第2話 ヴェルミーナ魔女学院


 ヴェルミーナ魔女学院の門を越える瞬間、ペネロペは確かに空間が歪むのを感じた。

 建物自体に大きな魔法がかかっている。きっと、見るべき者──つまり、魔力を持つ者にしか見えないようになっているのだと、少女はひとりごちる。

 そんな魔法を、こんな広範囲にかけられるのはどんな魔女なのだろう。少女の胸が期待で踊る。アダムが言うように、ここはとんでもない場所なのかもしれない。

 アプローチをひた歩く。道の両端には馬のかたちをしたトピアリーが並んでいた。

「なんだか落ち着かないな」

 頭の後ろの毛を逆立てながら言うアダムの横顔は強張っている。それに笑い、ペネロペは「普段の行いが悪いからよ」と幼馴染みを追い越した。

 二人は建物の中へと足を進めた。

 一人ではとても開けられそうにない巨大な扉は、今は大きく開かれている。

 薄暗い庭から一変、あたたかな光が二人を照らした。高い天井を、ずらりと並んだ柱が支えている作りのロビーで、二人はほっと息をつく。そこでやっと、ペネロペはマントのフードを脱いだ。朝、西の村を出てから初めてのことであった。

 その時、背後で何かが蠢く音がした。アダムが動物的反射でもって、ペネロペをかばうように振り返る。

 そこに居たのは事務員風の若い男だった。

 短い黒髪を無造作にぼさつかせ、白いシャツの上に茶色いチェックのベストを着ている。

 腕につけた作業用のアームカバーがなんとも間抜けでペネロペは小さく笑ったが、男の瞳が血の色であることを認めたアダムは更に髪を逆立てた。膨らんだ尻尾が見えるようである。

 そんな二人の様子を気にするでもなく、男は「あれっ」と素っ頓狂な声を上げた。

「おかしいな。もう式典は終わったのかい?」

「あんた、だれ」

 フー、とアダムは息を吐く。予想以上にこの幼馴染みは新天地で極限状態らしいと、ペネロペは宥めるように少年の背を撫でた。

「あの、すみません。私たち、ここの新入生なのですが」

「ああ、もしかして西からの列車に乗ったお二人かい? あれ? だったらよけいにおかしいな。門の鍵は開いていた?」

 門のそばに落ちていた錠前のことだろう、とペネロペはうなずく。

「そうか……、うーん。まあいいや。ええと、きみたちの名前は──、」

「ペネロペ・クルスです。こっちは使い魔科のアダム」

「アダム・バックランド」

「ああ、聞いてるよ。列車が遅れたんだって? 災難だったねぇ」

「ええ。でも、少しですから」

「その少しの間に、同級生たちは寮や校舎を回っちゃったよ」

 正式に手続きをする必要があるらしく、男は入り口近くにある守衛室へと消えた。そうして、ペンと書類を持って小走りで戻ってくる。

「まずは魔女科のきみから聞こうか」

「あんた、何者? 警備員じゃないのか?」

「アダム、いいかげんにして」

 じっとりと男を見上げる幼馴染みをペネロペは小突く。

 しかし、そんなアダムの不躾な態度を気にする素振りもなく、ペネロペから入学許可証を受け取った男は「元気がいいね」と軽く笑って見せた。

「名乗るのが遅くなってすまない、僕はエリオットだ。ここで事務員をしてる。きみたちが挫けたり留年したりしない限りは、三年間の付き合いになる予定だね。よろしく頼むよ」

 書類に何かを書き込み、エリオットと名乗った男は許可証の入っていた封筒をはたと見つめた。そうして、何やら「ああ、そうか」と納得したように呟く。

「封筒が何か?」

「いや、なんでもないさ。これ、記念に取っておくかい?」

「ええ、そうね。こんなひどい字を見ることも今後そうそうないでしょうし」

「安心してくれ。うちの教師陣はみんな達筆だから」

 それにしても、とエリオットはまじまじとペネロペを見下ろした。

 ああ、この髪のことかしら。ペネロペは肩に垂らした髪を指先でいじる。今も母の魔法によって七色に輝く髪は、どうしても人の目を引いてしまうのだ。

「ええと、この髪は──、」

「すごいな。今まで見た中で一番だよ」

「ええ、よく言われるわ。珍しいって」

「いや、かわいいなと思ってさ」

 今度こそ、アダムの髪がぶわりと逆立った。それを視界の端で捉えながら、ペネロペは首を傾げる。

 エリオットの目はどこか面白いもの見るときの色をしていたからである。

 言ってしまえば、見世物を見る目だったのだ。決して「かわいいね」と女の子を口説いているようには見えなかった。実際問題、本気で口説いているのならばお巡りさんを呼ばねばならない事案なのだが。

