4話 選択
「おはよう。リン」
「シロ……? ああ、おはよう。ところで、なんで顔がこんな近いんだ?」
普段なら寝起きでも意識がハッキリとしているリン。スラム街の路上には安眠など存在しないからだ。スラム街で起きた時に近くに誰かいたのなら、それは強盗か遊び半分に人の命を奪ってくる異常者だ。ところが今回は違った。
モンスターを素手で吹っ飛ばすのだ。異常者なのはそうなんだろうが。
「俺が膝枕してるからだよ」
「ああ、そうか。なんで膝枕なんか?」
シロは起きたリンが膝枕をされていたら、一体どんな反応を見せるのかと楽しみにしていた。しかし特に反応が無いことで、理由を二つ思い浮かべる。少し悩んだが、面白そうな方を選んで言葉にした。
「思ってた反応と違うな……。まさか、その年で枯れてるのかー!?」
リンにとって、安心して目覚める事ができたのは久しぶりのことだった。それに加えて、深い眠りに落ちていたことで意識が朦朧としていたのだ。ところが、枯れていると言われると頭の中のモヤが晴れていつもの調子に戻る。
「――ッ! 何言ってんだよ! とにかく、離れてくれ」
思っていた展開と違ったが、まあよし。
「分かったから落ち着け。今離れてやるから」
「どういうことだよ……」
寝起きに一悶着あったリン。これからこんなことが続くのかなと、心の奥底で僅かに沸き上がる想い。おはようと、そう言われたのは久しぶりである。それはどこまでも温かく響いた筈だが、自覚する前に消え失せた。
それから、問題なくリンは起き上がったように見えた。少なくとも、自分ではそのつもりだった。
蓄積した疲労や滅茶苦茶な銃撃のせいで痛めた腕、酷使してしまった脚など、それらの感覚が体に倦怠感を伝えていた。リンの体は、ボロボロの状態に変わりなかった。なんだかぎこちない動きで、ようやく起き上がったという感じだ。
(なんだ、頭が滅茶苦茶に痛いぞ……? どっか打ったのか?)
本来なら指一本動かしたくなかった。それほどまでに体が怠かったのだ。それは今まで走り続けていたからでも、銃撃で腕を痛めてしまったからでもなかった。一度自覚してしまえば、正体不明の絶え間ない頭痛がリンを襲っていたのだ。
「起きたのなら、これを飲んでみろ」
そう言って投げたのは、小瓶に入った真っ赤な液体だった。リンは飛んできた物体に慌てながらも受け取って話す。
「これは、もしかしてポーションってやつか……? それで飲んでみろって、言った通りだ。金なんか持ってない」
スラム育ちの拙い知識しか持ち合わせが無いリンでも、ポーションの事は知っていた。時々スラム街を通る探索者達が、腰に下げていたりする回復薬の一種であると。
つまり、探索者達が自身の命を買っているのと変わらない物だ。相応に高価な品が多く、リンでは到底手が届かない代物である。恐らくそんな物を無造作に放ってきたシロに、もし落としていたらどうしたのかと冷や汗をかいた。
シロはそんなリンの言葉を聞いたあとも、まるで普通な様子で話を続ける。
「いちいち気にするなって。そのままだと死んじゃうよ? それに一度助けた命、最後まで面倒を見させろ。折角の弟子が早々に死んでしまっては、俺の名折れだからな」
「それなら遠慮なく貰っておくよ、師匠」
人からの好意をそのまま受け取ることができるのか。リンは嫌な気持ちを抱えたまま目を伏せる。
(これがポーションだっていう保証はない。飲んだら死ぬのかも……。いや、シロは命の恩人だ……。それに、俺を殺すのにこんな面倒くさい事はしないだろ。だったら最後まで、信じる)
受け取ったポーションを怪しげに見ていたリンは、命の恩人に失礼だと思い直してポーションの栓を引き抜いた。覚悟を決め勢い良く中身を飲み干す。すると即座に、リンの体は再生していった。
まず倦怠感が消え、それから腕、脚などから伝わっていた痛みが消えていく。また、鈍い痛みを感じていた頭がスッキリとしていく。その効果は、現代製のポーションや回復薬では考えられない程の即効性を持っていた。
更に、リンには分からなかったが、このポーションは魂に直接効くのだ。急速に再構築されていくリンは、それまで消耗し尽して内に眠っていた、あらゆる器官を活性化させる事になる。
「すごいな、あれだけ痛かった足も、全然問題なく動く」
体を動かしても痛を感じなくなったリンは、その場で飛び跳ねたりしていた。
「……まあ、割といいポーションだったからな。それくらいの負傷や疲労は問題がない」
ポーションの意味を理解したシロは、少し微妙な顔になる。だが、悪い事では無い筈だ。そう思うことにする。
「昔の人達ってすごかったんだな。こんな物が普通にあるなんて」
普通にあるワケないだろ、とはシロの率直な感想だった。
リンに話しても仕方が無いので、黙って誤魔化しておく。
「大体は滅んだがな。ハッハッハ!」
