを、知りたい。

 そう口にした瞬間、ペネロペはエリオットの瞳がわずかに揺らぐのを感じた。一瞬、幼い子供のもののようにも見えた表情はすぐにまた不機嫌な男のものへと変わる。相変わらず酒は抜けていないらしい。

 しかし、別人のようであってもやはりエリオットはエリオットなのだと、ペネロペは思った。

「だから、私、校長先生にお願いします。ここに置いてくださいって」

「私に言わなくとも、きみの好きにすればいい」

「はい。そうします」

 エリオットのそっけない態度にも慣れた。ペネロペは微笑んで、教科書を腕に抱える。

「そうと決まれば行きましょう。校長先生はどちらに?」

「まだ面子が揃ってない」

「あら。まだ誰かいらっしゃるんですか」

「ああ」

 ペネロペは眉間に深いしわを刻んでうなずく男を見上げた。そうして、おずおずと口を開く。

「あの。お節介かもしれませんが」

「なら黙っていろ」

「お酒はほどほどになさってくださいね」

「私はアルコールは飲まない」

「またまた。そんな別人みたいになっちゃってるくせに。それにですね、酔っ払ったひとはみんな「自分は酔っ払ってない」って言うんですよ。私、それなら知っています」

「何の話をしている、女学生」

「ペネロペ、そいつは本当に一滴も飲めないよ」

 同じ声が紡ぐ、違う言葉。それが左右の耳から同時に聴こえて、ペネロペは勢いよく振り返った。

「いやあ、待たせてすまないね、お二人さん」

 そう言って、準備室のドアから顔を出したエリオットは軽い声で笑う。

 ペネロペが朝見たものと同じ、茶色のチェックのベストとアームカバーをつけた事務員が、ぼさついた黒髪をさらにボサボサに乱して笑っていた。

「ドリトル先生から野暮用頼まれちゃってさ」

「断れ。ヘソを曲げると面倒だぞ、あの女」

「生徒の前だぜ、ローガン」

「今後生徒でいるかもわからんだろう。勘が良いとはとても思えん」

 黒いベスト姿のエリオット──茶色いエリオットに「ローガン」と呼ばれた方である──は、苛立ったように耳の後ろをかく。撫でつけた黒髪がわずかに乱れた。

「朝からずっと、私のことをおまえだと思ってるんだぞ」

「ええ、本当に? 授業前に名乗らなかったのか?」

「遅刻してきたのはそいつだ」

「ああ、やっぱり間に合わなかったのか。でも僕ら言うほど似てないだろ?」

 ペネロペはなおも混乱していた。左右から聞こえる同じ声が、違うことを話すのを聞いているだけで平衡感覚がなくなる思いである。

 背の高い二人の男の、同じ顔を交互に見ているうちにそれはめまいへと変わった。

耐えきれず、ペネロペは机にへたり込む。

 そんな少女へと、エリオットは明るく笑って見せた。太陽のような眩しさに目を細めるペネロペの前で、エリオットは『ローガン』の傍へ行き、首に腕を回す。

 そうして、高らかに言ってのけたのだ。

「こいつはローガン・F・スタンリー。きみたちの先生であり、僕の双子の弟だ」

「ほんとに、別人だった……!」

 私は本当に、とんでもないところに来たのかもしれない。

 この二日間でもはや何度目になるかもわからないその言葉を、ペネロペは口にするほかなかった。





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