第6話 スタンリー先生


「すごいな。本当にバオバブだ」

 食堂の長テーブルから生えた大木を見上げ、エリオットは無邪気な声を上げた。

 食堂に居た誰かが事務員を呼んだらしい。

 付き合っていられないとばかりにベアトリーチェとヴィルヘルムはさっさと食堂を出て行ってしまった。残されたペネロペは、アダムの背に隠れるようにしてエリオットの様子をうかがう。

 朝、中庭で見た通りのチェックのベストと、茶色のスラックス。事務仕事をしていたのか、昨夜見たアームカバーをつけた姿はやはり少し間抜けに見えた。表情は明るいものである。

「バックランド君、ひとつ聞いてもいいかな」

「この木のこと以外なら」

「きみの幼馴染みは、朝はいつも人見知りなのか」

「胸に手を当てて考えてみれば」

「わかった、ちょっと待ってくれ。……まるで覚えがないんだけど」

 従順な姿勢で左胸に手を当てて見せたものの、エリオットはすぐに腕を下ろして首を傾げる。

「すまない、ペネロペ。僕は何かしちゃったのかな」

 そう、困ったように微笑む事務員に、ペネロペの胸が痛む。少女はおずおずとアダムの陰から抜け出し、白い指先をこね回しながら口を開いた。

「あの……、昨日は、ごめんなさい」

「昨日? きみたちが気に病むことは何も無いさ」

「ううん。そうじゃなくて」

 昨日、消灯後に部屋を出てしまったから──。

 ペネロペの消え入りそうな声に、「えっ」とエリオットは声を上げた。まるでその事実を初めて知ったかのような声に、ペネロペも続けて「え?」と首を傾げる。

「昨日ってのは、つまり、僕とソフィー先生が部屋を出てから?」

「ええ。夜中の三時くらいだったと思うんだけど」

「僕は、きみに会ったのか」

「覚えてないの?」

「どういうことですかエリオットさん」

 ペネロペが尋ねる前に、アダムが身を乗り出した。

 ぎらぎらと光る少年の目を前に、エリオットは気まずげに前髪をかき混ぜる。それでなくともくしゃくしゃの黒髪が、鳥の巣のようだ。

「ああ、ごめん。僕、廊下に出てたんだね」

「あの、もしかしたら私の髪が夜の色になってたから、気づかなかったのかも」

「髪の色?」

「なんで夜の記憶がないんだ? そんな危険な男の居る場所にペネロペを置いておけない」

「誤解だ、バックランド君。普段はそうでもない。ものすごく言いづらいんだけどさ、言ってもいいかな。怒らない?」

「話の内容による」

「アダムが暴れるようならもう一本木を立てます」

「いやあ、申し訳ない。昨夜はひどく酔っ払っていてね」

 その時ペネロペは、幼馴染みが半分笑いながら目尻を震わせるのを見た。

 素早くアダムの首根っこをつかみ、エリオットの言葉を待つ。

「ソフィー先輩が見ててくれるからって油断してたみたいだ。泥酔して深夜徘徊してたのか、僕。まいったな」

 話を聞きながら、ペネロペはとある村人のことを思い出していた。

 大工を生業にしている、ジョンという名の壮年の男のことだ。

 ジョンはたいそう酒の好きな男だった。ひとたび村で火事でも起これば、職人としての手腕を惜しみなくふるう男ではあったが、そうでない時は昼間からアルコールの匂いを漂わせていることも珍しくはなかった。

 昨日のエリオットの瞳は、その時のジョンのものに近かったかもしれないとペネロペは思う。どろりとして、どこかを睨みつけているような。目が据わっていたと言われれば、そんな気もした。

