32話 あした

 昼まで寝過ごしていても、ふたりの今日は始まったばかりだ。


「どうだ? もっとよく体を確認してみろ、絶対普通じゃねえから」


 久々に目覚めがスッキリだったのもあって、リンには自身の体がどの程度の状態なのかという自覚がなかった。しかしそう言われてしまえば、段々と節々の痛みを認識してしまう。リンは体のあちこちを触って唸り声を上げている。


 リンは知らなかったが昨日の依頼で、その力を死の寸前まで使ってしまっていた。


 いろいろ無茶をして、どれも途中で気を失ったまま死んでもおかしくはなかった。特に最後、トラックから飛び出したのはシロからしても賭けだった。分の悪い賭けではなかったが、万が一の可能性を否めない程度にはあった。


 そんな激戦をなんとなくで振り返ったリンが、軽く笑いながら話す。


「まあ確かに、昨日はあり得ないくらい疲れた。まだ体が痛いのが分かるよ。俺は寝ぼけてたんだな」

「……ああ、今もそうみたいだぞ。自分の状態を把握するのも探索者の仕事のひとつだ。よく考えておくんだな」


 リンの様子に呆れた顔をするアル中が言ったように、肉体の疲労や消費した力を一日で回復できる訳が無いのだ。それに昨日は普通にやばかった。病院送りの前に体がバラバラになっていたかもしれない。


 そこはシロが上手く負担を調整していたが、失敗をした場面もあった。


 常人から並みはずれ過ぎているだけで、シロも無敵とはいかない。状態はリンよりも数段悪く、流石に休養が必要だ。


 眠っていたとはいえ、すぐ傍のリンがベッドの上でわちゃわちゃしていても気付かない、そう言ってしまえば相当だ。何事も無かったかのように、普通に起き上がるのが異常だと言った具合だった。


 なにしろ受容体の源泉である、自らの魂まで消費していたのだから。


(まだ体が痛いのはナツメにも飲ませたからだろうよ。おかげでこっちまで大変だ。まったく、大胆なんだか臆病なんだかなー)


 見た目通りの可愛い女の子しか構築していないシロが席を立ち、明るい笑顔でリンを誘う。


「とにかく飯を食いに行くかー。もう昼みたいだし、食堂に行くぞ」

「飯か! そりゃあいいな! ……昨日もあれだけ食べたってのに、腹はちゃんと減るもんだよなぁー」


 リンが腹に手を当てて答えた。顔には苦笑いが浮かんでおり、声も僅かに調子を落としたものとなっていた。


「はは、おまえは飯ばっかだなぁーまったく」


 これでは人の事を言えないと思ったのだ。苦笑ついでに、話を変える突っ込みを入れる。


「んでさ、いつまでその恰好のつもりだ?」


 間髪入れずに返すアル中。


「これが自然体なんだよ」


 寝室から出てきたままの恰好を見て、至極真っ当な疑問を抱いたリンから指摘が入る。


「おかしいだろ。なら外に出歩いてる人達も、みんなそんな恰好の筈だ。でもそんな奴は……あんまり見たことがないな。ああ、とにかくだ。俺もその恰好で外出したいとは思わないしさ、シロだってそうなんじゃないか?」


 スラム街には異常者が少なからず存在する。


 それでなくとも、経済的な事情から服をまともに着ていない人も多い。だが普通は都市からの支援で、ゴワゴワとした耐久性や防寒性に欠片も期待できない薄汚れた服を貰える。しかし、何故か貰いに行かない人も存在していた。


 どうしてだろうと、リンは結構な時間を費やして悩んだ事もある。考えても分からなかったので、試しに素っ裸同然の恰好でスラム街を走り回った。


 それで分かったのは、走るのは疲れる、周りから変な目で見られる、というふたつだけだった。次の日から配給に並ぶ時に、普段より距離を取られていたのだ。


 今から思えば、彼らは生きていたくなかったのかもしれない。ちょっと違うかも。生きていようが死んでいようが、どうでもよかったのかもしれない。


 いつモンスターや他の異常者から襲撃を受けるとも知らない生活だ。今日という日を生きた命を、都市からは支援とは名ばかりに利用されて新鮮な肉壁扱いされる毎日。


 内からは都市の思惑や劣悪な環境下での争いごとが、外からは血肉を求め彷徨うモンスターに狙われて貪られる結末が。


 あしたの保障など一切なく、そんな今日が来る日も来る日も訪れる。


 日がな一日を適当なボロ切れの上に寝そべって過ごし、配給の時間になれば生きる糧を確保する為に行動する。ひとりで、まるでゴミのような生活を続けていたリンには、悩むのが唯一の娯楽だったのかもしれない。


