第1話 西の村の魔女
西の村に手紙が届いたのは七月の終わり。
少女ペネロペの、十五歳の誕生日のことだった。
『ヴェルミーナ魔女学院』
飾り気のない封筒の上で踊るミミズのような文字を読むのに、ペネロペは随分と苦労した。
「ヴェ……、ヴェルミー?」
「ヴェルミーナ魔女学院」
ミミズとの対話に悪戦苦闘する娘へと、母アルバは穏やかな声で言った。
「ヴェルミーナ。みんな知ってる、偉大な魔女の名前よ」
「私は知らなかったわ」
「だから知りにおいでなさいって通知が来たのよ」
土壁に囲まれた小さな部屋の中で、これ以上言うことはないとばかりにアルバはカップを傾ける。「とにかく開けてご覧なさいな」
ペネロペはそんな母を怪訝そうに見つめながら、ペーパーナイフで封筒の封を切った。
「親愛なる魔女の皆さま。七月も暮れ、風の匂いも変わり始めた今日──、」
「そこは飛ばしてもいい」
「ええと、厳選なる審査の結果、ペネロペ・クルス氏に入学の資格を与えることをここに──、入学したいだなんてひと言も言っていないのに?」
「世間なんてそんなものよ。いつだってこっちの気持ちなんてお構いなしなんだから」
なんでもない事のようにそう呟く母を、娘は見つめる。
澄んだすみれ色の瞳が揺れていた。
「私、学校へは行ってる。みんなと同じように、村の学校に行ってるわ」
「昨日まではそれでよかった。でも、状況が変わったってことよ」
準備しなきゃね。母の言葉に少女はぎゅっと封筒を握りしめる。どうやらこの封書が届いた時点で、こちらから入学を辞退するという道はないらしかった。
ペネロペ・クルスは、魔女の母、アルバ・フィン・クルスから生まれた魔女である。年は今日十五歳になったばかりだ。
ペネロペは父のことを顔も名前も知らなかったが、北西のこの村は閉鎖的であるわりに片親のクルス親子に対して寛容だった。それは、母アルバが優秀な魔女であることも大きく作用していた。彼女の調合する薬がなければ、一生をかけて鼻づまりに苦しむような人間がこの村には大勢居るのだ。
「この学校、どこにあるの?」
半ば諦めにも似た気持ちでペネロペは問う。
「首都のど真ん中、とまではいかないけれど、国の中心部よ。大丈夫、一日もあれば着く」
「往復するのに二日もかかってちゃ勉強する暇なんてないわ」
「なにを言ってるの、ここから通えるわけないじゃない。ヴェルミーナ魔女学院は全寮制よ。三年制だったかしら」
「ぜっ……」
全寮制。三年も、この家を離れる?
椅子から立ち上がり、立ち尽くす娘を一瞥し、アルバは頬杖をつく。
「お掛けなさいな」
「……知らなかった」
「今言ったわ」
信じられない、と、ペネロペは無邪気に笑う母を見上げる。
思えばペネロペは幼い頃からずっとこの母親に悩まされてきた。娘よりもよっぽど『天真爛漫』という言葉の似合う母は、確かに、魔女として優秀である。しかし、ひととしては果たしてどうであろうかと、母の使い魔である黒猫が床で溶けているのを見るたびにペネロペは思ったものだ。
「私、行きたくない」
「大丈夫、あなたと同じように田舎から出てくる子がたくさん居るわよ」
「そんなの行ってみないとわからないじゃない」
「そう、その通り。行けばわかる。おそるるなかれよ、ペネロペ・クルス」
ペネロペは生まれてからずっと、この小さな村で過ごしてきた。この地に住まう魔女はクルス親子のみである。だからこそ、ペネロペとて同じ血をもつ魔女たちが集う学校というものに心惹かれないわけではない。
ともに空を飛んだり、髪に咲いた花を比べ合ったり、時には悪戯をして叱られたり。そんな毎日はさぞ楽しいだろうと思う。
しかし、それだけでは村を出て行く理由にはなり得ない。