「なるほど」

 心底納得した様子で呟いたペネロペに、エリオットは苦々しい笑顔を浮かべる。

「すまない、怖かったろ。僕、酒が入ると人が変わったみたいだってよく言われるもんだから」

「そんななら飲むなよ」

「バックランド君、大人には嫌でも飲まなきゃいけない時ってのがあるんだよ。きみもこの学院で生きていくなら、そのうちわかる日が来ると思うけれど」

 そこまで言って、エリオットは「ああ、そうだ」と改めて二人へと目をやった。

 正確には、使い魔の背に守られている、おんな魔女へとである。

「昨日話していたことだけど、今日、授業が終わったら校長先生に会いに行こう。生徒が全員退出するまで教室に残っていてほしい」

「わかりました」

「そこには俺も同席していいのか」

 アダムの質問に、エリオットは申し訳なさそうに首を振る。

「ヴェルミーナ校長は難しい人でね。必要だと判断した相手にしか姿を現さないんだ」

「あとから話を聞くことは出来るんだろうな」

「もちろんさ。ペネロペの問題はきみの問題でもあるだろうからね」

 その言葉に満足したらしく、アダムはペネロペの前から引き下がった。

 それを合図とするかのように、窓の外で鐘の音が響く。

 気づけば、食堂に居る生徒はペネロペとアダムだけになっていた。がらんとした空間が、テーブルから伸びるバオバブの木の異様さを助長している。

「じゃあ、また放課後に、ペネロペ」

「はい。よろしくお願いします」

「この木の始末は僕がつけておくから、きみたちは急いだ方がいい」

「手伝います」とペネロペが言い、アダムは腕まくりをする。

 エリオットはそんな二人の姿に笑いながら、「気持ちだけもらっておくよ」と手を振った。

「さっきのは予鈴だ。五分後に授業が始まる」

「ええ。でも、五分後ですよね? 大丈夫です」

「いけるだろ。ちょっと遅れるかもしれないけど」

 けろりと言ってのけた西の村出身の二人へと、エリオットは言った。

「ええと、お二人さん。実は学校の授業ってのは、少しも遅れちゃダメなんだよね」

 二人の『村タイム』が初めて露呈した、記念すべき瞬間である。



 エリオットの忠告も虚しく、結果的にペネロペは授業に遅刻した。

 なにも遅れようとして遅れたわけではない。まず、食堂からソフィーの部屋へと戻るのに五分かかった。朝、学院の上空を飛んでいた鳩たちが、中庭の噴水に集まっている姿に見惚れていたからである。

 次に、部屋に戻ってからの教科書の準備に苦労した。時間へのこだわりがないペネロペには、前日から翌日の授業の準備をするという習慣がなかったのだ。

 さらに、本館の広さが彼女を惑わせた。ここだと思って入った教室は空室であり、次に入った教室では上級生らしき魔女たちが黒魔術のような恐ろしい儀式を行っていた。

 そうして、やっとの思いでペネロペが目的の教室にたどり着いた時には、授業開始からゆうに十五分が経過していたのである。

「すみません、遅れました!」

 村の学校と同じ文句でドアを開けたペネロペ。彼女を待ち受けていたのは、村でのものとは似ても似つかない厳しい視線だった。

 教卓に向かってなだらかな下り坂になった教室には、ずらりと机が並び、ひと席につき二人ずつ生徒が座っている。ペネロペと同じジャケットやズボンをまとい、赤、もしくは青のネクタイを締めた同級生たちは一斉に遅刻者を見つめる。その中にはもちろんベアトリーチェとヴィルヘルムの姿もあった。