「いや、ほんとうに。女の子みたいだ」

 ぽそりと溢れ落ちたエリオットの言葉に、ペネロペは「え」と声を漏らす。しかし、それ以上の大きさで「俺の入学許可証です!」とアダムが叫んだことにより、その声は掻き消されてしまった。

 目の端を吊り上げ、アダムはエリオットを睨みつけている。

「はい、確かに預かりました。今ならまだスチュアート先生の最後の挨拶に間に合うな。ここを真っ直ぐ進んで、左に行くと講堂があるんだ。誰かしら教職員が居るはずだから、声をかけて入れてもらうといい。ああ、トランクは寮の部屋に運んでおくからそこに置いて行っていいよ」

「それはどうも。行くよ、ペネロペ」

「あの、エリオットさん」

「エリオと呼んでくれ」

「エリオさん、あの」

「ペネロペ! 行くぞ!」

 ペネロペのマントを掴んだまま、アダムは歩き出す。それに引きずられながら、ペネロペはそっと幼馴染みの横顔をうかがった。

 金色の目は血走り、瞳孔が開ききっていた。獣の瞳だ。

 アダムは廊下を左へと曲がる。遠心力でぶれたペネロペの足先が容赦なく壁にぶつかり、ブーツが鈍い音を立てた。

「ペネロペ、気をつけろよ」

「ぶつかったのはアダムのせいでしょ」

「ちがう。さっきの男」

「エリオさん?」

「なんか、イヤなにおいがした。あいつ」

「加齢臭? ちょっと早すぎない?」

 と、ペネロペが顎に手を当てると同時にアダムが急停止する。

 また何か幼馴染みの逆鱗に触れてしまったのかと、ペネロペは進行方向を見つめた。そうして、どうやら自分は彼を怒らせたわけではないようだと胸を撫で下ろす。

 広い廊下に、燃えるような赤毛を揺らす長身の背が見えた。

 くるりとカールした毛先が、その人物が歩くたびにふわふわと揺れている。長い髪と、黒いスカート。カツカツと石造りの廊下を叩くヒールから見て、若い女のようである。

 ずいぶん背が高いな、と思いながらもアダムは「あの」と女に声をかけた。

「すみません、僕たち新入生なんです。遅れてしまって」

「あら。可愛らしい子猫ちゃん」

 ──声が、低い。一瞬、その声が目の前の女から発せられているものとアダムは認識できなかった。

 コツコツとヒールを鳴らしながら、女は二人へと近づく。長い睫毛と、赤い唇。うつくしい顔立ち。エメラルドグリーンの瞳はまるで絵本のプリンセスのようであったが、まっすぐ伸びた鼻筋や、がっしりとした顎の骨は明らかに男のものだった。

 背の高さと低い声が、その異様さに拍車をかけている。

「あとは教頭先生の祝辞で式典も終わるけど。入る?」

「あ……、えっ、え?」

「んもう、はっきりなさいな。男でしょ」

 いや、あんたも男だよな? そう言いたいのに言葉が出てこない。アダムの震える喉から出てくるのは酔ったヤギのような声ばかりだった。

 悲しきかな、アダム・バックランドは予期せぬ事態にめっぽう弱かった。己が想定した未来と現実に大きな差があると、その隙間に挟まったまま抜け出せなくなるのである。

 仕方ないな、とペネロペはアダムの背後から「あの!」と声を張り上げた。

「あら。そこにも居たの、子猫ちゃん」

「はじめまして。遅れてすみません」

「いいのよ。見ていて楽しい式典はこれからいくらでもある。それにしてもあなた、すごい髪ね。あたしも次はそういうのにしようかしら」

「ありがとう。出来れば最後だけでも式典に参加したいんです。入れて頂けますか?」

「ええ、もちろん。まずはしゃんとお立ちなさいな」

 硬直したままのアダムからペネロペを引き剥がし、女──の、格好をした男は、ペネロペの乱れた裾を直す。そうして、少女のスカートから伸びた棒切れのような足を見つめ、ふ、と小さく笑った。