 今更ながら、リンは彼らのことを思い出していた。気づかないうちに、その顔はどこか複雑なものとなっていた。


 シロが椅子から立ち上がって、ソファで寛ぎながらも、なにやら思い悩んでいるリンの傍に座った。細くキレイな肢体を見せつけるように足を組むと、自然に微笑んで視線を合わせる。


 頬を緩めたリンを見て、シロも柔らかく笑みを見せた。


「なあリン」

「どうした? 食堂に行くんじゃなかったのか」


 シロがもったい付けるように視線を外して酒を飲む。何か分かったかのように表情を変えて、尊大に頷いて見せた。


「もしかして、着てた方が興奮するとか?」


 非常に悩ましい問題だ。


 ここでさっきから下着姿のままのシロを怒鳴れば、途端にそういった者と同じ扱いである。しかし、このまま黙っていても平気な問題では無いだろう。リンはどちらを掴み取っても厳しい立場に追いやられる。


 こんな事で体感時間を歪めるリンは確実に成長していた。これも、師の教えの賜物だろうか。


 最近ではアル中のかわいいセクハラ大魔王という、挙げれば称号が幾つあるのか分からない、大変にイカれた存在に翻弄されていたリン。しかし元々、こういった事には疎いのだ。


 生まれてこの方ひとりぼっちだった時間の方が長い上に、劣悪なスラム育ちはそう簡単に抜けるものでは無い。知識としては一応と持っていても、経験と照らし合わせる事が出来ずにどこか困った様子で話す。


「いやな。シロが何を期待してるのかは知らないけど、俺には、そういう事はよく分からないんだよ」

「そうか、それは大変だな。ちなみにだけど、俺はおまえの匂いとかふわふわの髪とかが好きだな」


 そこには照れや誤魔化し、動揺や冗談の類など一切が混じっていなかった。まさか普通に返されてしまったので、シロは素で答えてしまう。


「ああそうか。うん。確かに、俺は笑った顔のシロとかが好きだな。なるほど、そういう事か」


 その言葉に、シロは世界が停止した様相を見せて固まる。


「えっ……?」


 馬鹿みたいにガンガン鳴り響く二日酔いに迎え酒で抵抗した頭は、もはや爆発しそうだった。暫くして時が刻み始めた頃には、手で顔を覆い隠して、わなわなと震え出した。それでも、指の隙間から金色が輝いて様子を窺っている。


 消えかかっている理性と数少ない正気が警鐘を鳴らし続けるも、酷く痛む節々や鳴りやまない頭痛が常識を容易にかき消した。


 そもそも、それらに興味など無いのだ。


 そんな事はどうでもよく、頭に何度もリピートされるのはリンの言葉だけだった。胸の高鳴りが留まる事を知らず痛いくらいだった。体温が上昇してしまい、じわりとした汗が真っ白い髪をうなじに張り付けている。


「……す…すす………す……き……」


 非常に悩まし気にもじもじと身を捩り、声にならない声が僅かに零れ出していた。顔はとっくに赤く染まってしまっている。そのままリンに抱き着いて、上目遣いでようやく意味のある言葉を口にした。


「そんなのは、だめだ……」


 リンは不思議に思って見ていたが、シロが顔を赤くした時点でジト目になっていた。なんだか、今回は長いなと思った程度だった。シロの呟きも普段通りの冗談や、最近分かった揶揄いだと思って大して気にはしなかった。


「そうなんだ。じゃあもういいか?」


 何気ない一言によって爆発した。


「んえっ? もういい!? いや、だ、だめ……! ああでもだめじゃ、うあぁ――!」

「ぼんっ!? はあっ!? ――おいおいなんだこれッ!! これは吸っても大丈夫なやつなのか……!?」


 原理は一切不明だが、白い頭の天辺から、これまた白い煙が爆発音と共に吹き出した。トラウマ持ちのリンには応えるものだ。


「だいじょぶ、じゃない」


 と、そんなか細い声も聞こえないほどに大慌てのリンだったが、吸い込んでも問題は無さそうな感じだったので落ち着いた。


「なあ、これはいったい……? まるで意味が分からないぞ」

「ああそうだよな、いみわかんないよな。うん。じゃあ……」


 普段の行いの結果ということもあるが、そういった機微には鈍いのだ。それを聞いたまだ赤くなっているままのシロが、危険な事を呟きながらリンの膝の上に乗って抱き着く。そのまま胸に顔を埋めて動かなくなった。