ペネロペ・クルスはおのれの生まれた村を心から愛していた。
「この村で生きていくなら、学校になんて行かなくても生きていける。ママだって魔法学校を卒業したわけじゃないって、そう言ってたじゃない」
「私の若い頃はまだ弟子入り制度が生きていたのよ」
そう言ってアルバは笑った。ペネロペのものとは違う、夕焼けのような赤毛がふわりと揺れる。日の入りの頃にはペネロペの七色の髪も、我こそはアルバ・フィン・クルスの娘なりと同じ色に染まるのだ。
「でももうそんな時代じゃなくなったのよ。ママの頃だって、弟子入り組より学校卒の子たちの方がずっと就職率もお給料もよかったわ。それが現実よ」
「そんな現実知りたくなかった!」
「そう。知っているのと知らないのじゃ全然違うの。わかるでしょう?」
でも、と食い下がる娘に、母は続けた。
「この村で生きていくならそれでいい。あなたの人生よ、お好きになさいな。でも、この村しか知らないでここに残るのと、外の世界を知って戻ってくるのじゃ全然違う。村の人たちにとってもね」
「ペネロペ」静かな声で呼ばれたおのれの名に、少女はゆっくりと顔を上げる。
「持つものは、持たぬ者のために。私たち魔女はそうあらねば」
「……わかってるけど」
「大事なのは血じゃない。どう生きるかよ」
「今日やっと十五歳になったばかりの娘にそんな難しい話しないでよ」
「あなたを大人と見込んで話しているの」
「またその話?」ペネロペはうんざりと肩をすくめる。
「昔の魔女はみんな、十三歳で弟子入りしたのよ」幼い頃から、耳にたこが出来るほど聞かされ続けた説教であった。
「私もママに弟子入りすればよかった」
「あら。私みたいなずぼら魔女から学べることがあると思って?」
「威張るようなことじゃないでしょ」
ペネロペ、と、もう一度。母親然とした声で、アルバは娘を呼ぶ。
そうしてぎゅっと、愛娘の華奢な身体を抱きしめて言った。
「寮での歯磨きを忘れないで」
「私を大人と見込んだんじゃなかったの?」
呆れ果てたように、小さな魔女はため息をついた。
ペネロペにヴェルミーナ魔女学院からの入学許可証が届いて、ひと月とすこし。いち早く朝の空気が冷たくなり始めた西の村に、少女の駆ける音が響く。
「おはよう、ペネロペ。今日発つんだったね」
「ええそう、ついに今日よ!」
「うちの村から魔法学校出身者が出るだなんて、アルバも鼻が高いだろうさ」
「さあ、どうかしら。ママをよろしくね、お爺さん!」
「今日も美しい髪だねペネロペ。見納めかと思うと寂しいよ」
「切って置いて行けないことが悔やまれるわ!」
井戸で水を汲む女や、家畜のための干し草を運ぶ老人。朝日とともに活動を始める村人たちに返事をしながら、ペネロペは村の小道を走り抜け、家の周りをぐるりと囲む柵を一足で飛び越えた。七色の髪が、日の光を反射して輝く。
「ママ、東の空に金色の太陽が昇ったわ!」
「あら、よかったじゃない。吉日ね。東の魔女の機嫌がいいのよ」
「村の境まで行ってたのか?」
「おはようアダム、もう来てたのね」
体当たりでもするように扉を開けたペネロペを、母と、ひとりの少年が迎える。
少年の名はアダム。ペネロペと同じ十五歳であり、アルバの使い
父親の血を色濃く受け継ぐ少年は、金色に光るケモノの目を不機嫌そうに歪めた。
「行くのなら俺も誘ってくれればよかったのに」
「窓は叩いたわよ。まだ寝てたんでしょう?」
「起きてたよ。ベッドから出られなかっただけで」
「そういうのを寝てたっていうのよ。ママ、ノアおじさんは?」
「馬車の手配に行った。すぐに戻るわ」
アルバはそう言って娘へとマントを差し出す。この日のためにあつらえた、闇夜に溶け込むような漆黒のマントである。