「華奢ね。若さが羨ましい」

 穏やかに紡がれた言葉にペネロペは首を振る。

「時間だけは唯一平等ですよ。エルフ族を除けば、ですけれど」

「それが案外そうでもないのよ。ここではね」

 そう、どこか意味深に微笑んで、男は重厚なつくりのドアをゆっくりと開けた。

「ようこそヴェルミーナ魔女学院へ、小さな魔女さん。歓迎するわ」



 分厚いカーテンをかき分け、講堂へと足を踏み入れたペネロペは嘆息した。

 広い講堂の中に、村中の子供をかき集めても足りないほどの人数の、同年代の魔女たちが座っていたこともある。しかし、それ以上に少女を魅了したのは天井の絵画であった。

 高いアーチ状の天井一面に、魔女たちが集会を開く姿が描かれている。

 色とりどりのドレスに、持ち寄った果実や書物。そんな魔女たちを取り囲む、さまざまな姿をした使い魔たち。

 これこそ魔女の姿。どうして人間たちは魔女を「黒猫を連れた黒づくめの女の集団」だと思うのだろうと、ペネロペは天井を見上げながら息をつく。

 魔女だっておしゃれくらいするし、猫憑ねこつきだけを使い魔にしたのでは、ほかの動物憑どうぶつつきたちから文句が出るに決まっているのに。

「ペネロペ、座ろう」

 囁くようなアダムの声にうなずいて、ペネロペは講堂の中を見渡した。

 奥に少し高くなっている祭壇のような場所がある。

 そこからペネロペが立っている位置まで、広間いっぱいに、数人がけの長椅子がびっしりと並んでいた。つくりとしては西の村の教会となんら変わらなかったが、精巧さがまるで違う。象牙で出来ているのではないかという、不思議なあたたかみのある白い椅子には、緻密な彫刻がなされていた。

 ぐるりと広間を見渡し終えたところで、ペネロペは落胆せずにはいられなかった。後ろ姿を見るだけでも、女子生徒がほとんど居ないことが見て取れたからである。

『魔女』は単なる種族の名だ。

 人間、エルフ、ピクシー、オーガ、ドワーフ、使い魔、魔法使いに、魔女。しばしば『魔女』は『女の魔法使い』だと間違えられるらしい、という噂をペネロペは信じていなかった。魔女を見慣れた西の村人たちはそうではなかったからだ。

 そもそも、魔女は圧倒的に男が多いのだ。彼らは基本的に「おとこ魔女」と呼ばれている。もちろん、女の魔女は「おんな魔女」だ。人口全体を占める割合が男の方が多いのは、魔女も人間も変わらなかった。

「お隣、いいかしら」

 後ろから二列目、やっと見つけたおんな魔女にペネロペは声をかけた。

 後ろから見るだけでもその気品が滲み出るような、まっすぐに背を伸ばした銀髪の少女であった。少女はその美しい顔をちらりとペネロペへと向け、そうして前方の祭壇へとすぐに戻した。まるで何事もなかったかのように。

「あの、お隣──、」

「他にも空いている席はあるでしょう」

 少女はぴしゃりと言い切る。高い鼻はつんと前を向いたままだ。

 視界のはしで、ペネロペは幼馴染みが後方の席に着くのを捉えた。どうやら友達づくりを手伝ってくれるつもりはないらしい。

「どうせなら、女の子同士がいいなって」

 そう微笑んだペネロペを、少女が睨みつける。整った顔立ちと澄んだアイスブルーの瞳がもったいないほどに、憎々しげな顔だった。

「どうぞご勝手に」

「うん。ありがとう」

 席に腰を下ろすことに成功し、ペネロペはほかの同級生たちに倣って前方を見つめた。

 どうやら祝辞の準備に手間取っているらしい。壇上では数人の職員らしき男たちが作業に追われていた。しかしなぜ、大きな白い布を祭壇いっぱいに張り巡らせているのか。ペネロペには見当もつかない。

