31話 寝ぼけた頭

 太陽が真上で輝いて、人々に温かい陽光を振りまいている。良く晴れた、いい一日である。


 ここノライラ都市周辺に雨など降る方が稀なのだ。もし降っても、すぐに止むのが精々だ。


 ――雨の中おでん屋台を引っ張るのは大変なんですよ~。客足も落ちてしまいますからね~。だから雨は無い方がいいんですよ~。


 という美人女将の苦悩が、最大の理由でもあった。


「探索者さんにかかわらず、都市の皆さんにもいいこと尽くめだと思いますよ。誰だって濡れたくありませんよね? おでん達も、だし汁以外は嫌だと言っていますよ」


 おでんは、何より優先されるのだ。


「そういえば。ここに来たのは用事だったりします? 本当に珍しいですよね、何百年ぶりでしたか。ああそれと。リンゴのおでん、食べていかれますか」


『――――』


「それは残念で……。まあ、本当ですか!? 嬉しいです! そうそう。リンは生でいったそうですが、こっちは調理済みですよ。美味しいとは思うんですけど、あんまり売れないのでボツですかね~」


 楽しい試食会は休憩も挟まずに続いた。二柱が本題に入ったのは、僅か一日後だった。





 いくらエリアが大活性を起こそうが、人類が滅亡する事などあり得ないのだ。


 それでも、都市のひとつやふたつは滅びるかもしれないが。


 しかし運よく、ノライラ都市はコロニケからの襲撃を耐えきった。


 つまり、いつも通りの朝を迎えたのだ。何も変わらないのだ。ただ一日の始まりは、とっくに過ぎていた。


 少なくとも、穏やかな顔で眠りこけているふたり組には。





 寝室にあるカーテンの隙間から日光が零れ落ちて、薄暗い部屋をほんのり明るくしていた。


 少し耳を澄ませば都市の喧騒も聞こえてくる。寝起きの耳には酷かもしれない。ここは都市の下位区域で、その商業区画だ。しかもスラム街と隣接している立地で、雑多な日常は、それ相応の音を奏でるというものだ。


 リンはカーテンから零れだす明かりと、少しの寝苦しさを感じて眠りから覚める。


「うぅん……なんだもう朝か?」


 布団を半分ほど捲って起きたリンの耳に届いたのは、都市の喧騒でも何でもなく、ある少女が立てている寝息だった。穏やかな顔ですやすやとしていて、何だか可愛らしい、見た目通りのイメージだ。


 あどけなさが残る顔からは、普段の酔っ払い姿や心強い姿など想像できなかった。


(んんっ……? なんだシロのやつ、また揶揄ってるのか? にしても……。これじゃあどっちがどっちなんだか)


 うつ伏せで寝ている少女は、腰まで伸ばした真っ白い髪に上半身が覆い隠されていた。さながらまくらを連想させる。顔を埋めてみれば、柔らかい感触と良い匂いがして最高だろう。


 ともあれ、少年は事ある毎にこの少女をまくら代わりにしているのだ。


 その夢見心地を知らない訳は無かった。本人に自覚は無いのだろうが。


 しかし、今日は様子が違ったようだ。一度起き上がったはいいものの、真っ白いまくらを見つめる黒い瞳がふたつ。本来であればそんな瞳を持つ少年の脳内は、一体どうなっているのか。


(ていうか、俺は男なんだぞ。まさか、本当に襲われないとでも思ってるのか)


 そう思い、なぜか震える手を伸ばして触れようとした。


 自身が毎晩どうされているのかを知らないリンにできたのは、そこまでだった。リンがそれを知っても、相手をどうこうできるのか、という疑問の余地はあるが。


 別に起きた時シロが居るのは初めてではない。


 それでも一度意識してしまえば別だった。昨夜のシロが取った行動は、寝ぼけた頭を破壊するのに十分な成果をもたらしていた。小さいながらも柔らかい感触を思い出してしまい、それが脳を激しく揺さぶったのだ。


「いや、ん……? ――ッ!!」


 逆に襲われてしまった記憶が蘇り、思わず目を閉じて布団を被ってしまった。自分から追い打ちを畳み掛けられるリンは、無意識にもうひとつの行動を思い出していた。


 まるで引きずり込まれるように、温かい誘惑が意識を蕩けさせる。悪魔の囁きは、弱った精神にするりと入り込む。


 ――それがもう最高なんだ。我慢は体に良くないよ……?