「ああ。崩壊前って言うくらいだからな」
なぜか得意げに笑うシロを、リンは不思議に思って見ていたのだった。
崩壊前。一体それはどんな世界だったのか。リンは興味が沸いたが、その気持ちに蓋をした。今は現実の問題に対処せねばならない訳で、思いを馳せている余裕などなかった。
「そろそろ状況を教えてくれ。ここは、どこなんだ? 見たとこだと、店かなんかだと思うんだが。まさか都市って訳でも無さそうだし」
リンは建物の中を見渡しながらそう言った。
先程まで店は綺麗な状態を保っていた。しかし、今はシロにより非道の限りを尽くされ、見る影もなかった。床にはガラスが散乱して荒れ放題になっていて、倒れている棚からは目ぼしい商品が無くなっている。辛うじてリンが店だと言ったのは、側に置いてあったカゴの中身は、おそらくシロが集めた物であると考えたからだ。
リンの言葉に、シロが現在の状況を説明していく。
「その通りだ。まだエリアの中で、ここは修復されたばかりの店だ。なかなか運がよかったぞ。リンは自分の事を、運が良いと思う方か?」
「俺の運は最低だ。でも、今日は違うみたいだ……。いつまで続くかは分からないけどな」
「それなら問題ない。これまでリンの運が最低だったのは、俺と出会う為だったんだよ。そして出会ったからには、これからおまえに不運は訪れないよ。……多分な!」
リンのこれまでの人生は、不運といった言葉ではとても表せるものではなかった。物心付く前にスラムに捨てられ、それからずっと弱者として生きてきた。だが自分では悪い生活では無かったと思っている。仲間が居たからだ。だからスラムの生活でも楽しかった。
しかし、あるトラウマから重度の人間不信に陥っていた。それまでの仲間を失い、自分に近づいてくる者は、自分を騙そうとしている敵としか見る事が出来なかった。
スラムで生き抜く為に、仲間は多い方がいい。何の繋がりも持たずにスラムにいる者は、たちまちに食い物にされてしまう。
どうでもいい者として。
トラウマからそれらの繋がりを作れずにいたリンは、孤独に日々を過ごしていた。都市からの配給で食いつなぎ、なるべく人前には姿を現さないようにした。また仲間も作らず、ひとりで、ひっそりと生きてきた。
そんなリンの命の危機を救ったシロは、大したことはしていないという風に振る舞い、なんと弟子にすると言ってきた。その場限りの言葉ではなく、実際に倒れた自分をここまで運んできてくれた。貴重な痕跡を自分のような者にも分けてくれた。命を助けられた者すら信じられない、またそんな事になれば自分はどうなってしまうのか。リンはそんな恐ろしい考えから目を背けたかった。
だからリンは、シロを信じる事に決めた。それは、また出来た繋がりだった。
リンの心はこれまでの人生で黒く、重く、底の底まで濁ってしまっている。だが、今その内から一筋の光が漏れ出している。それはまだまだ淡く弱い。このドス黒い世界を明るく照らす事は出来ないが、確かに光は、再度生まれたのだ。
「それはよかった。なら改めて、師匠。これからよろしく」
「うん! よろしくな!」
互いに笑顔で。ふたりは改めて、固い握手を交わした。
リンはシロの手から伝わってくる、柔らかい感触に戸惑う。それは、モンスターを素手で殴り飛ばした者の手とは信じられなかったからだ。リンは気づけば離れていた手に残っている感覚に僅かに顔を赤くすると、そんな思いを振り払うかのように口を開く。
「それで、これからのことを話したいんだけど」
シロは握ったリンの手があまりにか細かったことで、その心に影を落としていた。
本当にこんな子供を、自分の目的の為に利用するのか。そんなことが許されるのか。そんな思いが体を駆けていく。だが、やらなければならない。自分で始めてしまった物語は自分で終わりにするのだ。
笑顔の裏に暗い誓が浮かび上がると、シロは言いづらそうに話しかける。
「それなんだが。その前にリン。俺の話を聞いてくれるか?」
「なんだ? そういえば、シロは俺に何かしてほしいんだっけ。俺に出来る事ならやらせて貰うけど……?」
「そう、そのことだ。だが少し頼み辛いのだ……。何せ事はリンの命に関わってくるからな」
命の恩は返したい。そう思うリンは、顔を伏して話し辛そうにしているシロに、笑顔で声を掛けた。
「その命を助けられたんだ。とりあえず話してみてくれないか?」
「そうか、分かった。その心嬉しく思うぞリン。だがまず何から話そうか」
リンの気持ちは分かった。それでも、何を話せばいいか、という事を考えてなかったシロは、目を瞑って考え始める。まさか本当にという気持ちで、逆に相手を心配してしまう。
(ちょろすぎじゃね? まあ俺がかわいすぎるのが悪かったんだな。なんて罪な女。……いやまてよ? こんなにかわいいリンが、しかもこんなにちょろいんだぞ? うん。俺が付いてやるからな!!)
