第5話 衝突、バオバブ!


 結局ペネロペはその日、ほとんど眠ることが出来なかった。窓枠に切り取られた空が朝日に滲んでいくのを見て、少女は寝返りを打つ。

 昨夜、廊下で会った男はたしかにエリオットだった。闇色の髪も、赤い瞳も、少々地味ながら整った顔立ちも。紛うことなき事務員のものであったはずだ。

 声だって、記憶と違わぬ音を響かせた。──でも、とペネロペは柔らかな枕を握りしめる。のどかな西の村で生まれ育った少女には縁のなかった感情。初めて向けられた心の底からの嫌悪に、心臓がどきどきと跳ねている。

 ペネロペは未だ恋というものを知らなかったが、これがそんなあたたかなものでないことくらいはわかる。人生においてほとんど初めて、少女は他者に対して「怖い」という感情を抱いた。それがひどく悲しく、そして後ろめたいものである気がした。

 胸の痛みが、じわりじわりと腹のほうへと落ちていく。

 ペネロペは再び窓の外を見上げた。夜と朝の狭間にあったはずのそこは、すっかり明るくなっていた。日の出とともに生活を始める西の村人からすれば、寝坊したと言っても過言ではない時間帯だ。

「日の出が早いのね」

 ぽそりと一人、そう呟く。心なしか声まで低いようだ。

 シーツの上で波打つ自分の髪が、空と同じ色に染まっていくのを見て、ペネロペは首を振った。誰に見られているわけでもないのに、わざとらしいほど勢いよくベッドから起き上がる。

「今日から新生活よ、ペネロペ。しっかりして」

 ベッドを整え、部屋を見渡す。

 テーブルの上に、昨日までなかった服が置かれているのが目に入った。

 きちんと畳まれた服の上には、「よいスクールライフを」と、流れるような美しい字で綴られたカードが添えられている。エメラルドグリーンのインクから、ソフィー先生だな、と少女は見当をつける。

 テーブルに置かれていたのは制服であった。

 白いブラウスに、曇り空の色をしたジャケット。同じ色のズボンとスカート。ボトムスはどちらも丈の長いものと短いものが用意されていた。好きなものを穿いていいということだろう。

 ペネロペは少しだけ迷って、短いズボンを身につけた。一番動きやすそうに見えたからである。

 シャツの上に乗せられていた青色のネクタイは結び方が分からず、首にかけるにとどまった。

 ドア横のシューズラックには、ソフィーのものらしきピンヒールつきの靴が並んでいた。色とりどりの靴たちはどれも煌びやかで美しく、そしてサイズが大きい。

 その一番端に小さな革靴が並んでいるのを見つけ、ペネロペは半信半疑のままに足を滑りこませた。すこしの引っ掛かりも隙間もなく収まった足に、今更「どうやってサイズを測ったのかしら」と疑問が浮かぶ。

 窓の外で、けたたましく雄鶏が声を上げた。

 すっかり水色に染まった朝の空を、真っ白な鳩が群れをなして飛んでいるのが目に入る。その美しさに少女は釘づけになった。指紋一つついていない窓に手をつき、学院上空を旋回する白い軍団を見上げる。

 鳩たちは、東棟のはずれに建つ高い塔を中心に飛んでいるらしい。──と、中庭に現れた男の姿にペネロペは飛び上がった。慌ててカーテンの陰へと身を隠す。

 本館の裏、西棟と東棟に挟まれた中庭には美しい花々が咲き乱れている。それらに水をやっていたのは、他でもないエリオットだった。昨日と同じ、茶色いチェックのベストの上にガーデニング用のエプロンをつけ、花の世話をやいている。

 とっさに隠れてしまったことに言いようのない罪悪感を抱く。口の中を苦いもので満たされた気分だった。胸の下が重く、なんだか気持ちが悪い。

 ──私、きっと、とんでもなくお腹が空いているんだわ。

 自分へとそう言い聞かせ、ペネロペは七色に輝き始めた髪を両耳のうしろで二本の三つ編みにする。そうして、はたと動きを止めた。

 昨日の夜、あれほどまでに痛んでいたその場所が痒みすら感じなくなっていたからだ。

 新しい地に来て、色々なことを知って、きっと自分は、自分で思っている以上に混乱しているのだとペネロペは思った。そして、お腹が空いているからこんなにも気分が落ち込むのだろうと。