 ふたり分の体によって温められた布団の中は、シャンプーの匂いと寝汗から生じるぬるい湿気、幼い少女に若干のアルコール臭が入り混じって、


(俺も終わったな。なんてヤツだ、ほんとに)


 大変な事態になっていた。まくらから良い匂いがするのだ。


 少しの間を置いて、リンが自分に言い聞かせる。別に恥ずかしくない、と。


 こんな状況で、いつもの深呼吸は出来ない。


 冷静になれない頭が思考を全力で空回りさせる。一緒に風呂にも入ったのに、今更この程度で驚かないと思ってしまった。また墓穴を掘ったリンは、ああでもないこうでもないと考えて顔を七変化させる。


 そしてこんなに慌てていれば、軽口や冗談の類を言われるのを想像した。


「……えっ、シロ? お、…………」


 だが覆される。重さを感じている事に気付いたからだ。


「そうだよな……。ちゃんと、あったかいよ」


 相手が異常すぎる存在という前提があり、当たり前に気付くまでかなりの時間を要した。


 朝の挨拶が無く、動揺を押さえないシロでも無い。目星が付いていればその二点を分かった筈で、こんな事態にはならなかった。リンは無駄に頭を悩ませる結果となった。


 しかし何はともあれ。いつも通りじゃなくても、リンは嬉しそうに笑った。


 眠り姫を起こしてしまわないよう慎重に動いて寝室から出ると、脱衣所に入り洗面台で顔を洗った。それだけで済ませず、熱を持ってしまった頭を冷やすように水を被る。


「よし」


 小さく呟いて意気を上げ、今日も頑張るぞと活を入れた。


 鏡に映った精一杯の気迫とは反対に、今日も予定は特に無かった。取り合えず、シロが起きるまでリビングでテレビを見る事にする。


「なんだ、もう昼だったのか。時間に追われない生活ってのも、シロのおかげなんだよなー」


 伸びをしてからソファに座ってテレビを点けた。そこには今朝のニュースではなく、お昼の情報番組が放送されている。


「今日も快晴の見込みです。絶好のお洗濯日和と言えるでしょうね。乾燥機に頼らず、天日干しもいいものですよ。気分を入れ替えて、ぜひリフレッシュしましょう。さて天気の次は、皆さんご存じ、あの研究家の方をお呼びしております。どうぞチャンネルはそのままでー。では、まずはコマーシャルをどうぞ」


 シロと出会ってたったの数日で、リンの生活は一気に向上した。


 スラム街の子供だったのが、1000万ロッドを稼ぐ探索者だ。


 生き延びる為に毎日を駆けずり回っても、小銭すら稼げない日々は終わりを迎えた。都市の配給に行く必要も無いので、いくら寝坊しようが大丈夫だ。こうしてテレビを見ながら、安心が保障された空間で優雅に過ごせる。


「今回ご紹介させていただくのは、白身魚のムニエル、りんごのソース掛けです。えー大丈夫なの? と、思ってしまうかもしれませんが、大丈夫なんです。中はふわふわ、外はこんがりと焼き上げた淡泊な白身魚に、甘酸っぱいソースが絡んで絶品なんですよ。では材料が………」


 番組も終わりの時間が近づいている。


 最後の締めなのか、今晩のメニューに悩む主婦に向けてのレシピ紹介に移っていた。だし汁にリンゴをぶち込む美人女将よりも、かなりまともそうな料理研究家が食材を紹介していた。


 流石は皆さんご存じ、あの方と言ったところだ。


「料理、か」


 リンが釣られて、部屋に備え付けられている冷蔵庫を見る。


 冷蔵庫を開ければ、勝手に補充される冷たくて清潔な水を飲める。冷凍庫には、都市から配給される無料だが謎の不味い食品が入っている訳でも無い。都市で普通に生活する誰しもが食べる冷凍食品が朝と夜に補充される。


 そこには出来合いのもので、食材と言った物は入っていない。


 自分が食べたいものを、自分の手で好みの通りに作るのだ。あの魚だって、調理をすれば旨いのかもしれない。料理とは、結構いいものなのかも。リンは何となくそう思った。


「ああそっかー。これじゃあなぁ」


 テレビの中に見える立派なキッチンはここに存在しないのだ。せっかく食材を集めても、全て無駄骨になるだけだ。


「そうだよなー。いつまでも宿暮らしってのもさ。1000万かあ」


 200万ロッド。以前は震える手で受け取った。今回はそれが5個分だ。にもかかわらず、リンには目立った反応が見られない。それはシロに言われた事もあるが、実際に札束を受け取った時以上のものでは無かった。


「確かにビビったけど、あんまり実感ないんだよなぁ」


 ただの端末の数字だった、という問題もあるかもしれない。


 もし現金に変えたければ、契約した銀行の支店まで行けばいいだけだ。ここから支店のあるギルドまで行くのにそう時間は掛からない。1時間もせずに札束が目の前に広がる。


「慣れちまったって事か? いやいや、まだ二回目だぞ」


 パチパチと音を立てて焼かれている魚を他所に、リンの話題は移り変わっていく。金の事を考えても仕方ないと思ったのだ。どうせこれからも稼ぐ予定で、いちいち気にしてたら日が暮れてしまうと。


「強くなったって、どうしたら分かるのかな。そりゃあ拳銃片手でエリアに行った時に比べたらさ、少しは強くなったんだろうけど。うーん。やっぱり金か? でもなー、シロは装備とか要らないみたいだし。あれ、もっと強い銃なら使うとか言ってたっけ……?」