リンを見ていると妙に胸が高鳴ってしまうシロは、最初の話などどうでもよくなっていた。
――いや、何かがおかしい。
腰まで伸びた真っ白い髪をバサバサと振って気を取り直し、真面目にこれからの事を考え始めた。
目を瞑って考えているように表情を変化させて唸っている様子を見たリンは、取り合えず目的だけ聞く事とする。
「長くなりそうか? だったら詳しい事は後でもいいから、やってほしい事だけでもいいんじゃないか?」
じゃあ手短に。
「なるほど。俺と誓約を交わして世界樹に行き、この世のシステムを破壊してほしい」
シロは断られる事をその本来の善性から、なかば望みながら話した。こんな訳の分からない話は断ってくれ。そんな思いで、限界まで話を纏めた。断られれば当初の予定通りに都市まで連れていき、少しばかり鍛えてからリンの元を去るつもりだった。
本当は誓約など、誰にもさせたくないのだ。だがもし、リンが受け入れてくれるのならば。
リンにはシロが何を言っているのかは分からなかった。だがそんなことは重要ではなかった。シロが、命の恩人が、自分が信じると決めた者がそう言うのだ。固い意志がリンにそう思わせる。証明するのだ、自分の命は安くないと。だからどんな事でもする。
そんな黒く濁った、心の内から漏れる声に合わせて口にした。
「分かった。今はこんな頼りない俺だけど、シロが師匠になってくれるんだろ? だったら……、強くなるよ。俺」
自分の目的の為に、命の恩人を利用する事になる。そんな思いがリンを苛んでいく。深く傷ついている心が、さらに傷付き、黒く濁っていく。産まれたばかりの光は見えなくなり、どこまでも。
シロにはリンが冗談を言っているようには見えなかった。その顔を見て、その言葉を聞いて、そうと分かった。だから、とびきりの笑顔で言った。心には傷を負いながらも、それをリンには見せないように。
「ありがとう」
シロの笑顔を見たリンは、固まってしまっていた。初めて名前を聞いた時の笑顔より、眩しく、輝いていたからだ。
それとは対照に、リンの心は黒く染まっていく。こんな笑顔を見せる者を自分の復讐に利用する。だが今さら辞められない、始めてしまったのだ。この程度で音を上げるなら最初からするなと、リンにはそう思うことしかできなかった。だからせめて、シロと同じく、笑顔で言いたかった。
「シロ! 誓約だ! 俺はちゃんと強くなる……! だから、だから……。大丈夫だ」
リンはシロとの誓約を望む。それが何を意味し、何をすればいいのかも、分からないままに。
シロにはリンのその顔が酷く悲しげに見えた。なぜかは分からない、だがそれならば、これが最初の教えだと思い、強く安心させるようにリンの前に出て、言葉を紡ぐ。
「ああ誓約だ! 交わしてしまえばリン、これからいくつもの困難がその身に降り掛かり、その度に死ぬ思いをするだろう。そして、実際に死ぬかもしれない。だがリン! それでも俺はおまえを連れていく! おまえが恐怖で泣き叫び、痛みでのたうち回っても、俺がその度に叩き起こして連れていく! そしてどんな危険にも立ち向かってもらう! どうだ怖いか!? ……だがもう引き返せないぞリン。俺が、――お前に決めたからだ」
リンはシロの言葉を聞いて、自分を挑発しているのだと思った。弱いお前はその程度だと、すぐに死んでしまうと。それはそうだ、今の自分は何かあっただけですぐ死んでしまう。だが、これからはそうはならない。あの時胸に刻んだ誓を、もう何回、言ったかも分からない誓を。俺は強くなるんだと、心からの叫びをそのまま口に出す。
「俺がそれを聞いて、怖気づくと思ったのか? 上等だ! 今は無理でも、シロより強くなってやる! そんで逆にお前を引っ張り回してやるからな!!」
それがリンの選択だった。
「……フッ。そんな日は来ないさ、俺は最強の魔法使いだぞ? 約束してやる。お前は絶対に、俺が死なせない。さあ、安心して片手を出してみろ。俺に身を任せるんだ」
リンは今までの、同じ子供のような雰囲気を一変させたシロに戸惑うが、やることは変わらないと、意気を取り戻す。落ち着くように深呼吸をすると、シロの前に手を出す。
シロは言われた通りに出された手を両手で包み込むと、リンとの誓約を開始する。シロから光が迸り、やがてリンまでを包み込んだ。その眩い光は、ふたりを見えなくする。
選択はなされた。どちらも相手を利用する為に、暗い誓を持った者同士で。
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