 くるくると鳴く腹の虫を黙らせるべく、少女は部屋をあとにした。



 昨夜と同じように部屋を出たペネロペは、昨夜とは反対の方向へと向かった。昨日、ソフィーから説明を受けた食堂へは迷うことなくたどり着くことが出来た。

 登校時間まではまだ時間があるが、広い食堂には生徒の姿が多く見られた。木製の長テーブルが数列並んでおり、それぞれが思い思いの食事を好きな場所で摂っているようだ。

 ペネロペと同様にすでに制服をまとっている者も居れば、部屋着のままの者も居る。

 試験前になると寝間着のまま食事をとる生徒が増えることをペネロペはソフィーから聞かされていたが、さすがに新学期一日目にして追い詰められている生徒は居ないらしい。

「ペネロペ!」

 聞き慣れた声に名を呼ばれ、ペネロペはそちらへと目をやった。

 食堂の長テーブルに腰掛けたアダムが手を振っている。その姿にペネロペはほっと息をついた。

「おはよう、アダム。お隣いいかしら」

「おはようペネロペ。もちろんいいよ」

「願望通り、昨日はよく眠れた?」

「いやそれがさ、同室の犬っころがうるさくってあまり眠れなかった」

「犬っころ?」

「イヌ憑きの男と二人部屋だった。頻繁に部屋替えがあることを祈るよ」

 眉間にしわを寄せて唸りながら、アダムはスープを口へと運んでいる。

 アダムはすでに制服姿だった。ペネロペと同じ色のジャケットとスラックスをまとっている。違うのは、胸元を飾るのがネクタイではなく黄色いリボンタイだということだけだ。

「使い魔科はリボンなんだって」

 ペネロペの視線に気づいたらしいアダムが言う。「クリスマスのプレゼント気分だよ」黄色のリボンのはしをつまみ、引っ張って見せる。

 それに笑って、ペネロペは目の前のテーブルを見つめた。

 トーストやスコーン、ポリッジのほかに、バター、果物のジャム、スクランブルエッグ、焼き色のついた分厚いベーコン、トマトやビーンズなどの野菜が所狭しと並んでいる。

「俺がここに来たときにはもう準備されてたよ。誰がやってるんだろうね」

 またもペネロペの思考を先読みして、アダムは言う。

「日の出と一緒に起きてくるかと思って、こっちに来てたんだ」

「ああ、ごめんなさい。私もあまり眠れなくて寝坊しちゃったの」

「昨日寝付けなかったのか。まぁ色々あったんだから仕方ないと思うぜ」

「寝付けなかったっていうか……」

 幾分か低くした声で、ペネロペは幼馴染みへと耳打ちした。

「粉挽き屋のエミリーを覚えてる?」

「なんだよ急に」

 訝しげに眉をひそめ、アダムは答える。「あのじゃじゃ馬を忘れるもんか」

「ええと、それはエミリーが昔からあなたのことを……、ううん、今はその話じゃなくて」

「なんだよ。そのエミリーがなんだっていうんだ?」

「エミリー、夜になるとこう、気持ちが不安定になるところあったじゃない?」

「夜は冷えるからね。寒いとイライラするんだよ、あいつ」

「そういうの、大人の男のひとにもあるかしら?」

「誰かに何かされたのか?」

 それまでの和やかな声から一変、勢いよく肩を掴まれてペネロペは息を飲んだ。咀嚼していたスコーンが喉の手前に貼りつき、激しくむせる。

「誰だよ。あのオカマか? それとも事務員?」

「オカマだなんて言い方、げほっ、けほ」

「朝から賑やかね、西の村の方々は」

 いやみったらしく響いたそんな声に、ペネロペとアダムは同時に顔を上げた。

 いつの間に食堂に来ていたのだろう、同じテーブルの斜め向かいに、ベアトリーチェが座っていた。隣には昨日と同じく、眼鏡をかけた黒髪の少年が並んでいる。

 二人もペネロペたちと同じく、すでに制服姿だった。ベアトリーチェはスカートを、少年はスラックスを身につけている。

 ペネロペと同じ空色のネクタイはきっちりと形づくられ、彼らの首元を彩っていた。

「今日もお二人、お揃いで」

「ええ、西の村は日の出とともに起きるのが習わしなの」

「うらやましいわ。西の村には太陽を遮るものなんて何も無いんでしょうね」

「それがそうでもないのよ。山があるから、ここより日の出が遅いみたい」

 ベアトリーチェのいやみにも気づかないままに、ペネロペは笑った。そうして、優雅にカップを傾ける少女姿の少年の前に並ぶ大量の皿を目にして驚いた。

 ベアトリーチェの隣に座る少年が、美しい所作で驚くべき量の食料を口へと運んでいるのである。

「その身体のどこに入ってんだよ」不健康なほどの痩身へと向けて、アダムが憎らしげに呟いた。どうして男の子たちは食べる量ですら競いたがるのだろうかと、ペネロペは彼を愛おしく思う。