 シロと出会ってから、独り言の多いリンが頭を悩ませていた。答えの見つからない問いは無数に存在する。頭脳労働は大天才に遠慮なく頼ろう。ため息をついて納得した。


「はぁ……。やっぱり俺って、頭悪いのかね。シロが馬鹿馬鹿って言う理由がそうだよ」


 仕方ないと気を取り直したリンが、それでも、どこかぼうっとしながら料理の完成を眺めだす。


 前の自分だったら今頃はどうしていただろうか。何も無ければ配給を受け取って、クズ鉄広場に繰り出していたのかもしれない。そう考えたリンの瞳には、完璧に完成された料理が映っていた。そして耳に届くのは称賛と拍手。


 だから、無性にゴミ山を登りたくなった。


 都市の住人が、都市に金を払いたくないが為に訪れる場所。雑多で粗野で、尚且つ危険。それでも可能性の塊だった場所。


 どこかの誰かが、誰もがそれを捨てに訪れる。だからいまでも、今だからこそ、眠ってる宝は本当にあるのかもしれない。


 だったら、


 ――いつの間にか胸に当てていた手を降ろして、リンが項垂れた。


「なんでだ。それこそどうでもいいだろ」


 突然湧いた淡い想いは、一瞬の頭痛と共に霧散する。自分自身でも分からない感情に困惑の言葉を残し、また違ったため息をつく。


 同時に寝室の扉が勢いよく開け放たれた。


 薄暗い寝室から、真っ白い髪を振り回す少女が焦ったような顔で飛び出した。扉を押し出した勢いでつんのめり、「うおおっと」と酒焼けした声で姿勢を正す。


 美しい白磁の肌に整った美貌。金色の瞳を輝かせながら、しかもかわいい少女は眼を見開いた。





「リンっ! ……おまえー、なんで俺を起こさないんだ。まったく心配したぞー?」


 起きた時リンが傍に居なかった。堪らなく不安になって我を忘れてしまっていた。


 昨日リンに突き飛ばされた経験が頭を過らなければ危ないところだった。冷静になれずに、壁を破壊して駆け寄ってもおかしくなかった。加えて言えば、ベッドに残った匂いが功を奏したのだ。


 シロの様子に驚きつつも、リンはいつも通りに挨拶した。


「ああシロ。おはよう。んで、何かあったのか?」

「おはようだ。まあいい。久しぶりに、悪くない気分だったからな」


 言いながら大股で歩いていき、リンの頭をぽふぽふしてから行動を開始する。冷蔵庫で冷やしておいた酒を引っ掴み、どかっと椅子に座り込んで足を組んだ。そのままリンを肴に飲み干して動かなくなった。


 別に何かあった訳ではない。むしろその逆で、単純にやる事が無いのだ。


「まさか、寝起きの酒なんてな……」


 言いながらテーブルに突っ伏したシロを見て、リンがしめしめと言葉を掛ける。あくまで自然な感じで。


「なんだ。今日は依頼を受けないのか」

「なにっ? いまなんて言ったんだ」 


 聞き間違いでなければ、リンは毎日働くつもりのようだ。シロはそう思ってしまい眉をひそめた。やる気があるのはいいが、それはもっと別のところに出してほしいものだと。


(そういえば昨日風呂で何か言ったような? あーだめだ。せっかく一緒に入ってたのに覚えてないぞ? ああそうだ、髪を洗ったところまでは思い出せるんだが……?)


 相変わらず記憶が覚束ないアル中。頭を掻きながらため息交じりに、口をつぐんでいる様子のリンへと視線を向けた。


 こっちであれこれ決めるつもりがなくても、かわいい子供をバトルジャンキーにだけはしたくなかった。既にその兆候を見せるリンに、シロが柔らかく笑って聞かせる。そこに夢で見た弟子を重ねながら。


「おまえはそうやって、毎日くたくたにならないと気が済まないのか? だいたいなぁーあんな力を使った後で、それが一日で回復なんてあり得ないんだよ。いいから数日は大人しくしてるぞ、もっと体を大切にしろ。話はそれからだよ。ったくもう……」


 なんだ、という呟きと同時に、リンのくだらない考えは押し流されて消えた。


 リンが自省する。疲れが残った状態で都市から出れば、それは油断どころの騒ぎではない。たちまちにモンスターに喰い殺されるのがオチだと。


 首筋に水が垂れたようなリンは、体をぶるぶると震わせる。それは、飛び掛かられたモンスターのよだれだったのかもしれない。


「……」


 ちらりと横目でシロを見ると、しっかりと目が合ってしまった。


「どしたの?」

「ああ、なんでもない」


 人に首を舐められるのは、昨日が初めてだった。そんなものがあっても困っちゃうけど。


 頭の片隅にあった古ぼけた記憶を引っ張り出し、リンは内心で自嘲的な笑みを零す。これまで生きてきた場所には、良くも悪くも思い出がある。しかし、昔すぎたのか細部までは思い出せなかった。


 そのモンスターがどんなだったか、もう忘れてしまっていた。

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