大きなフードは少女の頭を覆い、そばかすの目立つ頬までをも覆い隠した。
「こんな魔女らしい格好をするのは初めてね。村の外に出るって感じがする」
「ペネロペ、聞きなさい。いい? 駅までは馬車が連れて行ってくれるわ。やってくる東向きの列車に乗って、中央駅で──、」
「中央駅でヴェルミーナ魔女学院行きの列車に乗り換える。切符を無くさない、アダムとはぐれない、迷ったら駅員さんかお巡りさんに話を聞く、それ以外の人にはついて行かない。改めて思うけど、これ、十五歳の娘にする注意じゃないでしょう?」
「あなたったら本当にぼんやりしてるから」
「誰に似たのかしらねぇ」
そう言って無邪気に笑う娘を抱きしめ、アルバはフード越しの愛しい頭に口付けた。つむじから母の魔力が染み込むのを感じ、ペネロペはその心地よさに目を細める。
ひとしきり娘に魔法をかけ終えたアルバは、背後で佇むアダムを振り返った。
アダムもまた、ペネロペと同じ黒のマントを身につけている。
「アダム、ペネロペをよろしくね。荷物は寮に送ってあるから」
「俺とペネロペは寮も別なんだよね?」
「ええ。あなたが学院の使い魔科に合格していて本当によかった」
「父さんもここ一カ月、ずっと同じことを言ってるよ」
ペネロペにヴェルミーナ魔女学院からの入学許可証が届いた数日後、同じ封筒がまたもや西の村に届いた。
今度は丁寧な字で『ヴェルミーナ魔女学院使い魔科』と綴られ、更には『アダム・バックランド様への重要書類』と続いていた。
「今は使い魔の学科もあるんだなって、父さんが驚いてたよ」
「昔は、相性のいい使い魔と出会えたら儲けものみたいな世界だったのよ。学生の時点で魔女と使い魔を組ませておいた方が、確かに合理的よね」
ガタガタと、外で木と木がぶつかるような音がする。ドアの前で止まった音にアダムが「父さんだ」と静かに言い、ペネロペがドアを開けた。
家の前には小さな馬車が停車していた。木製の、幌がついていないタイプの簡素な一頭立てのものである。ただし、馬は繋がれていない。
荷台から黒猫が一匹、流れるように躍り出て、ひょいと飛び降りた。その闇色の前足が地に着くより前に、黒猫はすらりと背の高い男へと姿を変える。
黒い髪と金色の目、整った顔立ちはアダムとそっくりである。
「やあ、新入生諸君。お待たせしたかな」
「ううん。今帰ってきたところよ」
「それはよかった。ペネロペ、最後にきみの髪をよく見せてくれ。しばらく見られないと思うと寂しいよ」
「寂しいだなんて俺には言わなかったくせに」
「なんだ、寂しいのならキスしてやろうか、アダム」
抱き上げたペネロペを地上へと下ろし、ノアは息子へと腕を伸ばす。猫が威嚇でもするように毛を逆立てた少年に、男はからからと笑った。アダム・バックランドもまた、能天気だと評されがちな親に頭を悩ませる一人である。
「さあ、二人とも早く馬車に乗って。二十時からの入学式に遅れるわ」
「どうしてわざわざ夜に入学式するのかしらね」
「魔法学校らしいからじゃないか?」
ほとんどの荷物はすでに学院の寮へと送っている。小さなトランクをそれぞれひとつ持ち、ペネロペとアダムは馬車に乗った。
朝露で湿り気を帯びた木の匂いが二人の鼻腔をくすぐる。
ゴロ、と音を立て、馬車は動き出した。馬を繋いでいないにも関わらずだ。それを気に止める者はこの村には存在しない。
「ペネロペ、毎日きちんと歯を磨くのよ!」
「それ何回言うつもりなの?」
「親に言われなくても歯くらい磨けよ」
「磨いてるわよ!」
靄がかった光の射す空の下を、馬車はゆっくりと進む。それぞれの親の姿が小さくなっていくのを二人は最後まで見つめ、そうして示し合わせたように同時に息を吐いた。