「いい食べっぷりね。母が喜びそう」

「ご存知ないかもしれないけれど、精霊の数が少ない都会に住む魔女は、魔力の消費が激しいの。魔力回復に食事は必要不可欠でしょう? 失礼、これもご存知なかったかしら、西の村のクルスさん」

「ええ、知らないことばかり。今日からの授業が楽しみだわ。緊張してるのかしらね、昨日はあまり眠れなくて。ベアトリーチェ、あなたは?」

「いつも通りよ」

「お嬢さん、可愛いのは顔だけかい?」

 次々といやみを繰り出すベアトリーチェへと、アダムが鼻で嗤う。

 一瞬で凍りついた空気の中、カチャン、とベアトリーチェがカップを置く音がひときわ大きく響いた。

「アダム、謝って」

 ペネロペの言葉を無視し、なおもアダムは口を開く。

「綺麗なお顔が台無しだぜ。あんたもそう思うだろ、なあ、そこの眼鏡」

「ごめんあそばせ。躾のなっていない猫がうるさくって気分が悪いの」

「あんたはよく躾られてのんな、眼鏡」

「失礼。眼鏡というのは私のことですか?」

 食事の手を止めた少年が、静かな声で問う。目線は前に向けられたままだ。

「ここにあんた以外の眼鏡は居ないだろ」

「そのように学も品も無い呼ばれ方をしたことが今までなかったものですから。考えが至りませんでした。配慮が足らず申し訳ない」

「これは失礼。あんたの主人の名前しかわからなかったもんでね」

「名前を聞くときは先に名乗るのが礼儀かと」

「アダム・バックランド」

「ヴィルヘルム・スコットです」

 そう言って二人は形ばかりの握手を交わす。互いに目が笑っていない。

 アダムの金色のそれと、ヴィルヘルムと名乗った少年のダークグレーの双眸が殺気をはらむのを見て、ペネロペはベアトリーチェを見やった。

 助けを求めたつもりだったが、ベアトリーチェは傍観を決め込むつもりらしい。

「お二人お揃いで、って言えば、あんたらも同じだろ。昨日、使い魔科の寮から見えたぜ。あんたら風呂も一緒に入るのか」

「同室ですので。共同シャワールームを同じ時間帯に使用するのは妥当でしょう」

「トイレにはついて行ってやらなくていいのか?」

「アダム、やめて。どうしてそんな意地悪を言うの」

 ペネロペは戸惑っていた。こんなにも攻撃的な幼馴染みの姿を見るのは初めてである。

 確かにアダムは穏やかな部類ではなかったが、村の女の子たちには優しかった。そんな考えに至り、ペネロペは「そうか」と心の中で手を打った。

 西の村には、アダムと同じ年頃の男の子が居なかったのだ。ここに来て、ずっと眠っていたアダム・バックランドの雄としての闘争心に火がついてしまったのである。

「アンバー家が必要だと判断すれば、そうします」

「へえ。仲が良いってわけじゃないんだな。家と家の契約か。くだらねえ」

「ベアトリーチェ。ご気分が優れないのであれば今すぐこの野良猫の毛皮を剥ぎますが」

「いいえ、結構よ。狩りに出るにはまだ時間が早い」

「いらないってさ、金魚のフンくん」

「下品な物言いはやめてください。主人が主人なら飼い猫も飼い猫だ。お郷が知れる」

「おいテメェ、眼鏡。もっかい言ってみろ──、」

「朝から喧嘩するのはやめて!」

 ばん、と、ペネロペは両手でテーブルを打った。

 はあはあと少女は肩で息をする。ペネロペが叩いた木製のテーブルからは、一本の大木が天井へと向かって高く伸びていた。太い幹が、アダムとヴィルヘルムを隔てるようにめきめきと枝を伸ばしていく。

「まだ、太陽が東の空にある。東の魔女の怒りを買うわよ」

「……正午を過ぎたらいいんですか」

 呆然と、目の前で急成長を遂げた木を見上げるヴィルヘルムが問う。

 声からはすっかり怒気が抜け落ちていた。

「正午を過ぎたら、太陽は西の空の上よ。西の魔女が悲しむでしょう」

「喧嘩するなってことだよ」

 ほとんど初めてと言ってもいい幼馴染みの怒りに触れ、腰を抜かしたアダムが続ける。

 事態に気がついた──室内に突如として大木が出現したのである。気づかないはずがない──、食堂利用者の面々が、ざわつき始めた。高い天井を突き破らんとする大木を見上げ、ベアトリーチェは小さくため息をついた。

「で。なんの木なの、これ」

「バオバブですね」

 ヴィルヘルムが眼鏡を押し上げながら、極めて冷静にそう答えた。




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