 教室中から冷めた目で見つめられ、ペネロペは人生で初めて、遅刻をしたことで冷や汗をかいた。

「実家は馬小屋か、新入生」

 教室に低く響いた声に、ペネロペは勢いよくそちらへと目をやった。

 聞き覚えのある声だった。いやむしろ、その声で紡がれた忠告をなぜもっと真摯に受け止めなかったのかと後悔の念に苛まれていたところであった。

「言葉はわかるね?」

そう、教卓からペネロペを睨みつける男はエリオットだった。

 黒い髪と赤い目。地味ながら整った顔立ち。十五分ほど前までボサついていた黒髪は綺麗に撫でつけられ、かたちのいいひたいが露出している。

 ベストとスラックスは漆黒のものへと替えられており、首元にはしっかりとタイが締められていた。

 鋭く光る赤い瞳がおのれの髪をじっと見つめているのを感じて、ペネロペは「あれ」と口の中で声を上げた。耳のうしろがちくちくする。

「実家は馬小屋かと聞いている」

 地を這うような声で三度目の問いを投げかけられ、ペネロペはハッと我に返った。

「いいえ。でも、馬小屋に住む人なんて」

「ならドアの閉め方もわかるな?」

 そう言われて初めて、ペネロペは教室のドアを開けっ放しにしていることに気がついた。

 慌ててドアを閉める。教室の端々から、クスクスと意地の悪い笑い声が響いた。

「授業を受ける気がないのなら帰ってくれて構わない」

「……いえ。受けます」

「ならネクタイを結んで、さっさと席につきたまえ」

「結び方がわからなくて、」

 言い切る前に、男が手にしていた指示棒を振る。

 途端、ペネロペの首から垂れ下がっていた青色のネクタイがひとりでに動き出した。

上質な布は上へ下へと動き回り、最後にはペネロペの細い喉をくびるようにキュッと締まった。小ぶりなノットは美しい形で襟の間に収まっている。

「あの、ありがとうございます」

「席につけ」

 冷たい声で再度言い放たれ、ペネロペは教室の一番後方に位置する席へと目をやった。

 しかし、空いていたはずのその席に、隣に座っていた少年が教科書を置いてしまう。通路を挟んだもうひと席でも同じことが起こり、仕方なくペネロペはベアトリーチェの隣の席へと腰を下ろした。

 ベアトリーチェは当然のようにヴィルヘルムと一緒に座っていたため、その隣を一人で使う形である。

 もちろんベアトリーチェは懇切丁寧に、そのうつくしい顔に嫌悪感を貼り付けた。

「ちょっと」

「ベアトリーチェの隣が空いていてよかった。誰も座らなかったの?」

「あなたと同じにしないで」

「ペネロペ・クルス」

「はいっ?」

 エリオットに突然名前を呼ばれ、ペネロペは思わず立ち上がった。

 再び教室に小さな笑い声が上がる。

「きみは随分と優秀な魔女のようだが」

「いいえ、そんな」

「空を飛び、食堂を圧迫する無駄な木を茂らせることは出来て、何故時間通りに行動するだけのことが出来ない? 誰にでも出来ることには興味が無いのか」

「まさか。そんなつもりは」

「私は時間を無駄なことに使うのが嫌いだ。それすら覚えられないようなら故郷へ帰れ」

「……気をつけます」

「立っているのが趣味なら後ろに立つかね」

「座ります」

 静かに席につく。隣でベアトリーチェが「最悪」と吐き捨てた。

 ああ、やっぱりとペネロペは両手で顔を覆った。

 エリオットは、確実に酒を飲んでいる。

 いつの間にか耳のうしろの「チクチク」は治っていたが、感覚は昨夜のものと全く同じであった。そして、エリオットの態度も。据わったような目も、丁寧なようでいて荒い言葉使いも。昨夜のままである。

 きっと、エリオットは怒っているのだ。

 当たり前だ。食堂にあんな木を生やしておいて、その始末を全部押し付けた張本人が授業に遅れて来れば怒りもするだろう。それで朝から酒を飲んでしまったのかと、ペネロペは罪悪感に呻く。隣でベアトリーチェが舌を打った。