二人の硬い呼吸が馬車の上で混ざり合う。
いつしか馬車は畑を抜け、村の境界線を越える。山間に沿ってゆるやかに蛇行する道を進み、小さな馬車一台がやっと通れるだけの森の小道へと入った。木が生い茂り、鬱蒼としたそこはひとすじの陽射しすら通さない。
二人はどちらともなく手を握りあった。ペネロペと同じく、アダムも一度も西の村から出たことがない。不安は同じだった。
「向こうに行ったら何がしたい?」
幼馴染みの冷たい指先を握って、アダムは問う。
わざとらしいくらいに軽い声は、軽すぎるあまり語尾が震えていた。今にも飛んで行きそうなそれに、ペネロペは笑う。
「何がしたいかしら。昨日、あまり眠れなかったからたくさん寝たいかな」
「俺も」
「まだ寝るの?」
朝日に起こされた花がほころぶように、少女は笑った。
その横顔を、わずかに射し込んだ光が照らす。ペネロペの白い肌はその光を跳ね返し、七色の髪が漆黒のマントの中できらきらと輝いた。
木々の密度がまばらになり始める。森を抜けた先は、またも田舎道だった。それでも、古びた道路標識がぽつりぽつりと見られるようになる。
「駅が近いのかな」
アダムの言葉にペネロペは小さくうなずいた。
到着した駅は、駅と呼ぶにはいささか心もとない場所であった。
ペネロペは幼い頃に絵本で見た、大きな時計塔や切符売り場、カッチリとした制服姿の駅員を夢想していたのだが、それらはひとつとしてそこに存在しなかった。あるのは青空と、駅名の書かれた朽ち果てそうな看板と、乗り場らしき一枚岩だけだ。
「案外、ヴェルミーナ魔女学院も片田舎かもよ」
先に馬車から飛び降りたアダムが、ペネロペへと手を差し出しながら言う。
「もう少しマシなのを期待してたんだけどな」
「ママたちが口煩く言ってたのは中央駅からだったじゃない。そこに賭けましょうよ」
「なに賭ける? 俺は思いのほか田舎、に10ルーベ」
「そういう意味の『賭ける』じゃないわよ」
「人生にスリルは必要だろ」
確かにその時、アダムはそう言った。しかしこれは度を過ぎているんじゃなかろうかと、中央駅に到着したペネロペは思うことになる。
東行きの列車に乗り込み、二人は、来た時と同じようにひとりでに村へと帰っていく馬車を見送った。それから半日近くかけて、列車は東の方角へと西の村人をいざなった。時折奇妙な音を立てては停車しながら、おんぼろ列車は国の中心部へと向かってひた走る。
そうして、窓に切り取られた空が夕焼けに染まる頃。行き着いた中央駅で、二人は立ち尽くしたのだった。
この駅には、きっと、西の村の村人全員を──いや、その親戚筋全員を集めても、足りないほどの人間が集まっている。ペネロペは呆然と、駅を忙しなく行き交う人々を見つめた。
ハットをかぶった男も居れば、子供連れの女も居る。
ベンチに腰掛ける老夫婦。学生らしき男女。ペネロペが思い描いていた制服姿の駅員も、そこかしこに立っていた。
別世界だ、と少女は思う。色も、匂いも、大きさも、全てが村とは違った。
中央駅はその名の通り、この国の中央に位置する駅である。東西南北、国の最果てを走る古い線路もめぐりめぐればここに行き着く。そうして再び、線路は国の隅々へと伸びていくのである。
ひっきりなしにホームへと入ってきては出て行く、姿かたちも年季も様々な列車たち。見上げた駅舎の天井は高く、まるでステンドグラスのように夕日を受けてきらきらと七色に光っていた。
もし近所にこんなものがあったとしたら、村の人たちは私の髪なんてありがたがらなかったろうな。そこを歩くべくして歩いている人間たちを見て、ペネロペはわずかに羞恥心を覚えた。真っ黒のマントをまとう自分たちが、とんでもなく場違いに思える。