 荒い呼吸を繰り返すシロを見て、心配になって声を掛ける。


「大丈夫……? どっか頭でも打ったのか?」


 今更な話で変なのはそうだが、シロの様子はまた違って変だった。さっきは頭から爆発音がして、煙まで出していた。


 まともな反応も帰ってこないので、リンは大人しくテレビを見て過ごす事にしたようだ。


 どうせ今日は仕事を受けないので時間はいくらでもあるのだ。最近のシロは抱き締める力がどこか弱々しく、窒息の心配もなかなか減った。わざわざ抱き返して起こす必要も無いだろう、まあ大丈夫だろう。


「さて次のニュースは、シノノメ皇国から…………」


 テレビから垂れ流される情報が素通りしていく中、冷静に考えてマズいと思ったのか、リンは話題を切り出してみることにした。


「そういえばさ、なんの話をしてたんだっけ」

「んん……?」


 よく聞けば普通な声色に、シロはくぐもった声を出しながらようやく顔を上げた。息遣いが感じられる距離で、お互い真顔のまま微妙な時間が流れる。


 ふいに金色の双眸が細められ、


「ばか」


 率直な物言いに、リンは少しへこみながら目線を逸らして応える。気にしていた事を言われたのだ。


 シロが酒臭い息を盛大に吐いて冷静になる。こいつなんなん? という想いがありあり込められていた。都合のいい耳や眼はそれで鳴りを潜めた。


「腹が減ったんだろ。おまえもさっさと着替えたらどうだ」


 リンが酒臭さに包まれながら肩を竦めている間に、シロは音も立てずに対面のソファで寛いでいた。なんだか楽しげな声がした方を見ると、今度はリンが固まる番だった。


 その恰好は先程までの下着姿でも、いつも通りの不良少女でも無かった。


 少々厚底の白い靴。ボトムはサスペンダーで吊ったパステルカラーの水色スカートが、ふんわりと開いて膝まで覆い隠している。トップは白を基調とした色合いで肘まで伸びており、胸元にはワンポイントで青いボタンが付いている。


 どこか落ち着いた清楚な雰囲気すら感じられる恰好で、穏やかな笑顔。


 最小限の主張に抑えられた一部分も、そんな雰囲気に一役買っているのだろう。


 今日は休日。本人が言った通りでこれは普段着のひとつだ。不良少女はイカれた戦闘用の衣装に過ぎない。それに普段から左ふとももに巻いていたベルトを今は構築していなかった。リン評価、何か小さい物が挿せそうな、あのベルトである。


「せっかくのお休みに、まさか冷凍食品などを召し上がるのですか?」


 耳にすっと入ってくる澄んだ声に、リンは不思議そうな顔で首を傾げる。


「……ああ。食堂に行くんだったな。そうだ、似合ってるぞ?」

「当たり前だ。俺はかわいくて、しかも美人なんだ。なに着ても似合うに決まってんだろ」


 不敵に笑って、また酒に焼けた声に戻った。リンは面食らった様子で、


「それもそうだったな」


 にこりと笑って呟いた。





 どんな者にも、生きてさえいれば、あしたが訪れるのだ。


 それがいつもと変わらない今日だったとしても。不平等が多い世界で、これだけは純然たる公平だった。


 昨日を生き延びたリンには、昨日とは違ったあしたが訪れる。ソファから立ち上がったリンが、感慨深げに呟いた。


「休日か。そんなの初めてなのかもな」


 リンは探索者としての道を歩んでいる。


 光の差さない、薄汚れた路地裏で縮こまっている暇など無いのだ。とは言っても、探索業で疲れ切った体を正常な状態に持っていくのも、シロの言った通りで探索者の仕事であることには違いが無い。休日とは名ばかりで、ある種の補給に過ぎないのだった。


 一見するとただ漫然とした一日である。だが、大切な一日になるのには十分だ。


 リンは都市の中で安全を享受する者達と、初めて同じ一日を過ごせるのだ。


 その手で掴み取ったものは途方もなく大きい。それだけ、リンという命の価値は高かったのだ。

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