「家は」

「え?」

「家は、どちらなの」

 ツンとした声で少女に問われ、ペネロペは答える。

「故郷は西の村よ。ここへ来るのも一日仕事」

「家の名前を聞いているの。わたしはアンバー家のベアトリーチェ。あなたは?」

「ええと、家の名は、クルス。西の村のクルスよ」

「クルス? 聞いたことないわ」

 あなた、聞いたことあって? ベアトリーチェが、ペネロペと反対隣に座っている少年へとそう問う。

 メガネをかけた、顔色が悪く見えるほどに白い肌をした少年は、ペネロペに目もくれず「いいえ」と短く答えた。

「そうよね。あなた、サバトには──、」

 と、ベアトリーチェが話し出したその時だ。少女の声を遮るように、ガラスを引っ掻くような不快音が講堂を満たした。

 びくりと肩を震わせて、新入生たちは前方へと目をやる。

 白い布がぴんと張られた舞台の上で、職員らしき男性が筒を片手に声を張り上げる。

「お待たせしました。ただ今より、スチュアート教頭より祝辞を──、」

そこまで言って、再びキィイ、と響いた甲高い音に生徒たちは耳を覆った。

 ペネロペもほかの生徒と同様に耳を覆う。質の悪い魔法の波だ。同意を求めるべくベアトリーチェを見つめたが、ベアトリーチェはすでに意識を壇上へと向けてしまっている。

 仕方なく、ペネロペも視線を前方へと戻した。

 白い布の張られた壇上に、ぱっと明かりが灯った。後ろから布を照らしているらしい。そこにゆらゆらと映った灰色の影。それはだんだんと大きくなり、ひとの形になる。

「こんばんは、魔女、使い魔の諸君。まずは入学おめでとう。教職員はもちろん、在校生、そして南の魔女ヴェルミーナもきみたちを歓迎する」

 ひと型の、それも恰幅のいい男の形をむすんだ影は、身振り手振りを加えながら話し出した。まるで何かの演説のようである。

「派手なパフォーマンスをしながら大きなことを言う男には気をつけなさい。自分を大きく見せたがるのはたいてい、小さな男なのよ」

 ペネロペはそんな母の言葉を思い出していた。

 あれは確か、村の羊飼いの息子のことを暗に言っていたように思うが、こんなところで思い出すことになろうとは。

 影は尚も大きく腕を広げたり、人差し指を立てた手を振ったりしながら話している。この学院の歴史だとか、いかにこの学院が魔女育成に貢献してきたかだとか、そういう話である。まったくもってつまらなかった。

 それは他の生徒たちも同じようで、広間全体に緩んだ空気が満ちていた。アダムにいたってはすでに瞼を下ろしている。何か考え込むようにうなずいてはいるが、あれは完全に眠っているな──、ペネロペは口の中で小さく笑って、天井の絵画を見上げた。

 そんなペネロペの意識が、ふっと引き攣れる。耳のうしろの髪を一本、ぴんと引っ張られるかのような不快感だ。その感覚をもたらす先へと、少女は視線を向けた。

 講堂の上部、天井の絵画と壁との間に設けられた小窓に一匹のカラスが止まっていた。

 カラスは真っ黒のくちばしで、器用に窓を開ける。

「あ」と思う間もなかった。

 真っ直ぐに祭壇へと滑空してきた黒い鳥──、ペネロペが知るカラスよりふた回りは大きなそれが、壇上の白い布を突き破って奥へと消えた。

 生徒たちのざわめきの中で聞こえた、男の悲鳴。途切れた演説。

 己が食い破った穴から再び顔を出したカラスのくちばしには、ネズミほどのサイズの、恰幅のいい男が引っかかっていた。

「うそでしょう!? ほんとに小さい!」

 ママの言ってたことは本当だったんだ! ペネロペは思わず席を立って叫んだ。

「やめろ、はなせ! たすけて!」

 叫ぶ教頭の言葉を無視し、カラスは飛び立つ。

 名手の手から迷いなく放たれた矢のように、カラスはペネロペたちの頭上をまっすぐに越えた。そのまま講堂の後部扉から出て行った黒い矢を追って、ペネロペは椅子を飛び越え駆け出す。