事実、立ち尽くす二人を見下ろす人々の目は好奇の色に染まっていた。
「せめてアダムだけでもフードをとって」
「どうして」
「目立つから」
「気にしなきゃいい」
「いいから早く」
父親を批判するわりに、その能天気さを受け継ぐ少年をペネロペは急かす。
そんな幼馴染みからの目線に「わけがわからない」と肩をすくめ、アダムは被っていたフードを背中へと払う。暗雲が晴れるかのように、満月色の瞳が姿をあらわした。
「これでいいだろ」
そう言ってアダムは幼馴染みの手を引いた。ここから更に、この広大な駅舎の中からヴェルミーナ魔女学院行きのホームを探さなければいけない。
ホームは難なく見つかった。
乗ってきたおんぼろ列車とは違い、ヴェルミーナ魔女学院行きの列車はたいそう立派であった。ぬらりと黒い、巨大な車体はいっそ不気味なほどだ。
更に二人は、その車両の多さにも驚いた。もちろんこの列車には、ヴェルミーナ魔女学院の生徒以外も乗車する。それにしたとてこんなに座席が必要なのかと、車内に乗り込んだ二人は整然と並ぶシートを見つめた。
しかし、地平線まで永遠と続きそうな座席とは裏腹に、乗客の姿はまばらである。
「学院行きの列車よね、これ」
「そう書いてたはずだけどな」
「みんなもう学校に着いてるのかしら」
中央駅からは同じ目的地へと向かう同志と乗り合わせることになるだろうと、二人は予想していた。しかし、どうにもそれらしき学生の姿は見当たらない。
「やっぱりさっきの線での途中停車がまずかったか」
「でも、そんなに長い時間停まってたわけじゃないし」
そう、二人は同時にうなずく。
西の村の最寄り駅から中央駅へと向かう途中、おんぼろ列車は何度も奇妙な音を立て、その度に停車した。ゆえに二人は予定より随分遅れて中央駅へと到着していたのだ。
乗車予定だった学院行きの便は、とっくに出発してしまっている。
「入学式は二十時からだっけ? 今は何時かしら」
「少しくらい遅れても大丈夫だろ」
「そうね。焦っても仕方がないわ」
既に新入生は学院に到着し、保護者との別れを惜しんでいる時間である。
のちに、この二人の時間に対するルーズさは同級生たちから「村タイム」と呼ばれ大変問題視されるわけであるが、今の二人はそんなこと知る由もないのだった。
二人はそこから更に列車に揺られ、数時間後、ヴェルミーナ魔女学院前の駅で降車した。もちろん、その駅で降りたのはペネロペとアダムの二人だけであった。
すでに入学式典の開始時刻を過ぎているのだから、当然である。
「ここであってる?」
「駅名はね」
ペネロペに手を貸してやりながら、アダムは駅名の記された看板をしゃくって見せた。
あたりは闇に包まれていた。列車がゆるゆるとスピードを上げながら遠ざかっていき、暗闇の中へと溶けるように消える。
空気を震わせるものがなくなったその場所を、静寂が、我が物顔で手を広げていくようであった。虫の音すら聞こえず、耳鳴りがしそうなほどだ。
ペネロペは改めて、駅舎を見渡した。
赤い屋根が愛らしい、おとぎ話に出てきそうな駅だ。駅員の姿は見当たらない。
改札口には小さな鳥小屋が建っており、鳥が出入りする為の穴の上には『切符はこちらへ』と文字が彫られていた。
二人は首を傾げつつ、その穴へと切符を放り込む。
柱にかけられたランタンの中では、オレンジ色の光がいくつか揺れていた。背伸びをして中を覗き込もうとしたペネロペに、アダムが「ホタルだよ」と素っ気なく言う。
「行こう、ペネロペ。さすがにこれ以上遅れるのはまずい」
二人はおそるおそる駅を出た。
駅前には、整備すらされていない小道が左右へと伸びていた。ご丁寧に『ヴェルミーナ魔女学院はこちら』と矢印の形をした小さな看板が立っている。