「スタンリー先生」

 そう、生徒の一人が手を挙げ、教科書を読み聞かせる彼の名を呼んだことが決定打だった。エリオット・J・スタンリー。彼の名前だ。

「そこはさっきやりました」

「ああ。ありがとう、ギャレット君。十五分遅刻してきた生徒のために、同じところをもう一度説明しなければいけない。まさに時間の無駄だ」

「それに、魔女の歴史はミドルスクールでもやりました。僕たちわかっています」

「それもだ、ギャレット君。ろくな教育も受けずにここに来る者も居る。申し訳ないが我慢してくれたまえ」

 エリオットがペネロペのことを言っていることは、ペネロペはおろか、教室中がわかっていた。恥ずかしさにうつむくペネロペを、ベアトリーチェが小突く。

びくりと震えた少女へと、少年は苛立ちもあらわに教科書をしゃくって見せた。

「教科書くらい開いたらどうなの?」

「う、うん」

「三ページからよ。さっきは十ページまで進んだ」

「ありがとう」

「ページも教えてやらない小さな男だと思われたくないだけよ。勘違いしないで」

「勘違いってどんな勘違い?」

「授業のこと以外でわたしに話しかけないで」

 授業のことなら答えてくれるらしい。ベアトリーチェ・アンバーの根は複雑である。

 しかし、しかめられたその横顔に正義感が滲んでいるのを見つけて、ペネロペは胸の奥があたたかくなるのを感じた。

「ふふ。ありがとう、ビーチェ」

「二度とその口を開かないで」

「はい」

 そうすべてがうまく行くわけではないのだな、とペネロペは思った。



 教室の前方、教卓ではエリオットが引き続き教科書を読み上げている。

 時折、彼が教科書に書かれていない事柄を口にするたびに、生徒たちはそれらを教科書やノートへと書き込んでいく。教科書の有無が違うだけで、授業の方法は西の村とさして変わらないようだった。

「初めに人間へとその姿を見せたのは、東の魔女エステルと西の魔女アリア。それに魔女の姉弟、南のヴェルミーナと北のルイスが続いた。初めて人間と魔女がこの世界でともに生きようとした始まりの日だ」

 東の魔女エステル。西の魔女アリア。

 ペネロペがずっと古い言い伝えだとばかり思ってきた話は、都会の魔女たちにとっては常識らしい。退屈そうにエリオットの話を聞き流す同級生たちの姿を見て、ペネロペはおのれの無知を知った。

 しかし、それを恥ずかしいとは思わなかった。昨日、「歴史はこれからいくらでも勉強すればいい」と言ってくれたのは他でもないエリオットなのだ。

「魔女は人間たちにまじないを貸した。しかし、無条件ではなかった」

 エリオットが黒板へと文字を綴る。美しく、几帳面さが滲み出るような字だ。

 まるでタイプライターで打ったみたい。どこか息苦しさすら感じるそれを見て、ペネロペは思う。寸分の隙さえ見せまいと武装しているかのようだと。

 男は黒板を半分に分け、左右でそれぞれ人間と魔女の歴史を説明する。人間の歴史は、魔女と比べてひどく新しい。魔女のものだけが、黒板を白い文字で埋め尽くしていく。

「我々とてエルフには敵わない。この世界にとどまる年輪の数で、どちらかが優れているかなどと容易に判断するのは愚かなことだ。しかし、当時、まだ歴史の浅かった人間たちは我々魔女に頼るほかなかった」

 文字を綴る男の、袖からのぞく手首に包帯が巻かれているのを見つけて、ペネロペはペンを走らせる手を止めた。朝、食堂で会った時には無かったものだ。

「ペネロペ・クルス。何を見ている」

「はい?」

「何か質問が?」

「あ、いえ。その怪我はいつされたものですか?」

 ここの、とペネロペはおのれの手首を指差して見せた。隣でベアトリーチェが椅子の足を軽く蹴る。

 一瞬ざわついた教室を、エリオットは黒板を指示棒で打つことで黙らせた。

「さすがだな、ペネロペ・クルス。私の授業など聞くに耐えないということか」

「いいえ、まさか。とても興味深いです。ただ、今朝は包帯なんて巻いていなかったから。木を切るときに怪我をされたのなら、申し訳ないなって」

「この地の精霊と初めて契約をかわした魔女は誰だ」

「……ええと、まだそこまで行ってません」

 教科書を見下ろし、ペネロペはきっぱりと言う。

 隣でベアトリーチェがため息をつき、エリオットが盛大に眉をひそめた。

「ほかより遅れているという自覚を持ちたまえ、西の村の魔女。予習くらいはするべきだと思わないか」

「村では教科書を使いませんでしたので」

 教室の端から小さな笑い声が上がる。

 ベアトリーチェが苛立ったようにテーブルにペンを置いた。

「エステル」

「え?」

 ベアトリーチェの囁くような声にペネロペは首を傾げる。それにもう一度ため息をついて、少年は繰り返した。

「一番古い名をもつ魔女よ。東のエステル」

 つまりは答えろということだろう。ズルをしているようで気が進まなかったが、ペネロペはこちらを睨みつけているエリオットへと「エステル!」と叫んだ。

「大声を出すな」

「ああ、すみません。つい」

「クルス君、正解だ。この地で初めて精霊と言葉を交わしたのは東の魔女エステル。はじまりの魔女だ」

 はじまりの魔女。ペネロペは口の中で繰り返す。

 ちくりと、耳のうしろが痛んだ気がした。

「エステルを境に魔女たちは次々とこの地を踏み、精霊だけでなく、人間たちとも言葉を交わした。しかし、先ほども説明した通り、魔女たちはまじないを無償で行なったわけではない」