「ペネロペ!?」

「アダムも来て! はやく!」

 新入生たちの騒然とした空気と、アダムの戸惑った声。それらを背中で感じながら、ペネロペは扉を走り抜けた。来るときは引きずられて通った廊下を、今度は全力で駆ける。

 教頭先生を、あの大カラスから奪還せねばならない。

 その一心で飛び出したペネロペであったが、カラスとの距離は縮まるどころか目に見えて離れていった。

 動物は、人間や魔女が真っ向からぶつかって適う相手ではない。それを山育ちのペネロペはよく知っていた。そして、彼らの弱点もまた、同じくらいによく知っている。

 そのまま真っ直ぐお飛びなさい──。ペネロペは前をゆくカラスへとそう念じる。外に出てさえしまえば、勝機はこちらにあると少女は確信していた。

 しかし、ペネロペの予想と反することが起こった。

 ペネロペが正面玄関へとたどり着いたとき、カラスはすでに、大きな月の浮かぶ夜空へと向かって上昇していくところだったのである。

「どうして」少女は口の中でそう、息を吐き出すように呟いた。

 どうして、夜目の効かないはずのカラスが、ああも迷いなく夜の空を飛べるのだ。

「あれ、どうしたんだい? 今度こそ式典は終わって──、」

「教頭先生が!」

 呑気に顔を出したエリオットへと、ペネロペは叫ぶ。

 少女の形相と、指差した先で飛ぶカラスを見て、男は全てを察したようだった。ペネロペに続いて集まってきた職員へと指示を出す。

「どなたか、ソフィー先生を呼んで来てください! ドリトル先生は門をお願いします! 僕は箒を!」

 箒。その一言で、ペネロペは「なるほど、飛んで追いかけるのだな」と納得した。

 魔女は箒で空を飛ぶ。それは人間たちのもつ魔女のイメージと相違なかった。しかし、そんなことをしている間にもカラスは闇に紛れてしまうだろう。ペネロペは唇の端を噛んだ。

「ルスア!」

 誰かがそう叫び、深い闇に包まれていた空にまばゆい光が舞う。

 振り返れば、教師らしき小柄なおとこ魔女が空へと向かって杖を掲げていた。

ペネロペは生まれて初めて、杖と呪文で魔法を使う魔女を見た。アルバは杖を使う魔女ではなかったのだ。

 しかし、今はそんなことに感動している場合ではない。夜空がわずかに明るくなったところで、教頭が拐われ、今にも南の空へと消えようとしている事実は変わらないのである。

 どうにかしなければ。日はとっくに沈んでしまっている。目の前には立派な庭園が広がっているが、きっと草木の精霊たちは目を覚ましてはくれないだろう。

 どうする、どうする。どうするの、ペネロペ!

 めまいを覚えるほどに思考は回転しているのに、打開策が浮かばない。空回りだ。いっそ泣きたくなってきたペネロペの視界に、それは飛び込んできた。

 庭の端に立てかけられた、古びた箒。

 誰かがそこに放置したらしいそれを掴んで、ペネロペはエリオットを振り返った。

「エリオさん、箒よ!」

「うん、箒だね!」

 どこかへ向かおうとしていたらしい男はそれだけ言うと、再びペネロペに背を向けた。

「箒、ここにあるわ!」

「うん、今度からきちんとしまっておくから!」

「箒、ここにあるのに! どこへ行くの!?」

「箒を取りに行くんだよ!」

 エリオットの要領を得ない回答に、ペネロペは地団駄を踏んだ。

 なぜここに箒があるのに、箒を取りに行くのか。柄を握りしめたまま憤る少女に事務員は「だってそれは掃除用の箒だよ!」とわけのわからないことを言う。ヴェルミーナ魔女学院には、「清掃使用後の箒では飛ぶべからず」という規則でもあるのだろうか。確かに、穂についた塵は舞い放題に違いない。