「右がヴェルミーナ魔女学院。反対へ行ったらどこに着くのかしら」
「知っても仕方ないから看板が立ってない」
ほら、と差し出された手にペネロペはトランクを託し、幼馴染みの背を追った。
細い道が続く。アダムとペネロペが並んでちょうど横幅いっぱいになる道である。脇には背の低いもみの木が不規則的に、しかしほんのすこしの隙間もなく生えていた。
木々が音を吸収している。
初めての地で、幼馴染みと二人きり。不安が再び頭をもたげる。
唯一、感謝すべきことがあるとするならば、途切れることなく路傍に設置されている街灯の存在であった。駅のものと同じ、オレンジ色の光が飛び交うランタンが、二人の道を示すように順々に点灯する。
そうして二人が行き着いたのは、朽ち果てそうな門構えの教会だった。
「ヴェルミーナ魔女学院はこちらって、看板に書いてたわよね?」
錆びついた鉄格子の門を見上げながら、ペネロペは呟く。隣でアダムが小さく鼻を鳴らした。
小川から大海原へと流れ出たように、そこは開けていた。二人の背丈の倍はあろうかという鉄格子の柵が左右に真っ直ぐ伸びている。
トランクを置いたアダムがもう一度鼻を鳴らし、変色した鉄の扉を軽く押した。
ガチャン、と音を立てて門が開く。更に力を加えれば、悲鳴のような金切り声とともにそれは大きく口を開けた。奥にはやはり、だだっ広い土地と、神すら見捨てそうな教会しか見当たらない。
何度もすん、すん、と鼻を鳴らすアダムにペネロペは言った。
「大丈夫、鉄の匂いならそのうち取れるわ」
「違うんだって。なんか、匂う」
すん、すん、すん。アダムはその場にしゃがみ込み、更に鼻を鳴らし続ける。
そうして、「これだ」と赤茶けた錠前を拾い上げた。
「魔力が混ざっててわからなかった。門自体に魔法がかけられているみたいだ」
「オープン・ザ・セサミ! ってやつね」
「ペネロペ、これ以上遅れたらまずいって言ってるだろ」
幼馴染みにせっつかれ、ペネロペは息をつく。
日が沈んでから魔法を使うのは骨が折れるのだ。
「アダム、少し離れて。ええ、うん、それくらいでいい」
アダムを制し、鉄の門を一度閉める。錆びついた鉄に触れる指先が切れそうだ。
集中力を高めるべく、ペネロペは目を瞑る。確かに魔力の波を感じた。複雑に絡み合ったそれが一部、乱暴に破かれているのを不思議に思いつつ、少女は門を握りしめる。
精霊たちの声に耳をかたむけ、語り掛けるのだ。
「夜分にごめんなさい。どうか、私たちに力を貸して」
自然とともに生きる──、いや、自然そのものである精霊たちが、寝ぼけ眼で声を上げる。耳をくすぐるそれに小さく笑って、ペネロペはぱちん、と指先を弾いた。
ペネロペの隣でアダムが「わお」と声を上げる。魔女はゆっくりと目を開いた。
ランタンと同じオレンジ色の光が無数に漂う、幻想的な景色がそこにあった。
どこまでも永遠に続くような、真っ白の門。朽ち果てそうであった教会は姿を消し、そびえ立つ大きな建物へと姿を変えている。
白い壁と、そこに並ぶたくさんの窓。いち、にい、さん、と階数を数え始めて、ペネロペはめまいを覚えた。二階建て以上の建物など西の村には存在しなかったのだ。
真正面には本館らしき棟が建ち、白い壁が左右へと伸びている。そうしてその壁は奥へと折れ、更に続いているらしかった。
「賭けは俺の負けだな」
西の村では見ることのなかった立派な建物を前に、アダムは興奮気味に息を漏らす。
「俺たち、とんでもないところに来たのかもね」
立ち尽くしたままの幼馴染みの手を引き、少年は学院内へと、一歩、足を踏み出した。
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