「当然だと思います。私たちだって精霊と等価交換を行なって魔法を使う」

 前の列に座っていた、赤いネクタイ姿の魔女が手を挙げて言った。

「魔力がその対価です」

「その通りだ。しかし、人間たちはそれでは納得しなかった。魔術をえさに自分たちを支配する魔女への恨みが募り、そうして弾けたのがこの時代だ」

『初の魔女裁判』年号のうしろに並んだその文字に、ペネロペは息を飲む。

「魔女への不満と、恐怖心が彼らを動かした。なにも初めから非人道的な裁判や処刑が行われたわけではない。些細なことから始まった火種を、我々も、人間たちも放置してしまった。その無関心が招いた結果が、今の惨状だ」

「ミドルスクールではそんな風には習いませんでしたが」

 先ほどギャレットと呼ばれた少年が、手を挙げて言う。声のはしに非難と嫌悪が滲んでいた。

「悪いのは人間の方でしょう。魔女に敵わないからと科学を取った。その結果崩れた均衡を僕らのせいにして、憂さ晴らししただけだ。こちらがコソコソと生きているから奴らが図に乗るんだと、兄さんたちが──、」

「ギャレット・レイズ。きみは本当にそう思うのか?」

「だって、そうだと聞いています」

「誰からだ」

「父や、兄たちから」

 静かな赤い瞳に見つめられたギャレットの声が弱々しく消える。

 教室の中の空気がぴんと張りつめる。そこに居る全員が、声を上げるどころか、息まで潜めていた。

「諸君も今一度、己の頭で考えてみてくれ。何らかの争いが起こったとき、どちらが悪でどちらが善だと、白と黒を分けることが本当に出来るのかどうか」

「それは争いですか? 迫害ではなく?」

 手を挙げたヴィルヘルムが、抑揚のない声で続けた。

「今の我々に一番身近なものでいえば、問題視されている魔女と使い魔との力関係ですが。それも争いに入りますか」

「いい視点だ、スコット君。争いは同等の力をもつ者同士でなければ起こらない。魔女と使い魔との問題は、明らかに魔女側の弾圧によるものだ。その件はまた授業で紐解くことになる」

「でしたら、当時の人間と魔女の力が同等であったと?」

 二人の男が無表情のまま論議を交わすのを、教室中が固唾を飲んで見守っている。ペネロペに至っては、すでに彼らが何の話をしているのかがわからなかった。

「もちろんだ、ヴィルヘルム・スコット。私はそうであったと思っている。きみたちも是非考えてみてくれ。──ありがとう、スコット君。いい意見だった」

 ペネロペはこっそりと、ベアトリーチェの隣に座る少年を見た。

 彼はただ、そこにあった。静かに腰掛け、静かな目線で前を見つめている。そのダークグレーの瞳が一瞬陰るのを見て、ペネロペは胸の奥がざわめくのを感じた。

「魔女たちは己が人間の上に立ち続けていると過信していた。そうして争いは起こってしまった」

 魔女と人間、左右の年号がひとつに交わる。

 そこを指したエリオットは、なおも淡々と言葉をつむぐ。

「東西の魔女は人間との全面戦争に乗り出した。人間も魔女も、己こそが正しいと信じ、戦い、そして死んだ。争いに善と悪、白と黒などと分けられるものはない。正義を語る者こそ、一度己の足を止め、考える必要がある」