 しかし、迷っている暇はなかった。すでにカラスは小鳥ほどの大きさになってしまっている。これ以上引き離されたのでは追いつけない。

 ペネロペは箒にまたがり、後ろを振り返った。

「アダム!」

 野次馬根性で集まり始めた生徒たちの中で、唖然としている幼馴染みの名を呼ぶ。

 長年同じ村で過ごして来た時間は伊達ではない。その一言でペネロペの意向を汲み取ったアダムは、眉間にしわを寄せ、空に浮かぶ月を指差した。

「ペネロペ、月だ!」

「ええ、太陽には見えないわ! はやくしないとあの男のひと食べられちゃう!」

「カラスはあんな脂っこいピクシー食べないよ!」

「野生のカラスはなんだって食べるわよ!」

「ペネロペ、きみはっ──、」

「早く。寝坊助の秋草の精霊を起こすよりは簡単だわ」

 風に掬われたペネロペの髪が、七色に輝く。

 大きなため息をついて、アダムは黒猫へと姿を変えた。そうして、箒にまたがって夜空を見つめている幼馴染みの背中へと四足歩行で駆け寄り、飛びついた。

 おのれとは違う波をもつ魔力が、紅茶に落とした角砂糖のようにほどける感覚。それがゆらぎながら混ざり合っていくのを感じながら、ペネロペは目をつむる。

 幼馴染みから力を借りることには慣れていた。血が沸き立つ。

 箒に宿った精霊が目を覚ますと同時に、少女は地を蹴った。

 カラスに負けず劣らず、ペネロペは流れる星のようなスピードでもって夜空へと飛び出した。地上に残された魔女たちがざわめき、背中で幼馴染みが嗚咽を漏らす。

「急上昇はだめだペネロペ。吐きそう」

「もうすこし我慢して」

 それだけ言って、ペネロペは箒の穂を軽く蹴った。

 上半身を前方に倒して体勢を低くし、風の抵抗を無くす。つめたい風が耳元でびゅうびゅう鳴った。氷の針にでも刺されているように耳の先が痛む。

 なおもカラスは遠く先を飛んでいる。

 このままでは追いつけない、とペネロペが箒の柄を握りしめたとき、カラスが羽根を散らして方向を変えたのが見えた。白の鉄格子が彼の行く先を阻んだのである。

「なんだい、あれ」

 柔らかな毛で覆われた身体をペネロペの頬へと擦り付けながら、アダムが声を震わせた。

 学院の敷地を仕切っていた格子門が、カラスが飛ぶ高さまで伸びているのだから、戸惑うのも無理はなかった。

「誰かが門に魔法をかけたのよ」

 こちらへと向かって飛んでくる大カラスを見据え、ペネロペは言う。

「アダム」

「いやだ」

「まだ何も言ってないわ」

「頼むから一生言わないでくれ」

 唸るようにそう言いながらも、アダムはペネロペの右肩へと飛び移る。

そうして、腑抜けた声で嘆いた。

「きみはアルバさんの親父への仕打ちをひどいひどいと言うけどさ、きみだって俺の扱い大概だぜ」

「愛してるわアダム。大好きよ」

「それだけ言っとけばいいと思ってるんだろう」

 ペネロペは肩の高さで右腕を伸ばす。そこに立った黒猫は、金色の目で恨みがましく魔女を見つめた。

「絶対に受け止めてくれよ」

 そう、言うが早いか、ペネロペの脇を通り過ぎんとしたカラスにアダムは飛びつく。

 ギャア、ギャア、というカラスの怒声と、相手を威嚇する猫の声。更にはピクシーの断末魔のような悲鳴が混ざり合い、もみくちゃの塊になったものが地上へと落下していく。

 それを追って、ペネロペは箒の穂を強く蹴った。身体が自由落下を始め、吐き気が込み上げる。

「アダム!」

 名前を呼ばれた黒猫が、後ろ足で蹴るようにしてカラスから離れた。

 その口に小さな男が挟まっているのを確認し、ペネロペは幼馴染みを空中でキャッチした。獲物を失ったカラスは恨みがましげにギャアギャアと鳴きわめきながら、重い月の浮かぶ東の空へと消えていった。

 その姿を見送って、ペネロペは腕に抱いた黒猫を見下ろした。

 ぶるぶると震える少年は、ぐったりと脱力した小さな男をくわえたままだ。おそらく気絶しているのだろう。

 こうして見るとネズミみたいね、などと思いながらペネロペは地上へと降り立つ。

「ごくろうさま、アダム。お手柄よ」

「ああどうも。俺史上最悪の日だ」

「もう人の姿に戻ったら? 教頭先生は私が」

「今日はもう戻りたくない」

「どうして」

「察してくれ」

 ぐっしょりと濡れた後ろ足を震わせ、アダムは四つ足のまま歩き出す。

 ふらふらになったその姿にペネロペは笑い、顔を上げる。そうして、自分たちを見つめる学院の生徒や職員を見てぎょっとした。

 西の村の魔女を見つめる彼らの目は、明らかに異質な何かを見るものだったのだ。

「……魔女だ」

 そう、誰かが呟くのを、少女は立ち尽くしたままに聞いた。



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