「でも、そんな風には一度も──、」

「ああ、ギャレット君。きみの意見を聞いていなかったな」

 その時初めて、ペネロペは教室で微笑むエリオットを見た。

 記憶にある通りの人好きのする笑顔だった。目の奥に、どこかゾッとするような残虐さが滲んでいることを除けば。

「きみの兄上たちのことはよく知っている。同級だったのでね。彼らは優秀な魔女だ」

「ありがとうございます。僕も兄さんたちと同じように、立派な魔女になりたくてここへ来たんです。なのに、こんな昔話に時間を割くんですか、ヴェルミーナ魔女学院は」

「なるほど、立派な魔女に。それは素晴らしい心がけだ」

「はい。ですから、」

「では、きみの言う立派な魔女とはなんだね。定義を聞こう」

 エリオットが微笑んだまま、教卓に肘をついた。長い足をゆったりと曲げ、「一時休戦」とばかりにゆるい姿勢をとる。

「定義がわからなくては目指しようもないだろう?」

「そうですね……、多様な呪文を覚えて、精霊を服従させることが先決かと」

 少年のそんな言葉に、ペネロペは鼻の奥が痛むのを感じた。

 腹の奥がぐらぐらと不安定になる。それは西の村の魔女が初めて感じた『真の怒り』の感情であったが、当の本人がそれを自覚することはなかった。

「なるほど。呪文と精霊。選択肢が増えることは良いことだ」

「ええ。ですから、こんなおとぎ話を田舎者のためにしてやる必要は──、」

「ならば今すぐ故郷に帰りたまえ、ギャレット・レイズ」

「えっ?」

 それまで調子よく鼻で嗤っていたギャレットが間抜けな声を上げる。

 教卓から身体を起こしたエリオットが、ぐるりと教室を見渡した。冷めたようでいて、煮えたぎる熱を携えた瞳と一瞬目があって、ペネロペの心臓は大きく跳ね上がる。

「ここに居る全員に言えることだ。ヴェルミーナ魔女学院に入りさえすれば、きみたちの言う『立派な魔女』とやらになれると思っているのなら、荷物をまとめて故郷へ帰れ。その方がきみたちのためだ」

 教室がざわつく。「馬鹿ばかりね」ペネロペの隣でベアトリーチェがボヤいた。

「呪文を学びたいのなら、本を読みたまえ。おとこ魔女に扱える呪文魔法など、本屋を漁ればいくらでも出てくるだろう。日がな一日それを読み、暗記するだけなら三年もこんな場所に通うことはない。それこそ時間の無駄だ、ギャレット・レイズ」

 呆然と瞳を揺らがせる少年へと、男は続ける。

「我々はここで、魔女とは何かをきみたちに叩き込む。知識を与え、他の魔女と生活を共にすることで、学ぶ『機会』を与えるだけだ。卒業した諸君が立派な魔女になろうが、路頭に迷ってくたばろうが、我々の知ったところではない。我々教師は、きみたちが今後生きていくための指標となる地図を、三年かけて描かせる事だけを職務にしている。どんな知識を得て、どのような地図を描くかはきみたち次第だ。もちろん、疑うことを禁じているわけではない。己が納得行くまで調べたまえ」

「純粋にくちが悪いな」

「でも、間違ったことは言ってない」ベアトリーチェの隣で、ヴィルヘルムが静かに言う。

 その通りだ、とペネロペは同じく静かにうなずいた。

「ヴィルヘルム・スコット。ベアトリーチェ・アンバー。ペネロペ・クルス」

 三人を見るでもなく、エリオットは三人の名を呼んだ。

 おしゃべりが聞こえたかと、名を呼ばれた三名は同時に肩を揺らした。

「それから、ここには居ないがアダム・バックランド。きみたちは偶然同じ年に生まれ、偶然同じ学院に集っただけの魔女や使い魔だ。同じ目的地へと向かう列車に乗り合わせただけの、ただの同乗者と仲良くしろとは言わない。だが、それすら出来ない者になにかが成せると思うな」

 食堂での諍いを指摘していることは明白である。

 三人はうなだれ、すみませんとそれぞれ口にした。その声すら揃わないことにペネロペはひどく悲しくなった。

「以上だ。三十秒待つ。教室を出て行くべきだと判断した者はさっさと出て行け」

 教室を出て行く者は、誰一人として居なかった。





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